1000字超文[2014年]

  [#01]アウシュヴィッツに消えた女性画家

シャルロッテ・サロモン藤井建男・画家 (2014.4.8) 

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ナチスのアウシュヴィッツ収容所で1943年10月、26歳5ケ月の短い命を絶たれたシャル ロッテ・サロモンというユダヤ人の女性画家がいたことを知る人はあまり多くない。
1988年の8月末から10月末にかけて東京、大阪、横浜、京都の高島屋デパートで巡回展が 開かれているが、その後画集も出版されていない。テレビなどで紹介された話もないから彼女を 知る人は少なのが実際のところだと思う。そういう私も横浜に住みながらこの巡回展の記憶がな い。したがって、数年前までシャロッテ・サロモンという女性画家がいたこともその作品も全く 知らなかったのであった。    絵・シャルロッテ23歳の自画像
私がシャルロット・サロモンを知ったのは2008年、当時パートで勤めていた文京区本郷の職 場の近くにあったドイツ書籍専門店で何気なく手に触れた画集によってである。ドイツ現代美術 家の画集が何冊か並ぶ棚に「Charlotte Salomon Leben?Oder Theater?」というぶ厚いハード カバーのA4版の画集が目についた、というより背表紙のカットに使われているドイツ表現主義風 の女性の顔に引き付けられたのだった。手に取ってみると巻頭文、解説、経歴の30数ページを 除くと残る400頁に、身の回りの出来事だろうか、記憶だろうか、あたりかまわず見たもの、 聞いたもの、思ったことのすべてをグアッシュ絵の具でときには美しく彩られた文章で描き綴 った大小770点の絵が刷り込まれていたのであった。絵は全て精魂が込められ、どの絵も生 き生きと何かを語り掛けている…。
巻頭のシャルロッテ・サロモンの経歴の最後はアウシュヴィッツ収容所の写真で終わっている。 アウシュヴィッツ収容所は第二次大戦でヒトラー・ナチスがユダヤ人を中心にドイツ、ポーラン ド、オランダのおよそ民主主義者と言われる人々を片端から送り込み凄惨・残虐の限りを尽くし 虐殺した絶滅収容所だ。
初めて見る名も知らぬ女性画家シャルロッテ・サロモンがアウシュヴィッツ収容所で命を絶たれ たことは確かだと直感した。「Leben? Oder Theater?」の日本語訳は「人生?あるいは劇場?」 である。描き急ぐような1000点に近い絵は何を語っているのか。私はためらうことなく画集を購 入した。
    
ナチスのユダヤ人の迫害を逃れて、祖父夫婦の逃れているフランス南部の保養地の隠れ家にいた シャルロッテは1943年の夏の終わり、ナチスの追跡が身に迫ったのを感じて近所付き合いの 良かった医師モリディス博士を訪ね「これを大切にしてね。私の全人生なの」と彼に茶色のスー ツケースを渡した。その中には1000点に及ぶグアッシュで描かれた絵が入っており「人生? あるいは劇場?」と名前がついていた。
「人生?あるいは劇場?」はシャルロッテの誕生からナチスにとらわれてアウシュヴィッツ収容 所に送られる直前までのわが身を包んだすべてを描き綴った自伝的作品だった。しかし自分史と いう自己の記録ではない。ドイツに起きたナチズムの恐怖が見事に描かれている。文化を捻じ曲 げ、家族を引き裂きやがて人間を跡形もなく消してしまうヒトラーのナチズムの嵐の中で、そこ に生きた人間の痕跡として描き切ったものであった。第二次大戦を開始したドイツにおけるユダ ヤ人社会が繰り広げた明日のない生きるための決死の格闘がそこにあり、 若い女性画家の筆による目をそらせてはならない現代史といえるものだった。

