【4】予感 第1話








「キラ?そろそろ部屋に入らないと風邪を引くよ」
「うん……あとちょっとだけ」
「さっきからそうしてるけど、何か見える?」
「お星さまが沢山。小さいのもいっぱいあるよ」
「そうか……今日は朝から天気が良かったからね。…………ああ、本当だ、いつもより奇麗に見える」


夜空を指差して嬉しそうに言うキラに誘われ、アスランもテラスへと出た。
見上げるそこは、まさに星空。
大小様々な星が瞬いて、蒼白く清廉な光を纏う月と共に暗闇を彩っている。


飽きる事なく星を見続けている横顔を見つめながら、アスランは小さく安堵の溜息を零した。
最近は本当に落ち着いている。
出会った当初は、キラがこうしてひとり夜空を見上げることが出来るようになることなど、もっと遠い未来だと思っていたのに。
ただ、暗闇を怖がっていた時にも何故だか夜空だけはすぐに慣れた。
キラに言わせれば「同じだから」だそうなのだけど、いったい何が同じなのかはアスランは未だに分からない。


「……………なんか、ずっとヘンな感じがするの」

空から視線を外さないまま、ぽつり。
急な台詞に、どうかしたのかとアスランが尋ねると、キラはちょっと困ったように眉を寄せた。
「よく分からないんだ。でも、なにか………ヘンな気持ち。さっきからずっと」
「うん?」
自分でもきっとよく分かっていないのだろう。
小首を傾げてうーんと唸りながらも、キラはアスランを見上げてこう言った。


「なにか、起きそうな気がする」


それは予感。
得体の知れない確証さえもない幻の未来からのシグナル。

「何か?」
「うん………胸がドキドキする。なんだか……よくないことが、起こりそう……」

困惑を隠せずにそう呟くキラ。
揺れる瞳がどこか不安げにも見えた。
アスランも突然の予言めいたそれに少し困惑したものの、ふと表情を和らげて眼下にあるく栗色の髪をくしゃりと撫でた。

「……大丈夫、気のせいだよ。きっと、今日初めて剣の訓練なんて間近で見たからその余韻が残ってるのかもしれない」
「………う…ん。……きっとそうだね」
「ほら、もう部屋に入ってそろそろ寝よう。明日は朝から街に出るんだろう?」
「あ、うん。ライさんが案内してくれるって。楽しみだね」
「ああ、ちゃんと街を見て回るのは初めてだからな。だからほら、明日に備えて今日はしっかり寝ておかないと」
「はぁい」

そしてその後は言葉通り早々にベッドに潜り込んだ。
最も、キラは次の日が待ち遠しいからかそわそわしてなかなか寝付けなかったみたいだったけれど。


その時は、特に気にかけなかった。
ただ、何故そんなに不安そうにしているのかが分からなくて、とにかくそれを取り除いてやりたいと思ったからなるべくすぐ話題を変えた。
そうしたら、暗い表情が消えてすぐに明るい表情に戻ったから、安心して。

だから、それきり忘れていたんだ。

キラの漠然とした不安を。
呟いた言葉を。

ただの偶然だといってしまえばそれまでだけど。
今思えば、キラにはこの時何かが見えていたのだろうか───?

見上げる夜空の、星の煌めきのその先が。



『なにか、起きる気がする』



今までの穏やかなぬるま湯に浸っていたような状況を一変させるに十分足る。

─────あの、出来事が。










「すごい……こんなに広い道、見たことない。それに、人もいっぱい!」
「広いだけではないぞ。この辺りは特に街一番の人口密集地だから、内容も濃い。店を全部見て回るつもりならば、明日もこの時間から夜まで駆け回らねばならない」
「へぇ……すごいところなんだね、ライさん」
「ああ。私の自慢の街だ」

