水軍

水軍とは古来、警固衆(けごしゅう)・海賊衆(かいぞくしゅう)・船手衆(ふなてしゅう)などと呼ばれていたようだ。
はじめ海辺土豪は海上の武力を買われて船の護衛に雇われた。これが警固衆の語源である。警固衆を海賊衆ともよぶが、これは海上に武力をもつ集団の意味である。
そして船手衆は完全に大名権力に組み込まれた姿、いわば近代にいう海軍の意味である。
「水軍」というのは日本では後世の呼称のようである。
よって大河ドラマの「水軍」は「海賊衆」と呼ぶのが正しいのだといえよう。
さらに「海賊衆」という呼称さえも後世のものであるとの説もあり、当時は「警固衆」でなければもはや単に「海賊」と呼ばれていたのかもしれない。

「三十日、雨風ふかず。海賊は夜あるきせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出して阿波のみとを渡る。夜中なれば西ひんがしも見えず、男女辛く神仏を祈りてこのみとを渡りぬ」(紀貫之「土佐日記」より)
平安時代に紀貫之が大いに恐れた「海賊」は、陸の山賊と同じで、武装した略奪者集団というものである。
「海賊」という言葉のイメージはおそらく今もこれと変わるものではないだろう。
それが室町から戦国時代になると、「海賊」が蔑称でなくなり、「海賊大将」などと誇らしげに自称する軍事勢力の首領があらわれてくる。
中世に於ける「海賊」は、もはや略奪行為のみに頼るものでなく、先述のように経済活動を行い、海の大名ともいえる程に統制のきく軍事力を備えており、それまでのものとは性格がまるで異なっているのだから当然であろう。


水軍の船

これらの船で、安宅船を中心として船団をくんでいた。
船団の行動は太鼓や軍配、砲音、灯火などの信号を使い、またさまざまな陣形が決められており、統制されていた。

近世前期の技術改良で見逃すことができないのが帆装の進歩である。
性能を重視する軍船は伝統的なムシロ帆を廃し、木綿帆を採用した。たとえば、1609年(慶長14)の蜂須賀家から九鬼家に渡された大安宅船の木綿帆は、21反という記録が残っている。おそらく秀吉による朝鮮侵略のさいに使用された安宅船や関船は、木綿帆が主流であったであろう。しかし、荷船や橋船(船を多数使用して、臨時の橋としたもの)では依然としてムシロ帆が使用されていた。


水軍の陣形



平戸 松浦 水軍

中世初頭には松浦地方に一応の海上勢力が成立していたと考えられている。壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の海上勢力は知られているところであるが、慶長の役での撤退戦を最後に水軍としての出番は終了した。明暦2年(1656)になり平戸藩船手が整備された。当時の資料から、平戸藩は、常時10艘余りの関船、20艘余りの小早船・荷船、他に多数の雑役船を保有していたと考えられる。その中の最大のものは藩主御座船 一言丸であった。

現在の地名「松浦市・北松浦郡・東松浦郡など」は「まつうら」と発音するが、本来は「まつら」と発音していた。
松浦史料博物館も、正式には「まつらしりょうはくぶつかん」。
また、平戸藩主の末裔も「まつら」と名乗っている。
松浦党は現在の佐賀県から長崎県にわたり位置しており、「東・西・北・南」の松浦郡各地や長崎県の壱岐を根拠地にしていた。
平戸の松浦氏もその松浦党にその出自をもつ。
松浦党から近世大名まで生き残ったのは、平戸の松浦氏と五島の宇久氏。
佐志氏自体は存在し、房とその子供たちは元寇のおり戦死したのは事実であるが、NHK大河ドラマ「北条時宗」に出てきて松浦党の主となったとされる「桐子/とうこ」については存在は確認できず、フィクションのようだ。
−財団法人松浦史料博物館:久家孝史 氏の回答より−


村上水軍の戦法

村上水軍は戦法、兵器、天候、潮流、航海術などを研究し兵法を生み出している。陸地と違い、海上では板子一枚下は地獄というきびしい状況にあるため、陸地の戦法とは大きく異なる。三島村上家の家法兵学書には「船に乗る事は天の利を先とし、地の利を考えるべし。軍の始むる人の和を先とし、あとに天地の利を考えるべし」とその心得を示している。また「海上は天気の善し悪しなどによって大いに利害となる故に、考え第一とす」と記している。
兵法の代表的なものは毛利元就に献上した「一品流」、能島・来島・因島の村上三島水軍の「三島流」、能島の水軍流「能島流」などがある。孫子からの引用が多くみられ、代表的な陣形は次のようなものがある。
「鶴翼之備」鶴が翼を広げたような形に船を配す。満潮時、干潮時の潮流が早くない時期の陣形。
「魚鱗之備」魚の鱗のような形に船を配す。順風順潮の条件で敵が「鶴翼之備」に対する時の陣形。
「左右中三段之備」緩やかな向かい潮で広い海上の戦いの時の配。敵船の数が多いときの陣形。
このように潮の時期と敵の形勢に応じて様々に陣形を組み立てている。これが厳島で陶氏の軍勢を打ち破り、大阪で織田軍団の水軍を打ち破った大きな理由でもある。
日々の戦いの中で絶えず新しい戦術を編み出すよう努力し、それを秘伝・口伝としている。
また、様々な船や武器も考案されている。櫓が三五丁余りもある快速船「関船」スクリューを二つも持つ「車輪船」、潜水艦のように潜行して敵に近づく「竜宮船」、大型の手榴弾として点火し木製器具で敵船へ投げ込む「投炮碌」、頭と尾を筒竹で作った鉄砲とし、水に浮かべる時限爆弾の「火龍」などアイデアにあふれたものとなっている。
秋山真之により日露戦争の日本海海戦に水軍の戦術が活かされ、バルチック艦隊を打ち破ったことも、水軍の兵法が優れていることを証明していると言う人もいる。


