大航海時代


15世紀末から本格化する、スペイン・ポルトガルを主体とする香辛料、金銀を求めた新航路開拓時代。

15世紀末から本格化する大航海時代の主体はスペイン・ポルトガルである。当時まだ肉・魚介類の保存技術が発達していなかったヨーロッパ世界において、保存に必要な香辛料は銀と等価であった。この香辛料貿易はヴェネツィアを中心とするイタリア都市国家と中東、アフリカのいわゆる東方貿易に独占されていた。より安い香辛料を独自入手するため、またオスマン=トルコが地中海に勢力を伸ばし東方貿易が困難になってきたため、大西洋側のスペイン・ポルトガルが大西洋航路開拓を始める。
ポルトガルはエンリケ航海王子、バルトロメウ=ディアス(喜望峰到達)らによって、アフリカ迂回のインド到達コースを模索し、ヴァスコ=ダ=ガマが1498年にインドのカリカットに到達するに及んで、インド航路が完成した。これによりリスボンでの香辛料の値段がヴェネツィアの半分になり、香辛料貿易は完全に地中海から大西洋航路にシフトした。インド航路の保全と香辛料獲得のためポルトガルは植民地を次々と作る。1510年にインド西岸のゴアを占領。アジア初の植民地を作る。大航海時代の陰の側面であるアジア、アフリカの植民地化はここから本格化する。その後セイロン、ジャワ、スマトラ、マラッカと植民地・拠点は拡大してゆく。1543年には種子島にも来訪。1520年にはマゼラン隊が太平洋に到達。世界一周を果たし、地球が球体であることが実証された。その過程でフィリピンを植民地化。

ポルトガルにインド航路を押さえられたスペインは、大西洋横断航路の開拓を目指す。地球球体説を唱えたトスカネリ、ピエール=ダイイらに影響を受けたコロンブスが1492年西インド諸島に到達。その後、教皇アレクサンデル6世の仲介でトルデシリャス条約が結ばれる。これで世界の海はスペインとポルトガルに2分され、南アメリカはポルトガル領になったブラジルを除いてスペイン領になる。現在でもブラジルではポルトガル語、その他の南米諸国ではスペイン語が使われているのはこういった理由からである。スペインは南アメリカの植民地経営を開始。インディオを駆逐し、長らく栄えたマヤ・アステカなどの文明を完全に破壊した。コルテス、ピサロ(インカ帝国を滅ぼす)などの征服者は略奪、強制労働などを行い、南アメリカ文明は壊滅した。その後、エンコミエンダ制、アシエンダ制と呼ばれる植民地経営を行う。
南米原産の銀を採掘するために多くのインディオを強制労働させた結果、インディオが激減した。それを埋めるためにアフリカから黒人奴隷を連れてくる奴隷売買が始まる。これが後にアメリカ大陸における黒人問題を起こす元になった。
このように大航海時代はそれまでの貿易構造を一変させた。これを商業革命と呼ぶ。それまで世界貿易の一等地であったヴェネツィア、ジェノバにかわって、リスボン、スペイン領ネーデルランドのアントワープなどがその地位につく。さらに、新大陸からの銀の大量流入は、銀の価値を下げたため欧州の物価を上昇させ、それまで主流だった南ドイツの銀を独占していた商人や富豪を没落させた。これを価格革命と呼ぶ。これによって、ドイツの大富豪フッガー家(ルネサンス期のパトロン・神聖ローマ帝国・ローマ教皇に関与し、宗教改革の発端となる免罪符を発行)も没落する。
この後、海洋の覇権はオランダ、イギリスと移り変わってゆくがそれについては別に述べる。
ちなみにアジアからも、中国明朝の宦官(=去勢された男子)である鄭和(ていわ)がアフリカ東岸まで大遠征を行っている。ここから華僑の海外進出が増加した。アジア版大航海時代といえるかもしれないが、鄭和の遠征単発に終わった。

大航海時代はそのさわやかな名称とは裏腹にアジア、アフリカにとっては暗黒時代の到来を告げるものであった。この時代からヨーロッパによるアジア、アフリカの植民地化が始まり、それは第二次大戦後も続いている。植民地化の影響は今日でも南北問題、南南問題を始めとして多くの問題を残す。アメリカ大陸における黒人問題もこの時代から始まっている。つまり、現代の問題の多くがこの時代から始まっているのである。


