【2】記憶~優しい夜の色~ 第3話 「気分はどう?少しは落ち着いた?」 ほんの数十分程前に眠りから目覚めたばかりの少女は、手渡されたカップに口を付けながら、こくりと頷いた。 もうその顔に怯えの色は見えない。 アスランの言葉と温かいホットミルクが固まっていた感情をどんどんと溶かし出してくれたのか、今ではとても素直に反応を返してくれる。 宿の主が手配してくれた医者にも最初こそ触れられることにひどく怯え拒絶の意を示したけれど、アスランが手を握っていればそれも収まった。 信じてくれと言ったのは自分だが、ここまで信頼されてしまうとは思うわけもなく。 嬉しいような複雑なような不思議な感覚を持て余しながら、アスランはベッドに腰かけている少女の隣に自分も腰を下ろした。 「少し…話をしよう。君の事が知りたいんだ」 多少の間があったあと、こくりと首が縦に振られる。 「君にとって辛いことを聞くかもしれないけれど、許してほしい。本当なら、もっと落ち着くまで待つべきなのだろうけれど………君を追っていた男達のこともある。早いうちに対処できるようにしておきたい」 事情が事情だけに、本当ならなるべく早くこの街から離れた方がいいのだろうが、弱りきった体に鞭打つ真似ができるはずもない。 隣街まではどんなに早い馬車でも半日はかかるのだから。 「もし、途中で気分が悪くなったりしたら遠慮せずに言ってくれ。医者はただ疲れが出ただけだと言っていたけれど、病み上がりに無理は禁物だ」 再びこくりと首が振られる。 少女は菫色の大きな瞳に真摯な光を灯しながら、アスランをしっかりと見ていた。 「それと、俺は多少読唇術が使えるから……そのまま話しても平気だよ」 ペンを持とうとしたその手をやんわりと制する。 少女が喋れないのだということは、今までのやりとりで既に分かっていた。 往診に来てくれた医者とやりとりをした際には、コミュニケーションの手段として筆談をしていたが、今はその必要もない。 『どくしんじゅつ?』 音を紡がない唇を動かし、少女は首を傾げた。 「話している人の唇の動かし方を見て、何て喋っているかを理解する方法なんだ。だから、声が出なくても君の喋ってる事はだいたい分かる」 その答えに目を真ん丸くしながら、『すごい』と興奮したように小さく唇を動かした。 そんな表情がひどく幼くて、アスランは思わず小さく笑みを浮かべてしまった。 「それじゃあ最初に………。まず、君の名前を聞いても?」 この問いかけに、少女はひどく苦しいような哀しいような表情を浮かべた。 俯いた際長い前髪に隠されてしまって、見て取れたのは一瞬だったけれど。 そしてそのまま、ゆっくりと左手を差し出して手首の部分を示した。 "5-07" そこには、灼かれた金属の類いを押し付けられたのだと分かる形で、しっかりとそう刻印されていた。 少女はそれを示しながら、哀しい目で告げる。 これが自分の名前なのだと。 アスランはぎりっと唇を噛み締めた。 どこかで分かっていたことだ。 奴隷は、奴隷商人に買われた後その場所その場所で選別され、番号を与えられる。 個体識別の為の番号を。 そしてまるで家畜にするかのように肌に焼き印を押され、管理されるのだ。 少女に押されたものもそれと同じ。 皮膚が再生出来ないほどの高温で焼き付けられた痛々しい焼け焦げの痕。 いったいその痛みがどれ程のものなのかなど、想像する事さえもできやしない。 差し出されたままの少女の手を壊れ物を扱うかのようにそっと取ると、両手で優しく握り込んだ。 不安そうに見つめてくる瞳に、哀しく頬笑みながら違うよと首を振る。 「これは、君の名前なんかじゃない」 『……でも。ずっと、そうよばれてた。なんねんも、ずっと……』 「それでも……君には君だけの名前があるだろう?君が父上や母上からもらった、君だけの大切な名前が」 『…………ないの、もう』 俯き加減で見え辛い唇から読み取った言葉に、アスランが『え……?』と問い返す前に、少女はゆっくりと顔を上げ、どこか虚ろな視線で空を見上げた。 低い天井で覆われた見えない空を。 『なまえなんて、ないの』 今にも泣いてしまいそうに思えるのに、その瞳はただ暗く沈んだまま、涙さえも生み出す事はできずにいる。 『もうだれも、よんでくれないから……………いつのまにかなくなっちゃった』 その瞬間、アスランは衝動的に小さな体を抱きしめていた。 本当なら泣き叫びたいはずなのにそれすらできず………心も涙も凍りつかせたまま、ただ静かにひとり慟哭している。 