村上水軍

村上水軍は因島を拠点に、室町から戦国時代にかけて瀬戸内海を制し、 多くの合戦で活躍した。
因島に本拠をおく「水軍」の首領・村上虎吉は武装船団を指揮し、瀬戸内海を航行する船舶を警備するかわりに駄別銭(だべつせん)なる手数料をとって収入源とし、普段特定の戦国大名の支配下におかれることはないが、折をみて時には一族揃って強力な傭兵となるなど、陸とは異なる海の世界の掟に従い、自由に生きる存在とされている。
戦国時代の瀬戸内海には、現在の広島県と愛媛県の県境一帯に浮かぶ芸予諸島を拠点として、海上に覇をとなえた勢力が存在した。
三島村上(さんとうむらかみ)氏である。
この村上氏は系譜上、前・後期に分けられる。
前期村上氏は、村上源氏流村上氏に祖をおくことで諸系図は一致している。
しかし、「ムラカミ」は海の民の有力者に対する一般的な呼称が変化したもので、それを名家の流れに当てはめているのではないかと疑問を呈する研究者もいる。
前期村上氏は大島(現在の越智郡宮窪町、吉海町)に本拠を置き、「海賊」を統率して周辺諸島に勢力を張り、時には傭兵となって西日本各地の沿海を舞台に活躍していたようである。

後期村上氏については諸説がある。
まずは、南北朝時代に前期村上氏が村上源氏流の伊予村上氏七代目の村上義弘(むらかみ・よしひろ)で途絶えてしまったあと、南朝の最重要人物である北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)の孫・顕成(あきなり)が信濃国からやって来て村上氏を継ぎ、村上師清(むらかみ・もろきよ)を名乗ったという説。しかし、これは顕成が伊予国に来ず、東北地方で活躍しているので誤りである。
それから、伊予村上氏と同じく村上源氏流である、信濃村上氏八代目の村上師清が、北畠親房に送り込まれて村上義弘の後継ぎとなったというもの。これが現在広く信じられている説である。
そして村上義弘の後を継いだ村上師清は、子孫に村上氏を分割相続させることを計画し、それを受けて、正嫡の義顕(よしあき)が伊予国の能島(のしま、現越智郡宮窪町)に、顕忠(あきただ)が伊予国の来島(くるしま、現今治市)に、顕長(あきなが)が備後国の因島(いんのしま、現因島市)という三つの島に本拠を置き、それぞれが能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の祖となったとされている。
三島村上氏という名称はここに由来している。

三島村上氏のなかでは、能島村上氏が一応の本家筋であることを建前としていた。
だが、因島村上氏は警固衆としての性格を早くからみせ、条件に応じて各地の大名に助力していたが、次第に目前の三原(現在の広島県三原市)の武将小早川隆景(こばやかわ・たかかげ、毛利元就三男)に接近し、後にはほとんど毛利氏に従属するかたちとなっていった。
来島村上氏は伊予国守護大名河野氏から家臣に列せられ、河野水軍の取りまとめを任されていた。
は来島海峡の潮流の中にあり、その流れの速さは時速二十キロに達するといわれ、そこには八幡渦といわれる大渦がおこり、まさに今も昔も変わることのない海の難所である。
周囲約一キロもないという程に小さく、平地のほとんどない島内には、今も水軍城祉としての石垣の遺稿が残るほか、桟橋の柱跡といわれる柱穴などが、かつての「海賊」の砦としての来島の姿をかろうじて偲ばせている。

因島水軍城は、昭和58年に築城された全国唯一の水軍城。本丸の資料館には、 水軍船の模型、 水軍の武具や遺品など村上水軍ゆかりの品が数多く展示されている。


水軍城

島に砦を築き、水上の交通を監視し、軍船の拠点としている。

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水城

海辺に砦を築き、軍船の拠点としているもの。

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来島水軍 (村上水軍)

来島村上氏の四代目当主に村上通康(くるしま・みちやす)という武将がいた。
来島村上氏は伊予国守護河野氏の水軍を統括する立場にあり、通康は河野氏の当主河野通直の娘婿でもあり、ますますその関係は強固なものになっていた。

