船狂ち爺さんの「私の予科練記」

ML帝国海軍倶楽部 に投稿されている、予科練のお話を、ご本人に了解を頂き、転載させていただく事になりました。

尚、「現在書いて居るのは、全く記憶を思い出しつつ綴っているところで、一切のメモも資料も無いまま、無鉄砲に思い出すままに書いていますので、資料的に責任がもてません。」とのメッセージを頂いておりますが、戦後50年を超えた今日、生の声として、当時を知るに十分な物と考えております。

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甲種飛行予科練習生第16期生の「船狂ち爺」です。
大先輩氏とは違い、軍歴の浅い経験ですが、大戦末期の体験談についてのご希望があるようですので、若輩海軍航空志願兵の短い期間の体験記を書かせてもらいます。

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<<昭和19年入隊志願のころ>>
 私は、K県の郡部の旧制県立K中学の2学年満14歳でした。
 当時は、巷には、大本営報道により、未だ、緒戦の戦勝気分が残っていた。(本当は、ミッドウエイ海戦の敗北、ガタナカル島の敗退と言った守勢に立たされた日本軍は、玉砕戦の報道も出始めていた頃) 
 一億総決起「勝つまでは欲しがりません」「撃ちてし止まん鬼畜米英」「国家総動員」と言った戦時ムードの世相の中で、物資も欠乏が目立ち、代用品時代でした。
 学校も軍事教育真盛りで、我々は、陸軍幼年学校(陸幼)、陸軍予科士官学校(陸士)、海軍兵学校(海兵)に進むことを第一の目標にしていました。
 K中は、K県の中では、軍人志望が多く、県下では、名門校の中に入っていました。
 当時の、クラスメートとの話題は、軍事情報(今の軍隊マニアのように最新の戦闘機は云々と言った類)に関することが一番多かったように、一端の軍国少年振りでした。
 私の父は、大正時代に、海軍に水兵として9年間奉公して、3等下士官として満期除隊をした経歴があり、自分の、艦船生活の経験にたって、しきりに、陸軍に進むことを小さいころから、言い聞かされて育ち、1学年のときは,陸幼の入試を受けさせられ落ちました。
  私は、物心付いた頃から海と船が大好きでした。故郷は、山間部で海とは縁が無かったのですが、汽車等での車窓から、海が見えて当時の和船でも見ると、ご機嫌と言った状態で、板切れを見つけては、船の形に削って遊んでいました。
 2学年の1学期の終り頃だと記憶していますが、海軍甲種飛行予科練習生の志願が、それまで3年2学期修了でなければ、志願できなかったのが、2学年修了までに年齢が引き下げになって募集がありました。
  当時は、軍部から、各学校に配属されていた、軍事教練の教官役と監督のための陸軍士官からも、軍人志望者の督励があっていたようで、クラス担任から志願者募集を督励されました。
 私は、この時とばかりに志願する事にしました。当時憧れの飛行機搭乗員を目指したことと、海軍であるから、いつか、軍艦に乗る機会もあることが志願の理由でした。
   しかし、両親を説得する自信はあまり無かったので、願書だけは、無断で出してから、後日、両親に報告しましたところ、いま少し、勉強を続け陸士,海兵の受験まで待てとしきりに宥められました。
   妹と私の2人兄妹だったので、それは、反対されました、しかし、合格したら、父は、軍人になれと育てた手前強固には、反対できず、母は内心反対でも当時の世相の性もあり、渋々賛成でした。
 そのようなことで、昭和20年3月29日に、福岡県糸島郡周船寺町 福岡海軍航空隊に入隊する事になった次第です。

