【3】その時芽生えたもの








「遅い…なぁ……」


夕焼けに染まる空を見つめながら、ぽつりと呟く。
全開の窓の外、然程大きくはないが趣味の良い彫刻を施されたテラスにキラはいた。
振り返って部屋の入り口を見つめても、待ち人は来る気配もなく────。

肩を落とすキラを慰めるように、トリィが空から舞い降りて来てその頬に擦り寄った。
その仕草に小さく微笑んだキラだったけれど、瞳は依然と寂しげなまま。

「…………アスラン」

微かな呟きは、そのまま空へと溶けていった。








アスランとキラが領境を超えてレイゼルへ入ってもう一週間が経つ。

今ふたりは、この地方の中では指折りの大都市の領主の屋敷に世話になっていた。
───というのも、ゼタとレイゼル間の領境越えの際に偶然出会った商人達の護衛をアスランが頼まれたことが事の発端だった。
山越えのルートに入ってから幾度も荷馬車を襲われ、それまで雇っていた人間を怪我で使い物にならなくされて困っていた商人達は、アスランを腕の立つ剣士と見込んで護衛の仕事を依頼する。
破格の報酬と共に。

それに一旦はキラを危険に曝せないと拒否の意を示したアスランだったが、商人達の嘆願と、何よりもキラの言葉とでそれを了承することになる。

『この人たちのこと、なんとかならないのかな?』
可哀想、こんなに困ってて……────そんな風に哀しげに瞳を潤ませるキラを、アスランが無視できるわけがなかった。

最も、短い距離の割にかなり高い報酬は、旅を続けていて何かと物入りになるアスラン達にとってはまたとない良い話ではあったのだが………それでもアスランはキラのあの言葉がなければそれを受けることを決して選ばなかっただろう。
ひとりで旅をしていた頃にはよくそういった護衛の仕事で路銀を稼いだりもしたけれど、今では受ける事は殆どない。
あるとしたらそれは、キラを安全だと確証が得られる場所へと預けた時のみであり、それも期間が2、3日程度という本当に短期のものだけ。
この1年と少しの間に、アスランの最優先事項は完全に彼の少女へと移っていた。
けれども、そんな自分をらしくないとは思ってみても、嫌だとは思わない。
とても自然に、アスランはそれを受け止めていた。


そして無事に山越えを終えて目的地であるこの街に到着した一行は、商人達の雇い主である領主の屋敷へとやってくることになる。

領主は30代前半のその地位にしてはかなり年若い男性で、彼は事情を聞くとアスラン達にとても感謝し、自らの屋敷へと招待し滞在する間の部屋も用意してくれた。
キラは初めて見る豪奢な造りの部屋に、ひたすら目を白黒させてはそわそわと落ち着かない様子を見せて、周囲に微笑ましげな表情を浮かべさせていた。
次の日になるとようやくそのそわそわも少し落ち着いてはきたけれども。


ただ、ようやく環境にも慣れてきたのに、キラの表情は明るさを取り戻さない。
大きな部屋でひとりきり、空ばかりを見上げている。
屋敷の中や街を誰かに案内させようかという本来なら嬉しい領主の言葉にも、ただ横に首を振るだけだった。
アスランが居る時がいい───と。

今アスランは屋敷に配属されている兵士達の訓練をつけている頃だ。
アスランの腕を買った領主から『もし宜しければ───』と頼み込まれたものだったけれど、彼はそれに快く応じた。
元々ただ屋敷に置かせてもらうことにも抵抗があったせいだ。
昼過ぎから夕暮れ時までの数時間その訓練は続くので、その間キラは殆どの時間を部屋の中でひとりで過ごしている。
気晴らしに外に出てはどうかと、キラ達の世話を任されたメイドが控え目に勧めても、キラの首が縦に振られることはなく─────。




そして、今日もひとり寂しげにベッドに座り込んでいるキラ。
そんな主を元気づけるために外へ誘い出そうとでもしているのか、トリィが先程から窓の外と中を行ったり来たりしていた。

何気なくその様子をぼんやり眺めていると、不意に扉がコンコンとノックされた。

キラはそれに気付いてはっと顔を上げる。
アスランが帰って来たのかもしれない。
けれど暫くの間があった後に扉を開けて姿を現したのは、今はキラ達付きをしているメイドだった。
「あ……………」
アスランじゃ、なかった………。
落胆の溜息が思わず漏れる。
でもすぐにそんな自分の失礼な態度に気付いてあ……っと口を塞いだ。