こんな年端もいかない少女が、なんて哀しい泣き方をするのだろう。 その心の傷の深さを思って、アスランはきつく瞳を閉じた。 「……俺が、呼ぶから」 『え………?』 「俺が呼ぶよ。君の、本当の名前を」 抱きしめる腕を離さないままで囁けば、腕の中の体が微かに震えた。 それが怯えの為ではないことを肌で感じながら、アスランはそっと力を緩めて少女の顔を見つめた。 「だから………名前を、教えてくれる?」 暫しの沈黙。 けれど瞳は逸らされないままで───。 すると、泣きたいような笑いたいような、自分でもよく分かっていないのかもしれないそんな表情を一瞬だけ浮かべると、少女は小さく口を開いた。 『 キ ラ 』 キラ───その名前は、すんなりとアスランの心に入り込んで、そして身体の中でふわりと溶けた。 いかに読唇術をかじっているとはいえ、個人の名前というような類いを一度で正確に読み取るのは難しい。 けれども、何故かその言葉だけはやけにはっきりと浮かんできた。 そんな自分に驚きつつも、けれでもアスランは何故か当然のことのように受け止めていた。 きっと、理屈などでは証明できないだろうし、する必要もないのだ。 「……キラ、か。いい名前だね」 少女───キラは、久しぶりに聞いた自分の名前に、思わず目を見開いた。 懐かしい響き……。 もう何年もあることさえ忘れかけていた、自分の名前。 声が出せない自分は呟く事すらできないから、もう2度と誰にも呼ばれること無く朽ちていくものだと思っていたのに───。 『うん。おかあさんと、おとうさんがくれた、たいせつななまえ……』 アスランは先程からずっと優しい目で見ている。 その眼差しの温かさに急にじわりと込み上げて来た涙。 キラはそれを必死で拭い、少し潤んだ瞳のまま小さく頬笑んだ。 大切なものを仕舞い込むように胸に手をあてながら。 「俺もちゃんと名乗ってなかったね。俺はアスラン」 『あすらん……?』 「そう、アスランだよキラ。少し前から旅をしていて、この街へはその途中で立ち寄ったんだ。キラは………何故あそこに?」 『………あのとき………ほんとうは、うられるはずだった。かうひとをみつけるために、いちばにつれていかれるところで………とちゅうでにげてきたの』 「キラは…………奴隷だね?」 『……うん。……このまちのはずれにある、おおきなたてもののちかで……ずっとくらしてた。なかまもおおぜいいっしょに、かぎのついたへやのなかに、とじこめられて。しごとがないときは、いつも』 ぽつりぽつりと紡がれる言葉に、アスランの眼差しがどんどんきつくなる。 奴隷売買はもちろん、奴隷という存在をつくることもこのクライン王国では違法だ。 最も、奴隷制度廃止令が発動され、本格的に施行されたのはまだほんの十数年前のこと………今までは当たり前にあったそれが形を失うには、まだ時間が足りなさすぎる。 ただ、だからといってそんな違法行為を表立ってやって見逃してくれる程に、クライン王国の王家と騎士団は甘くも無能でもない………発見されれば最悪で首を切られる厳罰に処されることになる。 しかし元来より奴隷商は楽に儲けられるからと手を染める者が後を断たないのだ。 だからこそ今でもこうして、闇に隠れるようにして暗躍を続けている。 そしてなによりも世の中に奴隷に対する需要があるかぎり、現状を打破し完全なる廃止を目指すのは難しい。 「陛下は………どうお考えなのか」 『………?』 「あ……いや、なんでもない。それじゃあ、キラを追っていた男達はやはり奴隷商人の……」 『うん………にげたぼくをつかまえにきたひとたち。だっそうしたどれいは、つれもどされて、なかまのまえでころされる………みせしめだって』 「………そうか」 『いままでぶじににげだせたひとは、ほんとうにひとりかふたりくらい。たてものをぬけだすことはすごくむずかしいから………』 「それなら、キラはどうやって?」 『ぼくは………たすけてくれたひとがいた。"あるじさま"のむすめだっていうひとが、ぼくとあとひとり、すきをみてにがしてくれた。あのひとはずっと……"あるじさま"のしていることにくるしんでいたよ………。でも、じぶんじゃとめられないって……ごめんなさいって』 「あるじ……奴隷商人の親玉の娘……か。その人も一緒に逃げたのか?」 『………わからない。すぐにみつかって……にげることでせいいっぱいだったから………。