この通康が二十歳を過ぎた頃から河野氏は、陸からは讃岐国の細川氏に、海からは周防国の大内氏によって執拗な侵攻を受けるようになる。
村上通康は河野氏麾下の諸将を指揮し、大内氏の水軍を幾度も撃退したので、その武功に感じ入った河野通直は自分の跡目を、娘婿でもある村上通康に継がせると言い始めた。
しかし本姓が違う(村上氏は源氏、河野氏は越智氏)ことなどを建て前に、主だった家臣達は猛反発し、河野氏分家の通政(みちまさ)を次期当主に定めてしまい、さらにクーデターを起こし、主君通直の居城湯築城(ゆづきじょう、現松山市)を攻撃、通直は村上通康を頼って落ち延び、その居城来島にかくまわれた。
これを「来島騒動」という。
その後、和議がなされて通直は湯築城に戻り、家臣達の推した通政が正式に当主となって河野春通(こうの・はるみち)と名乗った。
しかし春通は翌年急死し、変わって弟の通宣(みちよし)が当主になる。
この通宣が幼かったため、先々代当主河野通直が再び政務を行うようになり、村上通康も通直の命を受けてたびたび戦場に赴き、河野氏家臣への遺恨をよそに、よく手柄をたてた。

通直死後の天文二十年(1555年)、安芸国の毛利氏と、大内氏から実権を奪った陶(すえ)氏の間で開戦し、三島村上氏にも双方から援軍の依頼が来る。
因島村上氏は早々に毛利氏につき、その水軍も小早川水軍に編入されていたが、本家筋の能島村上氏の当主村上武吉(むらかみ・たけよし)は、毛利氏方の使者である小早川水軍の武将浦宗勝(うら・むねかつ)に、来島村上氏の意向を訊いてから方針を決める旨、返事をしている。
結局、河野氏の臣下にある村上通康は、主家河野氏をはばかり、表立っては毛利氏に協力の姿勢は示していないものの、後に毛利氏から恩賞を与えられていることなどから、村上武吉に来島の水軍を委託した模様である。

同年十月一日、厳島(いつくしま、広島県佐伯郡宮島町)で毛利氏と陶氏が激突、この「厳島合戦」で毛利氏が圧勝をおさめたのは多くの知るところである。
その後、河野氏も毛利氏と盟約を結んだため、来島村上水軍は堂々と毛利氏の防長攻略戦に協力、特に陶氏によってたてられた大内氏の傀儡当主大内義長(おおうち・よしなが)の九州逃亡阻止に功があったため、村上通康は恩賞として周防大島(屋代島)を与えられ、これを能島村上氏と分け合っている。

永禄四年(1561年)、村上通康に第四子が生まれる。
母は河野通直の娘で、幼名は牛松丸、通称助兵衛(すけべえ!)こと村上通昌。
後に名を改め、村上通総(むらかみ・みちふさ)となる。

永禄十年(1567年)、来島村上氏当主である父・村上通康の死去によって、村上通総が五代目当主の座についた。
通総には通之(みちゆき。通幸ともいう)という兄がいたが、通之は先に同じ河野氏の家臣である得居(とくい)氏に養子にでていた。

永禄十二年(1569年)、九州に進出した毛利氏と大友氏が筑前国(福岡県)で攻防を繰り返していた折、村上通総も毛利方につき、来島村上水軍を率いて参戦していた。
ところがこの時、同じく毛利方として参戦するはずの村上武吉率いる能島村上水軍が裏切り、毛利氏からの一切の命令を無視し、周防国の上関で停泊したままになってしまった。
そのおかげで来島村上水軍は大苦戦を強いられてしまい、この後、村上通総と村上武吉は互いに反目しあうようになる。
能島村上氏の村上武吉は有能な武将であり、農業生産性のきわめて低い土地に住む「海賊」が略奪に頼らずとも生活できるよう、それまで習慣的におこなわれていた航行船舶から安全を保障する手数料として駄別銭(帆別銭)をとることを、通交安全証を交付するなどして完全に制度化したり、遠隔地との交易を積極的に行うなどの通商振興策をとったのはこの武吉であるといわれている。
そして、特定の陸上の勢力の支配下におかれないことが、海賊大将としての武吉の誇りであり、強大な力を持ち始めた毛利氏に対しても、武吉のその考えは変わらなかった。

元亀二年(1571年)、毛利氏の意を受けた小早川水軍が、村上武吉の居城能島に攻め込んでくる。
大軍の小早川水軍にしてみれば容易に能島村上氏を滅ぼせる状況にあったが、しかし小早川隆景はあくまで武吉を説得することにこだわったため、感じ入った武吉は以後毛利氏(というより隆景)に忠節を尽くすようになる。
この時、もちろん来島村上水軍も能島攻撃に加わっていた。

