船番所

船番所は、海の関所です。
正式には、「番所」と呼ばれています。


深川番所

現 常盤1-1付近、深川の万年橋の北に置かれていた。
「深川御番所」「深川御関所」などといわれ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の隅田川口に設けた川の関所。
寛文元年(1661)に小名木川の中川口に移転し「中川船番所」となった。
現在、史跡となっている「川船番所跡」と言う名称は、江東区の史跡として登録の際に付けたもので、行政的には正式名称となっている。
歴史的にも深川番所・川船番所・深川口人改の御番所、役人は深川船(舟)改之番・深川御関所番など史料により様々な名称で登場している。また船と舟についても史料には両方使用されている。
川船による旅人通行の改めは厳格ではなかったが、川船に積まれた荷物については極めて厳しかった。この番所の本来の目的が、商品流通を把握するところにあったからである。重視した物資は米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩。米と酒は江戸の米価政策に関わり、生鮮食料品は真夜中の通関を許すほどの気の使いよう、普通の関所は通さない。江戸に入る硫黄、出る塩は戦略物資として重要視していた。


中川番所

中川船番所とは、「中川御番所」「中川御関所」などといわれ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の中川口に設けた川の関所です。
寛文元(1661)年に、江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となりました。
中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したものです。
番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていました。普段は、旗本の家臣が派遣されていました。
小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張っていました。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めました。
「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化していったようですが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを厳しく行っていました。
中川番所が置かれた地は、「江戸名所図会」にみられるように、帆を張った高瀬船が行く中川と、番所の手前を流れる小名木川、そして行徳へとつながる船堀川が交差する地であり、利根川・江戸川を通じて江戸と関東が結ばれる河川交通上の重要な地点でした。
江戸時代もなかばになると、江戸の後背地である関東では商品生産が進められ、各地に特産物が生まれました。野田のしょう油、銚子の干鰯のほか、穀物・酒・小間物・呉服など地場産業が発展しました。こうした物資はおもに河川交通を利用して運ばれたのです。
とくに江戸に入る米・酒・硫黄・俵物・樽物・古銅類・材木類・生魚・前栽物と、江戸から出る米・塩は「御規定物」とされ、通関には一定の手続きが必要とされました。また御規定物以外の品は、船頭が持つ手形と積み荷の照合を行い通しました。
中川番所は、海上交通の関所である浦賀番所とともに、江戸をめぐる河川交通の関所として、重要な役割を果たしていたのです。
慶応3年(1867)8月幕府は、中川番所を廃止し、国産会所(産業統制機関)の設置を決定しましたが、幕末の不穏な政情もあり、中川番を引き続き在番させていました。江戸幕府が倒れると、明治新政府は旧旗本や水戸藩士に番所を防衛させ、通船の印鑑検査などを行わせました。
明治2年(1869)2月、明治政府は全国の関所の廃止を宣言、5月3日に中川番所は正式に廃止されました。


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猿江船改番所

猿江船改番所は、元禄から享保期(1688〜1736)頃に設置されました。
中川船番所とは別に、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置されました。
幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入する船には、 川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課されましたが、猿江船改番所は船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていました。


船見番所 (現 中央区新川2)

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御船手番所 (永代橋付近)

御船手番所 (現 日本橋箱崎町)
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御船手組屋敷 (現 江東区佐賀・永代)
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御船手組屋敷 (現 江東区清澄)
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浦賀番所

1720年(享保5)浦賀奉行所がおかれ、出先機関であった番所が置かれました。
番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。
その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が 実務を担当していました。


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下田番所 (須崎港 遠見番所)

元和 2 (1616) 年 下田奉行所が設置され、須崎に御番所が置かれる。
「下田年中行事」によると、須崎港に遠見番所が建てられ、同心50人が交代で家来達を従えて見張りに当った。
漁船より少し大きい追船2隻を造り、通行の船に乗りつけ、女・子供・手負い(怪我人)など、怪しいものは乗っていないかを改めた。これが船改番所(御番所)の始めであった。
現在、須崎に「バンドコロヤシキ」という所があり、これが遠見番所の跡で標石がある。下田の大浦に御番所移転。


下田番所 (大浦)

下田の須崎より移転。
寛永13年(1636)、箱根の関所の強化や難船取扱の制札(浦高札)が建てられた。
船改番所(御番所)となり、往来の船は必ず寄港して検問を受けることが定められた。
寛永12年、参勤交代が始まり、大名の妻子は江戸に置かれたので、関所では「出女入鉄砲」の検問が厳しくなり、これに呼応して、下田御番所は海の関所となったのである。
第2代下田奉行今村伝四郎正長(寛永4年=1627=初代奉行彦兵衛死去)は、同心の隠居28人を御番所の検問係に採用し、廻船問屋と呼んだ。
問屋の報酬は問料(といりょう)と称し、水夫1人に付1航海銀1匁8分の割合で廻船から徴収された。
後に問屋は次第に増員されて63人となった。
享保 6 (1721) 年 御番所が浦賀へ移転、下田奉行は廃止、浦方御用所が置かれた。

現在、御番所の名残りを示すものが何も残っていないが、寛永5年(1793)老中松平定信が下田を検分した時、御番所の跡などを記入して差し出した大浦の古図面によると、御番所敷地は間口40間、奥行16間、中に牢屋もあり、切通しから海岸に到る両側には役人の屋敷が並び、八幡宮や西向院も見え、海岸には高札場や御船蔵もあった。


戸沢藩船番所

山形県最上郡戸沢村古口、現在の戸沢村役場の東にあります。
その昔、最上川舟運のいわば関所で、関所番人の役宅が公開されています。


元和 2 (1616) 年 下田奉行所が設置され、須崎に御番所が置かれる。
元和 9 (1623) 年 下田の大浦に御番所移転。
1647 正保4 水野忠保他3名が深川番を命じられる。深川番所に弓5張・足軽5人・小者3人・侍3人を装備するよう指示される。
1661 寛文1 深川番所が中川口へ移転、同日番所高札が掲示される(延宝4・貞享3に同内容の触が出される) 。
1678 延宝6 関東に川船極印奉行をおき、川船をあらためる。
(元禄〜享保 1688〜1736ころ)猿江に船改番所が設置される。
享保 6 (1721) 年 下田の御番所が浦賀へ移転、下田奉行は廃止、浦方御用所が置かれる。
1742 寛保2 浦賀・中川番所での銭荷物の査検を停止する 。
1749 寛延2 浦賀・関宿・中川番所の硫黄荷物通船量を調査する。
1861 文久1 中川番所近辺で船手方が通船改めをするので、夜間入船を禁止する 。船手方の警備の場所を、中川番所近辺から船堀川の江戸川口の下今井村付近および中川筋に移す 。
1867 慶応3 交代寄合3名を中川番に任命する。中川番3名を解任し、建物・地所を勘定所に引渡し国産会所の設置を決定する 。
1868 明治1 明治政府のもと軍務官の管轄下で水戸藩士が詰めて査検を行う 。
1869 明治2 全国の関所を廃止する 中川番所を廃止する 。



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新規作成日:2003年6月29日/最終更新日:2003年6月29日