マゼランとビクトリア号

マゼランとビクトリア号

Ferdinand Magellan(1480〜1521)
ポルトガル語では Fermao de Magelhaes。
ポルトガルのオポルト付近で生まれたこと以外の若い頃の詳しい記録は不明。
1505年25才でアルメイダの艦隊に参加してインドへ航海。
1509年セケイラの艦隊で、マラッカを訪問。
1511年のアルブケルケによるマラッカ攻略に参加。
1512年ポルトガルへ帰国。
この7年間におよぶインド洋方面での活躍は、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を契機としての、ポルトガルの東方諸国制圧の時期であった。
1505年のアルメイダ提督の20隻の艦隊による、エジプト、インドの要所の制圧。
1506年3月16日、アラビアやペルシャの商人たちの協力を得てのインドのカリカットのサモリン王の200隻による急襲反撃と、その迎撃と勝利によるインド沿岸の支配権の獲得。

この戦闘をカナノーレ大海戦といい、この海戦の船乗りの一員としてマゼランは参加している。
当時、「マラッカ海峡を制する者は世界を制する」といわれていたが、ポルトガルは、胡椒、クローブ、ルビー、陶器、象牙、カシミヤ、白檀、じゅうたん、奴隷などの交易でにぎわっていたマラッカの領土化を目指し1511年・艦隊を派遣する。
この艦隊にもマゼランは参加している。
ここで数々の功績を残した若き士官マゼランは、マライ攻略の立て役者として総司令官セラーノに注目され、ポルトガル軍のマラッカ征服のとき以来セラーノとマゼランの間に続いた友情のきずなは、マゼランのその後の生涯と業績に大きな影響をもたらした。

ポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは、リスボンへ帰った。
彼らが、南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、10年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌していた。
マヌエル王家はヨーロッパで、もっとも富める君主になりつつあり、母国へ帰国したマゼランは、あまりにも変貌した港町リスボンの姿に驚かされると同時に、ひそかに財宝をかき集める高級貴族たちとは裏はらに、インドやマラッカにおける功績をたたえてもらえるでもなく、昔ながらの最下級貴族の一人として扱われたにすぎなかった。
これらの航海の報酬などが不満で翌1513年のモロッコ遠征での戦利品を国王に無断で独占したとして訴えられ、スペインに移った。

それまで持論として持っていた「西回りでトルデシーリャス条約でのスペイン領海域だけを通過して香料諸島に達する航海」をスペイン国王に提案して航海の契約をした。

1519年9月20日(1519年8月10日?)5隻の船隊(ヴィクトリア号他)と237人の乗組員を率いてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆した。
この遠征隊の目的は、当時とても貴重なものであった香辛料の産地であるモルッカ諸島に到着するため、大西洋と太平洋を結ぶ新たな航路を発見することにあった。
ラ・プラタ川の河口には1520年1月9日に到着した。そしてこののち 23日間、希望をかけた、海峡(エル・パソ)探索が行われたが、失敗に帰した。
1520年9月20日マゼラン海峡を発見、ヴィクトリア号他2隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げました。
太平洋に入ってからは不毛の無人島等は発見したものの補給が出来ず極度の飢餓と壊血病に苦しめられた。
1520年10月21日、のちにマゼラン海峡と呼ばれる「海峡」をついに発見、10月28日、マゼラン海峡を通過。
99日目に小島を発見し食料を補給することが出来たが、住民の盗癖にあい上陸して焼き討ちをかけて住民7人を殺害し、ラドロネス(泥棒)諸島と名付けた。ここはグアム島だと言われている。
この航海の間は嵐に遭わなかったために、この海を太平洋(マール・パチフィコ、平和の海)と名づけたという説も有る。
その7日後の1521年3月17日フィリッピンのレイテ湾内のサマール島南のオモンオン島に上陸した。
その後一行はセブ島に向かい住民の服従策に失敗し、1521年4月27日マゼランはマクタン島で「ラプ・ラプ」と浅瀬の白兵戦で交戦中に41才で戦死した。
マゼランは東回りでマライまで来ていたので世界周航は目前だった。
残りの一行はそのまま、目的地のマルク(香料)諸島に向かい、そこで香料を積荷したのち、スペインに直行、1522年9月6日生存者18名が出発したサンルカル港に帰着した。
この世界一周航海によって地球が丸い事や、日付に一日のずれがある事が実証された。


マゼランが死んだフィリピンのマクタン島には、ラプラプの像が立っている。
「この地で 1521年4月27日、ラプラプとその部下はスペインの侵略者たちを撃退し、その指揮官マゼランを殺した。ラプラプはヨーロッパの侵略者を追い払った最初のフィリピン人であった」と記されているという。


マゼランの5隻の船隊
サンティァゴ号(75t): アルゼンチンのサンタ・クルス川で座礁/マゼラン海峡で難破?。
サン・アントニオ号(120t): マゼラン海峡で逃亡し帰国。
トリニダート号(110t): モルッカ諸島の支配権をめぐってスペインと抗争中だったポルトガル人によって拿捕/香料諸島で香料を積み過ぎて沈没?。
コンセプシオン号(90t): ボホール島で乗組員不足により焼却/セブ島?。
ヴィクトリア号(90t): 世界周航を達成。

1521年マゼランが発見した群島(フィリピン)は、その後スペイン領となり、当時の皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われている。

マゼランの世界一周
南のルートを開拓したのはフェルディナンド・マゼラン(1480?〜1521)。
1519年スペイン国王の援助を得て、265名を乗せた5隻の艦隊を率いて出発した。
極寒のパタゴニアで越冬し、迷路のようなマゼラン海峡を抜け、想像を絶するほど広大な太平洋を横断し、ようやくフィリピンに到着するが、マゼラン自身は島民との争いで亡くなった。
最後まで残ったエルカノ以下わずか18名の乗組員がスペインにたどり着き、史上初の世界1周を成し遂げたのは、出発してから3年後のこと。
航海日誌が1日ずれていたこともあって、地球が丸いことが完全に証明された。
この過程でフィリピンを植民地化。
尚、スペインでは、マゼランが出身がポルトガル人であることと、途中で亡くなっていることから、世界一周を成し遂げた功績は、ファン・セバスチャン・デ・エルカノであるとされています。

16世紀のマゼランの航海では、「サン・アントニオ」「トリニダード」「コンセプシオ」「サンティアゴ」「ビクトリア」の5隻で出港、南米を経由して太平洋を渡り、インド洋から喜望峰を回って帰港している。この間、フィリピンでマゼランが先住民に殺されており、「ビクトリア」のみが世界一周を達成している。


スペインの復元帆船「ビクトリア」
史上初めて世界一周をしたという、スペインの帆船「ビクトリア」の復元船。
1992年、スペインのセビリア万博開幕を記念して建造された。
全長25.9メートル、最大幅6.72メートル、排水量170トン、当時と同じ材質と大きさ。
愛知万博に向け、スペインのセビリアを出港。サンルーカル・デ・バラメダ、テネリフエ、カルタヘナ(コロンビア)、パナマ運河、アカプルコ(メキシコ)を経由して日本に来航した。
船の雰囲気は、以前復元されて神戸に保存されている「サンタマリア」に似ているが、船体の木材の処理の為か、焦がしたような匂いがしている。


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新規作成日:2005年4月26日/最終更新日:2005年4月26日