亀山社中と海援隊

元治元年(1864)五月正式に発足した幕府の直轄施設・神戸海軍操練所に学んでいた生徒の一部と、これに加えて特に勝海舟の影響を大きく受けた坂本龍馬を筆頭とする一団を母体とし、神戸海軍操練所の解散をきっかけに、後に長崎・亀山の地へ結成したものが亀山社中(亀山隊)で、その社中が後に海援隊の中心となった。
海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、慶応元年(1865)閏五月から慶応四年(明治元年・1868)四月までの約三年間に亘る、比較的短期間の活動であった。

坂本龍馬(1835〜1867)は、薩摩・長州の連合に奔走する間、1865(慶応元)年閏5月ごろ、薩摩藩の援助で、長崎に貿易結社を設立した。この結社は宿舎の所在地から「亀山社中」と呼ばれ、薩長両藩の物資を調達・運搬することで、薩長両藩の和解の糸口を作ったとされる。
亀山社中は慶応元年(1865)閏五月に坂本龍馬が中心となって組織した私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社だった。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。
社中の目的は、神戸海軍操練所時代に考えていたことを実現するために貿易を行い、商社をつくり海軍・航海の技術を習得することであったが、最大の目的はこれらのビジネス活動を通じて薩長の手を握らせるとこであった。

社中二十名余りは、制服というべき白袴を身につけていたので「亀山の白袴」と言われていた。

1866(慶応2)6月、下関における対幕海戦(第二次長州征伐)で亀山社中は長州の軍艦「ユニオン号」(薩摩藩桜島丸、のち長州藩乙丑丸)に乗り組み、下関海戦に参加、幕府軍を相手に戦い、長州の勝利に大きく貢献する。

この時点での主要な顔ぶれは次の通り(19名程度)だったと推測されている。
土佐10名 坂本龍馬、近藤長次郎、千屋寅之助、高松太郎、新宮馬之助、池 内蔵太、石田英吉、山本洪堂、中島信行、沢村惣之丞
越前3名 小谷耕造、渡辺剛八、腰越次郎
越後2名 白峰駿馬、橋本久太夫
紀伊1名 陸奥陽之助(農商務大臣、外務大臣などの要職を歴任した陸奥宗光)
讃岐1名 佐柳高次
因幡1名 黒木小太郎
出身地不明1名 早川二郎

ところが結果的には、ワイルウェフ号の沈没や大極丸の代金未払い問題等、多くの難題が発生し、亀山社中の運営は困難を極めた。
やがて、経済的に行き詰まり、67(慶応3)年4月に土佐藩の援助を受けることになって名を海援隊と改めた。龍馬は脱藩の罪を許されて隊長に任ぜられ、隊士22人、水夫30数人の構成であった。
こうして結局亀山社中は、坂本龍馬の理想を実現することの無いままに、慶応三年(1867)四月土佐藩の支配下に入り、海援隊として改編されたのである。
海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立していて、仕事の目的は「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」であり、射利つまり利益の追求が堂々と掲げられていた。いわば、船会社と海軍を兼ねた組織で、その中で、隊士が航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもあった。

海から応援するので「海援隊」であるから、慶応三年七月に「陸援隊」も設立され、中岡慎太郎が隊長となっている。
「海援隊」とあわせ「翔天隊」も称した。

陸援隊の母体は文久二年十月、江戸に下向する前藩主・山内豊信(容堂)に追従した尊攘派の「五十人組」。慶応三年七月、土佐藩参政佐々木高行の許可を得て、同藩の京都白川屋敷を根城に、諸藩の志士や十津川郷士を収容した。隊員は五十人。
主要隊士は、中岡慎太郎、田中顕助、大橋慎、香川敬三、木村弁之進、陸奥源二郎、本川安太郎、松島和助、武野虎太、山崎喜津馬、竹中与三郎、中井庄五郎、岩村精一郎、藤沢潤之助、関雄之助、山脇太郎、前岡力雄、加納宗七、斎原治一郎、宮地彦三郎、豊永貫一郎、中島作太郎、大江天也ほか。
十二月八日、侍従・鷲尾隆驟を擁して高野山に拠り、鳥羽・伏見の開戦後、隊を解散して、隊士は東征軍に参加。