アスランよりも2つ3つ下くらいのメイドは、そんなキラの様子に気付きつつもちっとも嫌な顔をせずに小さく微笑んだ。
口元にできるえくぼが印象的で愛嬌がある。
「キラ様。温かいお茶が入りましたのでお持ちしました」
「あ………あり…がとう」
もう3日目になるけれど、こういった敬語や丁寧な扱いをされることには未だに全く慣れずにいる。
最初など、自分も思わず周囲に合わせて使い
慣れないしどろもどろな敬語になってしまって笑われたこともあった。
ただキラからすれば、アスランに拾われる前はもちろんその後でもこんな経験はなかったのだから、仕方ないのかもしれない。
どう受け答えしていいのか全く分からないのだ。
キラは相変わらずどこか緊張が抜けないままでメイドの方を伺っていた。


キラは意外と人見知りをする。
元々の性格が人懐こいせいか、ある程度慣れればすぐに打ち解けるけれども、どんな相手でも初対面の時やあまり面識のない相手にはひどく緊張してしまう。
仲良くなりたいというキラの意志に反して。
ひとに心をゆるすことができない自分を、キラも歯がゆく思うことは多々あった。
相手に嫌な顔をさせてしまうのが、もういいと突き放されてしまうのが怖い。
それでも、こればかりはキラがどうにかしようとしていても中々思うとおりにいかなかった。


「ああ、また窓を開けたままにしているんですね。今の時期、夕暮れ時はかなり寒くなりますから冷えてしまいますよ」
「う……うん」
この地方特有の少し甘みの強い紅茶をいれてテーブルに並べると、メイドは開け放たれた窓の鍵をかけてカーテンを引いた。
「アスラン様ですけれど……今日は少し遅くなられるとのことです」
勧められるままにイスに座ってカップを手に取ったキラに、メイドは少し言い難そうに告げた。
「え………?」
「訓練は終わったみたいなのですが、そのあと領主様とお話があるとのことですので………夕食に間に合わなそうならばキラ様だけでも先にと申しつかりました」
「………………そっか……」
つ……と視線を手元に落としながら、キラは紅茶を啜った。
甘いはずのその紅茶がやけに苦く感じたのは、きっと気のせいではなかっただろう。










「それでは、やはり引き受けてはもらえないと………?」


キラが居る屋敷からは少し離れた場所にある建物での訓練を終えたアスランは、その場に現れた領主に誘われて彼の執務室へと通された。
そこでアスランは、領主からある提案をされた。
『以後も自分の元で働いてはくれないか』───と。
すなわち、アスランを先日の臨時的な護衛ではなく、正式に雇いたいということだった。
もちろんキラのことも含めてと。

アスランはその申し出に一寸目を見開いたが、すぐに元の表情に戻ると丁寧に断りを入れた。
だがそれでも中々諦められない領主は幾度も待遇の良さを強調したけれど、アスランは決して首を縦に振ることはなく、ようやく諦めの色を見せ始めている。
そのことにアスランは内心ホッと息を吐いた。


「申し訳有りません。ですが私達はあくまで旅の途中……行き先が重なっていたから手をお貸ししたにすぎない」
「………そうか。それでは諦める他なさそうですね。貴方のような強い剣士が居てくれればこちらとしても頼もしかったのだが」
心底残念そうに呟かれて、アスランは思わず苦笑する。
「ならばせめてこの街を出るまでは、ぜひ我が屋敷でゆっくりとしていってください。それくらいのお礼はしたい」
その申し出にアスランは少し考え込む。
ある意味"根無し草"のような生活の自分達には有り難い申し出だった。
いつまでも世話になり続けることに少し戸惑いは感じるものの、しかしここで断るのはせっかくの領主の好意を無駄にすることになる。
「………分かりました。それではお言葉に甘えさせて頂くことにします」
「それは良かった。これまで断られてしまえば、私の立つ瀬がなくなってしまいますゆえ」
領主はからからと豪快に笑うと、アスランにイスを勧めた。
アスランがそれ応じると、そこから和やかな談話が始まった。
この屋敷に招かれた時から思っていたが、この領主には貴族にありがちな市民を見下す視線を全く感じない。
言葉使いも高圧的なものがなく、先程の護衛の話でも自分の望みを最後まで押し通す様子がなかったことにアスランは好感を抱いていた。