エンリケ航海王
Henrique o Navegador (Enrique)、1394年生、1460年没。航海者エンリケ。
ポルトガルの王子。父はポルトガル王ジョアン1世。
ポルトガル人のアフリカ周航およびインド航路開拓の先駆。
1415年 北アフリカのセウタに遠征。
以後、航海の研究やアフリカ西岸の探検に尽力。
父王より3代にわたって通商と植民に関して要職にあり、サグレスに研究所を開いて航海学、地図などの研究を行なわせる。
探検航海を大いに推進し、その配下の船はカナリア、マデイラ、アゾレスの島々に進出 アフリカ西岸では北緯8°に達した。
彼の事業はヨーロッパ人の海外発展の先駆となる。
母国の学術・文化の振興にも貢献。

ポルトガルは、航海王ともいわれるエンリケ王子(1394〜1460)の指揮で、1422年以降国家事業としてアフリカ西岸を南下する艦隊を次々と派遣しました。2世紀にわたる大航海時代の幕開けです。プトレマイオスの地図では、アジアとアフリカは南半球でつながりインド洋が内海として描かれていますが、アラビア人にはアフリカ南端が航海できるとする説があり、彼はこれを信じて賭けたのです。アフリカにあるとされたプレスター・ジョンの国へ到達する目的もあったようです。エンリケの没後は、跡継ぎのジョアン2世が事業を引き継ぎました。1473年ゴンサルベスが赤道を越え、1487年バルトロメウ・ディアズ(1450?〜1500)が南端に近い喜望峰を発見、1498年バスコ・ダ・ガマ(1469?〜1524)がついにインド洋に抜けてインドのカリカットに到着、ようやく直通航路が開かれました。ポルトガルは莫大な利益をあげるのですが、これはとても日数がかかり、また危険も多い航路でした。インドに拠点を置いたポルトガルは、香料の独占を狙って、マラッカ(マレー半島)に進出し彼らの王国を滅ぼすと、“香料諸島”ともいわれるインドネシアを手中にしました。さらに北上し1557年にはマカオを占領して明王朝との通商をはじめ、日本にも渡来しています。
いっぽうアフリカ沿岸では奴隷狩りをおこない本国へ送ることもはじめました。それまで奴隷といえばスラブ地方などヨーロッパからアラブへ送られていたので、初めて関係が逆転したことになります。大航海時代は発見の時代であるとともに、植民地時代の幕開けでもあったのです。


コロンブスの航海
ジェノバ生まれの有能な航海者、クリストファー・コロンブス(1446?〜1506)は当時の地図を見て、大西洋を西へ進めば短期間でアジアに到達するはずだと考えました。そこでポルトガルとスペインに計画を売り込んだ結果、8年もかかった末に、ポルトガルに遅れを取っていたスペインのイザベラ女王の援助を得て実現することになりました。1492年サンタ・マリア号ほか2隻を率いてパロス港を出発すると、カナリア諸島を経て北東貿易風に乗り、わずか2カ月で小さな島(現バハマ諸島のウォトリング島)に到達しました。彼はそこをインド周辺の島々と信じ、インディアスとよびました。香料や大量の黄金を持ち帰ることはできませんでしたが、西回り航路を発見したことで大歓迎を受け、国王から「インド副王」の称号を与えられました。その後も3度大西洋を渡り、カリブ海周辺にカタイ(中国)とジパングを探し続けました。しかしアジアの王国も黄金も見つからず、植民地経営にも失敗し、第4回航海から帰国した2年後、失意のうちに亡くなりました。

コロンブスは、亡くなるまで自分が到達した場所がアジアの一部だと信じていたようです。カリブの島々は彼が計算した東洋の島々の位置にあったからです。なぜ1万5千キロもの誤算をしてしまったのでしょうか? 当時の世界地図では、東の端はジパング、西の端はさほど広くない大西洋でした。彼は地理学者のトスカネリとも相談し、地図の両端をつないでみて、ヨーロッパから中国までは6千キロに満たないと算出したのです。これならば東回り航路よりも近いはずでした。このような地図ができてしまった原因は2つありました。


世界の2分割
ポルトガルとスペインによる領土拡張争いが激化する中、コロンブスの成功を受けたスペインは、1493年、ここで発見した土地を独占すべくローマ教皇にある提案をしました。それは西アフリカ沖にあるベルデ岬諸島の西約550kmを通る子午線(西経31度8分付近)で世界を2つに分け、新たに発見された非キリスト教徒の土地を、境界線の東側はポルトガル、西側はスペインに権利を与えるというものでした。これは教皇子午線とよばれ、いったんは決定されましたが、大西洋の西側で将来発見される土地の権利を持てなくなるポルトガルが抗議して、94年に境界線を1500km西へ移動させた(西経46度30分付近)トルデシーリャス条約が結ばれました。この結果、南米で唯一ブラジルだけがポルトガル領になったのです。またポルトガルがアフリカ周りでアジアへ進出し、スペインが新大陸に集中することにより衝突が避けられました。発見された土地の住人の意見はもちろん、他のヨーロッパ諸国の意見もまったく無視した実に身勝手な条約ですが、当時のポルトガルとスペインの力をよく示しています。