しきりにすごいすごいと驚くキラに、この街の領主たるライナス・カーライル男爵は陽気な声で自分の治める街を誇らしげに語った。

彼の屋敷に身を寄せるようになってから早いものでもう6日目になる。
最初は怖がって(というよりも緊張して)なかなか屋敷の人達と打ち解けることが出来なかったキラも、段々と普通に話ができるようになってきた。
特にカーライル男爵に対しては初めの頃のギクシャクした感じが抜けて、周囲が目を見張る程に親しくなっていった。
そんなふたりの様子がまるで親子のようだと使用人達などは微笑ましく見守っている。
未だ子供のないカーライル男爵もキラが懐いてくれるのが嬉しいらしく、辿々しく「領主さま」と呼ぶキラに「ライナス、もしくはライでいい」と爵位を持つ貴族とは思えない破格の待遇を満面の笑顔で申し出た。
───アスランも同じくそう言われたのだけど、流石に男爵たる彼を名前で呼び捨てにするのは……と遠慮した。
ただ、客人であり恩人でもあるのだからせめて「領主殿」といった他人行儀はよして欲しいと言われたので、それくらいならばと受け入れたけれど。


カーライル男爵直々に案内され、珍しいものを取り扱う骨董品店やこの付近の名産の果物を扱う店、それに自分が時々隠れて来るというお気に入りの料理屋などに連れていってもらい、キラはもちろんアスランも楽しい時間を過ごしていた。
そして、賑やかでおいしい昼食を取り、次は何処に───とプランを練っている最中のこと。
街を巡る際ずっと距離を置いて身辺警護の任に当たっていたひとりの兵士が、カーライル男爵の元に歩み寄りそっと耳打ちをした。
瞬間、少しだけ驚いた顔をした後に訝しげに寄せられた眉。
兵士が離れた後も、男爵は難しい顔をしたまま何かを考え込んでいる様子だった。

そんな男爵に何かあったのかと声をかけようとしたキラをやんわりと制して、アスランはその様子を伺っていた。
何か予期せぬ事態が起こったようだと、冷静に分析しながら。


「すまない、ふたりとも。まだまだ案内したい場所が山のようにあるのだが……どうやら屋敷に戻らねばならぬようだ」

ふたりの方を向いたカーライル男爵は心底残念そうにそうだった。
けれど、その瞳はどこか鋭さを残したまま。
いつも穏やかな瞳をしている人なだけに、その落差は激しい。
余程の事があったのだろうかとアスランは少し眉を寄せたが、それを問える立場でもなければ、問う権利もない。
ただキラは、突然の楽しい時間の終わりを告げる声に寂しそうな顔をした。

「すまないな、キラ。この埋め合わせは必ずしよう。だから私を嫌って早々に街を出るなどとは言わないでおくれよ?」
ふわりと頭を撫でられて、キラは少し躊躇った後小さく頷いた。
ちょっと悲しいけれど、仕方がない。
それに、このくらいで嫌うなんて有り得ないから。
そんなキラに男爵は安心して微笑むと、今度はアスランの方に向き直った。
「アスラン君もすまない。案内は出来なくなってしまったが、良ければふたりで街を巡ってみるといい。道は………君なら分かるかな?」
「大丈夫です。訓練後に何回か歩いたことがありますから」
「そうか。それでは是非楽しんでいって欲しい。ところで、護衛は必要かね?この辺りは治安は良い方だが、念のためということもある」
自分の警護をしていた兵士達を見遣りながらそう問えば、アスランはいいえと首を振った。
「そこまで気を使う必要はありません。それに彼らは飽くまでカーライル男爵の警護が仕事なのですから」
キラに守りは必要かと問われていることは分かっている。
けれど、それは必要ないだろう。
「ははは、愚問か。君こそが最大の守りなのだからな」
カーライル男爵は満足そうに笑うと、兵士達を連れて自らの屋敷へと戻っていった。


「どうする?流石に案内はできないけれど、キラが見て回りたいならいくらでも付き合うよ。それとも、俺達ももう戻る?」
「……………」
その言葉にぴくりと反応したキラは、思わず彼を見上げた。
そんなキラの表情を見てアスランは思わずぷっと吹き出してしまう。
───そこまであからさまな顔しなくたって……。
明らかに『そんなのイヤ』と言っているキラの表情。
アスランはくくくと笑いながら、素直すぎる少女の手を引いて歩き出した。
「……アスラン?」
どこいくの…?ときょとんとしながらキラが問えば。
「とりあえず、キラの喜びそうな所でも探そう」
楽しそうに彼はそう答えた。