あのひとは、おってをひきつけてくれたんだけど…………っ』 ───みんな、ぶじでいるの? 『ね、約束だよ?きっと………また会おうね』 ───ミリィ……。 あのあと、ちゃんとにげられた? またあおうって、やくそくした。 ぼくの……いちばんのともだち。 『私のことはいいから逃げなさい!早く……っ!!』 ───マリューさん……。 ぼくたちをにがしてくれたひと。 どれいなかまいがいで、はじめてやさしくしてくれた……。 どうか、どうか、つかまってひどいめにあっていませんように。 服の裾を掴んで肩を震わせるキラを、アスランはそっと頭を撫でて慰めた。 不安と絶望に囚われそうになる心に、その優しさがとても温かく降り注ぐ。 キラは涙でにじんだ瞳を潤ませた。 『あの……ありがとう、たすけてくれて。まだ、ちゃんとおれいいってなかったよね……』 「………間に合って良かったよ。あの時………君の声が聞こえたんだ。『助けて』って、そう叫んでいただろう?」 その声を聞いて、アスランはあの時走り出した。 ひどく聞き取りにくいものだったように感じたけれど、確かにそう聞いたのだ。 『え………?で、でも…………』 キラは自分の喉元に手を当てて困惑した。 確かにあの時自分は、誰かに届いてと必死で『たすけて』と叫び続けていた。 けれど───。 「うん。キラは声を失っているから本当なら聞こえるはずなんてないんだけど」 『なら…………どうして?』 「さぁ、どうしてだろう?自分でも不思議だと思う。でも確かに、キラの声は俺に届いたんだよ」 そう言って、アスランは笑った。 ひどく奇麗な表情で───。 その後、キラはアスランの隣の部屋へと暫く泊まらせてもらうこととなった。 ごたごたを持ち込んだ以上追い出されることを覚悟していたアスランは、予想に反して快く了承してくれた宿屋の男主人の反応に逆に拍子抜けしてしまう。 そして、追っ手がかかった可能性を考えた、半ば隠れるようなその生活は始まった。 キラの身体は栄養失調で倒れる一歩手前という位に弱りきっていた。 ろくに食事も睡眠も与えられずに酷使され続けてきたのだから当然だろう。 その回復を傍で助ける為に、アスランは暫くこの街での滞在を延ばす事を決めていた。 元々先を急ぐ旅でもない。 そして明確な目的があるわけでもない。 奴隷売買という今最も国が目を光らせている違法行為の被害者であるキラは、街の警備隊を通じて国に保護を求めればその身の安全は恐らく保障されるだろう………通常ならば。 けれども、悪化した治安にも闇市に対しても見て見ぬ振りを決め込んでいるようなこの街の上の人間達が、自分達の不利となる材料を国に提出するとは思えない。 ただ、それよりなによりも。 幼げで愛らしい顔に不釣り合いな、孤独と哀しみの影を色濃く残すあの少女を───キラを、どうしてもこのまま放ってはおけなかった。 自分の手で何かをしてやりたかった───……。 しかし、キラの心の傷は周囲が思っていたよりもずっとずっと重いものだった。 数日かけてようやく体調が良くなってきた頃に発覚したのが、キラの夜の闇に対する激しい恐怖心。 夜中になり消灯すると、途端に全身をガタガタと震わせてベッドに潜り込んでしまう。 今にも迫り来る追っ手から身を隠すかのように……あるいは、根付いてしまったあの時の闇の中での恐怖のフラッシュバックから逃れようとするかのように。 何も見ないように、何も聞かないようにと。 時には強風で窓が鳴っただけでひどい恐慌状態に陥ったりもした。 そんな状態にいち早く気付いたアスランがキラを自分の部屋に移したことから、大分落ち着くようにはなったのだけど。 けれどその後も暫く、キラは夜が訪れる度に怯えた。 部屋を移った最初の二日はなかなか眠りにつけず、その後も一度寝入っても悪夢によって夜中に飛び起きるということが何度となく続いた。 その為、アスランとキラの部屋は一日中明かりが灯されている。 キラが夜の闇に脅かされないようにと。 人の好い宿の主人は、事情を知ると出来うる限りの協力を約束してくれ、アスランはそれに大分助けられることとなる。 あまりにも親身なその様に一度理由を尋ねれば、かつてキラと同じ年頃の娘を盗賊に攫われ殺されているのだと少し寂しそうな目で語ってくれた。 「この辺は物騒だからそんな騒ぎも度々起こるんです。私はあの子を助けてやれなかった……父親なのに。だからですかね……あの時の娘と同じ年頃の子や似た境遇に晒された子を見てしまうと、何かしてあげずにはいられないんですよ。