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私の予科練記   (第2回)
<< 予科練合格から入隊までの、いろいろ >>
  記憶は定かでないが、s19年12月か、s20年1月に、海軍甲種飛行予科練習生に採用するとの通知を受けた。
   採用通知書には、s20年3月27日に、福岡海軍航空隊に入隊せよとの事で、軍用乗車券購入証明(無料)に、周船寺駅までの記入がしてあった。
 大望の、合格で有頂天になって、毎日が楽しかったが、両親とりわけ、母親の心中は如何なものであったか、当時では、思いをはせることは出来なかった。
   福岡海軍航空隊についての予備知識は何も無く、周船寺駅ということで、福岡市の隣接の地にあることを、地図を頼りに調べました。(勿論当時の地図には、福空等の軍事施設の記載は無く、雁の巣飛行場等の民間飛行場の記号のみあった。)
 K中の同学年から同じ志願した友の中、数名が合格していましたが、3月福空入隊のものは、出發の日に駅頭で出会った I君が一人で、上級生のクラスの合格者が数名いた。
 誘い合って受験した友や、他中学の友は、殆ど16期後期回しで、6月,7月と入隊期日が遅れて、防府海軍通信校、奈良空入隊とのことであった。
  3学期は、友や、教師からも祝福を受けると共に、予科練入隊予定者ということで、一目置かれていた様で、自身も慢心気味で、エスケープしたり、当時禁止されていた映画館に出入りしたり、得意満面の生活態度をとっていたようである。
 当時の,戦況は、米軍の北上作戦が激烈になり、沖縄方面に、米機動部隊の艦載機による、攻撃が始まりつつあった。
 ついに、3月6日には、吾が故郷の上空にも、米艦載機が単機で、飛来して、機銃掃射をするといった戦況下が在った。
 当時出征する時は、盛大な壮行の宴を催していたので、学友の壮行の宴に出たり,語らいをしたりして3月は、瞬く間に日にちを重ねて行き、私も生家が、国鉄の支線の駅前旅館兼割烹旅館を営んでいた関係で、二晩に亘り盛大な入隊壮行の宴を披いてもらった。
 予定より一日早く、3月25日故郷の駅頭で盛大な壮行式で大勢の人に、歓呼の声で送られて、故郷を跡にして、K市の親戚の家で一日の日程調整をした。
 すでに、3月25日頃は、毎日、沖縄方面から米軍艦載機による編隊爆撃や、偵察飛行の洗礼を頻繁に受け、臨戦状態の雰囲気が高まりつつあり、26日には、K航空隊の空戦訓練中の零戦が、米機の攻撃を受け、煙を吐きながら、海面すれすれ低空でK空港方向に必死の着陸を目指しているのを目の当りに見まして、身がたぎる思いをしました。
 26日灯火管制下の暗い、K駅頭に指定列車に乗るべく集合したら、福空入隊者が県庁の引率世話役のもとに集まっていました。
 私には,父がどうしても福空まで同道すると言って一緒でした。 列車は灯火管制化のK駅頭を発車したが、数駅過ぎたところで、空襲警報が出て進めなくなり,とうとう、K駅に引き返し、翌日同時間再出発する事になり、結局28日に一日遅れで福空に入ることになります。 空襲による再出発に当たって、父とはK駅頭で別れた。

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私の予科練記  (第3回)
<< いよいよ福空に入隊 >>
3月28日朝、博多駅頭に到着した我々を、福空の下士官教員の出迎えを受け、九州大学医学部付属病院へ引率され、入隊前の最終身体検査が実施されました(これで、失格採用取消しになった人もいました。)
身体検査は、今日の簡易人間ドックに近い内容で、受験の時より、身体の特に健康状態について厳密にされたようです。
身体検査が終了した後、日蓮上人の銅像の有る公園で、昼食になりました。昼食後、引率下士官の指示で、弁当の残りや、故郷から持参した一切の食物を、公園のチリに集めよとの事で、母が、丹精こめて作ってくれた海苔巻弁当を悲しい気持ちで捨てました。
公園には、浮浪者が数人屯しており、彼らの口に入ることになったでしょう。
いよいよ、博多駅から唐津行きの列車で、数駅先の周船寺に向い、福岡海軍航空隊の隊門を潜ったのは、15時頃です。
引率されて行った兵舎には、第16分隊で、先着の同期生が既に待っていました。この第16分隊が、正規編成までの仮分隊です。
早速、諸々の指示と、簡単な説明があって、夫々の軍籍番号が知らされたようです,(佐志飛59048)、次いで、衣嚢が渡され、一式の被服が揃えられていた。
さあ、憧れの七つボタンの制服がと、ワクワクと開いてみたら、
制服 第1種軍装 (海軍では冬の制服を第1種という)   1着
   第3種軍装 (ライトグリーンの戦闘服、又は略装とも言う)1着
   下着類(シャツ2枚)・褌・体育上着・パンツ 一式
   革靴 2足 ・ 
   軍帽(庇のついた下士官型・帽章は、予科練の桜に錨で、当時の下 
   士官の帽章は、錨に茗荷があしらわれていた金属製)
   略帽(戦闘帽で第3種用) 
   手箱(文房具や、小物を入れる木製の小箱)
が、わたされ、各自それらの貸与品に、各自の氏名と軍籍番号を記入する様にとの指示であった。
さあ、それからが、大変なのである、巷間に軍隊噺によく出てくる。光景が広がるのである。
服や靴・帽子がダブタブであったり小さかったりで、アチラコチラでブーイングの連発である。
その時、教員の一喝「服に体を合わせろ」である。無茶苦茶無理偏の第1号で有る。
 これは大変なところに来たのだなと、実感を持ち始めることになった。
それでも、周りの未だ顔見知りもない者同士で有ったが、交換し合ってピッタリとはいかないが、何とか不自由しない程度の物と交換あって落着した。
それから、数日、本編成になるまで、仮分隊で、娑婆気と軍隊精神への転換についての訓育指導がされることに成る。