天正四年(1576年)、織田信長に攻められ、数年にわたる篭城中の摂津国(現大阪府)石山本願寺への救援物資を、毛利氏が海上から輸送することになり、三島村上水軍も八百隻の大船団を組織して、揃って出陣した。
三島村上氏は、いずれも当時は大三島の大山祇(おおやまづみ)神社(越智郡大三島町)を氏神と仰いでいたが、同時に特に能島村上氏は一向宗(浄土真宗)の熱心な門徒でもあったため、石山本願寺への救援は単に毛利氏の命に従っただけではないのだろう(来島村上氏は曹洞宗)。
毛利水軍と三島村上水軍の連合軍は「木津川(きづかわ)口海戦」で織田軍を破り、無事物資を搬入することに成功するなど大勝利を得て、それぞれの面目を果たしている。
しかし、これをきっかけに織田方に村上水軍を引き入れようとする豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の工作が始まる。

天正六年(1578年)、またも毛利氏と織田氏の間で「第二次木津川口海戦」がおこなわれ、結局織田方の九鬼水軍が建造した「鉄甲船」の前に毛利氏は破れるのだが、この時来島村上水軍は参戦していなかったといわれている。

天正十年(1582年)三月、それまでも不穏な動きを繰り返していた村上通総は、ついに秀吉の勧誘を受け、主家河野氏から離反した。
毛利氏は能島や因島の村上氏がこれに同調することを恐れたが、どちらも毛利氏との良好な関係を継続することを誓約したため、能島、因島、毛利氏の連合軍で来島村上氏の居城や各地の所領を一挙に攻略し始めた。
同年六月には来島への総攻撃がおこなわれ、村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出する羽目になった。

天正十二年(1584年)、織田信長の死後の跡目争いに勝ち残った秀吉が、すでにその傘下に入っていた毛利氏に対し、「来島」通総を伊予国に帰国させる命を下す。
通総は、在京中、秀吉に気に入られて「来島(正しくは来嶋)」の名を与えられ、本姓もそれまでの源氏から河野氏と同じ越智氏に改めていた。
この本姓の変更には、かつて通総の父・通康が、本姓の違いを名目に河野氏の相続争いに敗れたことと関係があるのだろうか(既に先の「来島騒動」の後に、和睦の条件として父・村上通康が河野姓を受けていたという説もあるのだが)。
歓喜した通総は翌年の秀吉の四国征伐では先鋒をつとめ、兄の得居通之とともに小早川隆景の指揮下にあって活躍している。
ここに古代以来の名族・河野氏はついに滅んだが、これにより来島通総は河野氏家臣から父・通康が受けた屈辱をはらしたのだともいえる。
そして通総は、鹿島(現北条市)を居城に風早郡(現北条市付近)、旧領野間郡とあわせ一万四千石、兄・通之も風早郡に三千石の所領を与えられた。
来島「海賊」は、秀吉によって大名に取り立てられたのである。

天正十六年(1588年)、「海賊停止(ちょうじ)令」が発令。
村上武吉をはじめとする能島村上氏一族は、秀吉の憎悪を受け、死を命じられようとしていたが、小早川隆景の懇願によりそれだけは免じられ、結局瀬戸内海追放の処分を与えられている。

それに対し、元「海賊」の来島通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、各地で戦功をたてていった。

天正十三年(1585年)、関白に任ぜられ日本統一を目前にした豊臣秀吉は、大陸の明国に出兵し、これを服属させようとする「唐入り(からいり)」の方針を明らかにした。
そして朝鮮半島の李氏朝鮮に対して、明への道案内を要求するが、これは当然のごとく拒否されてしまう。
やがて日本全国の統一を果たした秀吉は、さっそく大陸に侵攻すべく、西国大名たちに命じて総勢十六万人からなる大兵団を組織した。
「仮道入明(かどうにゅうみん)」を掲げ、まず李氏朝鮮に侵攻、しかし目標はあくまでも明の支配にあるというのが秀吉の示した考えであった。
李氏朝鮮にすれば、全く酷いとばっちりを受けたものである。

文禄元年(1592年)四月十三日、日本軍は対馬海峡を越え、朝鮮半島南東端の釜山(プサン)に上陸し、戦闘が始まった。
これを日本では「文禄の役」といい、朝鮮では「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」という。

来島通総と兄の得居通之は、福島正則・戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正といった四国の諸大名によって構成された五番隊に組み入れられて渡海し、大将としてわずか七百人からなる水軍(船手衆)を指揮した。
日本軍の他の水軍は、早くから織豊政権下にあった九鬼氏・藤堂氏・脇坂氏・加藤氏らの水軍であるが、これをすべてあわせても一万人という意外にも感じられる兵数の少なさや、藤堂氏・脇坂氏・加藤氏という水軍指揮には通じていない武将が大将格に任じられていることなどから、来島兄弟が七百人の軍しか指揮させてもらえなかったといっても、別に秀吉から軽視されていたなどということでなく、この戦役に於ける日本軍の中では水軍そのものが軽視され、人馬や兵糧の輸送の警固程度の位置付けに過ぎなかったことがよくわかる。
なにしろ秀吉が嫌った能島村上氏の「海賊」達は、その能力を無視され、まるで勝手の違う陸上で戦わされてしまった程である。