そしてこの地方の現状やアスラン達の辿ってきた旅路等を話し込むこと約1時間…。
辺りがすっかり薄暗くなったことに気付いて、アスランはそろそろ部屋に戻ることを告げた。
キラへの言付けを頼んでいったいどのくらい経っただろう。
先に食事を取っているだろうけれど、部屋でひとりで待つキラのことが気掛かりだった。
キラが慣れない場所にひどく戸惑って心細く思っているのは知っているから、なるべくならば傍に付いていてやりたい。


「アスラン殿」


軽く会釈をして執務室を後にしようとしたアスランは、扉のノブに手をかけた所で呼び止められて振り向いた。
視線の先には、真摯な光を宿した目で見つめてくる領主の姿があった。
「私は、こう見えて若い頃は剣の道を志したことがある。最も、父の後を継ぎこの立場になるまでであって、今はもう剣を握ることもなくなってしまったが………」
「…………?」
「だが、そんな腕の鈍った私でも、まだまだ剣の筋を見極める目は衰えてはいないと自負しております」
突然始まったその話にアスランは一瞬首を傾げる。
しかし領主はそれに気付きつつも気に止めることなくそのまま続けた。
「先刻兵達の訓練の折拝見させていただいた貴方のその剣技。それほどに華麗でありながらも全てを凪ぎ払うかのように力強い剣を、私は見たことがない。それほどの力を有する貴方は、本当にただの旅の者なのですか?」

疑問の形を取ってはいたけれど、それは確信に近い程に揺らぎない言葉だった。
アスランの瞳がすっと細めらる。
ただそれは、傍から見て分かるか分からないかというくらいの微妙なものだったけれど。

「それにあの構えと太刀筋………それと酷似したものを、私は昔一度だけ見たことがある。父に連れられて王都へと上がった時に、ただの一度だけ………王国騎士の最高位である王宮騎士団の訓練に幸運にも立ち会う機会に恵まれた、その時に」
じっと向けられる視線に、アスランは無言で返す。
澄んだ緑の双眸はただ静かに領主を見つめていた。
「研ぎすまされた刃は隠せない。貴方の振るう剣は、彼らの剣と同じだ。例えその手に握るものに栄えあるクライン王国の紋章が刻まれてなくとも」


「貴方は元々王国の────」

「領主殿」


それまでただ聞き入っていたアスランが、静かに口を開いた。
張りつめた空気がふたりの間を流れる。
領主は、続けようとしていた言葉を忘れたかのように思わずぐっと黙り込んだ。
理知的な瞳が真っすぐに自分を貫く。
ただ見つめられているだけなのに、何故こんなにも………?
領主は、静かだがとてつもなく重い威圧感を感じて心の中で呻いた。
いかに辺境の地方といえど、レイゼルの中でも一、二を争う大都市であるこの街を治める貴族である自分を、視線だけでこうも縛るなどとは。

「私はただの旅人です。日々を行く宛てもなく彷徨い続けている、ただの……」
アスランは飽くまで静かに続けた。
眉一つ動かさずに淡々と語るその姿は、秀麗な顔も相まってさながらよくできた人形のようにも思える。
「ここにいる私が私の全てです」
少しだけ瞳を伏せながら、それでも告げた言葉は力強かった。
迷いのない視線と共に。
「……………昔がどうあろうとも」
呟くようにしてそっと続けられた言葉を、果たして領主は聞き取れただろうか。
アスランが、「それでは……」と改めて会釈をした後に部屋を辞する様を、領主は固唾を呑んで見守っていた。
完全に雰囲気に呑まれ、見守る他なかった。
閉じられた扉がパタンと音を立てるまで、領主は動けずにいた。










「……………?」
そろそろ就寝の準備をしようとそれまで寛いでいたソファから離れようとした時、くいっと服の裾を引っ張られる感触に気付いて、アスランは振り返った。
視線の先には、隣でついさっきまでうとうとと迫り来る眠気と闘っていたはずのキラの手が……。
しかもぼんやりとしていた瞳は今ではしっかりと開かれている。
「キラ?」
「……………」
「どうした?」
「……………」
キラは何も喋らない。
ただ、縋り付くように伸ばした小さな手にぎゅっと力を込めるだけ。
まるでまだキラが声を失っていた時期に戻ったみたいだと、アスランはふと思った。
今思えば、こうして普通にキラと言葉を交わすことができるようになるなんて、望んではいたけれど多分どこかで信じきれていない部分があの時はあったと思う。
「キーラ?眠いのか?」
何の反応も返してくれないキラにアスランが少し困ったようにそう聞くと、かたくなだった手からは拍子抜けするほどにあっさりと力が抜けた。
重力に従って下へと落ちた手を引き寄せ、キラをそれをぐっと抱え込む。
俯いていて表情は読み取れない。


