朱印船 南蛮貿易

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朱印船(1987.7.24 船の科学館)

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南蛮貿易

1543年(天文12)ポルトガル人商人の種子島漂着を契機として、次第にポルトガル商船が西南九州に入港するようになった。来航の目的は、当時、明の海禁策で途絶えていた日明貿易を肩代わりし、加えて両国間の貿易を仲介することであった。ポルトガル船は57年(弘治3)中国からマカオ居住の許可を得ると貿易拠点とし、鹿児島、坊津、府内、平戸、長崎などに来航した。
九州の諸大名は貿易を活発化するためキリスト教の布教を許可し、併せて貿易船の誘致に努めた。とくに、肥前大村の領主大村純忠はキリスト教に改宗し、イエズス会の要請を受け入れて1570年(元亀元)長崎港を開いた。翌年、ポルトガル商船がはじめて長崎に入港し、以後、貿易都市として発展していった。しかし87年6月、博多でバテレン追放令を出した豊臣秀吉は、貿易独占を意図してイエズス会の所領となっていた長崎を没収して直轄地とし、翌年には長崎代官を置くとともにキリシタン武将小西隆佐を派遣して、生糸を独占的に購入させた。
一方、90年(天正18)頃からはスペイン船も平戸や薩摩領内に来航し、中国産生糸をもたらすようになった。また、1606年(慶長11)には徳川家康のたび重なる要請に応じて、スペイン船がはじめて浦賀に入港した。17世紀初頭に入ると、スペインに加えてオランダ、イギリス両国の商人が参加しポルトガルによる日本貿易独占の時代は終わりを告げた。徳川時代に入ると、キリスト教宣教師の国外追放、長崎貿易の管理強化など年々規制が加わり、島原の乱を契機にポルトガル船の来航は禁止され、代わってオランダが日本貿易を独占するようになった。


倭寇による密貿易

1551年(天文20)大内氏が滅亡し、勘合船による日明貿易が行なわれなくなったかわりに、倭寇(わこう)による密貿易が盛んとなった。倭寇の大部分は中国人で、日本人は2、3割程度であったが、王直(おうちよく)や徐海(じょかい)はそれぞれ五島・大隅に拠点をおき、中国大陸沿岸で密貿易を行なった。初期の倭寇は主に朝鮮半島周辺で活動していたが、次第に中国沿岸にも進出していった。なお明では、当時すでに中国大陸沿岸に出没していたポルトガル人のことを「仏朗機(フランキ)」と呼んで、倭寇の仲間に入れていた。勘合船の中止以後、明の嘉靖(かせい)年間を中心とした約40年間はとくに倭寇の被害が多く、これを「嘉靖の大倭寇」と呼んでいる。こうした倭寇の活発化は、中国との交易を求めた九州の戦国大名たちから歓迎され、領内に招く者も多く各地に唐人町を形成した。
これに対して明側では、総督胡宗憲(こそうけん)が倭寇に貿易を許可するという懐柔策で彼らを捕らえ、徐海や王直も討伐された。こうした明による弾圧や1567年(永禄10)の海禁令の緩和により、倭寇は次第に沈静化に向かったが、豊臣秀吉が88年(天正16)に海賊取締令を発布したことによりほぼ終息した。
なお、1562年(永禄5)鄭若曾(ていじゃくそう)が倭寇対策のために著した『籌海(ちゅうかい)図編』によると、倭寇が欲した商品は生糸、糸綿、布、綿紬、水銀、針、鉄錬、鉄鍋、磁器、古銭、古書画、薬材、漆器、醋などであった。一方留意すべきは、日本から輸出したのは銀であることで、当時、東アジアの経済を支配していたのは銀であるが、戦国時代は「灰吹き法」の導入で日本国内の銀の生産が急増し、世界的にも注目されていたのである。後の、ポルトガル船来航の目的のひとつは、日本銀の獲得であったことはよく知られている。


朱印船

朱印船とは、「異国渡海朱印状」という渡航証明書を持つ船で、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア諸国との貿易を許可された船をいうが、1604年(慶長9)以後の32年間で356艘を数え、年平均11艘が従事した。船主には西南大名、幕吏、内外の豪商たちがいた。
船舶に関した記録が大変少ないので、詳細は不明であるが、1600年(慶長5)12月、フィリピン沖でオランダ艦隊に捕らえられた船の絵や、近代地図学の開祖・メルカトールの作成した日本地図(1607年、1620年刊)に描き込まれた日本船を見ると、中国式のジャンクが描かれている。これを裏付けるように、朱印船に雇われて渡航した朝鮮人が「日本船は小さくて大洋を航海できないので、180人乗りのジャンクを買い入れ、中国人の船長を雇って航海した」と述べている。
現在、10点ほどの朱印船の絵が残されているが、こうしたものを見ても「日本前(にほんまえ)」、あるいは「朱印前」と呼ばれた朱印船は、みな中国式のジャンクをベースとして、これに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、それに日本の伝統的技術を加えた折衷形式の船であることがわかる。これらは中国やシャムなどで購入されたが、一部、日本でも造られた。1617年(元和3)、平戸藩の重臣佐川信利が平戸で建造したのはその一例である。
 朱印船の積載量は、小さいもので薩摩の島津氏が福州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)から、因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差があった。

