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アドラー心理学(個人心理学)って?

日本ではあまり知られていませんがフロイトやユングと同時期に活躍した
オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラーが創設した心理学です。


勇気付けの心理学と言われています。 

教育や親子関係といった対人関係に特化しています。
実践的に具体的な援助をするのに有効な心理学です。
(育児・教育がアドラー心理学の中心として位置付けられているからです。)

基本的な考え方

罰する・叱る誉めるということ(賞罰)を否定します。
罰しない・叱らないと、さらには誉めてもいけないと聞くと、えっ!と思う方も多いでしょう。
そのあたりはあとで説明します。

間関係を横の関係として捉えています、相互尊敬・相互信頼が根底にあります。

人間は究極的には良い意図に基づいて行動すると考えます。

目的論

目的論とは、何のためにするのか?その目的は?どうしたいのか?と考えます。
例をあげるなら、保育園にきた子どもが泣いて暴れるといったとき、一般的に浸透している原因論では、どうして暴れるんだろう、弟が生まれて不安定なのでは?今日は具合が悪いのでは?朝怒られていたから不機嫌なのか?といった原因を考えますが、目的論では何のために暴れているのか?そのことによってどうしたいのかと言った目的を考えます。

人は原因によって後ろから押されて生きているのではなく、目的に向かって進んでいくものという考えかたです。

感情を例に考えるなら、ついかっとなってしまって子どもを叩いたというのが一般的ですが、子どもを叩くためにかっとなったと考えます。
感情が原因で行動が結果であるとは考えないで、感情をある目的のために使うと考えます。

精神的な健康

愛する人がいる。そして愛されていると感じられていること
私を理解してくれる友がいる・一緒に過ごせる仲間がいる・一人ぼっちではないと感じられること。
やるべき仕事がある、自分の役にもたっているが他の人の役にも立っている(ボランティアでも掃除をしたり勉強したりすることでも含まれます)

この三つのことを満たしていれば精神的に健康だと考えます。

この三つのうちのどれかが欠けると、「私は役に立たない人間だ」と感じたり、「私には、私を理解したり、一緒に過ごす友人がいない」と感じ孤独に陥ったり、あ るいは「私を誰も愛してくれない」とか「嫌われている」と感じたりすると、精神的に不健康な状態に陥っていき、自罰的になったり、他罰的になったりしま す。

共同体感覚

アドラー心理学で大切にしている価値観です。
精神的な健康にも書かれている、部分を言葉にした、共同体への所属感・信頼感・貢献感等の総称のことです。

共同体この部分を見ることが、精神的な健康のバロメーターとなっています。

私の場合職場が保育園なので、すぐに思いつくことが子どものこと何ですが、、、
たとえば、クラスの中でとくに理由もなく非協力だったり、不適切な行動を取る子がいたとしたら、共同体感覚が低いと言うことになります。
それが悪いと言うのではなくて、精神的に不健康な状態、それゆえにそういった不適切な行動を取っていると考えます。
そして、その不適切な行動は、周りにとっても本人にとっても良い結果を生みませんから、解決していくには共同体感覚を育てていく。(所属感・信頼感・貢献感など)、、、と考えていきます。

これだけ聞くと、難しいですが、ようは、

○自分は必要とされているんだ 
○信頼されているんだ
○所属しているんだ(仲間なんだ)
○役にたっているんだ

と言った感覚のことで、自分を肯定できる感覚を育てていく(※勇気づけていく)と言うことにつながっていきます。

勇気

勇気と聞くと恐れない・何かすごいことをするといった感じがありますが。
アドラー心理学では、リスク(危険だけでなく、不確定な要素など)を引き受ける能力・困難を克服する能力・協力する能力の一部のことです人ごみで大声で歌ったり・高いところから飛び降りたりなんてものは勇気ではなく蛮勇(勇気の無い人がさもあるように振舞うこと)です。

この勇気というのが、アドラー心理学の中では大切なのですが、現在勇気の欠けている大人・子どもが日本では増えていると言われています。

では、勇気に欠けているとどうなるのか?虐待・DV・いじめ・不登校・非行などの問題行動は勇気に欠けているために起こるとしています。

ではどうしたらよいか?本当にそれだけが原因なのか?といった疑問も出てくるとは思いますが、それも後で説明します。


また、勇気に近いこととして自己受容があります
(慢心や自惚れとは違います)。

あなたは自分に欠点があってもYESと受け入れますか?また自分にいいところがあってもNOと否定しますか?

