【0】プロローグ 「トリィ?トリィどこ?」 キラは大きく開いた窓から顔を出して、しきりに辺りを見回した。 少し目を離した隙にいなくなってしまった小鳥を探して。 「トリィ………どこいったの」 姿を求めるようにして差し述べられた小さな手。 その手首に巻かれている奇麗な緑色のリボンが、風に攫われてふわりふわりと翻った。 身を乗り出して上下左右と視線を巡らせても目的の姿は見当たらない。 周囲には緑の葉を茂らせている木々が多く、もし近くにいたとしても探し出すのは困難だと思われた。 「キラ、危ないから身を乗り出したらいけないよ」 背後から声をかけられて後ろを振り返ると、いつの間にか部屋に戻って来ていたらしいアスランの姿があった。 でも……と渋るキラの元に近付くと、アスランは重さを感じさせない仕草でキラをふわりと抱き上げる。 「下の階ならまだしも、ここから落ちたら大変だ」 間近でキラの瞳を覗き込みながら、次からはしちゃだめだよと優しく諭す。 過保護と言われるかもしれないけれど、キラは意外とそそっかしいのでアスランとしては注意を怠ることはできない。 「アスラン」 「ん……?どうしたキラ?」 どこか不安そうに翳ったキラの表情が気になってそう問えば。 「トリィ、いなくなっちゃった」 彼女は窓の外を見ながらぽつりとそう呟いた。 そういえば……と、アスランは少し前に旅に加わった小鳥の姿が見えないのに気付く。 いつもならキラの肩や頭に乗るか近くを飛んでいるか、とにかくキラの傍を離れようとしないのに。 そこでようやくキラの先程の行動の理由に合点がいって、アスランは小さく微笑んだ。 沈んだ表情を浮かべるキラを安心させるように。 「ああ、大丈夫だよ。ちょっと外に遊びに行っただけだから。少ししたらキラの所に戻ってくるさ」 「ほんと……?」 「本当だよ。だって、トリィはキラの傍が自分の居場所だってちゃんと知ってるから」 トリィは、ふたりがこの街にやって来る途中、小道を散歩していたキラが拾ってきた鳥だった。 傷を負って飛べなくなっていたのをどうしても放っておくことができずに、アスランに助けを求めてきたのだ。 アスランとキラの介抱のかいもあって怪我も回復したその鳥は、キラが何度空に放とうとしても自然へと帰ろうとせずにキラの元に戻ってきて─────。 それ以来、キラは小鳥をトリィと名付けて可愛がっている。 旅を続ける自分達がペットの類いを持つのもどうかとアスランは思ったけれど、離れようとしない小鳥と、何より戯れながら嬉しそうにしているキラを見て、それもいいかと思い直した。 キラのあんな笑顔が見られるのなら、と。 キラはあまり笑わない子供だった。 いや、正確には笑いはする─────とても控えめで消えそうな微笑みでなら。 ただそれは、キラが何かを嬉しく思ったり楽しく思ったりしたから出る笑顔ではないく、ひどく曖昧なものであって。 年相応の弾けるような明るい笑顔を見せることがほとんどなかった。 それは、彼女が今まで過ごして来た辛い環境のせい。 十三のまだ稚い少女が送るにはあまりに惨すぎる日々を、キラは送ってきた。 その日々の全てをアスランは知っているわけではないけれど、それでもキラに聞いた話やキラ自身に刻まれた体や心の傷跡に触れれば、いやでも理解せざるを得なかった。 それを思えば、出会った当初に比べ今は格段に良くなってきていると言えるだろう。 そういった事実があるから、アスランはキラに対して少々過保護になる。 人間の歪んだ欲望の前に晒され傷付けられてきた小さな小さな少女。 何があっても守ってあげると約束した。 キラを共に連れて行くことを決めたその時に。 もう二度と誰にも傷つけさせないと誓った。 近付くもの全てを怖がって怯えていたキラが、自分を受け入れてくれたその時に。 アスランがあてのない旅に出て、三年の時が過ぎた。 そして、アスランがキラと知り合って、もうすぐ一年。 まだ───ほんの一年しか経たないのだ。 深い深い傷が癒されるには、まだ少なすぎた。 それは、アスランにもいえることだったけれど─────。 まだ少し不安気に揺れる瞳にちょっと困ったように笑いかけながら、アスランはキラの柔らかな頬を優しく撫でる。 触れられることを極端に恐れていたキラは、けれども今ではアスランの温もりに安心して身を預けてくれるまでになっていた。 今も、猫の子のように気持ち良さそうに瞳を伏せている。 「トリィのことなら俺が保証するよ。だから、ね?そんな哀しそうな顔しないで」 「……うん」 やっと少し明るい表情を取り戻したキラを見て、アスランは腕に抱き上げていた小さな体をそっと地面に降ろした。 「ほら、お腹空いただろう?下に昼食でも食べに行こうか」 「うん」 そんなやりとりの後、パタンと扉を閉める音が無人となった室内に響いた。 階段を下りて行くふたつの足音が段々と遠くなって、消えてゆく。 暫くすると、開けっ放しの窓から鳥が一羽部屋へと入って来た。 鮮やかな緑色を纏った、珍しい小鳥。 然程広いとは言えない室内を何度かぐるぐると飛び回ると、その鳥は窓枠に降り立って何かを探すような仕草を見せる。 ピィピィと高い声で数回囀ると、何かを見つけたのか、突然羽根を広げて再び窓の外へと羽ばたいていった。 するとそれからほんの数秒語、キラの嬉しいような驚いたような声が下から響いてきた。 続いて、アスランの優しい声も。 『あ、トリィ!』 『ほら、言ったとおりだろう?』 『うん!』 その合間に聞こえる囀りも、どこか弾んでいるように聞こえる気がした。 王都から遠く離れた地方の街に、青年と少女ふたりで旅をする旅人達がいた。 青年の名はアスラン。 秀麗な顔立ちと育ちの良さを窺わせる物腰、そして類い稀な剣の腕を有している。 そしてそんな彼の横に常にいる、印象的な菫色の瞳を持つ少女はキラ。 少し片言な言葉使いと幼い子供のような仕草を見せるその少女は、とても旅慣れているとは思えない程に無垢だった。 明らかに普通の旅人とは異なる雰囲気を持つふたりは、地方の街を点々としていた。 あてのない旅。 そして彼等は今日も、新しい街を訪れる。 ここでの滞在が果たして一週間になるのか、それとも一ヶ月になるのか。 それは、まだ誰にも分からない。 アスランとキラの旅は、今日も続いてゆく。 終着点は……まだ、見えない。 |