ハイテク昔話 「第1話」 2000.09.27



文字が小さい場合は、ブラウザの”表示”を変更して、文字を大きくして下さい。



このサイトにアクセスして下さる方々は、圧倒的に若い(1948年生まれの私から見て)人が多いと思います。そこで、パソコンが世の中に出てくる前から、普及する頃の極私的な経験を昔話風に紹介します。そして、それを通して、パソコン普及に伴って何が進歩したか、何が変わらなかったか、何か新たに問題になったことはないかを見極めようというページです。徐々に、量を増やしていく予定です。思い出した所から書きたい、項目は年代順に並べたいという二つの希望から、書いた順序がバラバラです。おまけに、量が増えるに伴って、記事が別のファイルに移動する可能性もあります。なるべく、掲載した日付を付けますのでご勘弁下さい。



計算機持ち込み可

私が大学に入ったのは1967年です。例えば、ドイツ語やフランス語の試験では”辞書持ち込可”のものがありました。理系の試験の中には、”計算機持ち込み可”のものがありました。”電卓持ち込み可”ではなく、”計算機持ち込み可”です。”計算機”とは何でしょうか。勿論、電卓というものは当時はまだありません。それは”手回し式卓上計算機”といい、金属製で事務機器風の色をしていて、幅は20cm強くらいで、断面は蒲鉾型をしています。右側にハンドルがついています。例えば、100÷8を計算する時は、ある場所に100を、別の場所に8を機械的にセットしてハンドルをぐるぐる回します。1回まわすと8が引き算されます。引きすぎると、チンとベルが鳴るので、ハンドルを1回逆回転させます。桁を1桁機械的に下げて、またチンと鳴るまでハンドルをまわします。これを繰り返すと割り算ができます。この”手回し式卓上計算機”は1920年代には既にあったようです。”計算機持ち込み可”の試験は、試験中は非常にやかましいものでした。

チンチンとうるさい計算機以外にも、”計算尺”というものもありました。原理は、二つの定規を使えば足し算や引き算ができますが、それ以外にも目盛りを工夫してかけ算や割り算もできるようにしたものです。 当時のエンジニアのイメージは、どこかのポケットから”計算尺”がのぞいているというものでした。私は高校生の頃から使っていた記憶があります。

三角関数や対数はどうやって求めるの?

電卓がないのに、三角関数や、ルートや対数はどうやって求めたのでしょうか。当時は表を見て調べました。例えば、丸善から出ていた対数表はB5版くらいの厚さ5cmくらいの本でした。関数電卓がない当時は、必要に応じていちいち本を見て調べました。

もう少し古い時代に複雑な計算をするにはどうしていたでしょうか。紙を使った手計算です。 例えば、レンズを設計する際には二人一組で計算する女性がいて、二人の計算結果が同じなら、その計算は正しいとして前に進みました。このような女性が、5,6組いて、計算をしていたようです。

コピー機事情

1969年卒論のため研究室に入りました。図書館には既にゼロックスコピー機がありました。その当時、コピーを取ることを”ゼロックスする”と言いました。コピー1枚30円から50円だったと思います。現在と比べて随分高いですね。しかし、コピー代は全額研究費から出たので助かりました。昭和20年代にはコピー機などなかったので、重要な論文は図書館へ行ってノートに手書きで写したそうです。

1970年の”データベース?”

コンピュータを電子計算機と命名したことから推察できるように、当時はコンピュータは文字通り計算を行う機械でした。今日のように、データを加工する道具という認識はなかったと思います。研究室という所は週に1度くらいはセミナーを行います。私の入った所ではセミナーの中身は2本立てでした。最初のパートでは、各メンバが幾つかの学術雑誌を分担していて、その雑誌を読んだ結果を目次のコピーを配布して紹介するというものです。その結果、一人では読み切れない範囲の情報を得ることができた訳です。これが当時の”データベース?”の限界でした。現在では、インターネットで米国の国会図書館にアクセスし、キーワードの組み合わせを工夫して最新の学術論文の題名やアブストラクトを読むことができます。

初めてのコンピュータ

1971年、私は研究生として物理学の研究室にいました。当時のコンピュータは本体はどこかにあり、有線で端末とつながっていました。端末が研究室にも設置され、自由に使って良いということでした。 そこで、使い方の講習を受けました。当時は当然市販ソフトなどなく、科学技術計算用の言語であるフォートランで自分で作ります。ソースプログラムは、タイプライターのようにキーボードから打ち込んで作るのでありません。当時、”プログラムは紙に書きました”。次いで、特別なカードに、鑽孔機 ( 古いねー ) で穴をあけ ( 1ステップで1枚使う )、最後のステップまで、パンチを入れます。それを、カードリーダーに読みとらせて、やっとコンピュータで実行できるようになります。当時、キーパンチャーという職業がありました。カードにパンチを入れる職業で、勿論、現在はそんな職業は存在しません。で、パンチカードの山を見て、面倒くさそうだなと思い、講習を受けただけで、コンピュータは使いませんでした。

初めての電卓

翌年、某W私大理工学部の大学院へ入学しました ( 大学院浪人をしていたのです。トホホ ) 。研究室に1台電卓がありました。大きさは、片袖の事務机半分くらいを占領していました。当時、液晶などはないので、フィラメントが数字になっている平たい電極が10個重なって、どれかに通電することで一つの数字を表示していました。簡単なプログラム、例えば、合計と平均を出すなど、ができました。記憶が定かではありませんが、国産品ではなかったようです。値段も、30万か50万円くらいだったと思います。すごいものができたと、感激して使った記憶があります。この年のしばらく後に、「カシオミニ」という電卓が発売されました。「答一発カシオミニ」の人気CMとともに、電卓が大衆化しました。

初めての液晶表示の腕時計

1974年、 “カシオトロン” という、液晶表示の腕時計が発売になりました。値段は8万円台後半だったと思います。時計屋のウインドウで見て、衝動買いしてしまいました。学生が、なぜ、そんな現金を持っていたかというと、たぶん奨学金が支給された後だったためと思われます。育英会の人、すいません。主任教授に見せると、面白がって喫茶店で1時間くらい見つめていました。それから、電車に乗って、吊革につかまっていると、非常に奇妙なものを見るように時計を見つめている人がよくいて、少し、得意な気分でした。みなさんもご存じのように、液晶時計の値段は、あれよあれよという間に下がり、現在では100円ショップで100円で買えます。その時計はどうなったかというと、数年後に壊れたので捨てました。値崩れに腹が立ったので、以後、腕時計は買ったこともはめたこともありません。



なるべく正確を期していますが、当時の資料が不足しているので思い違いや間違いがあるかも知れません。何かお気づきの点があればメールをいただけると助かります。メアドはトップページにあります。




/* (C) 2001- YFプロ. All Rights Reserved. */




トップページへ戻る

サイトマップ

ハイテク昔話の目次へ戻る

次の話




提供:C言語講座:それ自体コンパイルできる教材を使った講座です。