1967(慶応3)年4月、海援隊の「いろは丸」が紀州藩の船に衝突され瀬戸内海で沈没。紀州藩に「万国公法」で交渉、賠償金8万3000両(実額支払い7万両)を獲得。

初歩的英語教科書「和英通韻伊呂波便覧」は、海援隊が版権を所有し、尚友堂が、発行者である。その序文の末尾に「慶応四年戊辰三月」とあるのを発行の日付とみなすと、前年11月に龍馬は京都で暗殺され、翌4年閏4月に海援隊は、藩命によって解散させられているから、解散寸前に龍馬の海外発展の夢を継ぐ隊士たちによって出版されたものであろうか。

海援隊の性格は亀山社中を解消、発展させたもので、さらに新しく政治・経済・語学・航海術等の学問研究を行うことを付け加えている。
海援隊約規は五則
(一)隊士の資格と任務、
(二)隊長の権限、
(三)隊士の心得、
(四)修業課目、
(五)隊中の会計
と規定している。
資格は「本藩を脱する者乃他藩を脱する者、海外の志ある者此隊に入る」とあり、その任務は「運輸・射利・開拓・投機・本藩の応援」と規定されている。

本部は長崎の小曽根家の別邸に置かれ、主要隊士は前記の亀山社中のメンバーに加えて、長岡謙吉(土佐)、野村辰太郎(土佐)、吉井源馬(土佐)、佐々木栄(越前)安岡金馬(土佐)、宮地彦三郎(土佐)、関義臣(越前)の七名が参加し、合計二十六名となった。これに水夫・火夫等が加わり、総員五十名程度だったと推測されている。

坂本龍馬は様々な当時の現象を世界という大きな視野で捉えて、航海通商策を考えられる思考能力があった。その発想の源を追及してみると、幅広く情報を収集・検索し、それを総合的に判断した上で実行に移すという、ぬきんでた実行能力を持っていた。
そして坂本龍馬は優秀な隊士で組織された海援隊を率いていたが、それは政治結社であると同時に経済商社でもあった。
この海援隊という組織集団は、当時の最も進んだ科学技術を集大成した西洋製の鋼鉄船を持つか、或いはチャーターして、それを自分達自らが運航する技術・能力を備えていた。
隊士の殆どは勝海舟に係わりを持つか、あるいは坂本龍馬等と共に神戸海軍操練所で海軍について基礎から学んだ仲間で、航海術・運用術・機関術・算術・天文学・気象学等を修得していたのである。そして中にはオランダ語や英語を得意とする者も加わって居たのである。
こうして海援隊は、日本の政治・経済・文化を蒸気船という情報手段を使って変革していこうとした。それまでの様々な組織や集団が、武力を中心とした戦闘集団だったが、海援隊はそれらとは一味も二味も違った、近代的な知識集団だったのである。

そして隊長の坂本龍馬が束縛と規制を嫌い、自由を求めて行動する人間であったと同時に、海援隊を構成する隊士も脱藩者、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層の出身者が居て、隊内には自由な発想と雰囲気があった。
その他にも大きな特色として、当時としては画期的な目的地へ物資を輸送する際の、定時性(決まった時・決まった場所へ)の確保という近代的な行動力を備えていたのである。
海援隊は隊士の役割分担が明確で、当時としては稀有な商社的な活動を行っていた。
海援隊が発足すると直ぐさまイロハ丸衝突・沈没事件や、英艦イカルス号水夫殺害事件等が続け様に発生して、多難な船出となったが、その後九月になると丹後・田辺藩やオランダ商人ハットマンとの商取引がまとまり、活動は次第に活発になってきた。
一方では出版事業にも手を出し、その他京都にも書籍や鉄砲等を販売する直営店を置くなどして、多角的な経営を進めつつあった。
亀山社中時代から薩摩藩の船舶の運用を実施することによって、報酬を得ていた。当時月額三両二分が支給されていたが、その後海援隊に改編されてからは、自給自足が原則となってきた。
しかし隊の活動が軌道に乗るまでは、それどころではない有り様で、隊長・坂本龍馬の計らいで一ヶ月五両、年間六十両の給料が土佐商会から支給されていた。
海援隊は文官、武官、器械官、測量官、運用官、簿籌官、医官等に分けられていて、それぞれに担当者が居た。イロハ丸の場合には士官が佐柳高次、文官が長岡謙吉、簿籌官が小曽根英四郎、器械官(機関士)腰越次郎、水夫頭が梅吉であった。
坂本龍馬は土佐藩を脱藩した後、勝海舟等に巡り会い、大きく羽ばたいていったが、その当時の時代背景について、それなりの予備知識があったのである。
父八平の後妻・伊与の実家、種崎の御船倉御用商人で、回漕業を営んでいた川島家(下田屋・当時地元ではヨーロッパと呼ばれていた)に良く出入りして、海事と商業の実際を見聞していたのである。