同年五月七日、李氏朝鮮の全羅左道水軍節度使、李舜臣(イ・スンシ)率いる水軍との間に「玉浦(オクポ)の海戦」が起こり、この緒戦で日本水軍は数十隻の船を沈められ惨敗を喫した。
李舜臣軍のもつ朝鮮火砲の威力が圧倒的であったためであるが、五月二十九日には李舜臣軍に歴史に名高い砲艦「亀船(亀甲船ともいう)」が登場、双方の火力の差がさらに大きくなったことにより、この後日本水軍は連敗を続けることとなった。

六月六日、日本の船団が李舜臣軍に遭遇、この時、大船に乗ったいかにも海賊大将らしい華麗な着衣に身をまとった武将が、矢を十本以上も立てられて戦死している。
これが来島通総の兄・得居通之であるといわれている(異説あり)。

相次ぐ敗戦の報に、京城(現在のソウル)付近を転戦していた日本水軍の主力部隊も釜山に戻るが、やはり李舜臣軍を破ることは出来なかった。
装備の差に加え、所詮は烏合の衆であった日本水軍内の不和もまた大きな敗因であった。

海とは逆に、陸上の日本軍は李氏朝鮮軍の不備もあって圧勝を続けていたが、制海権を失っていては補給もままならず、水軍軽視の戦略ミスは明らかであった。

文禄二年(1593年)六月、日本軍と明軍との間で講和をはかることになり、休戦となったが、しかし同三年(1594年)十月までは幾度も海戦がおこなわれている。

同四年(1595年)、来島通総は従五位下出雲守に叙任されている。

慶長二年(1597年)一月十三日、講和は不調に終わり、「慶長の役」「丁酉倭乱(チョンユウウェラン)」が始まる。
来島通総は、長宗我部元親・藤堂高虎・池田秀氏・中川秀成・菅達長と共に六番隊に編成され、六百人を率いて出動した。
ここで、それまでの数々の戦功により、さらに多くの軍を統括指揮する三道水軍統制使となっていた李舜臣が、無実の罪を背負わされ突如失脚、京城にて獄中の身となり、逆に日本水軍は海戦に於いて初の勝利をおさめて意気上がり、その後の海戦にも連勝を果たした。
しかしそれもつかの間、七月には李舜臣が、三道水軍統制使の座に復帰をするのである。

同年九月十六日、「鳴梁(ミョンリャン)の海戦」がおこる。
日本軍は海潮に乗り三百三十隻もの大船団で押し寄せたが、戦いの最中、海潮が逆流しはじめ、この機会に潮に乗った李舜臣の軍は、わずか十二隻で日本軍の船に大砲を打ち掛けて三十隻あまりを打ち砕き、日本軍は大敗を喫し退却した。
その最中、大将の一人、来島通総が矢傷を負って三十七歳で戦死した。
このことは、斬り込みを中心とした接舷戦法が基本となっていた、「海賊」の時代の終焉を象徴する出来事のひとつであったといえるかもしれない。
それにしてもこの朝鮮侵攻の中で、来島水軍から出した二人の大将が死んだわけだが、日本軍の大将格の武将で他に死んだ者はほとんどいないことを考えると、これも非常に感慨深い。
海に落ちた来島通総の遺体は敵船に引き揚げられ、身元を確認された後、刀で寸斬りにされてしまったといわれる。
きっと遺骸は戻らなかったのであろうが、通総は後に兄・得居通之と同じく、風早郡の大通寺(北条市下難波)に葬られている。
大通寺はかつて河野通直が尊崇し、村上通康・来島通総親子が帰信した曹洞宗寺院である。

さて、二人の死後のことだが、得居氏については通之が戦死した後、跡継ぎとなる人材がなかったため、豊臣秀吉は適当な者を求めたが、その甲斐もなく得居氏は断絶することとなった。

来島氏は通総の次男・康親が跡継ぎとなり、不幸な戦乱の後もどうにか大名として存続した。

しかし徳川幕府政権樹立後の慶長六年(1601年)、来島氏は前年の関ヶ原合戦で一時西軍についた報復を受け、豊後国森藩(大分県玖珠郡玖珠町)一万四千石へと転封となる。
取りつぶしにならなかっただけでも幸いといわなければならないが、古代から続いた瀬戸内の「海賊」の歴史は、ここに完全に幕を閉じたといってよい。
この周りに海をもたない山間の地で、来島氏はその名を自主的に「久留嶋(くるしま)」氏と改称することを余儀なくされたが、来島通総の子孫は、海と「海賊」としての名を捨てることで、結局明治維新を迎えるまで大名の家格を保ち続けた。


