【2】記憶~優しい夜の色~ 第1話








『なまえなんて、ないの』
 
『もうだれも、よんでくれないから』

『いつのまにかなくなっちゃった』


ひたすらに虚空を見つめる寂しそうな目を、それ以上見ていられなかった。
だからかもしれない。

それならば───と。

まるで何かに突き動かされるかのように、衝動的に口を開いていたのは。


『俺が呼ぶよ。君の、本当の名前を。だから………』

名前を、教えてくれる?


その瞬間に灯った光を、きっと一生忘れないだろう。
果てない哀しみに沈んでいた昏い瞳に、ほんの微かにだったけれど、差し込んだ光。


『     』


小さく、躊躇いがちに動いた唇。
音を紡がないそれから読み取った言葉は、たったひとつだった。
他にもいくつも可能性があったはずなのに、その時は本当に何故だか分からないけれど、外れていない確信があった。


『……キラ、か。いい名前だね』


驚愕に開かれた大きな瞳に笑い返したら。
小さくだけど、君も笑ってくれた。


その時に、思ったんだ。

───自分の力の及ぶ限り、守ろうと。















「すまない。ちょっといいか?」

道端で不意に呼び止められ、彼女は立ち止まった。
この街はお世辞にも治安が良いとはいえない。
かなり薄暗くなってきた今の時間帯からは特に、路地裏を中心として無法者がうろつき始めるのだ。
それを思い出して、つい反射的に立ち止まってしまった事に後悔する。
このまま走って逃げてしまおうかとも思ったけれど、時々声をかけてくるガラの悪い連中とは明らかに違う涼やかな声に、恐る恐るながらも振り返った。
そうして目に入ったのは、薄墨色のフードを目深に被った旅人風の男。
顔がハッキリと見えないことに一瞬恐怖心が過ったけれど、その男は彼女の怯えを察してか「ああ、失礼…」と言うと同時にフードを取り去った。
そうして現れたのは、深い藍の髪と、思わず惹き付けられるような美しい緑の瞳。

「…………ぁ」

思わず、息を呑んだ。
年の頃はおそらく彼女と同じ二十歳前後だろう。
ここでは若者も旅人も多く見かけるから何ら珍しいものでもない。
けれども、今目の前にいる旅人は………そう、あまりにも異質だった。
整い過ぎている容姿。
無駄のない洗練されている立ち居振る舞い。
そして、どこがとははっきり言えないが、普通の人とは何か違う雰囲気。

「宿を探しているのだが、この辺りでどこか知らないか?」

そう訊ねられて、彼女は半ば惚けたような思考のままに知っているふたつの宿への道筋を答えた。
「ありがとう」と小さく会釈して去って行く後ろ姿をつられるように見送りながら、何故か知らずに詰めていた息を肺から吐き出す。

「あんな絵本の王子様みたいな人っているのね………」

格好は全然違ったけど、と。
ほんのりと熱くなった頬を冷たい風に晒しながら、誰ともなくぽつりと呟いた。










(何かと物騒な街みたいだなここは……)

暗くなった街中をひとり歩きながら、アスランは周囲に視線を巡らす。
先程から不穏な動きをしている男達を何人も見かけた。
一応そういった雰囲気を隠そうとしているのだろうけれど、あんな獲物を狙うようなギラギラした目をしていては意味がないだろうとアスランなどは思う。
最も、それに気付いて更には回避することまでできる一般人もそういないのだろうけれど。
ふと先程宿の場所を訊ねた女性のことを思い出す。
少し怯えさせてしまったのを申し訳なく思うと同時に訝しく思ったものだが、この街の状態では多少大げさにでも警戒せざるをえないだろう。

宿の主人に聞いた話では、街の警備隊は殆ど機能していないという。
そのせいで、昼はまだしも夜ともなればこの辺りは無法地帯と化す。
アスランもつい先程二名程に絡まれたが、腰に下げた剣を抜くまでもなく撃退し早々にご退場願ったところだ。
そして更に仕入れた情報では、街の外れの広場では夜の闇に紛れて出所の怪しい品物を売買しいている、所謂"闇市"の類いがかなり頻繁に開かれているらしい。
危険だと散々言われたけれど、アスランは今まさにそこに向かっていた。
別に闇市に用事があるわけでも、自分から危険に飛び込む趣味があるわけでもない。
ただ───好奇心とは別のところで、この街の現状をもっとよく知りたいと思った。
「平和の国……か。光が大きければ、影もまた大きいということなのかもしれないな」
遠くを見るような瞳で、ぽつりと呟く。
王都やその周囲の有力地方が光だとしたら、このマデリナ地方はまさに影だ。
アスランは今までいくつかの地を巡り旅してきたけれど、ここほど治安が悪化した場所は他にはなかった。
(今更何をしたいんだろうな、俺は…………)
思わず自嘲が漏れる。
あまりにも自分が愚かに思えた。
(こういった地方の現状を知ったところで、それでどうなる?正す力も意志すらも今の俺にはないというのに)
昔ならいざ知らず、全てを無くしたこんな今更に─────。