こう聞かれたときあなたはどうでしょう?

自己肯定感といったほうが分かりやすいかもしれませんが、自分のことを好きでいられる。
存在を否定しない(ありのままの自分を受け入れている)。
そのことを、アドラー心理学では勇気のある人と言います。

自己受容ができていると、他者のことも受け入れることができ。他者との関係が協力的になります。

劣等感

劣等感とは、主観的に自分のなにかが劣等だと感じること。
他者との比較よりも理想の自分(こうありたいという目標)と現実の自分とのギャップを感じたときに抱く陰性感情のことをいいます。

もともと持っているもの、背が低い・視力が低いといったものもは劣等性といいます。

勇気に欠けた現われとしての強い劣等感・劣等感コンプレックスがあります。

劣等コンプレックスとは、自分が劣等であると言って取り組まなければならない課題を避けようとすることです。

劣等感は全ての人が持っているもの。しかし、病気ではなく。むしろ健康で正常な努力と成長への刺激であるとアドラーは言っています。

自己決定性

人は劣等性・劣等感の対処として自分の主体的な意見で建設的にも非建設的にも、どちにでも自己決定できるということです。

同じ状況・環境でも人それぞれ違う行動をとり、違った結果になりますよね。

アドラー心理学の重要な要素で
自分は運命の犠牲者と嘆くのでなく、自分は運命の主人公と考えます。

適切な行動・不適切な行動

行動を、適切であるか不適切であるかと考えます。
適切な行動は説明するまでも無いとは思いますが、そうすることが良いと思われる適切な行動のことです。

不適切な行動と言うのは、悪いことや問題行動など、不適切なもののことです。
定義としては、他者(自分も含めて)に対して迷惑がかかる行動のことを言います。

逆にいうと、不適切な行動は迷惑だと思わなければ不適切でなくなると言う特徴もあります。

例として、大声で話すと言うのは電車や図書館では迷惑ですが、山の中や大平原だったら悪いことではないですよね。

ライフスタイル

個人の習慣・考え方・行動パーターンなどの総称をライフスタイルと言います。
ようは、性格と言ったものなのですが、性格というと変えられないものといったイメージが強いので、そうではなく、一つの生活のスタイルであると考え。
ライフスタイルと呼びます。

課題

権利とともにその裏にある責任を重視します。
コインの裏表のように、権利には同じだけの責任があります。

まず問題を誰の課題であるかと考えることから始まります、そしてその課題には他人は口出しをできません。

誰の課題であるかというのは、誰が最終的にその問題の責任をとるかということです。

たとえば、喧嘩をする・朝起きない・宿題をしない。なんてもの、
それらは、こちらから責任をかぶりに行かない限り、困るのは自分ですよね。

子どもだからと責任を取ってしまうと、その子はそこから学ぶことを取ってしまうことにもなります。
子ども(相手)の可能性を信頼することが大切です。

ただ、取れる責任の度合いによる限度はありますけどね。明らかに重大な結果を引き起こす場合は相手の課題だからと何もしないというのは問題です。

相手一人の課題でない、こちらにも迷惑がかかると言う場合は、共通の課題とすると言うことで一緒に考えていくことが出来ます。

言葉だけだと分かりにくいかもしれませんが、詳しくはSMILEなどの講座でロールプレイなどを通して体験するとかりやすいです。

勇気付け

勇気付けとは、相手(自分も含めて)を勇気付けるということです。
勇気付けの心理学とも呼ばれるように、これも大切な要素で考え方の基本になっています。

それにはどうしたら良いか、
まずは@勇気くじきをしないと言うこと、勇気くじきとは勇気付けとは逆で、相手を否定したり・攻撃したりすることによって、相手の勇気をくじくことです。

