漆黒から、漆黒へ(清水晃論のために) - 浅倉 祐一朗



東野芳明言うところの「反芸術」という括りで語られる1960年代から、土方巽と出会い、他社の認識を起点に自己の意識を覚醒するテクニカル・タームを、まさにターム(用語)として獲得した70年代を経て、自己のうちに自己を否定的に自覚する道を、数百の立体とドローイングに求めた<漆黒から>に至り、自己の履歴を意図的に開放し、波の間に間にそれらを所在なげに浮かべた90年代半ばからの作品まで、清水晃の作品を「記憶」や「原風景」というキーワードで自己展開且つ相対的に論じることは決してむつかしいことではない。

しかし、少なくとも今の私は、作者の立場に立つつもりはないし、作者の漕ぐ舟に乗るつもりもない。もう少し正確にいうならば、作者にならずとも、作者を船頭に雇わずとも、つまり作者と作品との実存的関わりにどっぷりと浸らずとも、私たちは私だけを頼りに、「清水晃の作品」を「作品」として生きることができるのである。

(注釈)たとえば以下のような清水の言から、私たちは如何様にも作品解釈の方向性や幅を持たせることができるのだが、清水の言そのものが一定限度内で尊重されなければならないのは当然としても、そこから創出される説明(作品との対応関係)に読み手としての私たちはどの次元で合点すればよいのか、ときに嬉々として受け容れてしまうことがあるからこそ、そこには方法論が持つまやかしと同様のものが見え隠れする。「(漆黒から」で用いた)漂流物もブラックライトのがらくたと同じように、あるよみがえりを求めているのです。 それは僕の意識とどこか同じように置き去りにされたものかもしれない。僕は美術家という意識はなくて、その置き去りの感覚、それは時間、空間を超え、自分の中にも外にもある空白感を埋めることで精一杯なんです。」インタビュー「清水 晃 黒のかたち」、スカイドア、Comtemporary Artists Review, no7,1992

私は60年代70年代と、清水晃に追い着き追い越し追い越されした時間ののち、80年代以降の(つまり<漆黒から>以降の)彼の作品にたどり着いたわけではない。60年代前半の作品以来、言ってみれば30年以上の(作品上の)ブランクを経て<漆黒から>に出会ったことになる。そこからあらためて60年代に遡り、90年代とのあいだを、正確に言えば62年の<リクリエーション>、<ブラックライト>、<ガイドブック>から99年の<花々の抜糸>までのあいだを、幾度も往復したことになる。点と点を強引に結んで線にするつもりはないのだが、その経年の展開が、ギシギシと不自然で機械的な音をさせることなくこちら側に届いてくることに私は驚いた。 暗雲垂れ込め風は強く、水平線には稲妻が走っているというのに、舟は日曜日の公園のボートのように揺らいでいるだけである。

現在進行形で作品に向き合う場合と、ある一定の地点から、私がそうしたように視線を往復運動させることとは当然異なる。現在進行形で眺めて来た作品をあらためて回顧する場合もやはりそうであろう。私が清水晃の舟を追わなかったのは偶然だが、果たして追っていたとしたならば<漆黒から>に気づいていたかどうかわからない。直線になり得る幾つかの点の集合は、あきらかに幻想であったとしても、近似値という名目で形成される幾分太い直線に絡み取られ、私たちはもとより当の作者本人にも隠された履歴になってしまうことが多いのである。



図録 「清水晃」掲載 漆黒から、漆黒へ(清水晃論のために) - 浅倉 祐一朗氏(現 三鷹市芸術文化振興財団・三鷹市美術ギャラリー 副館長)の評論より抜粋


© 2014 Akira Shimizu. All rights reserved. このページに記載してある記事及び写真の無断転載及び使用はお断りします。