「…………なんでもない」
かろうじて聞き取れるくらいのか細い声で、そう呟く。
睡魔に誘われ、そして眠いのならこのまま寝て良いよとアスランに許され、そのまま眠りの世界に行こうとしていた時。
隣にあった温もりが離れて行くのを体全体で感じた瞬間、キラは思わず飛び起きてアスランの服を掴んでいた。
アスランが傍を離れて行ってしまうことが、何故か無性に怖かった。
今日は久しぶりに随分長くアスランと離れていたせいかもしれない。
帰りを待つ間がひどく寂しくて、心細くて仕方がなくて。
それを引き摺ってるから、こんなにも揺れてしまうのだろうか。

いかないで。
ひとりにしないで。

心が叫んで、張り裂けてしまいそうだった……。
でも…………言えない。
言ってアスランに迷惑をかけるのが辛い。
いらないと言われてしまうかもしれないのが怖い。
キラには、アスランしかいないから。
アスランに必要とされなくなってしまえば、自分には何も価値なんてない。
だって自分の命は、アスランに拾われ救われたからこそ此処に在るのだから………。


「指が傷付いてしまうよ」
今度はキラ自身の服をぎゅっと力いっぱい握りしめているその手を、アスランはそっと握って離させた。
そして俯いたままの頭に優しく手を置いた。
「キラは全然我が侭も文句も言わないね」
困ったような寂しいような瞳で、アスランは呟いた。
「いい子だけど、いい子すぎる」
その言葉に、キラはびっくりして顔を上げた。
バイオレットの大きな瞳には、うっすらと涙が溜まっている。
それを指先で拭い取りながら、アスランは膝を折りソファに腰かけているキラと視線を合わせた。
「キラ、もっと強請って良いんだよ?何がしたいとか、何が欲しいとか、もっとそういうことを俺に言って良いんだよ?」


キラが今日一日ずっと寂しい思いをしていたことは知ってる。
この街に来てからは環境も何も今までとは全て違って、まだ人に慣れきることができずにいる彼女はひとり心細かったっだろうに。
その上唯一の頼みでもあるアスランさえここ数日は一緒にいることがあまりできずにいたのだ。
『キラ様、ずっとアスラン様をお待ちしていましたよ。とても寂しそうで、見ていて可哀想なくらいに……』
キラに目をかけてくれている世話役のメイドは、そう言っていた。
誰かに言われるまでもなく、そんなことは分かっている。
ちゃんと分かっているはずなのに、結局はキラに哀しい思いをさせてしまった自分が嫌になる。
でもキラは、遠慮して何も言わないから……。
寂しいとも、行かないでとも。
ずっと自分の言葉なんて一切聞き入れてもらったことがないから、願うことや縋ることの効力も意味すらも忘れてしまっているのかもしれない。
自分の願いが、誰かの負担になるのだと思い込んでしまっているふしがある。
だからキラはアスランにさえ……いや、多分アスランだからこそ何も言わないのだ。
でも、それこそが寂しいと思う。
もっともっと頼って甘えてほしいのだと、そう願う。
初めての感情に戸惑うけれど、それがアスランの何よりの本音だった。


「諦めばかり覚えないで欲しいんだ。今はもうキラは籠の鳥じゃない。望めば手に入るものだって、沢山じゃないかもしれないけれど確かにあるんだ」
「………………」
「だから遠慮なんてしないで。キラが望む事があるなら言って欲しい」
ぎゅっと耐えるように唇を噛み締めているキラ。
再び溢れそうになる涙を止めようと、必死で。
でもアスランは、そんな我慢も今はいらないのだと優しく髪を撫でた。
「全部は叶えられないかもしれないけれど、それでも俺に出来ることならするから」
キラは、アスランが哀しい顔をするのが嫌だった。
とくに自分のことでアスランが哀しむのがとてもとても嫌だった。
今のアスランは、どこか寂しそう。
それを自分がさせているのだとしたら、キラはそんな自分がすごく嫌になる。
だから─────。

