【1】木漏れ日の中で








大陸の西方に、クライン王国という名の国がある。
昔から別名『緑の楽園』とも呼ばれる程に自然と資源に恵まれた国ではあったが、現国王であるシーゲル・クラインの治世の下にあっては尚一層豊かで平和な国となり栄えている。

クライン王国を構成するのは、王城を中心として円状に広がる王都メイフォリア。
そしてそれを囲む様にして広がる、ローランド、リマイラ、チェスタ、セイダリオン、イェルムといった五大諸侯が治める広大な各地方、そして更にはそのまた周囲にある辺境の土地。

クラインは、大陸でも一、二を争うほどの広い大地を有するまさに大国と呼ばれるべき国だった。


だが、大国であるということは、その分国の隅々まで目が届き難いということも意味している。
平和で豊かな国と讃えられていても、王都から遠く離れた地方都市では、整備された法律など名ばかりの無法地帯がいくつも存在していた。
そこでは、禁止されたはずの奴隷売買すらも今尚公然と行われているという。

王家はこの現状を憂いて何度も地方調査を行ってはいたが、調査によって発覚するものはほんの一部、氷山の一角でしかなかった。
その理由のひとつに、奴隷商人らに隠れ蓑を提供する地方領主───すなわち地方貴族の存在があるとされているが、確かな証拠がない以上王家としても踏み切れないのが実情だった。


ただそれでも、近年では大きな混乱も争いもそして他国からの侵略の恐れも存在せず、民を第一に考える有能な国家元首を有するこの国は、確かに平和だった。

これは、そんな国で起きたひとつの物語。

自ら全てを捨てた青年と、時代に全てを奪われた少女の物語─────。













此処は王都メイフォリアから遠く離れたゼタ地方にある小さな街。
特に名所や名産品があるというような特別な売りがあるわけでもないこの街は、人口三百人足らずという、街というには少々寂れた感のある場所だった。
けれども、華やかさや賑わいが欠ける分、人も土地も流れる時間すらもとても穏やかで優しい。



海で取れた魚介類を雑多に置いて売っている露店のテントを、キラはずっと物珍しそうに見て回っていた。
小規模な市場を何度も何度も行ったり来たり。
そして見た事もない魚を見つけるとそれをしきりに覗き込んでは、店の主人に色々と教えてもらっていた。
最初はアスランの後ろに隠れながらアスランと店主の話を聞いている事しかできなかったのに、もう今では少しずつではあるけれど自分から話しかけるようにまでなっている。
初老の店主達は、丁度孫の年代にあたるのだろうキラの姿に嬉しそうに目を細めていた。

その様子を少し離れた場所で壁に背を預けながら眺めていたアスランは、暫くしてふと視線を上げる。
心なしか、吹きゆく風に湿り気を感じる。
アスランは足下に置いていた荷物を持ち上げると、キラのいる方へと歩き出した。


「キラ、そろそろ宿に戻ろう。雨が降りそうだ」

その声に反応してキラが空を見上げると、さっきまで天を覆っていた白い雲の殆どが鉛色のものへと移り変わっていた。
ひと雨来るのも、きっと時間の問題だろう。
周囲に並んでいる市場の露店も、長年の経験から雨の気配を敏感に察知してか、早々と店をたたみ始めている所がちらほらと見受けられた。


少し残念そうな顔したキラの頭を、アスランはよしよしと慰めるように撫でる。
「トリィ、帰ろ」
そう言ってキラが空に向かって両手を伸ばすと、すぐ傍の木で羽根を休めていたトリィがキラの肩へと舞い降りてきた。
「今日、お散歩あんまりできなかったね。明日雨降ってなかったら、朝から外に出してあげるからね」
『ピィ!』
まるで返事をするかのようにひと鳴きして頬に擦り寄ってくるトリィを、キラはアスランが自分にしたようによしよしと撫でている。
相変わらず賢い鳥だ。
もしかしたらトリィはキラの言葉が分かっているのではと、アスランは時々思う。
いや、言葉がわかるというよりも、心と心が通じているといった方が正しいのかもしれない。