「あ………」
「……?どうしたキラ?」
「何かあったのかな?ひとがいっぱい……」
キラの指差す方向を見れば、先にあるちょっとした広場のように開けている場所に人だかりができていた。
先程通った露店街の人だかりとはまた違う感じがする。
「通れるかな?」
大切そうに抱えている黄色の花束を見下ろしながら、不安そうにキラが呟いた。
露店街を見て回っていた時にアスランが買ってくれたその花が、人混みの中で潰れてしまうのではないかと心配しているらしい。
「そうだな……。俺が人をかき分けていくから、キラは離れずに付いてくるんだよ?」
「うん」

近付いてくと、ざわざわとした喧騒が大きくなって来る。
かなりの人数───二、三百人は軽くいるかもしれない。
何があったかは知らないが面倒だな……とアスランは内心で舌打ちをした。
そしてそのまま後ろのキラを気にかけつつ人混みをかき分けて行こうとしたその時。
人だかりの先にちらりと見えたものに、アスランは思わず足を止めた。
急に止まったアスランの背中にぶつかったキラが小さく悲鳴をあげたけれど、それに気付く様子もない。

「アスラン?」

いつもならどんなに微かでも聞き取るキラの声すらも、今のアスランには聞こえていなかった。
いったいアスランが何に気を取られているのか気になったけれど、キラの身長では周囲の人々が壁になっていて何も見て取る事が出来ない。
人混みの中に埋もれたキラにできることは、微動だにしないアスランの後ろで彼を不安そうに見上げることだけだった。


「まさか………」
アスランは思わず口に出して呟いていた。

(こんな地方都市に何故国王直属の騎士がいる………?)

アスランが見たのは、緑色の軍服を身に纏った数人の兵士だった。
そしてさらにその先にちらりと見えたのは、形こそ緑の軍服と同じだが、深紅に染め上げられた鮮やかな─────。

この場所に集まった人々は、この見慣れない一団を見る為に集まっているらしい。
知らない者が見れば、どこか名のある貴族お抱えの兵士だと思うかもしれない。
けれどアスランは知っている。
あの軍服は……特に深紅の方は、王国騎士の中でも中枢を担う"王宮騎士団"の正装だ。
胸元と腕に戴くクライン王国の紋章こそがその確かな証。
クライン王国の騎士の中でも最も栄誉ある、通称"紅"と呼ばれる精鋭ぞろいの騎士団。
国王直属でありその名の通り王宮を───王を守ることを第一とする彼等は、本来ならば王のお膝元である王都から離れることは有り得ないはずだった。

それが───何故……?

それだけでも十分にアスランの心に動揺を呼んだけれど、ただそれ以上に気になったのは彼らのすぐ横に配置されている馬車だった。
豪奢な装飾こそないが、質が良い材料を使った頑強な造りのそれに付けられた紋章を、アスランはよく見知っていた。
旅に出てからは目にしたことなど一度としてなかったけれど、見忘れるはずもない。
それは王国のとある貴族の紋章。
王都の東に広がる、王都に次いで広い領地であるローランド地方を国より与えられた、筆頭貴族と呼ばれた家の家紋。
今はもう失われたはずの─────。

「いったい何が………」

半ば呆然とアスランが呟いた時、急に周囲の人だかりが崩れ始めた。
ようやく街の警備隊が到着したらしく民衆へ即刻の解散を命じたのだ。
咎めを受けることを恐れて慌ててその場を逃げ出す人々。
「………っ?!」
前後から押されてはっと意識を周囲に戻したアスランは、しかしその圧力に逆らえるはずもなく一方へと流されていく。
流されるままに押し出されていく中で、アスランは自分の服の裾を引っ張る手に気付いた。
しがみつくように、離れないように必死で縋り付くその小さな手に。
「キ…………!!」
慌てて掴もうとした時にはもう遅かった。
手は離れ、キラの姿はアスランとは別の方向へと押され人の波に攫われあっという間に見えなくなってしまう
「キラ………ッ!!」
なんとか戻ろうとしても、一気に流れ始めた何百という人波に逆らうとこができるはずもなく─────。
アスランはだた、人にもみくちゃにされながら見えなくなってしまったキラの名を呼び続けることしかできなかった。





「い…痛ぃ………」

アスランから引き離され流されるままになっていたキラがやっと解放されたのは、その場所から大分離れた細い通りでのことだった。
すっかりぐちゃぐちゃになってしまった髪の毛がそのもの凄さをあらわしている。