A相手に勇気付けをする(ここでも誉めると言うことの一部は勇気くじきになります、どうしてかは後に書きます)
相手のことを認める、感謝する、共感する・・・といった事でしょうか、私も今一どこまでが勇気付けなのかが時々悩んだりするんですけどね。
採取的には、相手がどう取るかによっても変わってきます・・・

勇気付けは結果ではなく、行為そのものに正の注目をする。
人間は究極的には良い意図に基づいて行動していると考えるため、失敗したり、悪い結果に対しても勇気付けることができます。

勇気付けをすると、相手だけでなく自分も勇気付けられます。

勇気付けをする上で、一番大きいのは相手との関係ですね。
この、相互信頼・相互尊敬の横の関係が気付かれている中でのアプローチが勇気付けといえると思います。

叱る・誉めると言うことがどうしていけないか?

叱る(怒る)・誉める(褒美をあげる)と言う行為、どこからどこまでがそうなのかと言うと、人によって線引きが違うのですが。
ここでは上の立場から下の立場のものに対してする行為・結果に注目する行為のことです。

叱ると言うのは負の注目です、叱られて良い気分のする人はそうそういないと思います。
むしろ叱られるとやる気が無くなると思います。
理不尽な(自分は良いことをしたと思っているときに)叱られ方をされたら、納得もいきませんよね。

一番の問題は、叱られたことで問題の責任があやふやになるということです。

例として、学校なり職場に行くときにあなたが忘れ物をしました。そのことを家に帰った親に「寝る前に準備しないから!」「何をやってるのまったく!」「忘れ物をするのは気が抜けてるから!」なんて言われたら、
次から忘れ物をしないようにしようと言う思いより、「どうしてそんな事言われなきゃいけないんだ!」「そこまで言わなくても・・・」など、本来なら忘物をして困ったことによって次どうしようと考える所を、言った人に対する文句やその人の責任に摩り替わってしまうと言うことがおこります。

よく、「言ってくれなかったから忘れた!」「どうして言ってくれないの!」と言ったことを聞きませんか?
これらの責任は本来言ってくれない人がいけないのではなく、本人が取るべきことです。
ただ、この責任を取ると言うのは勇気がいることです。
そのためにも、勇気をくじかない、勇気付けるということが必要になってきます。

誉めると言うのがどうしていけないか?勇気付けになると思われる方も多いですが、誉める(賞)と言うのは結果に対する行為です、その結果が成功しているうちは良いのですが、失敗した場合には逆の意味になって帰ってくるため勇気をくじきます。

たとえば、「お手伝いして偉いね」「ちゃんと勉強し良い子だね」と言うのは、
お手伝いをしないのは偉くない子、ちゃんと勉強しないのは悪い子、といった裏のメッセージも相手に伝わります。
また、褒美と言うのも誉めると同じような意味を持ちます。

そして、この誉めると言う行為は、誉める人の価値観によって同じ行動でも評価が変わります。

その結果として、良い結果(誉める人にとって)を出せるうちは誉められるために努力をしてがんばるかもしれません。
しかし、自分の力では良い結果(誉める人にとって)が出せないと思ったとき、誉めてくれないと感じたときは、初めから努力をしない(なぜなら誉められないから)と言う結果も生まれます。


さらには、期待に添えないと思ったときに逆の事をして気を引こうとすることもあります。

自分を良く見せるために(良い子であるために)常にエネルギーを使わなければいけないって、悲しいですよね。
ありのままの自分を出す(自己受容)と言うのにも勇気が必要です。