闇の記憶、記憶の闇 - 江尻 潔
根源的記憶とは何か。私たちはときとして奇妙な感覚に襲われることがある。初めて行った場所であるにもかかわらず懐かしく思ったり、夢で見たどこにも存在しない場所や人物を実在のものと感じたりする。記憶は夢はそのようにあいまいなものだと言ってしまえばそれまでのことなのだが、そこにはなにか秘密が隠されているように思えてならない。
昔、ギリシアの詩人たちは「記憶」をたよりに試作していたという。詩神ムーサイはゼウスと記憶の女神ムネモシュネーが九夜引き続いて交わり生まれた九柱の女神であり、「ムーサ」という名にも「記憶」という意があるという。彼女たちは詩人に霊感を与える泉を護る。詩人たちはその泉の水を飲むことにより「記憶」を呼び戻しことばにした。この場合の「記憶」は日常生活におけるそれではなく、日常生活の埒外の深いところからわき出てくる、その事態が見ている夢のような根源的なものであろう。
それは詩人が個として生まれ出る以前から存在し、彼が生を終えた後も持続する。詩人はその根源的な記憶を得るため生まれ出る以前から存在し、彼が生を終えた後も持続する。詩人はその根源的な記憶を得るために自らの内面にも「井戸」を穿つ。その「井戸」は深く精神の地下水脈に通じ、それを辿って過去にも未来にも至ることができる。ムーサイの泉の水はその「井戸」のいわば呼び水の働きを持つものなのだ。この根源的記憶は詩人だけが持っているとは限らない。現にわたくしたちは先に述べた「奇妙な感覚」をすでに引き起こしている。---
清水晃の一連の作品は上述した日常生活の埒外にある「記憶」に根差していると思われる。彼は60年代反芸術の旗手として世に出るが、初期の三つの作品<レクリエーション><ガイドブック><ブラックライト>はすでにその萌芽が見受けられる。これらの作品は、1962年村松画廊で開催された第二回個展でともに発表されている。まず、<レクリエーション>は「夢」への目配せが見て取れる。この作品は巨大な時刻表の上にベットをしつらえ、そこに逆さまに鳥の刺繍の首を突っ込ませたものでラウシェンバーグの影響が見受けられる。
しかし、この作品で重要なのは何よりも「眠り」である。ふとんに頭を突っ込んだ鳥はその下に眠る夢見の主の夢を啄み外部へ引きずりだそうとしている。夢を捕え意識したいという作者の思いが読み取れる。作者に聞いたところこの鳥は小型の鷹で水中の魚を捕えるという。水は様々なものの比喩として捉えることができる。それは無意識の世界であり、眠りの状態でもある。私たちは覚醒時、自我の意識に囚われ私たちの内に潜む他の諸々の意識(=潜在意識)に耳を傾ける余地はほとんどない。しかしその微弱な潜在意識が自我の意識を凌駕して現れ出るときがある。
それは夢見の状態に他ならない。日常生活によって押し込められた様々な思い、さらには私たちが生まれ出る以前から引き継いでいる太古からの「記憶」が解放されるのはまさにこの夢の中においてである。この鳥はいわば闇の中にあるものを意識の光のとどくところまで持ち出したいという清水の意思の現れでもある。よって眠っている人物もまた作者自身なのだ。しかし、ここではまだ「水中」からいかなるものを捕えたのか明示されていない。それは後に続くコラージュや、<漆黒から>シリーズに数多く見受けられる釣針を予告するものと見なせる。
<レクリエーション>と同時期の作品に<ガイドブック>がある。これは5万分の1の地形図に女性のヌードグラビアをコラージュしたものである。地形図は海岸性を含むものか鳥嶼に限られている。これらの作品は96年まで手を加えられ制作当初とは趣を異にしている。針金や鎖等、<漆黒から>で使用される素材と同種ものがコラージュに取り付けられたのだ。しかし、主題は一貫している。それは異質なもの同志の出会いである。
地形図の無機的で感情移入しがたいものと官能的で感情をそそるヌドグラビアを一つに重ね合わせ、両者を融合させたり衝突させ日常には存在しない異次元を立ち上げようとしている。後に付け加えられた「異物」はこの異次元を荘厳する飾りの役割を果たしている。この作品に見受けられる異質なもの同志の融合あるいは衝突はのちの作品ではより根源的な姿(たとえば水と火、玉と剣等)をとって現われる。
もう一つ初期の作品で見落としてはならぬ重要な作品がある。同じく第二回個展で発表された<ブラックライト>である。これは身近な廃棄物に燐光塗料を撒き散らし、それらに紫外線(ブラックライト)を照射してガラクタを極彩色に輝かせ変貌させるものである。燐光塗料は普通の蛍光灯の光では発光しないためタイマーで傾向とブラックライトを交互に切り替わるようにしておけばガラクタがたちどころに妖しく光り輝き全く異なる光景が立ち現れる。ここにはガラクタをガラクタとして捉えない清水の目配せ、ありふれたものを異化し語らしめるという彼の意図が潜んでいる。
さらに蛍光灯を覚醒時の意識、ブラックライトをもう一つの意識、すなわち眠りの中ではたらく意識として読み取ることができるならばこの作品は夢の中での出来事を主題としている。つまり、日常生活を送る自我意識でそのものを見た場合ただのガラクタにすぎないが、私たちの心の奥底に潜む潜在意識で見たときただちに悦ばしげにかしこを彩り、妖しい深海の風景にも似た「景色」が出現する。---これは清水がもう一つの「視覚」を手に入れたことに他ならない。この視覚こそ「夢」や」「根源的記憶」を見る力なのだ。いうなれば外部に開かれた肉眼にたいする「内なる目」なのだ。
図録 「清水晃」掲載 [総論] 闇の記憶、記憶の闇 - 江尻 潔氏(足利市立美術館学芸員)の評論より抜粋
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