「花……大丈夫かな」
キラは腕に抱えていた花束を見遣った。
もみくちゃにされながらも花を守ろうとなんとか小さな体で庇っていたけれど、守る為に抱きしめていた分潰れてしまっていた。
黄色の鮮やかな花びらがぱらぱらと数枚落ちるのを見て、キラは泣きそうに顔を歪める。
「ごめんね……」
よれよれになってしまった花が可哀想で、キラはなんとか少しでも元に戻そうと奮闘するけれど、散ってしまった花びらも折れてしまった茎ももうどうにもならない。
「せっかく……アスランが買ってくれたのに………」
悲しげに呟いて、しかしそこであることを思い出す。
「アスラン…………?」
辺りを見回してもあるのは見知らぬ人の姿ばかり。
求めるその姿はどこにも見えない。

「アスラン……どこ………?」

見知らぬ人達。
見覚えのない場所。
見えないアスランの姿。

(どうしよう………迷子に、なっちゃった………?)

キラの心にどんどん不安が込み上げてくる。
なんとか冷静になって元の場所に戻ろうと思ってみても、どうやってここまで流されてきたのかも全く分からなかった。
ひとりきりの自分。
こんな右も左も分からない場所で。
アスランと出会ってからはこうして街に出る時はいつも一緒だったから、キラは余計に不安に襲われる。
アスランがいない時にいつもキラを慰めてくれたトリィも、今日は色々な所を回るからと屋敷での寝床でもある鳥籠の中においてきてしまった。
だから、こんな風に本当にひとりきりというのは滅多になくて。それが心細さに拍車をかけてゆく。

震えそうになる手をぎゅっと握りしめる。
不安に竦んでしまいそうになる足をなんとか踏みしめて。
ひとりきりはとても恐いけれど、こうしていたって何も始まらない。
それに、いつまでも自分から何もできなくてアスランをただ待ってるままじゃ駄目だと思うから。
「ライさんのお屋敷に戻れば………」
そうすれば、きっとアスランも戻ってくる。
自分で自分に喝を入れて、キラは花を抱え直して歩き出した。





屋敷に戻ろうと決めたはいいけれど、カーライル男爵やアスランに連れられるままに歩いていたキラがその道筋を覚えているはずもなく……。

途中見覚えのある店や通りに出て「もしかしたら……」と希望を持ったりもしたけれど、全部ただそこだけを覚えてるだけで先へ繋がることはなかった。
何度目か分からない同じ場所に戻ってきてしまって、キラは途方に暮れる。
いったいどのくらい歩いたのか分からないけれど、アスランと逸れた時よりもだいぶ太陽が傾いてきているのは分かった。
「どうしよう……このままじゃ、夜になっちゃう……」
込み上げてきそうになる涙を必死で耐えた。

本当は、人に聞けばなんとかなるかもしれないと分かっている。
この街を治める領主の屋敷なのだから、知ってる人はきっと多いと。
けれどキラはどうしても道行く人に声をかけられずにいた。
見知らぬ人が怖いから。
まだ少し人が苦手なキラは、なかなか自分から話しかけることができない。
初対面の人は特に。
アスランが傍にいてくれる時ならば別だけれど、ひとりきりの時では見知らぬ人に声をかけるなどまず無理だった。
相手が自分に危害を加えると思っているわけじゃない。
でも、過去の傷がどうしてもキラの心を縛り付けて離さないから……だから心を決めて話しかけようと試みても、寸前で竦んでしまう。
そんな進歩のない自分が、キラは情けなくて嫌で仕方がなかった。

「あすらん………」

涙の代わりに零れ落ちるのは、キラの唯一の人の名前。
結局はこうして助けを求めてしまう。
いつもいつもキラを気に懸けてくれてキラを守ってくれる、誰よりも優しくて誰よりも大好きな人。
古びた大きな建物の入り口にある階段にしゃがみ込んで、キラは何度も心の中で『アスラン』と呟いた。
───会いたいよ、と……。

するとその時、膝を抱えて俯くキラに影が落ちた。


「どうした?気分でも悪いのか?」


その声に反射的に顔を上げたキラの視界に映ったのは。
バサッと風に広がる黒いマントと。

血よりも深くて鮮やかな、紅い色の軍服─────。



キラは何故だか、見知らぬはずのそれをどこかで見たことがあるような気がした。