トルデシリャス条約
1494年、スペインとポルトガルがスペインの(Tordesillas)で締結した条約。
海外での領土紛争を避けるため、両国の勢力範囲を区分した。
大西洋上のベルデ岬諸島の西方370リーグ(約1350キロ)を通る子午線(西経45度付近)を境に東側をポルトガル、西側をスペインの新領土取得範囲とした。
これによりポルトガルはブラジルおよびそれ以東のアフリカ・アジアに、スペインはアメリカ大陸に進出。
東半球における境界線は不確定だったために、後にモルッカ諸島の領有をめぐり両国間に紛争が起きた。

サラゴサ条約
1529年、スペインとポルトガルが締結した条約。
トルデシリャス条約でそれまで不確定だった東半球における境界線を確定した条約。 モルッカ諸島の領有をめぐり両国間に紛争が起きたのを機にモルッカ諸島の東方297.5リーグを通る子午線(東経144度30分付近)を境界線と定めた


植民地主義
ベスプッチ以後、新大陸を訪れた者は探検家というより征服者でした。アステカやインカの文明は滅ぼされ、ヨーロッパよりはるかに広大な新大陸は瞬く間に、スペインの植民地にされてしまいました。奴隷化された原住民は強制労働と殺戮、さらにヨーロッパから持ち込まれた病気のために、著しく人口が減少してしまいました。特にカリブの島々ではほとんど絶滅してしまったために、プランテーション(植民者が経営する商品作物農場)の労働力として、アフリカから黒人奴隷を移送しなければならなくなったのです。新大陸は領土拡張欲を満足させましたが、香料は産せず、金銀を奪い尽くしてしまえばほかにめぼしい産物もありませんでした。また人口も少なかったため、市場としての魅力も乏しかったのです。ただ南米産の作物である、ポテト・トウモロコシ・トマト・チョコレートなどは、ヨーロッパの食糧事情を一変させました。特にポテトは寒冷地でも育つためアルプス以北の人口を急増させ、後に北部ヨーロッパ諸国を発展させる原動力になりました。
征服欲に目覚めたヨーロッパは、もはやとどまることを知りません。大西洋の対岸がアジアでないことがわかると、今度は新大陸を迂回してアジアへ到達するルート探しがはじまりました。


マゼランの世界一周
南のルートを開拓したのはフェルディナンド・マゼラン(1480?〜1521)です。1519年スペイン国王の援助を得て、265名を乗せた5隻の艦隊を率いて出発しました。極寒のパタゴニアで越冬し、迷路のようなマゼラン海峡を抜け、想像を絶するほど広大な太平洋を横断し、ようやくフィリピンに到着するのですが、マゼラン自身は島民との争いで亡くなりました。最後まで残ったエルカノ以下わずか18名の乗組員がスペインにたどり着き、史上初の世界1周を成し遂げたのは、出発してから3年後のことでした。航海日誌が1日ずれていたこともあって、地球が丸いことが完全に証明されたのです。
尚、スペインでは、マゼランが出身がポルトガル人であることと、途中で亡くなっていることから、世界一周を成し遂げた功績は、ファン・セバスチャン・デ・エルカノであるとされています。


外洋船の発達
外洋に乗り出すには意志と勇気だけでなく技術も必要です。地中海で発達したそれまでの船と航海術では、沿岸を離れることができませんでしたが、15世紀になると地中海を出て北ヨーロッパへも交易圏が広がり、新しい技術が発達しつつありました。従来のガレオン船は大型で大量の物資を運ぶことができますが、横帆だけであったため順風以外は大勢の漕ぎ手によりオールで航行していました。これに対して1440年ころにあらわれたカラベル船は、イスラム船の影響を受けた大きな三角帆と複数のマスト、船尾固定式の舵を持つ比較的小型のスマートな船です。風上に向かって斜めに進むことができ、安定性がよく速力も速くて、外洋探検航海に適しています。その後植民地からの物資輸送が増えてくると、前と中央のマストに横帆、後ろに縦帆を付けた大型のナオとよばれるタイプが登場します。またコンパス・機械時計・クロススタッフとよばれる緯度測定器なども使用されるようになりました。こうしてはじめて外洋に出ることができるようになったのです。またこれらの器具を用いることによって、船上から海岸線を測量して、すばやく地図が作られるようになったことも重要です。


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新規作成日:2002年2月6日/最終更新日:2002年2月26日