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私の予科練記  (第4回)
<<当時の福岡海軍航空隊>>
うろ覚えの記憶をたどり、福空のプロフイールを記します。
周船寺町の田園地帯を、整地して、兵舎群と、町道を隔て、800mぐらいのペトンで固めた滑走路の有る飛行場が、基地になっていました。
隣町の前原には、福空の分遣隊として、小富士海軍航空隊(予科練中心の練習航空隊)がありました。
両航空隊とも、第20聯合練習航空隊の麾下にあり、戦況逼迫に伴い、鹿児島海軍航空隊に在った、予科練甲15期が移転していた。
まず、当時福空には、甲飛14期(松山空から移動のようであった)・甲飛15期(両期とも、予科練教育は既に終了しているが、戦況悪化で、飛行練習生としての訓練施設が無く、飛練に進めないでいた。)の残留分隊(各分隊の半数は、大村空とか、各地の、実戦航空隊に、基地要員として派遣されていた。)
基地隊として、普通科分隊(海軍の分隊は、陸軍の中隊に当たる組織で、大体120名前後の編成)・整備分隊(飛行隊がいないので、格納庫管理と、旧式の97戦1機を管理していた)・医務分隊・主計分隊(烹炊所・衣服その他補給)があり、飛行場の増強工事のため設営隊が在隊していた。
そのような、基地の編成に、我々甲飛16期が、第11分隊から第19分隊までの,新入隊をしたのである。
当時、s20年4月頃、飛行場には、白菊機(機上作業練習機)を主力とした特攻訓練中の隊がわずかの間ではあったが仮在隊していた。
広大な基地の中に、3群の兵舎群(木造平屋のバラック建て、1兵舎に1分隊が入っており、各兵舎は、分隊長個室・甲分隊士個室・乙分隊士個室・教員公室・食堂兼居住区兼教室と蚕棚状の衣嚢棚が両サイドにある寝室(木製2段ベッドであった。)がレイアウトされた約7mx28mぐらいの広さであった。
各兵舎群は、基地本部・士官室群・正門前広場を隔てて、第1群に、普通科分隊等の基地隊・酒保・床屋、続いて第2群に、予科練14・15期の各分隊の兵舎それから、広い練兵場の端に医療棟・適性検査場・化学兵器訓練棟があり、さらに、運動場があり、第3群の我々16期の各分隊の兵舎群である。
飛行場に近い場所に、格納庫が2棟あった。
各群毎に、烹炊所と浴場棟が配置されていた。
長々と、福空の風景を描写しましたが。中身は、皆様には、興味の無いことで、しかし、私にとっては、飛ばして書き進めない記憶の一端ですのでお許しください。
今回は,これにて仕舞います。次回は、仮入隊から入隊式までの、模様を報告します。