結局は、自己満足に過ぎないんですがね」 その瞳は、大きな後悔と哀しみの中にも強い決意の光を宿していた。 多分この人は、これからも娘の思い出を痛みと共に抱えながらも、こうして傷付いた誰かに手を差し伸べながら生きていくのだろう。 この街で、ひっそりと。 遠ざかってゆく背中を見つめながら、アスランはそう思った。 そして、それからも宿で過ごすこと数週間。 窓から差し込む太陽の光で目覚めたアスランは、眩しさに目を細めながらゆっくりと体を起こす。 固まった節々を解すように伸びをしていると、すぐ傍らで何かが動くのを感じた。 少しだけぼんやりとした視界を傍らに移せば、ぽっこりと山の形に盛り上がった固まりがもぞもぞと居心地悪そうに身じろぎしていた。 ブランケットを捲り上げて現れたのは、仔猫の様に丸まって寝入ってるキラ。 とても穏やかな寝顔を見せて、小さく寝息を立てていた。 「おはよう、朝だよ?」 急に辺りが明るくなったこととアスランの声で少しだけ薄目を開いたけれど、すぐにまた菫色の双眸を閉ざして眠りに落ちてしまう。 暖を求めるようにアスランへと擦り寄りながら。 そしてその小さな掌には、昨日眠りにつく前からそうしていたように、今でもずっとアスランのシャツの裾を握りしめている。 あまりに微笑ましい光景に、くすくすと笑いが零れた。 相変わらず体の線はとても細いけれど、血色が悪かった顔は健康的な色を取り戻しつつあり、体中についていた擦り傷や痣なども今はその殆どが痕も残さず消えている。 伸び放題で手入れもされていなかった髪の毛を持ち前の器用さでアスランが切って整えてやれば、切った本人が吃驚するくらいにひどく可愛らしい人形のようになった。 キラもそれまでは肩や背中にかかっていた自分の髪がなくなったことが気になるらしく、慣れるまではよく短くなった髪の毛を引っ張っては不思議そうな顔をしていた。 あまりにも気持ち良さそうな様子に起こすのが可哀想になり、捲ったブランケットを戻してキラの肩にかけてやる。 そして、外れない手ごとキラを抱きしめて自らも二度寝の体制に入った。 どうせなら、今日はこのまま昼食の時間まで寝てしまおう。 その頃にはきっと宿の主人が苦笑しながら起こしにくるはずだから。 ようやくキラが静かな眠りを得ることができるようになったことに、アスランはほっと胸を撫で下ろす。 まだまだ不安定な部分は多いけれど、あの短期間になんとか普通に日常生活が送れるくらいには回復したのだから、思ったより順調にことは進んでいたらしい。 夜と暗闇は相変わらず苦手だけれど、今ではもう明かりを消して寝ることも平気になっていた。 最もそれは、アスランが一緒に寝ればという条件付きだけれど。 最初こそ『添い寝』なんていうしたこともない状況に随分戸惑ったものだけど、今ではもう慣れたものだ。 キラが自分に向けてくる純粋な信頼を嬉しくも思う。 ───きっと、妹がいたならこんな感じなのかもな……。 うとうとと眠りに誘われぼんやりとする思考の中で、そんなことを思った。 兄弟が欲しいと思ったことはなかったけれど、案外いいものなのかもしれない。 ひとりじゃない、ということは。 腕の中の温もりをどこか愛おしくさえ感じながら、そのまま眠りについた。 「………………なんだか、起こし辛いですね…」 アスランの読み通り昼食の支度が出来た事を告げに来た宿の主人は、その光景を見て───これもアスランの読み通りに───困ったように苦笑した。 中天に登った太陽の光をこれでもかというほど受けた部屋の中。 ひとつだけしかないベッドで身を寄せ合って寝入っている、青年と少女の姿───。 際立った秀麗な顔立ちを常より少し幼く見せて眠るアスランと、その腕の中に守られるようにして安心しきった表情で寝息を立てている可愛らしいキラ。 それは、額縁に入れてとっておきたいと主人が破顔しながら思ってしまう程に、穏やかで優しい光景だった。 ─────そして………。 『ねぇ、キラ?』 『行くところがないなら、俺と一緒に来る………?』 青年が少女にそう言葉をかけるのは、それから3日後のこと─────。 (───夜は………怖い…) (静かで、まっくらで、とても怖い) (全部ぜんぶ、呑み込まれてしまいそう) (………でも) (この人の夜は、優しい) (静かだけど、あったかくて、安心する) (優しい夜の色) (アスランの色) ───だいすきな、いろ。 |