「沢山、お話してくれて、ありがとう」
キラは一番長く居座っていた露店の老年の女主人に、少し辿々しくだけれども一生懸命お礼を言う。
「いやいや、こっちも楽しかったよ。こんな婆ちゃんの話を熱心に聞いてくれてね」
「とってもおもしろかったよ?」
「そうかい?そう言ってくれると嬉しいよ」
店主は人の良さそうな顔に満面の笑顔を浮かべて、キラにありがとうと言った。
「今日は早い店じまいになるけど、明後日またここで市開いてるから良ければおいで」
その言葉を受けて、キラは傍らのアスランを見上げる。
明日この街を出ることは、昨日の夜にアスランから知らされていた。
困ったような寂しいような瞳で見上げてくるキラの代わりに、アスランは少し申し訳なさそうに口を開いた。
「明日の朝にはここを発つつもりなんです」
「まあ、そうなのかい?それは残念だねぇ…。じゃあ、お土産というか餞別というか……これを持って行きなさいな」
そう言って店主は、小魚の薫製の入った袋をふたつ差し出した。
「お嬢ちゃんたち、旅のひとだろう?旅は体力がいるからね、これでも食べてきちんと栄養つけるんだよ」
「商品なのに頂いてしまって良いんですか?」
「もちろんさ。楽しい時間をくれたお礼だよ」
「そうですか……では有り難く頂きます。ほら、これキラにくれるって」
キラはアスランに促されて袋を受け取ると、大切そうにしっかりと両手に抱え込んだ。
「あ、ありがとう……」
キラはうっすらと頬を紅潮させながら、本当に嬉しそうに、ふわりと微笑む。
そんな可愛らしい少女の姿に、アスランも老年の店主も視線を合わせて優しく微笑んだ。








「アスランあがったよ」
「あ、キラ。ちゃんと温まってきた?」
「うん、だいじょうぶ」
結局あの後、宿に戻る途中で少し雨に降られてしまった。
濡れた部分は然程多くなかったけれど、冷えた体をそのまま放っておいては風邪をひきかねないからと、アスランは部屋に戻るとすぐにキラを風呂場へと押し込めた。
ちなみに彼自身は体を軽くタオルで拭くだけで済ませている。
「こっちおいで」
荷造りをしていた手を止めると、アスランはそう言って手招きをする。
キラは素直にそれに従ってベッドに腰掛けたアスランの元に行くと、背中を預けるような格好で彼の両足の間に座らされた。
「まだびしょびしょじゃないか」
アスランは椅子の背もたれに掛けておいたタオルを手に取ると、水の滴っているキラの髪の毛を拭き始めた。
ぺたりと額や首筋に張り付いてしまっている栗色の髪を少しずつ掬い取りながら、優しく丁寧に。
「上手にできるようになるには、まだもう少しかな?」
「ん……がんばる」
「うん。がんばって」
キラがこくりと頷く。
気持ち良さそうに体を預けてくるキラに、アスランは小さく笑みを零した。
「明日は朝に出発するから、今日は早めに寝よう」
「…次はどっち?」
「北へ。街道沿いに行けば、一日かからないで次の街に行ける」
「最近、出て行くのちょっと早いね。ここも、まだ三日しかいないのに」
「そうだね。この辺りは地形の問題で冬がかなり寒くなるから、まだ暖かいうちになるべく過ごしやすい方に行っておきたいんだ。キラ、寒いの苦手だろう?」
「……ちょっとだけ。でも、平気だよ?」
「いいんだよ、どうせそろそろ此処を離れようと思っていたからね。このまま領の境を越えてレイゼルに入ろう」
「うん、わかった」
アスランの言葉にキラはなんの疑問も躊躇もなく頷いた。
キラには今自分が旅をしているゼタがどんな所で、これから向かおうとしているレイゼルがどんな所であるかなんて分からない。
例えば───ゼタはクライン王国の一番端っこに位置する、周囲から田舎中の田舎などど揶揄される程に開発の遅れた場所であるとか、それに隣接するレイゼルがそんなゼタよりも幾ばくかは良いくらいのやはり田舎であることとか。
それに、同じ年の子ならば当然学校で教わり知っているはずの知識すらも殆ど無い。
ただそれもそのはずで、キラが世の中について知っていることなど本当に小さな子供ほどしかないのだ。