塩飽水軍

瀬戸大橋を身近に見る本島の男達は、勇敢で、時代の読みに鋭く、自らの知力、行動力で、信長、秀吉、家康から朱印状を受け、どこの藩にも属さず、天領でもない住民主体の自治国家を300年以上も持続させた。古くは建武2年(1335年)足利尊氏は、鎌倉に反旗を翻し京へ上った。これに呼応し、西から細川定禅は、讃岐の香西氏と共に京に攻め昇った。この時の足利軍を海上支援したのは塩飽の水軍(海賊)である。
室町時代、伊予能島の村上水軍は大内氏を支援していた。村上氏は交流のある塩飽水軍も大内氏に従うよう説得した。当時大内氏は、明から「大日本国王」の印を受け、勘合貿易船を明に派遣していた。航海技術のすぐれた塩飽水軍はこれに乗り込み「倭寇大将軍」として活躍した。実力をつけた塩飽水軍は、戦国時代、輸送船団として、信長の石山本願寺攻めに味方し、堺港へ出入りする特権を得、秀吉の島津攻め、北条攻め、朝鮮出兵に協力し、その報酬として領地や金品でなく、自治権や漁業権(網運上銀と称す)を獲得した。これにより塩飽の人々は、どの藩にも属さず、年貢を納める必要のないばかりか、近海で漁業をする漁船から網運上銀と称する年貢を徴収する権利を得た。自治は、塩飽諸島は住民650人の共有財産として住民の中から選ばれた4人の年寄たちによって政治が行われた塩飽勤番所は、全国で他に例を見ない自治領を統治した住民たちの政庁である。入母屋造り本瓦葺きの重厚な長屋門を潜ると徳川家康の朱印状や貴重な海図が保存されている。


九鬼水軍

九鬼水軍発祥の地・紀州九木浦
九鬼氏の初祖、佐倉の中将藤原隆信公、正平元年(1346)家臣の反逆にて九鬼に落ち延び、地名の九鬼を姓と成す即ち九鬼氏の誕生である。
平安から戦国時代にかけて、熊野灘から伊勢湾一帯、遠くは海外にまでその名を轟かせた熊野水軍。その統率者こそが九鬼氏である。この史上最強を誇る水軍の動向によって、天下を分ける戦の勝敗は左右された。九鬼家は白河法皇より院旨を賜って以来、代々熊野別当職を継承し、熊野三山検校を兼ねていた。もと中臣氏であるが、大職冠鎌足のときに藤原姓を賜り、南北朝時代には、薬師丸蔵人髏^が後醍醐天皇を吉野へお救いした功を賞されて、九鬼姓 (九鬼の「鬼」の字は、正確には、上の点がない特殊な文字を用い、これを“カミ”と読む。従って、本来は“クキ”ではなく“クカミ”というのが正しい)を賜った。九鬼家に伝わる武術は九鬼神伝天真兵法(通称-九鬼神流)として、現代に伝えられている。
鳥羽城主・九鬼大隅守嘉隆(くき・おおすみのかみ・よしたか 1542-1600)は、「日の丸」を掲げた鉄張りの戦艦「日本丸」を操り、熊野水軍の総督として、日本海軍の鼻祖とも目されている。

 天文11年(1542)に、志摩の田城(たしろ)城主・九鬼定(くき・さだたか)の子として生まれ、はじめ右馬允(うまのすけ)と称した。生来勇剛にして鎗術に優れ、石川七島人を降して志摩を全有。 水軍を率いて織田信長・豊臣秀吉に仕え、数多くの戦功をあげて、恒に勝利の決め手を担った。