シャルロッテ・サロモンは1917年5月16日、ベルリンの医師アルベルト・サロモンとその 妻フランツイスカの娘として生まれた。家はドイツ社会に同化したユダヤ系の裕福な家庭。当時 のベルリンでは最も格が高い地域に住みインテリ、芸術家、実業家などがにぎやかに交流し合う、 光あふれる幸せに包まれた家庭に育った。9歳の時母が自死し、父アルベルトは1930年9月 に歌手のパウラ・リントベルクと再婚する。パウラの豊かな人間関係、幅広い教養が明るい光と なってシャルロッテと家族を包だ。「人生?あるいは劇場?」のこの時期の描写は自由な空気に 満ちている。   絵・「人生?あるいは劇場?」の表紙⇒
下・パウラと幸せな日々(省略*)
 〜2〜
   1933年3月1日、ヒトラーが政権を握るとサロモン家だけでなく周囲の空気も一変する。こ の年の2月27日、ナチスは選挙の直前に国会議事堂の放火を演出。共産党の仕業とでっち上げ 共産党を抹消し、議席総数を減らし議会を支配すると「全権委任法」を制定してワイマール憲法 を改訂、憲法で定められていた基本的人権を停止。多くの共産党、社会民主党員が逮捕され強制 収容所に送られた。ヒトラーはドイツ人を優秀人種とする一方ユダヤ人を「最低の人種、除去さ れるべき悪魔の民」と決めつけ絶滅作戦を開始したのである。
父アルベルト・サロモンはユダヤ人であることを理由に職を追われ医師の資格も奪われる。シャ ルロッテは絵の裏に書いている。「政府の要職を占めている仕事のできるユダヤ人、彼らは通告 なしに解雇された」と。シャルロッテが通うことになった総合芸術大学校の担任教授は妻がユダ ヤ人ということで職を追われ、ファシズムに反対する教授はナチスの秘密警察(ゲシュタポ)に 監視されるようになった。学校ではユダヤ人学生への嫌がらせが強まっていった。ナチスは、印 象派、表現主義、ダダイズム、合理主義など、ほぼすべてにわたる近代美術や近代の音楽、建築 などをドイツ文化と社会を退廃させるものとして攻撃、廃絶対象にし、少なくない画家、音楽家 が強制収容所に送られ命を絶たれた。総合芸術大学のカール・ホーファー、オスカー・シュレン マー、エドヴィン・シャーフといった著名な教職員が次々罷免された。 プロイセン芸術院(芸術 アカデミー)文学部ではナチスに反対するトーマスマン・などの小説家・詩人が追放され、ドイ ツ各地で社会主義関係の書物、ハイネ、レマルク、ブレヒト、ケストナーなどの書物を「非ドイ ツ的な著作物の焚刑」の名で焼き捨てたのである。
ベルリン市立歌劇場の支配人クルト・ジンガーは職を追われたが人脈を使って「ドイツ在住ユダ ヤ人文化連盟」設立の承諾を得る。ユダヤ人文化人の飢渇をしのぐ道を探り、国際的友人、亡命 した学者たちの様々な知恵と力を借り、工夫を凝らしユダヤ人文化人の海外脱出の便宜をはかっ たのであった。父アルベルト、妻のパウラはこのネットワークで重要な働き手だった。
絵・ナチスにおもねて文化協会を設立することを逡巡するクルト・ジンガー。
下・1933年ヒトラー政権獲得を誇示するナチス突撃隊のデモ行進(省略*)