朱印船に用いられたのはミスツィス造りとか日本前(にほんまえ)と呼ばれたジャンク(中国船)で、中国やシャム(現在のタイ)などから購入されたほか、国内でも建造されました。遣明船のように国内海運の大型商船を朱印船に転用した例は見当りません。

具体的な朱印船の姿は、寛永11年(1634)に長崎と京都の清水寺に奉納された絵馬からうかがうことが出来ます。なかでも、長崎の末次(すえつぐ)船の絵馬は朱印船の姿をリアルに描いていて、最末期の朱印船が中国船をベースにしながら帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、船首楼(ろう)を日本独特の屋倉(やぐら)形式とするなど、中和洋の技術を折衷(せっちゅう)したジャンクであったことを今に伝えています。

寛永12年(1635)に日本人の海外渡航が全面的に禁止されると、外航用の朱印船は国内海運に不向きであったため姿を消しました。鎖国にあたって幕府は朱印船のような航洋船を禁じたと思われがちですが、鎖国下でも少数ながらジャンクが建造された記録が残っています。


朱印船貿易

渡航する船に朱印状(許可証)を与え、外国に対しても朱印状をもった船(朱印船)にのみ貿易を許す。幕府公認貿易である。派船数は、1604年〜1635年(寛永12)の約30年間に350隻以上、年平均約10余隻が派遣された。のべ渡航者は、約10万人で、日本における「大航海時代」である。渡航先は、高砂(台湾)・トンキン・シャム(タイ)・カンボジア・呂宗(ルソン)などである。
1540年代より日本に来航したポルトガル船を契機に南蛮貿易が開始され、後にはスペイン船もこれに参入した。一方、わが国でも朱印船による貿易が16世紀から17世紀前半にかけて行なわれ、アジア諸国との交易が活発となった。
朱印船とは、「異国渡海朱印状」と呼ばれる渡航証明書を持ち、アジア諸国と交易した船をさすが、それまで黙認されていた私貿易を統制するものであった。この制度は、1592年(文禄元)豊臣秀吉によって開始されたといわれるが、近年では徳川家康という説が有力である。
朱印船貿易に従事したのは西国大名や幕吏、京都・大坂・堺・長崎などの豪商で、日本に滞在していて中国人やヨーロッパ人も含まれる。しかし、江戸幕府は年々制限を強めたため、次第に大名は少なくなり、角倉・茶屋(京都)、末吉(大坂)、末次・荒木(長崎)といった有力商人に限られてきた。

貿易家
@大名 島津家久・松浦鎮信・有馬晴信
A商人 末次平蔵(長崎)・末吉孫左衛門(大阪)・角倉了以(京都)・茶屋四郎次郎(京都)など。

明の海禁政策により、台湾やルソン、コ−チなどへ出向いて貿易(出会貿易)する。

朱印船貿易=日明貿易

[貿易品]
輸入品
生糸・絹織物・綿織物・毛織物を中心とした中国商品、鮫皮・象牙・胡椒・水牛の角・鉛、薬などの東南アジア商品、砂糖・皮革・鉛・香料・薬種
輸出品
銀・銅・鉄・硫黄などの鉱産物、刀剣・工芸品・各種道具類
当時、世界屈指の産銀国であった日本の商人は、生糸・絹織物などの中国商品の買い付けにその財力をいかんなく発揮し、ポルトガル、イスパニア、オランダ、イギリスなどの商人たちにとっては脅威の的であった。

貿易家たちは、室町時代の倭寇と豊臣秀吉の朝鮮侵略のため、東シナ海貿易のル−トを失ったため、貿易船を南に向けたのである。

日本町の繁栄

東南アジアに渡航して住みついた日本人によってつくられた町である。
朱印船が頻繁に渡航した安平(台湾)、サンミゲル、ディラオ(ともにルソン)、アユタヤ(シャム)、プノンペン(カンボジア)などには日本人町が形成され、商品の買い付けや売買の拠点となった。
プノンペン(カンボジア)・アユタヤ(シャム)が有名である。200〜300名から数千人の人口があり、自治制をしいた。

山田長政
天正18年頃(1590)駿府馬場町の紺屋、津の国屋の山田友山の倅として生まれた。
母は藁科村の寺尾惣太夫の娘という。
時の貿易で海外へ進出する商人たちに刺激され、シャム(現在のタイ国)に渡った。
その頃シャムのアユタヤの日本人町には7000人の邦人が住んで居た。
長政は、この日本人町の頭領となり、シャムのソンタム王に仕え、像にまたがり日の丸を立てた日本兵を率いて勇敢に戦い、次第に重きをなしついに六昆王(リゴール太守/国王)に任ぜられたという。
その後、ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれ寛永7年(1630)隣国との争いの時足に受けた傷に毒を塗られて死亡したといわれる。
天保13年(1842)の馬場町絵図には、「津の国屋九ヱ門」と記されてあり、生家の跡とみられており、屋敷跡の碑がある。(静岡市)


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新規作成日:2002年2月2日/最終更新日:2002年2月13日