既にこの時点で「万国地図」を見、その存在を知っていた。その上に河田小龍から中浜万次郎の漂流・アメリカ体験の聞き取り書き「漂巽紀略」の内容を詳細に伝授されていた。
その事を裏付ける事例として文久二年に脱藩したとき、他の志士達と違って京都へ上らずに、先ず下関から薩摩方面を目指している。
当時の薩摩藩には既に造船所や反射炉等当時の先進工業技術が芽ばえており、そうした事実を坂本龍馬は理解していたのである。

優秀な隊士の代表的な存在が近藤長次郎で、英語の学力や才覚に長けていた。また沢村惣之丞、白峰駿馬も得意の語学力を駆使して、外国人の応接掛を務めていた。
長岡謙吉は「船中八策」を起草出来るほどの学識を持っていたし、「商法の愚案」を提出した陸奥陽之助は理論明敏であったが、この様に海援隊には優秀な人材があまた居たのである。

大半の隊士が勝海舟塾や神戸海軍操練所で、当時の最新技術を勉強・習得していた。
特に菅野覚兵衛や白峰駿馬達は、当時の西洋製の大型船舶を操る高度の操船技術を身に着けていた。
その他にも佐柳高次の様に、咸臨丸の乗組員としてアメリカ社会を見聞してくるなど、当時の先学も居た。
長崎に本部を置いていたので、当時としては諸外国の最新情報を、いち早くそして比較的容易に得ることが出来た。
隊士の一人、橋本久太夫は、元来が幕府軍艦の乗組員で、当時の最新式の船舶(特に軍艦)を乗りこなす技術力を持っていた。そして当然ながら水夫・火夫も当時の先端技術を身に着けていたのである。

海援隊の組織は斬新で、亀山社中時代から海援隊を通して、土佐藩以外の出身者も分け隔て無く迎え入れ、同等の扱いをしている。

この事は「本藩(土佐)を脱する者、他藩を脱する者、海外に志しある者」を隊員とすることが、「海援隊約規」に明文化されており、幕藩体制下の当時としては考えられない、自由な発想を持った組織であったことが裏づけられる。


海援隊は慶応三年(1867)四月に発足し活躍していたが、坂本龍馬が凶刃に倒れて以降はその求心力を失いふるわず、長崎派と塩飽派の二派に分裂、慶応四年(9月8日に明治と改元)閏四月に土佐藩の命により解散した。

龍馬死後、土佐藩士・後藤象二郎が「海援隊」を引き継ぎ土佐商会とし、土佐商会の主任・岩崎弥太郎(1834〜1885年)がその後、「九十九商会」を経て順次発展させて郵便汽船三菱会社(後の三菱財閥、日本郵船)となった。

明治18年(1885年)9月郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して、日本郵船会社が創立されている。

新海援隊
海援隊書記長 長岡謙吉の提唱で、慶3〜同4、土佐藩有志によって組織された旧幕領小豆島の占領治安維持部隊。隊士11名。
この際、17歳から30歳までの壮丁を狩り集め、一隊を編成したのが梅花隊。塩飽諸島のほか男木・女木の両島、直島、福田、大部、草加部までその支配下においた。
隊長・中岡謙吉、以下 八木彦三郎、間崎専吉、得能猪熊、橋詰啓太郎、堀謙吉、島崎金吾、島田源八郎、岡崎恭輔、島村虎豹(土岐真金)、武田保輔ら120名 
明治元年秋、讃予諸島の倉敷県移管にともなって解散、隊士のほとんどは奥羽方面の征討戦に参加した。

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新規作成日:2002年2月2日/最終更新日:2002年2月2日