 〜3〜
息詰まるようなナチスの迫害の中でもアルベルト家と友人の間では様々な文化人が集まり交流を 重ねていた。物理学者のアルベルト・アインシュタイン、神学者でオルガにストのアルベルト。 シュヴァイツアー、画家のゲーテ・コルヴィッツなどが顔を見せては政治や今後の世界について 話し合っていた。
そしてこの時期シャルロッテの前に若い男性があらわれる。母パウラのオペラコーチとして雇わ れたアルフレード・ヴォルフゾーンである。ヒトラーの迫害で公共の場で演じることができなく なったユダヤ人芸術家を救済するユダヤ人芸術家支援協会からパウラのところに送られてきた青 年である。労働証明書がなければ即国外退去か収容所に送られる危険があるためパウラが正規の 合唱団員に加えたのであった。彼は声楽教育者であったが絵にも関心がありシャルロッテの絵を 初めて評価した人物となった。「人生?または劇場?」の中にヴォルフゾーンが集中して登場す る時期がある。シャルロッテにとって頼れる助言者でもあり、あこがれの男性であり大切な人と なった。シャルロッテ21歳の青春である。
絵 上・下 シャルロッテが心を寄せたヴォルフゾーン(省略*)
ナチスの迫害が強まりシャルロッテ一の家は父アルベルト・サロモンが逮捕されザクセンハウゼ ン収容所に入れられる。レジスタンスの力を得てかろうじて救出されたがもはや寸刻を争って身 を隠さなくてはならない状況に迫られていた。その頃のサロモン家の話題は亡命のことだけに終 始するようになっていたという。そして家族は父アルベルトと母パウラがオランダに身を隠し、 シャルロッテは南フランスの保養地に祖父母を頼ることになった。1940年7月、保養地ヴィ ルフランシュに滞在していた祖父母の友人のアメリカ人オッテイリィ・ムーア夫人の別荘の一隅 の小屋を隠れ家にして息を殺して暮らすことになる。
「人生?または劇場?」の制作はこの隠れ家で着手された。「昼夜を問わず、ほとんど睡眠も食 事もとらず絵筆を握っていた」という友人の証言もある。ドイツが西ヨーロッパに侵攻開始。フ ランスが降伏し南フランスはドイツと同盟を結ぶイタリア軍に占領された。「ドイツ人住民はす べて即刻、市ならびに県から退去しなければならない」との布告が出されイタリアの秘密警察は ゲシュタポと共謀して密告者に褒章を与えてユダヤ人狩りを拡大していく。一刻の猶予もない、 文字通り“生き急ぐ”中での創作であった。
「人生?または劇場?」の最終章は祖父母との厳しい生活が多くを占めている。年老いた祖父母 には理解しがたい現実だった。祖母は神経衰弱になって自死、祖父もやがて失意の中で息を引き 取りシャルロッテは隠れ家に一人残された。
ここで、シャルロッテは夫になるアレクサンダー・ナーグラーと出会う。ムアー夫人の別荘で働 く誠実なオーストリア人でアメリカに帰国したムアー夫人の別荘の管理をしていた。助け合って いるうちに双方に愛が芽生え、二人は1943年5月正式に結婚式を挙げるのだがその4ケ月後 の10月7日、隠れ家にゲシポが踏み込み二人は引きずり出され直ちにアウシュヴィッツ収容所 に移送されたのだった。その時シャルロッテは妊娠4か月。1943年10月12日、到着した その日ガス室で生涯を閉じたのである。
絵 シャルロッテ「神様、どうぞ私の気を狂わせないでください」
絵 亡命の話ばかりになったサロモン家。(省略*)
            〜4〜
   画集を手にして私は描かれているテーマの多様さ、全く形にとらわれない自由な表現に驚かされ た。時にはルドンのようにまたドイツ表現主義のココシュカ、キルヒナーのようにそしてシャガ ールのようにテーマに従い自在に画面を構築し筆を走らせている。シャルロッテが芸術大学に通 い始めたころドイツ美術は印象派の次の新しい波が怒涛のように押し寄せ渦巻いていた。ベルリ ン、フランクフルト、ドレスデンなどでは新しい波頭に立つ美術家が相次いで個展を開き美術界 の刺激となり、その後のナチスに追われるマックス・ベックマン、オットーディックス、カール ・ホーファー、カンディン・スキー、パウル・クレーが主要な都市の美術アカデミー(大学)の 教授であり、20世紀のインダストリアルデザインの苗床となったバウハウスが開校していた。舞 台芸術でもブレヒトなどが新しい舞台を創り上げて大衆が喝さいを叫んでいた。またこれらの動 きにナチスが苛立ち露骨に対決するなどこの時期、ドイツの文化状況は、進歩と享楽と絶望がな いまぜになった空気に満たされていたのであった。
シャルロッテがこれら美術史に名を残す作家と作品にどう向き合ったかとなるとそれはわからな い。なぜならシャルロッテが絵を描きだしたときはすでにこうした作家と作品はヒトラーによっ て「退廃芸術」の烙印を押され追放されはじめていたから。しかし総合芸術大学の美術関係の書 籍は奇跡的にナチスの「焚刑」を免れていた。シャルロッテの最も多感な時期、時代の暗転のき しむ音と共にこうした空気に包まれていたことは十分考えられる。これらの書籍を開き時代の先 端の作品に触れていた可能性も十分にある。
しばしば登場する連作はさながら映画作りの絵コンテのようだ。すでに映画は庶民の生活に浸透 していた。 情景を遠ざけたり部分をアップしたり明らかに映画の技術が取り入れられている。ま た、時には文字がびっしり書き込まれただけの作品がある。文字も美である、絵と文字をこれほ ど合体させた作品を私は知らない。日本の文人画のそれとは違う、生を伝えるための記号とし て文字は刻まれている。シャルロッテには文字と絵画の境界はなかった。1960年代日本で人 気を博したベン・シャーンのレタリングと同様、美しい。そして強い。
絵・映画の絵コンテのような連作。↑/下・文字が描きこま れた作品も多い(省略*)