小さくこくりと頷いたキラに、アスランはひどく嬉しそうな顔で微笑んだ。










キラが5人くらい寝れそうな大きなベッドで、キラはアスランの腕に包まれて眠る。
アスランの長くて力強い腕は、広くて温かい胸は、何よりもキラを安心させてくれる。
ひとりじゃないよと。
包み込まれる度に、そう囁かれているような気がしてとても幸せな気分になれるから。

ベッドに入ってどれくらい時が経つだろう。
珍しく一度寝入った後に自然に目を覚ましてしまったキラは、ぼんやりと高い天井を見上げていた。
すこし首を横に動かすと、アスランの奇麗な顔が視界一杯に広がる。
キラはなんだかとても触れてみたくなって、アスランを起こさないように注意しながら右手をそっと伸ばした。
指先で触れた頬は少しだけひんやりとしていた。
アスランはキラによくこうするけれど、キラからアスランの頬に触れたのは多分初めてのこと。
それがなんだかちょっと嬉しくて、キラは小さく微笑む。
誰かに触れて安心するなんて、今まで知らなかった。
奴隷として飼われていたころは、誰かが傍にいるのが恐くて仕方なかったのに。
まわりに居る誰かは、いつもキラを叩いたり蹴飛ばしたり怒鳴りつけたり─────いいことなんて、ひとつもなかったから。
そんなことが続くうちに、奴隷仲間とさえも触れ合うことが恐くなっていった。
唯一の例外は、キラをまるで妹のように可愛がり、あんな酷い状況の中でも明るさを失わず優しく接してくれたミリィだけ。
アスランの腕は、ミリィと同じように安心した。
いや、もしかしたらそれよりもずっとずっと─────。


そこまで考えて、キラは思わず自分の手をじっと見つめてしまう。
人の体温を何よりも恐れてた自分が、今はそれを失うことを恐れている。
今日はとくにそうだった。
広い部屋の中、ひとりきりでいることが耐えられないくらいに辛かった。

(なんでだろう。ずっと、そうやって暮らしてきたから、慣れてるはずなのに)

孤独には慣れていた。
むしろ望んでいた。
ひとりだけ薄暗い部屋の中に閉じ込められたことだって何度もある。
誰かが傍にいればいつも傷付けられた。
だから、ひとりきりは恐くて辛くてよく泣いていたけれど、慣れてしまえばどこかホッとした。
その頃を思えば、今の状況の何に怖がる必要があるのだろう?
あの当時とは比べ物にならないくらい広くて奇麗な部屋の中、誰も彼も優しくしてくれて殴られることも罵声を浴びることもない。
アスランだって、ずっといないわけじゃなくてちゃんと帰ってきてくれるって分かっているはずなのに………。
それなのに、ちょっと離れている間が何故か辛くて辛くて仕方なかった。

(慣れてるはずだったのに………なんで、あんなに苦しかったんだろう?)

自分の中に答えを求めても、返ってくるものはなにもなく。
キラはただ抱えきれない思いに押しつぶされそうになる。
あの時、商人達をなんとか助けられないかと言ったのはキラだ。
アスランに直接頼んだわけではないけれど、結局は同じ事………キラの言葉がなければ、アスランはそうしなかっただろうから。
それなのに、結果この屋敷で世話になることになってから、キラはどこかモヤモヤした思いをずっと抱えていた。

引き受けてくれたことにひたすら感謝する商人。
アスランを気に入り、いつも彼を連れて行ってしまう領主。
厳しいけれど内容のある訓練を受け、アスランの強さに敬服し指導を仰ぐ兵士。
屋敷の廊下ですれ違う度に頬を赤らめて噂し合うメイド。

そんな姿を見る度に、モヤモヤが大きくなっていくような気がするのだ。
哀しいような、苦しいような、よくわからない感情。
それが何か分からなくて、キラは小さく溜息をついた。
アスランは知ってるのだろうか?
この気持がいったいなんなのか。
それでも何故か、それを聞いてはいけないような気がする。
聞けばもしかしたらこのモヤモヤの正体が分かるかもしれないのに、
でも………何故だか知ることも恐いのだ。
知ってしまえば………何かが大きく動いてしまいそうで。

深い眠りについているアスランの寝顔を見つめながら、キラは思う。
全ての鍵は、アスランが握っているのだろうか?

漆黒の暗闇の中でもがくキラを見つけて、そこから救い上げてくれたひと。


「ねぇ……僕を変えたのは、アスラン?」