自分はただアスランに付いて行くだけ。
アスランの言葉が自分の全て。
それがキラの現状───キラの生き方だった。


いくつか他愛ない話をするうちにキラの髪はあらかた拭き終わり、乾いてふわふわになってきた髪をアスランが手ぐしで整えている。
……と、キラの頭がふらりふらりと揺れ始めた。
もしやと思って少々俯きかげんになってる顔を覗き込めば………。
「キラ?」
「…ん………」
「眠いの?」
「………ねむく…ない」
「そんな顔で言われても説得力ないって……」
あまりにもあからさまで可愛らしい虚勢に、思わず苦笑が漏れる。
もうすっかり瞼が重くなってきているらしい。
キラの鮮やかで印象的な菫色の瞳が、もう殆ど見えなくなってしまっている。
「このまま寝てしまえばいいよ。夕食の時間になったら起こすから」
「ご飯……いい……。さっき、たくさん……お腹…いっぱぃ……………」
市場を巡る際、キラは味見と称して色々な食べ物を露店の主達からもらっていた。
最も、それは決してキラから強請ったのではなく、店主達が善意で差し出してくれたものだけれど。
成人男子のアスランにとっては大した事のない量でも、十三の───しかも同じ年頃の子よりもずっとずっと発育が遅れていて小柄なキラにとってはそうではなかったらしい。
お腹がいっぱいだったことも眠気を呼んだ理由のひとつだったかなと、アスランは小さく笑った。
「分かった。それじゃあまた明日にね」
「ん………ゃすみ…なさ…ぃ………」
言い終わった直後に、すーすーと小さな寝息が聞こえ始めた。
よほど強い眠気に襲われていたらしい。
アスランはキラの体をベッドに横たえると、端に寄せられていた上掛けを引っ張ってキラに掛けた。
「おやすみ、キラ」
呟いて、今はしっかりと閉じられている瞼を指先でそっと撫でる。
今日もどうか静かな眠りを。
痛みも哀しみもない安らかな世界をこの少女に与えてください。
額にかかる前髪を梳きながら耳の方に流して、アスランは現れたそこに掠めるような口付けを落とした。













夢を見ていた。
今はもう過ぎ去った、在りし日のゆめ。

これでいったい何度目?
まるで『忘れるな』とでもいうかのように、不規則にあらわれては消える過去の映像。
気が付くと、いつも傍観者のように自分で自分を見ていた。

泥だらけになりながら夜道を必死に逃げている、過去の自分を。



記憶にあるのは、どこまでも続く闇。
そして、数人の男達の怒鳴り声。

闇の中から沢山の手が伸びて、頭を、腕を、足を、乱暴に掴まれて引き倒された。

冷たい土の感触。
叩き付けられた体を襲う激痛。
暗闇に響く笑い声。

泣き叫ぶ自分の声がひどく遠かった。


『タスケテ、オトウサン、オカアサン………ッ!!』


記憶が、遠のく─────。













「……………っ!!」

微かに聞こえた悲痛な叫び声に、アスランは跳ねるように顔を上げた。
立ち上がった際に椅子が派手な音を立てて床に転がる。
テーブルに広げていた地図も、乱暴に掴まれてぐしゃりと悲鳴を上げていた。
先程まで丁寧に道の説明をしてくれていた宿屋の主人がこちらに向かって何かを言っていたけれど、それを気に止める余裕もなくアスランは三階への階段を駆け上がった。

