【2】記憶~優しい夜の色~ 第2話








夜明けを告げるように、空が徐々に白んでゆく。

それまでは暗がりに支配されていた小部屋にも、窓越しにうっすらと明かりが見え始めた。
しん……と静寂が支配する部屋の中。
ひとつだけ置かれているベッドには、懇々と眠り続けている少女の姿があった。
しかし幼いその顔に浮かぶ表情は、とても安らかとは言い難い。

きゅっと苦しげ寄せられた眉。
額や顳かみを伝う汗の粒。
なにかを呟くように時々開かれる口───しかし、そこから声が発せられることはなく。



キィ……と木が軋む音と共に部屋の扉が開かれた。

たっぷりとした水で満たされた木桶を片手で抱えたアスランは、後ろ手で静かに扉を閉めると、ベッドの枕元にある小さめのテーブルにそれを置いて少女の顔を覗き込んだ。
熱に苦しむその姿にアスランは痛ましげに瞳を眇める。
木桶と一緒に宿の主人が貸してくれたタオルで一通り汗を拭い取った後、水で濡らして絞ったそれを額へと乗せた。

苦しげに寝入りながら、未だ目覚めない少女。
少し熱があるけれどそれはこんな風に寝込む程のものでもないはずだった。
にも関わらずここまで眠りの中で苦しむのは、積もり積もった肉体的な疲労か、それとも精神的なものか───もしくはその両方か。
備え付けの椅子に腰掛けながら、アスランは思わず天を仰いだ。
目に入るのはどこまでも広く高い空ではなく、低い天井。

傷だらけの、名前も、素性も、何一つ分からない子供。
しかも危険な匂いのする連中に追われていた。
成り行き上仕方なかったとはいえ、やっかいな拾いものには違いないだろう。


(否、素性の一端は知れているか………多分、追われている理由も)


アスランの視線の先には、不健康な程に白くか細い少女の左手。
今はシーツに埋もれて見えないその手首には、あるものが刻まれていた。
焼き付けられた、爛れたような引きつったようなそんな痕が。
それが何を現すのか、アスランには多分分かっていた。
過去において、そういう印を刻まれていた人達を何人も見てきたから。


(おそらくこの少女は───)





奴隷、だ。












あの後駆け付けたアスランが辿り着いた先で見たのは、予想通りの光景。
そして、決して許し難いものだった。

家の明かりはなく、街灯すらも遠い夜の闇に呑まれかけた世界。
けれども、闇に慣れたアスランの目にはその光景がはっきりと見て取れた。

顔は見えないが明らかに子供と分かる小柄な体を、男達が組み敷いている。
白く頼りない程に細い腕と脚がぐったりと投げ出されているのを視界に捉え、アスランはすっと瞳を細めた。
嫌悪感と抑えられない怒りが身体を突き抜けてゆく。
自分が決して正義感溢れる人間でない事は己が一番分かっている。
目の前で傷付けられているからといって、見も知らぬ誰かに迷わず手を差し伸べることができるような、そんなお人好しでないことも。
だが……───。


「何をしている」


静寂の降りた辺りに凛と響く冷たい声。
驚きと共に向けられた三対の目をそれぞれ睨み付けながら、アスランは腰に下げていた剣を鞘ごとベルトから外した。

剣を抜かないのは、人を切ることへの抵抗からではない。
そんなもの、今更だ。
このような類いの輩を切り伏せるのに、何を躊躇うことがあるだろうか。
ただ、心に掛かることがひとつだけある。
彼等に組み敷かれている子供だった。
なるべくならば、その目の前で血を流したくはなかった。

男のうちのひとりが立ち上がり何かを叫んだが、それは当然のように無視される。
懐からナイフを取り出し自分へと襲いかかるその姿を視界に入れながら、アスランは静かに身を低く沈めた。

そして─────それはほんの一瞬の出来事。

飛び掛かってきた赤毛の屈強そうな男の体が、崩れ落ちた。
「……………!!」
仲間を倒された二人の男の目が驚愕に見開かれる。
慌てて立ち上がり逃げ出そうとしたが、しかしそれも剣を片手に跳んだアスランによって、次の瞬間には鈍い音と共に地面へと沈んでいった。