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<<私の予科練記  第5回>>
<仮入隊から入隊式まで。>
仮入隊の初日は、右往左往しながら、分けの判らないうちに、過ぎて行こうとしていた。数日早い入隊の期友にいろいろ教えを受けた。
仮分隊ての数日、3日間ぐらいの間に、分隊長をはじめとして、先任教員が中心になり、海軍のしきたりや、一日でも早く軍隊生活になれるように、丁寧に教えていくのであるが、娑婆(海軍では軍隊以外の一般社会のことを娑婆という。)の気分を払底して、軍人らしくしろと、今で言うOJTで教育するのである。
我々が、まず、まごつくのは、敬礼の仕方である。我々は、中学校で陸軍の歩兵操典を下に、陸軍の配属将校の指導をうけて、軍事教練に励んできたから、肘を斜め45度の角度から上げてする海軍式敬礼が中々出来ないで、それでも、海軍軍人成れるかーと怒鳴れる。
次ぎが、上官の敬称である。
何々少尉殿とか、何々一等兵曹殿と呼ぶのが陸軍式で、娑婆の習慣でも有るのだが、海軍では、只何々教員・何々班長・何々大佐と官等級または、職名をつけたら敬称は付けない事に成っていて、これに、慣れるのに一苦労といった按配。
>その習慣の所為で、私は,今も苦労している。それは、他の会社等を訪問した時「何々部長さんは、とか、何々社長さんは」と言うべきところを、何々部長は云々といって、仕舞ったと悔やむことが多いのです。<
兎に角、仮入隊の分隊生活3日間で、起床から、寝具用意、巡検までの日常生活の日課に慣れていくのである。
4月に入ると、正規分隊に編成替えになるのである。
福空での16期の編成方法は、ツペルクリン反応が、陽性・疑陽性・陰性に区分、更に年齢順に分けられた。
ちなみに、陽性の者は、第11分隊から第15分隊まで、年齢の大きい順に配属、第16分隊が疑陽性の者、第17・18・19分隊が陰性反応の出た者で編成された。
私は,陽性反応が出ましたので、第14分隊第4班に入れられました。
年齢層は、s4年 5年生の者が中心でした。
ここで、第14分隊編成を記します。
分隊長  佐野陽一中尉(整備科士官・予備学生出)・
甲分隊士 平瀬定行 少尉(飛行科士官偵察・予備学生出・後に中尉)
乙分隊士 平岡 ? 少尉候補生(兵科士官・予備学生出)
先任教員 武田 ? 上等兵曹(兵科・砲術学校高等科出)一班長
二班長  三浦 ?  二等兵曹(兵科・砲術学校高等科出)
三班長  欠員
四班長  九郎座 ? 三等兵曹(通信科・通信学校出・後に転属)
四班長  古川 ?  一等兵曹(通信科・通信学校高等科出・交替班長)
教員助手 加藤 ?  飛行兵長(甲飛14期操縦分隊・一班担当)
   々  坂口 ?  飛行兵長(甲飛14期操縦分隊・3班担当)
   々  上田 ?  飛行兵長(甲飛14期偵察分隊・4班担当)
各班16期練習生は、36名内外で分隊で120数名であった。
回りを見回したら、K県出身者が約三分の一ぐらいいた。
本編成になってからの、訓練指導は、一日でも早く、練習生を躾て、娑婆気を抜いて,軍人らしくする事に集中して教育が始まる。
仮分隊は、お客様であった訳で、本編成のの日から、正規の所属練習生を他の分隊に負けないよう(込みやられないよう。海軍用語)にしごかれる事になった。
起床・体操整列・甲板清掃・朝食・朝礼整列・午前課業・昼食・午後課業・別科課業・軍艦旗降下・夕食・甲板清掃・温習・寝具用意・就寝・巡検といった、日課が繰り返されて行くのである。
海軍では、有名な何事にも、5分前の号令がかかる。
総員起5分前、この時は、寝床の中で、次ぎの動作をするために心構えを整えて、寝静まった状態で無ければ成らない。インチキして、服でも着て、いたら一発顎修整である。
総員起しは、ラッパの後、「そーういん・おこーし」と、ゆっくりとした口調で拡声器から流れる。それから寝るまで、教員・教員助手が、指揮棒で床を叩いて「おそいー・おそそーい・何をぼやぼやするか」と、怒鳴られ娑婆とは天地の差まるで地獄か監獄の中みたいな日課が就寝まで続き、一日がめまぐるしく過ぎる。