天正2年(1574) 7月、伊勢の長島に一向一揆が起こる。嘉隆は水軍を率いてその鎮圧に活躍。『信長公記』によると、嘉隆は大安宅船を願生寺本陣に最も近い浅瀬に接近させ、大型の長鉄砲で城門を打ち砕き、勝因をつくったとある。
天正4年(1576)夏、紀伊新宮城主・堀内氏善(ほりうち・うじよし)が同国の三鬼城を攻めたため、信長の命により、水軍をもってこれを鎮圧。
天正6年(1578) 本願寺を支援する毛利水軍を討つため、鉄張り軍艦の建造を信長より命じられ、伊勢大湊において大艦「鬼宿丸(きしゅくまる)」を含む甲鉄船6艘、そのほか各種兵船200艘を建造。6月26日、50余艘の船団を編成して鳥羽浦を出航。紀州の一向一揆の拠点であった雑賀(さいが)浦にさしかかり、雑賀門徒衆500艘の攻撃を受ける。嘉隆は敵船に火矢を放ち、自ら鋒をとって突撃。敵船30余艘を獲、敵将を誅殺して大勝利を得る。7月14日、境港に入港。9月30日、信長は雑賀浦での勝利を喜び、観艦式を挙行。雑賀浦における海戦の様子を披露して、その勇猛果敢なるを賞せられ、酒肴および金20鎰、領袖10襲を賜り、鬼宿丸を「日本丸(にっぽんまる)」と改称(『寛政重修諸家譜』は、後の征韓の役にあたって秀吉が命名したとする)。11月6日、境浦沖に本願寺を支援する毛利・河野(こうの)・村上・浦・来島(くるしま)・能島(のうしま)・小早川の連合水軍が航進。兵船400艘・雑船100艘・将兵8千余人の毛利方に対し、嘉隆は僅か大艦7艘で応戦。大鉄砲の威力に毛利方はことごとく潰走。天正7年(1579) 安土城に登城。累年在陣の労を謝して、黄金10鎰、領袖10翁を賜り、さらに志州七島ならびに摂州野田・福島に七千石を加倍される。摂州鼻隈(=花隈・花熊)城攻めのおりには、大艦70余艘を率いて川口より攻め入り、首13余ならびに捕虜22人を獲て、味方に損害無く大勝。
天正15年(1587) 秀吉の九州攻めに水軍を率いて従い、戦功をあげる。
天正18年(1590) 秀吉の小田原攻めに水軍を率いて従い、戦功をあげる。
文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵に際し、水軍総督の命を賜り、金団扇および茜の吹貫(ふきぬき)に金瓢箪の馬印を賜る。大小の船数515艘と艘帥1500余人(『浅野家文書』によれば1000人)を率いて肥州名護屋(佐賀県)に赴き、4月12日に肥州浦を出航、4月27日に朝鮮半島南端釜山(ぷさん)に入港。肥州浦(一説には朝鮮の毛利壱岐守吉成の陣所)において諸将と軍評定(いくさひょうじょう=策謀会議)を開いたおり、まず、密かに早船1艘(一説には2艘)を以て敵船を襲撃し、その後大軍で一気に攻撃する戦法を打ち出し、諸将はこれに同じる。九鬼水軍の陣容は、日本丸を将艦とし、戦艦20艘、快速斥候船2艘、将艦に台所船2艘・水船2艘・馬船1艘・荷船1艘・速船雑船10艘の50余艘を内容とする。沖島付近にて緒戦を迎え、伊予松山城主・加藤左馬助嘉明(かとう・さまのすけ・よしあきら)・淡路洲本城主・脇坂中務少輔安治(わきさか・なかつかさのしょう・やすはる)と共に敵船300艘を迎撃し、小船を四散せしめ、家臣の軍大将・越賀隼人(こしが・はやと=佐治隆俊)ならびに青山豊前(あおやま・ぶぜん)の勇敢な働きによって大鑑2艘を撃ち取って緒戦を飾る。第二戦である熊川(こもがい)沖の決戦でも、朝鮮の軍兵・番船数百艘が日本丸を目がけて攻め来たるとき、越賀と青山とが敵船に乗り込んで敵将を生け捕り、敵船100艘余を捕獲して勝利を得る。凱旋に際し、秀吉より軍功を賞され、野田・福島の領地を改め、居城のある鳥羽に近い伊勢の地を賜り、三万五千石を与えられる。ところが、5月に入ると、巨済(コジェ)島東南沖において、全羅左道水使の名将・李舜臣(イ・スンシン)指揮する亀甲船を主体とした80数艘によって藤堂高虎率いる船団が敗れ、唐浦でも亀井慈矩(かめい・これのり)の船団が敗北を喫する。また、唐項沖では村上水軍が敗れ、閑山島でも脇坂安治の船団も惨敗。このころ船を降りて上陸していた嘉隆は、その知らせを聞いて駆けつけ、7月8日安骨(あご)浦において決戦に挑む。充分に敵を引き付け、一斉に石火箭を浴びせ、逃げ惑う敵の船に越賀隼人と浜島豊後が乗り込み、大船2艘を奪う。越賀隼人の部下・宇仁屋善七が一番乗り、次いで西岡平作、これに続いて九鬼主膳が敵船に乗り移った。宇仁屋は耳に箭二本をうけ、西岡は右足に鎧通しを突き刺されるが怯まず奮戦。この戦で韓人四官等六名を生捕る。また、味方をおおいに苦しめた亀甲船を早船にて待ち受け、縄を亀甲船にひっかけ飛び乗っては奪い取る戦法で戦果を挙げる。しかし、全体的には戦局は不利で(一説には加藤嘉明が嘉隆の指揮に服さなかったことが起因したともいう)、最終的に文禄の役は敗戦に終わった。なお、李舜臣の亀甲船は、後に第二回の遠征で島津水軍が破っている。
文禄3年(1594)一説では、この年の十二月、安骨浦に屯し、脇坂安治・加藤嘉明との三隊連合軍となって守勢に勤め、朝鮮へ出兵する秀吉の兵員輸送とその警固に功を示す。