圧倒的な力の差。
だが、こんなものは彼にとってただの力の片鱗を見せただけすぎない。
元よりナイフの持ち方すらなっていない力押ししかできぬごろつき風情に、いくら3人が相手だといっても負けるはずがないのだ。
アスランは苦痛に呻く男達を冷たく見下ろした後、鞘を再びベルトに装着し直す。
そして、冷たい地面にひとり放り出された形になった小さな影の元へと近寄って行った。

ぴくりとも動かないその様子に一瞬まさかと思ったが、僅かに身じろぎするのを認めて小さく安堵の息を吐き出す。
「起きられるか……?」
その場に膝をつき体を起こそうと手を伸ばすと、子供の肩がびくりと大きく震える。
ひたすらに呆然と空を映していた瞳が、アスランの方へと向けられた。
そこにあるのは、怯えの色。
恐怖に歪んだ顔をアスランは痛ましげに見下ろしたが、それでもこのままにしておくわけにはいかずにやや強引に背中をすくい上げる。
子供の様子をちゃんと確認する為にも、大通りとまではいかなくともせめて少し離れた場所にある街灯の下までは行きたかった。


「…………っ!!」

途端に、暴れ出す体。
この細い体の何処にそんな力がと思わせるほどの力で激しく抵抗される。

必死に腕から逃れようとするのをアスランはなんとか抱きしめることで封じて、ガタガタと震え続けている背中を撫でる。
そうして、ゆっくりと、言い聞かせるように囁いた。
「大丈夫、君を傷つけたりしないから」
手負いの獣のように脅えているその子になるべく優しく響くように。
力いっぱい胸を殴りつけてくる手を少しも気にせず、アスランは背中や頭を撫でながら何度も根気良く囁いた。
「俺は、君の敵じゃない。どうか信じて……」
我ながらなんて陳腐で説得力のない言葉だとは思う。
この腕の中で震える子供にとってみれば、自分など突然目の前に現れた得体の知れない男に過ぎず、ただ恐れの対象にしかならないだろうに。
けれど今は、信じてもらう他なかった。
とてもではないがこのまま放り出してなどいけない以上、怪我の確認だけしたら、少しでも早くこんな所からは遠ざけて安心できる場所まで連れて行ってやりたかった。

その言葉が通じたのか、それとも暴れ疲れたせいなのか。
アスランの胸を叩いていた腕が、少しためらうような動作の末にゆっくりと下ろされる。
そして、強張っていた体からも少しずつ力が抜けていった。
壊れかけた街灯の下、アスランは抱えていた身体をゆっくりと地面に下ろしてやる。
そして、小さな手をぎゅっと握りしめて俯く子供を促すように、頭を優しく撫でた。


おずおずと顔を上げ、そして更におずおずと───本当に恐ろしいものを勇気を振り絞って見る時のように───双眸を開いたその子は、大きな目をした稚い少女だった。
もしかしたら、やっと10を越したかどうかというくらいの年ではないだろうか。
手足は掴んだら折れてしまうのではと危惧する程にか細い。
服は原型をなんとか留めているといった風情で、体中が薄汚れている上に頬や額には擦り傷がいくつも走っていて、とてもではないが市井にいる普通の子供では通じないだろう。
むき出しになった腕や足には、よほど乱暴に掴まれたせいだろう……手の形をした痣がくっきりと残っていた。
その惨状ともいえる少女の状態に、アスランは思わず眉をしかめる。
こんな小さな子供に───。


自らのマントを外して腕の中の細い体を覆うと、アスランは再び抱き上げる。
「…………っ!!」
「いつまでも此処にいるわけにはいかないから、ひとまず俺の泊まってる宿屋まで行こう。そこなら医者も呼べるから。でもその前に、君は………少し休まないといけない。随分ちゃんと睡眠を取ってないだろう?」
「………………」

大きな瞳も小さな体も、まだ恐怖で微かに震えている。
けれども少女は、アスランの問いかけに少し迷うような素振りを見せた後、こくりと小さく頷いた。
「………俺が、怖い?」
紫色の瞳が、戸惑うように揺れた。
「情けないけれど、信じてくれとしか言えない。証明できるものが何もないんだ。……でも、亡き母に誓って俺は君を害したりはしない」
ふたりの視線が交差する。
片方はまるで瞳を見るだけでひとの心の中まで踏み入り真実を見抜くという、裁決の女神がごとく。
もう片方は、無心になり女神に祝詞を捧げる敬虔な司祭のように。
この世界にお互いしか存在していない───そんな雰囲気さえ感じさせながら。


いつの間にか、震えは止んでいた。