オランダ東インド会社

オランダ東インド会社

正式名称は、De Vereenigde Nederlandsche Geoctrorjeerde Oost‐Indische Compagnie 連合東インド会社、略称VOC Vereenigde Oostindische Compagnie。

1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。
資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。
会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いたが、18世紀末に政府により解散させられた。


設立までの経緯

スペインからの独立戦争を継続中であったオランダは、スペインの貿易制限、船舶拿捕などの経済的圧迫に苦しんでいた。
当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていた。こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。
1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島のバンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。
1598年、アムステルダムとロッテルダムの商人たちの出資によって組織された船隊は、東インドに向かい、さらに進んで香料の主産地であるモルッカ諸島のバンダン、アンボイナにまで到達し、貿易取引に成功した。
しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。
さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。
しかし、多くの船団の派遣によって利益の減少が生じるようになったため、オランダ共和国(当時)の国家主席マウリッツ公や、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、1602年、「アムステルダム」「ゼーランド」「ロッテルダム」「デルフト」「ホールン」「エンクハイゼン」の6つの会社を合同して連合オランダ東インド会社(マークはV.O.C)を設立し、諸外国に対抗しようとした。
6つの支社から構成されており、アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフに置かれた。


この会社は、国家から特別の保護と権限が与えられており、アフリカの喜望峰(きぼうほう)からマゼラン海峡にいたる地域で独占的に貿易を行うこと、この地域で条約や同盟を結ぶことや軍事力を行使すること、貨幣を鋳造すること、地方長官や司法官を任命することなど、さまざまな権限が認められていた。


わが国とのかかわり

江戸時代、出島にもオランダ東インド会社の船が来航した。
江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1621年から1847年までの227年間に延べ700隻以上にのぼる。
オランダ船が長崎港に入港する時期は、季節風の関係から旧暦の6月、7月が最も多く、バタビア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。
オランダ船が出島沖に碇をおろすと、船の出航地や乗組員の人数などの取り調べや積荷の検査、そして2、3日後から荷役作業が始まり、この作業が終わると入札が行われていた。
江戸時代の初期にオランダから輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸、オランダに輸出していた主な品は銀でした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていた。

長崎港の開港以来、さかんに行われていたオランダと日本の貿易も、18世紀にはいるとしだいにかげりが見えはじめてきた。
その原因の一つが、日本の貿易制限政策。当初、江戸幕府は、貿易に何も制限を与えていなかったが、貞享2年(1685)にオランダの貿易額を銀3,000貫目に制限。さらに正徳5年(1715)には、オランダ船の入港を年2隻、貿易額を銀3,000貫目、そして寛政2年(1790)には、年1隻、貿易額銀700貫目にまで制限された。

出島のオランダ商館は、オランダ東インド会社のものである。
東インド会社解散後は、バタビア政庁の管理下に置かれた。
1814年にネーデルランド王国が成立し、国営化された各地の商館の要職には、軍関係者や外交官が着任するようになった。


設立後

設立当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦った。
1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。
また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。
南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。
日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府を扇動してポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。
アジアにおけるポルトガル海上帝国は、オランダ東インド会社の攻勢によって没落した。
イギリス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになる。
VOCは造船、海運、商社としての規模を急拡大させ、6つの支部、30以上のアジアにおける出先機関、100隻以上の船舶、従業員数千人の巨大会社へと成長する。
オランダ東インド会社の成功によって、オランダ本国は17世紀に黄金時代を迎えるが、早くも衰微の兆しが訪れる。
17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。
以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。
最盛期の1669年には、約200隻、兵士1万人を擁した。
1602〜96年まで、同社が支払った年間配当はおおむね20%以上で、時には50%を超えることもあった。
18世紀に入ると、東インド会社の経営もしだいに悪化し、特に1789年に起きたフランス革命はオランダにとって大きな打撃となった。
1795年にはフランス革命軍がオランダ本国に侵入し、1795年にはオランダ本国はフランス革命軍に占領され、バタビア共和国が誕生。1799年には東インド会社は解散に追い込まれた。
この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。
ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになる。


保有船舶

最盛期の1669年には、「軍艦40隻、商船150隻」というデータもあるようだが、正式には、全て武装商船である。
武装商船は、海賊行為等に対抗するためのもので、海賊行為は、単に「賊」である場合だけではなく、敵国公認の「私掠船」の場合もある上、敵国軍艦による通商破壊に対して、甘んじて拿捕されたくなければ、軍艦にも対抗しうる装備も必要となる。
「軍艦40隻、商船150隻」というデータのうちの軍艦は、護衛に付くなど戦闘力を強化した武装商船(或いはガレオン船そのもの)であることも考えられる。
また、現在とは異なり、戦列艦を別にすれば、軍艦と商船は、船体の構造に大きな差異はなく、大砲を並べれば、立派な武装商船が出来上がる。
軍艦と言えば、本来は「国軍の戦闘艦艇」であるから、株式会社の船舶は「軍艦」足りえない。
ただ、オランダ東インド会社は、今の民間企業とは異なり、国家権力を分担する立場から、軍艦に準ずる資格はあったものと思われるが、乗員が軍人か商船の船員かということになれば、基本的には、武装商船ということになるだろう。


主要年表



参考
大航海時代
大航海時代の船
朱印船 南蛮貿易
平戸・長崎 阿蘭陀貿易
帆船時代の艦載兵器
オランダ東インド会社




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新規作成日:2007年6月30日/最終更新日:2007年7月6日