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<<私の予科練記  第6回 >>
<仮入隊から入隊式まで   続偏>
正規分隊編成から数日の後に(たしか4月5日)入隊式があるわけで、その数日の内に、一門の甲種飛行予科練習生としての格好をつけなければならない。
分隊長をはじめとし、分隊士・教員・教員助手が総がかりで、新兵教育に取掛かるので有る。
海軍では、陸軍方式のことを、陸式といって、差別していた。
先回述べたように、我々は、陸軍式のクセがついているので、ついにはコラァー陸式と言って怒鳴られる場面が多かった。
先ず、海軍式の用語に習熟するのが大変である。
雑巾のことをソーフ,テーフル拭き雑巾が内舷マッチ、食噐拭きがテーブルマッチ・大きな洗い桶がオスタップ、居住区の床は甲板と言った具合で、呼称が全く海軍独特のものである。
それに、ラッパによる号令は、陸軍では、鳴り始めたと同時に、その号令を判読して、初動に移るが、海軍では、ラッパのメロデイーが1回鳴り終えるまでは、初動を起こしてはいけない決まりになっている。
公室と私室の区別があり、分隊長室・分隊士室・教員室の中は、私室に当たり、当直士官室は、公室になり、我々の居住区は、公室に成ったり私室になったりで、私室では脱帽をして前屈30度の礼、皇室では、着帽の敬礼の仕来たりになっている。
その数日の間に、日常生活の細細した決まりや、日課の進め方など等それはそれは,追いまくられながらの躾教育が始まった。
本当に、総員起から、温習時間の最後にあの有名な、五省を大声で全員斉唱し反省録なる日記張に記帳(これが手元に残っていたら、もっと色々なことを思い出したのにな??)して、寝具用意、巡検準備・就寝・巡検まで、私語を交わす暇も無く、オソーイ・オソソーイの叱咤の中で1日が終わって行く。
要するに、海軍では、艦内生活を想定して、陸上勤務でも、出来る限り艦内生活を模して、用語と日課の進め方が出来上がっている。
<巡検について>
陸式では、就寝前の整列点呼といったところですが、海軍では、艦内の狭いところ、居住区兼食堂兼時には通路,又は、作業場などと言ったスペースに、吊床を吊って寝室にする関係から、消灯時間の前に、寝具用意の号令が掛かります。
陸上の施設でもこれに倣っています。
次いで消灯の号令が掛かる、それにより練習生は、寝台に入り寝た姿勢(この時は本当は眠り込んではいけないのであるが、疲れているので眠りこけることが多かった。)で、巡検を寝台(福空は、2段式木製ベッドの藁指揮布団であった)の中で待つことに成る。
巡検ラッパが響きジュンケーンと言う号令がなされる。
さあー、この巡検ラッパのメロデイーが問題なのである、物悲しいメロデイーであるのに、それを寝台の中で聞くのであるから、ホームシックや諸々の思いで何回も涙をこぼしたか判らない、この気持ちは、経験者で無いと本当の意味は通じまい。
巡検は、艦内の安全・乗員の確認・装備設備・防火などの事項を、点検する毎日の日課である。
されに当たるのが、副直将校(各兵舎群の当直室に各分隊の分隊士が交替で当たる)と、甲板士官(隊内の風紀・士気・整理整頓についてのお目付け役で若い少尉中尉クラスの海軍精神の持ち主のバリバリが任命されていた)、当直下士官の懐中電灯の灯りを先導で、各兵舎・洗面所・かばやを巡視点検してくるのを、各分隊では、当直練習生と当直教員が、出迎えるのである
先ず、当直練習生が「第何分隊総員○○○名異常有りません」大声で巡検の士官に報告した後、歩調をとって、分隊の兵舎内の通路を、先導して,次いで洗面所・かばやへと進む、この際、兵舎内の整理整頓、用具始末具合等が、乱れていたら指摘されるので、その時は、後が大変なのであ。
海軍で将校と言う呼称は、当直、副直、ぐらいで、殆どが何々士官であり、陸式では、何々将校と言い、週番士官ぐらいが士官といっているうように違った風習である。
<巡検終り、煙草盆出せー明日の日課予定表通り、>
各兵舎の巡見が終わったら,巡検終りの達し号令が出されて,実戦部隊ゃ教員下士官は、煙草の時間になり四方山話に花が咲くところであるが、練習生は、そうは行かない、
第○班、静かに通路に整列の達しがだされることが多く、それから約30分から1時間近く、教員または、教員助手によるお説教が始まり、時として、一発を見舞われたり、同期生同士でのビンタの張り合いであったり、前支え(腕立て伏せ)や、踵上げ・膝半屈・手旗12原画の姿勢で何00分間といった罰直がある。

