清水晃と反芸術
58年に金沢美術工芸大学洋学科を卒業後すぐに上京した清水は、一旦横浜の鶴見を経て川崎市尻手に住まいを定め塗装業や日本電子の下請工場で働きながら、銀座の画廊巡りをしていた。
東京に基盤をもたず、工場で働きながら制作活動を続けていた清水にとって、読売アンデパンダン展は同世代の作家と交流を得る「場」として有効であった。同展を通じて中西夏之、篠原有司男、谷川晃一さらに九州派の風倉匠らと知遇を得た清水は、元ネオ・ダダ派の作家たちやハイ・レッド・センターの中西、赤瀬川原平らとともにグループ展に加わることもしばしばであった。
参考: <光>をもとめて −60年代の清水晃−(清水晃カタログ 2000) 富田智子氏 (三鷹市美術ギャラリー学芸員)
川崎の埋立地にてポストを背負う清水 (1965年頃)
清水は<ポスト>を背負って盛り場を歩いたり埋立地や野原にそれを設置した。当時盛んに繰り広げられたハプニングにも通じるこの一連の活動は、「幼い日に見た故郷富山の空襲の焼野原にポストだけがぽつんとたたずむ光景が脳裏に焼きついていたのではないか。」という彼自身の原体験から発している。ポストが一人歩きしているように見えるこの写真はなんともユーモラスでもあり悲哀も感じられる。後年も、ゆがんで閉じ込められたポスト、真っ黒なポスト、断面だけが存在し、美しい鳥と花々が出会うポストなどさまざまなポスト制作を手がけている彼にとって<ポスト>は生涯の重要なデーマだ。その奥底には戦争を味わった者としての”のっぴきならない”思いが込められている。
<ポスト>製作中 (1964年頃)
1950年代末から1960年代の米国で盛んに試みられたネオダダは既製品やそのイメージの使用、またその結合により伝統的な芸術や美の概念を覆そうというねらいがあった。清水の<ポスト>の制作も当然これらの活動と無縁ではないだろう。1960年から川崎の尻手駅近くにある日本電子の下請工場に住み込みとして働いていた清水は、夜はその2階で制作活動を行っていた。大量生産文化を担う工場の一部屋で生活をするということ自体が芸術活動であり、さまざまな工業製品や部品とその”匂い”の中にヒントを得た彼は、<ポスト>を作り上げていく。清水は工場の2階でさまざまなバリエーションの<ポスト>を制作していくうちに、やがて居住空間が侵食され、しまいにはポストの群れに囲まれたわずかなスペースで寝起きするような状態であったという。
ポストに囲まれて食事 (1964年頃)
外に置かれていた<ポスト>には毎日十数人の善良な市民が手紙を中に入れてしまい、そのたびに清水は本当のポストに手紙を投函しに行っていたという。現代では考えられないようなエピソードであるが、この善良なる市民たちをも巻き込んでしまった一連の<ポスト>に関わる活動は、埼玉県杉戸町への移住をきっかけに収束する。新居に入りきらないポストオブジェのほとんどは、東京湾岸に運ばれ、清水の手により焼却された。
<メリーさんメリーさん>製作中、篠原有司男(手前)とともに 1967年7月
清水は内科画廊で開催された「メリーさんメリーさん展」に<反芸術イベント電車>を出品した。このイベントには篠原有司男、小島信明、清水が参加している。ちなみにこの展示が行われた内科画廊は63年ハイレッド・センターの第6次ミキサー計画で幕を開け、多くの現代作家の実験的な場として注目を浴びていた。清水にとっても、内科画廊での展覧会は「不在の部屋」展にはじまり、読売アンデパンダン展終了後の主要な拠点となっていた。内科画廊で行った展覧会のうち、グループ展を含めて6回という清水の参加回数は、篠原有司男の8回に次ぐ数字である。
参考: <光>をもとめて −60年代の清水晃−(清水晃カタログ 2000) 富田智子氏 (三鷹市美術ギャラリー学芸員)
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