聞いた者の胸が痛くなるほどに痛々しい悲鳴。
本当に微かなものだったけれど、あれは確かにキラの声だった。



「キラッ!!」
アスランは扉を壊さんばかりの勢いで開け放つと、暗闇の中ベッドの上に蹲っている影の元へと駆け寄った。
ガタガタと震えている両肩に触れると、その小さな体がビクリと一際大きく震えた。
キラの虚ろな視線が、宙をさまよう。
「キラ、キラ……?」
アスランの方を向いてはいるけれど、そのもやのかかったような暗い瞳には何も映ってはいなかった。
けれどもふらふらと彷徨っていた視線が自分の両肩をつかむ手の存在に気付くと、キラは途端に恐怖に口元を引きつらせ暴れ始めた。
「いや……っ!やぁ…ああぁああ………怖…い………っ!!!」
常とは違う、暗く沈んだキラの瞳からぽろぽろと涙が零れている。
アスランは滅茶苦茶にくり出される腕をかいくぐると、キラの震える体を強く抱きしめた。
「キラッ!キラ、しっかりしろ!!」
「あ……あぁ………やぁ…っ……アス……助…け……っ!!」
「キラ、こっちを見るんだ!俺はここにいる、キラの傍にいるから……!!」
「……う…ぁ……………ァ…ア…スラ………?」
キラの瞳にうっすらと光が差しはじめる。
虚空の中の痛みだけを映していたそこに、ようやくアスランの姿が写り込んでゆく。
「そう、俺だよ……。俺は君の目の前にいるから」
宥めるように、諭すように、何度も何度も背中を撫でながら囁いた。
俺がいるからと。
もう何も怖いことなんてないんだよと。
「ふ…ぇ………アスラン……ッ」
必死に首にしがみついてくるキラの体を膝上に抱き上げると、アスランはほっと息を付いた。
なんとか正気に戻ってくれたことに心から安堵すると同時に、深い後悔の念が沸き上がってくる。

(傍を離れるんじゃなかった………!)

アスランは自分の落ち度に思わず内心で舌打ちをする。
ここ暫くは大分落ち着いていたから、油断していた。
もっと注意を払うべきだったのに。
今宵は新月。
月の輝きも光もないこの夜は、いつもよりいっそう暗い。
前に比べれば大丈夫になってきたとはいえ、元々夜の闇を酷く恐れていたキラが、未だにこの日だけは不安定になりがちなことを自分は知っていたのに─────!


キラがこうなるのは、なにも珍しいことではなかった。
最近になって頻度はかなり落ちてきているけれど、それでも全くなくなったわけではない。
それは、キラの負った目に見えない傷のひとつだった。
夢と現の混濁。
そして、過去と現在との混濁。
忘れていたい恐怖と苦痛の日々の記憶が、夜の闇に乗ってキラに降り注ぐ。
寂しい目で微笑むことしかできなかったキラが、やっと明るい笑顔を見せるようになった今でさえ、それはキラを苛んでいた。
夜中に魘されるだけでなく、こうして恐慌状態に陥ることも少なくない。


アスランは、どうにもならない現実に唇を噛み締める。
キラの苦しみを癒したい。
けれども、自分にできることはあまりにも少なくて………。
「大丈夫だよキラ。キラはもうひとりじゃない」
でも、だからこそ何度でも囁いた。
少しでもこのボロボロに傷ついた魂が安らげるようにと、祈りを込めて。
声を殺して泣き続けるキラに、少しでも届くように。
「ずっと一緒にいるから」
キラの髪を優しく撫でながら、アスランはふと窓の外を見遣った。
部屋の暗さよりも一層深い闇が、そこには広がっている。
今日は姿を見せない月は、あのどこかに潜んでいるのだろうか。
星さえ見えないあまりにも寂しい夜空が、まるでキラの心のようだと思った。


心の奥底で、闇夜を未だに恐れているキラ。
泣き疲れて眠ってしまった彼女の髪を梳きながら、アスランは自分の肩にかかる藍色の色彩を目の端に認めてぎゅっと眉を寄せる。


夜の空を映したようだとよく言われた自分の髪が、今は無性に厭わしかった。