と、その時。
もうすぐ目的の通りに差し掛かかろうかという所でアスランは足を止めた。
静まりかえった路地の奥から聞こえてくるバタバタという激しい足音と怒声に、アスランは眦をきつくする。
複数───三、四人程と思われる重い足音と、その中に混じる軽い足音がひとつ。
それが、何かを引っくり返すような派手な音の後に消え、続いて男達の荒い声とその間に微かに聞こえた掠れた悲鳴を耳にした途端、アスランは音のする方へ弾かれるように走り出した。
状況を判断するのにそう時間はかからなかった。
誰かが───おそらくは女性か子供が、複数の男達に襲われている。
腰の剣を強く意識しながら、アスランは段々と声が近付きつつある奥へと急いだ。
状況次第では、これを使うこともやむを得ないだろうと思いながら。










「やっと大人しくなったか……。手間かけさせんなよ」
「…………っ」
「おおっと!逃げようとしても無駄だ、諦めな」

掴まれた腕を離そうとしても、びくともしない。
疲労と恐怖からか、足がガクガクと震えているのが自分でも分かった。
屈強そうな男三人に周囲を囲まれ、もう逃げ場所などない。
逃げる途中に蹴倒してしまったゴミ箱から生ゴミがまき散らされ、辺りには強烈な腐臭が漂っているけれど、それを気にする余裕など全くなかった。
「どうやってあそこから抜け出したかは知らんが、残念だったな」
「脱走に対する罰………知ってるよな?」
ぎりぎりと腕を掴む手に力が加わり、あまりの痛みに顔が歪む、
脱走───それは、捕まれば『死』を意味する。
もう何人もが脱走を試みては失敗して捕まり、見せしめのようにして自分達の目の前で殺されてきた。

「へぇ………近くで見ると結構可愛い顔してるじゃないか」
腕を掴んでいた赤い髪の男とは別の男が、ぐいっと顎を掴んで俯く顔を上げさせる。
「このまま殺すのは惜しいか。丁度、新しい玩具も欲しかった所だしな」
男のやけに吊り上がった目に、先程までとは違う凶暴な光が宿っていた。
「また出たよ、お前の悪い癖が」
「おいおい正気か?大切な商品なんだろ?」
そう揶揄する他の二人の目にも、同じような光。
「何言ってやがる。殺さずにいてやろうってんだ、良い話だろう?」
「嘘つけよ。そう言って終わった後は容赦なく殺すくせに」
「ははっ、違いねぇ」

下卑た笑い声が闇夜に響いていた。

得体の知れない恐怖に足がすくむ。
息が喉に詰まって上手く吸えない。
「……………っ!!」
そのまま地面に乱暴に引き倒され、暴れられないように腕や足を固定される。
足掻いても足掻いても逃れられない呪縛に、見開いた瞳からはいつの間にか涙が溢れていた。
何かを叫ぼうと口が勝手に開くけれど、そこからは息の漏れるような音しか出てこない。
「そういえば、こいつ声が出ないんだっけな」
目つきの悪い男が、小さな体の上にのしかかりながら思い出したように言った。
「ああ、だから『欠陥品』ってわけ」
「どうせあのまま置いてても買い手つかないんだ。こっちの好きにしたってどうってことないだろ」
「案外そういう物好きもいるかも知れないぞ?」
「そう言うお前も物好き仲間だろ?まだ年端もいかないガキ───しかもそんな欠陥品相手にしようなんて思うんだからさ」
「……っと、暴れんなよ。大人しくしてれば、それなりに楽しませてやるぜ?」


男達が何か言っているけれど、すこしも耳に入らない。
襲い来る恐怖に、心臓がドクドクとうるさく鳴っている。
乱暴に扱われる体のあちこちが悲鳴を上げていた。

これから何をされるのかなんて、分からない。
分かりたくない。
けれど、身体の奥底にある何かがしきりに警鐘を鳴らしていた。
逃げろ、と。
このままだと確実に殺される。
いつだって、彼等に逆らった者の行く末に例外などなかった。
けれども地面に引き倒され動く事も出来ず、助けを求める為の声も出ない。
目の前で見せしめとして殺されていった仲間達─────その中に、とうとう自分も加わるのかと、虚ろな思考と瞳でそう思う。
諦めに似た感情が、全てを支配してゆく。

─────でも。





『ね、約束だよ?きっと………また会おうね』


『私のことはいいから逃げなさい!早く……っ!!』





暗い暗い闇の中、刻まれた記憶がフラッシュバックする。
大切な人の忘れられない顔と。
自分を守ろうとしてくれた人のくれた、大切な言葉。
───死ねない、と。
こんな所で死ぬわけにはいかないのだと。
そう強く思った。

タスケテ

誰か助けて。
残り少ない力で足掻きながら、そう叫んだ。
変わらずに音を紡がない自分の喉を掻きむしるようにして押さえながら、何度も、何度も。

タ ス ケ テ


光のない闇夜に必死で手を伸ばしながら。
声無き声で、そう叫んでいた。