画集では見ることができないがそれぞれの作品の裏にはシャルロットのその時々の思い、インス ピレーション、登場人物の台詞、その場面にふさわしい音楽が書き込まれているという。シャル ロッテの作品「人生?あるいは劇場人生?」は表現も色彩もさらには文章で挿入されている音楽 も閉ざされた現実の中に生きる彼女の心、すべてだったのである。
シャルロッテの作品を詳細に分析したユダヤ歴史博物館のエディユス・C・E・ベラフォンテ館 長が「人生?あるいは劇場?」を「一種のミュージカルである」と述べている。シャルロッテは 制作中常にクラシックの音楽をメドレーで口ずさんでいたという。 1988年日本で催された「シャロット・サロモン愛の自画像展」の図録の「コレクションの歴 史」は次のように述べている『シャルロッテ・サロモンの作品は過去を主題としている。「人生? あるいは劇場?」は個人的で、自伝的な性格なため人々はしばしば日記という定義をこの作品に あたえている。とりわけその第一印象として、彼女の作品はアンネ・フランクの日記にも比べら れる。しかし、これは少女の持つありのままの率直さと熟達した芸術家の創造性とを比べること になり、両者にとっても不相応であろう。
14歳のアンネ・フランクは地下に潜伏する生活の中で起こる日常的な心の問題を記述している が、抗することによって彼女は、耐え難い緊張感を緩和しようとしたのであった。シャルロッテ・ サロモンは「人生?あるいは劇場?」に着手したとき、23歳であり、彼女にはすすでにベルリ ンの芸術大学で受けたかなりしっかりした芸術家としての訓練がそなわっていた。
アンネ・フランクの場合とは異なり、彼女の少女期はその現在でなく過去であった。すっかり無 意味になってしまった彼女の現在を今一度意味を与える一つの方法として取り扱っているのであ る。」(アド・ベーターゼン)

                  終わりに
これは一冊の画集から始まったユダヤ人芸術家シャルロッテ・ソロモンと私の心の会話でもある。 画集の絵の数は大小1000点に近い。「人生?あるいは劇場?」のほぼ全てと思われる。語学 がほとんどダメな私にとって絵が持つ力を今回ほど感じたことはなかった。シャルロッテ・サロ モンの展覧会はオランダに始まりドイツ、アメリカと巡回して1988年秋に日本で開催された。 幸い手に入った日本語版の図録がこの拙文を書く上で力を発揮した。そこに記されたシャルロッ テにまつわる断片を手掛かりにまとめたものであるが、シャルロッテが絵に書き込んだ言葉と文 字はほとんど訳せず、残念ながら圧倒的部分が絵柄と色などに加え日本語の図録で想像を膨らま せるしかなかった。図録に記されているユディス・C・ベラフォンテユダヤ歴史博物館館長はじ め執筆者の諸巻頭文がなければこの本は生まれなかった。執筆者の方々に心より謝意を表するも のである。日本においてシャルロッテ・サロモンの研究はほとんどなされてない。それは「人生? あるいは劇場?」が完結した連作であるということと、これ以外の作品が極めて少ないことによ るものと思われる。シャルロッテの作品はオランダのアムステルダムにあるユダヤ歴史博物館が 管理していると聞く。ぜひ日本でも本格的な研究がなされ多くの人が手にすることができる画集 が生まれることを期待したい。

シャルロッテ・ソロモンを思い起こすことの私にとっての動機はもう一つある。それは、戦争を 放棄した日本国憲法九条を指して「憲法改正が私の歴史的使命」と公言してはばからない安倍政 権のもとで、日本の侵略戦争に対する反省をないがしろにする空気がにわかに強まり、それを助 長するような形で首相の靖国神社参拝が行われ、憲法改正論者の国務大臣が「ヒトラーは、民主 主義によって、議会で多数を握って出てきた。選挙でドイツ国民はヒトラーを選んだ」と公言。 首相自らが憲法九条を葬る集団自衛権解釈について内閣法制局を差し置いて「憲法解釈の最高責 任者は私だ」と国会で言い放つ今を、芸術と人の命で見据えシャルロッテの無念に心を寄せたい と思ったからである。
写真・右上・2014年11月9日、多数のユダヤ人が迫害された「水晶の夜(クリスタルナハト)」 から75年になるのに合わせて8日、ユダヤ人従業員を強制収容所移送から救うためにたたかった オットー・ワイトさんの元工場(ベルリン)を訪れその英雄的ヒューマニズムを讃え署名するドイ ツのヨアヒム・ガウク大統領。(AFP11月9日) 下・シャルロッテが殺されたガス室の跡。ナチ スはアウシュヴィッツ収容所を爆破して証拠隠滅を図った。遠方に写る人物は現代史の学習のため 冬休みを利用して訪れたドイツの高校生たち(撮影・筆者2001年1月)。

[編集係・注] 図録からの引用の多かった前稿に、自分の考えを入れて完成させた、と著者より更新の 要請がありました。図版11点を採用していますが、当電子版の事情により7点を掲載し、4点は(省略*)しま した。