征韓の役をはじめとする多くの海戦で活躍した熊野水軍の主艦「日本丸」は、嘉隆自らの設計にかかり、全長151尺5寸、全幅29尺の鉄甲船。千五百石積で、乗員は将士・水主(かこ)を合わせて計80人。当時においては破格の大鑑である。帆はあるが順風の時のみに使用し、操船の便をはかって百梃櫓を主動力とする。櫓枕は固定して波浪にもはずれぬよう工夫され、敵兵の侵入を防ぐための所謂「唐人返し」を装備している。甲板は兵の動きに便利であるよう広く設計され、動揺止めの装置がある。甲板の上には三層の楼を設け、麻縄で編んだ網を三重にめぐらし、周囲に九鬼家の定紋・左三つ巴を染め抜いた幔幕を張る。楼の上には蓬莱山を飾り、柱には天照大神の神札を奉安して敵を欺く仕掛けとした。船底には九鬼家の守護神でもある鬼門大金神を奉祀している。特製の大砲三門が備えられており、両舷の壁には円形と三角形の窓があり、ここから長銃を出して射撃するようになっている。甲板上後部にある一段高い位置の座敷が指揮官室で、ここにも同様の仕組みがなされており、その上の高楼は三面が厳重に囲まれいる。士官室は指揮官室の後方に二室あり、下甲板艙が水主、その下の間が倉庫・炊事場・浴室となっている。船首には飛騨甚五郎作とされる龍頭の大舳があったが、合戦時には取り外して用いない。 征韓の役の後は、鳥羽に回航され、船倉につながれていたが、後の寛永10年(1633)から延宝8年(1680)にかけて鳥羽藩に入封した内藤氏の代になると、五百石積・六十梃櫓に改造されて大龍丸と改称された。しかし、しだいに腐朽したため、安政3年(1856)には解体され、現在は船体の一部が伊勢大湊・市川昭氏によって保存されている。往時の偉観は「文禄癸巳六月 於釜山海征韓水軍総督九鬼大隅守船柵之図」のほかに、「志州鳥羽船寸法」(賀多神社所蔵)や「九鬼公釜山海船柵之図」(東京大学教養部所蔵)などによって偲ぶことができる。

本項、主として、
九鬼神伝
http://www.shinjin.co.jp/kuki/index.html

熊野水軍 - 戦国時代の水軍総督・九鬼嘉隆
http://www.shinjin.co.jp/kuki/suigun/yoshitaka.htm

http://www.shinjin.co.jp/kuki/suigun/yoshitaka1.htm
熊野水軍 - 日本丸
http://www.shinjin.co.jp/kuki/suigun/nipponmaru.htm

からの転載です。ここに謝意を表します。


厳島の戦い

1555(弘治元)年、毛利元就が、陶晴賢率いる大内軍を厳島に誘導し、撃破した戦い。
晴賢は戦死。この戦いの直後、毛利氏は大内領であったを長門、周防を確保、中国地方随一の戦国大名に発展


幕府 船蔵

江戸幕府の帆船を入れていた船蔵が14棟あった。
幕府の御用船を格納する御船藏が設けられており、三代将軍家光の時代巨大な御座船「安宅丸」も係留されていた。
隅田区千歳一丁目から江東区新大橋一丁目の大川端で、長さ三丁(三百二十七b)に大小十四の格納庫が並び、天地丸など徳川水軍の軍船が収められていた。

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大村藩 船蔵

大村藩お船蔵跡 県指定史跡
指定年月日 昭和44年4月21日
所在地 大村市玖島1丁目28−1ほか

大村氏の居城玖島城に付属したお船蔵で、元禄年間(1 6 8 8〜1 7 0 3)に藩財政振興に努めた4代藩主純長により築造されたといわれている。当時の大村藩は長崎港警備の任にあり、また藩内産業を奨励し、産物輸送の必要があった。長崎への最短距離は大村から船で時津に渡り陸路をとることであり、物資の輸送のためにも築港と船蔵の建設が必要であった。藩主が乗る船などが格納されていました。船蔵は多くの藩に設けられていたが、その遺構が保存されているのは極めて少ない。せんきょこの船蔵には3本の船渠があり、船蔵覆(屋根)の礎石や石塁がよく旧態を留めている。


紀州藩 松阪御船奉行と松崎浦の船蔵

松阪を出立した行列は、大口浦から船で海を渡った。そのため、松阪には寛永14年(1637)のころに松阪御船奉行が置かれ、その配下に与力、大船頭、手代、水主等が属した。また、松ヶ崎小学校のある場所には、船蔵と船方役所があり、船蔵には60艘余りの軍用船、乗用船、貨物船等が格納され、船方役所には大船頭、水主が交代で勤務していた。
藩主の乗る御召船には、小虎丸が使われた。小虎丸は、800石積みの屋形船で、船蔵の中では最も大きな軍用船であった。また、松阪御船奉行は幸丸に乗り、随行の家臣たちは自在丸・小伝丸・灘吉丸・堪丸等へ分乗し、航海中の食事を調理する台所船には大宝丸・守一丸・利平丸が使われた。これらの船は、いずれも五色鮮やかな彩色船であり、航海時には船上に吹貫や提灯が飾られた。
松阪御船奉行は、参勤路の変更に伴い、宝暦3年(1753)に廃官となり、その職掌は勢州役の兼務になった。また、船蔵は文化2年(1805)の火事により大半が炎上し、同9年に再建されたものの、船数は往時の4分の1に減らされている。やがて明治維新を迎え、船蔵の船と建物はすべて売却され、船は度会郡神社村(伊勢市)の海運業者の手に渡ったという。


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新規作成日:2002年2月5日/最終更新日:2006年1月3日