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<<私の予科練記  第7回>>
<仮入隊から入隊式まで>
入隊式当日は、海軍2等飛行兵に任ず。第16期海軍甲種飛行予科練習生を命ず。の告示の後,司令の告示に続き、司令が練習生が整列している列に入り、巡視される、その時立ち止まって、姓名を聞かれた場合、各自の軍籍番号(佐志飛59048)・本籍地、姓名を大声で申告する事になっている。
その為、各自は、自分の兵籍番号を暗記するのに努力する。次ぎに、当日の第1種軍装(憧れの七つボタンの冬用制服・予科練特有の帽章のついた制帽)を着た状態での、整列・行進などの訓練が分隊毎にされる。
多分、入隊式の後であったと思うが、階級章が支給されたように思う。馴れない不器用な手つきで、制服の右袖の所定の位置に縫い付けるのである。
二等飛行兵のマークは、錨のみで、錨の上に、兵科識別の桜のマークの七宝焼の小さい金属製の桜マークを縫い付ける。
桜マークの色は、飛行科はスカイブルー・整備科はグリーン、一般兵科(砲術・通信・水雷・運用など)は黄色・機関科は紫色・主計科は白色・衛生科は多分赤色ではなかっただろうか。
科の識別は、マークが小さいので、少し離れると識別は難しい。
ランチ(交通艇)や自動車には、それに乗っている士官の階級に応じて、尉官は青、佐官は赤、将官は黄色の三角形の小旗を掲げることになっていた。これは、陸式も同じだったようである。
ここで、服装について、記憶を辿ってみます。
当時は、物資補給が窮屈になってきていた頃で,私たちが支給された、衣類も、新品在り、古着であったり、種類も少ないと言った状況でした。これは、航空隊によって、まちまちの事情があったようで、他の隊に入隊した同期生と較べて、戦後わかりました。
第1種軍装 (冬の制服、 七つボタンの上下)  1着
第2種軍装 (夏の制服、 白色の筈が、戦雲ままならない時期になり、ブルーグリーンに着  色染め替えてありました。多分6月の衣替えの時、第1種軍装と引換えに貸与された。)
第3種軍装 (陸戦服・略装とも言った。練習生は日常授業服「上下セパレートの白色の帆   布製を着用するのが、普通であったが」、我々には支給が無く、3種軍装で日常を過ごし  た。)
制帽   1 (夏は、カバーをかける。この時は、白色でなく色染め)
略帽   1 (第3種軍装と対で用いる。物資が有った時代には、第3種略帽のほかに艦内  略帽として、夏冬別々の帽子が支給されていた。この帽子には、下士官は1本、士官には2本の黒または  白線蛇腹がとおって居た。一般に言われている戦闘帽)
短革靴  2足
運動靴  (普通、艦内靴と運動靴が支給されるのであるが、我々には、支給が無く、後に、  土工作業をするようになって、地下足袋(現在、建設現場等で利用されている日本独特   の作業靴」が支給された。」
体育服  1着 (半袖・短パン)
下着類
  私物の使用は、一切厳禁、ただし越中褌だけは、許されていた。
冬の上シャツ  ネル製のボタン掛け詰襟風の下着  2枚
冬の袴下    ネル製で、時代劇映画で出てくる股旅役者が吐いている日本古来のズボ   ン風の物で、スソ,腰は紐結び   2着
夏シャツ  ポロシャツ風の上シャツ   2枚
夏の袴下  ????思い出せない
褌     支給された官給褌は、これまた驚いた。現代のビキニ水着のセパレート型の三角巾に紐をとぉしたようなもので、生地も縫製も雑な物  2枚
靴下   いわゆる軍足で、現在のような踵は織り込まれていなくて、真直ぐな袋編み 2足タオル  西洋タオルではなく、和タオルで、これも粗悪品で困った。
以上で有ったように記憶している。そしてこれらを仕舞う衣嚢袋も、海軍独特の帆布製筒状の頑丈なものでは無く、リュッサック型になっていた。
儀式・上陸(休暇外出のこと)以外は、略装ですごす。夜寝る時は、下着姿のままで毛布に包まる。準士官以上には寝巻きの利用が出来た。

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<<私の予科練記 第8回>>
<新兵教育・特別教育>
入隊式が、終わると、いよいよ、正式に新兵教育に入ることになる。
平時なら、期間は、3ケ月間がそれに当てられるのであるが、s18年の12期の教育から、短縮され、1ケ月になった。
その、短期間に、一応新兵としての、基礎を教育されるのであるから、それは、大変なことである。
新兵教育の、カリキュラムは、普通学・軍制・運用術・精神訓話・通信(發・受)・陸戦・体育等などの、日課が、午前8時の課業整列(全分隊が、運動場に整列して、各分隊当直練習生が、整列の終わった順番に、号令台上の副直将校にたいし、人員と、準備良しを報告すし、軍艦旗掲揚に移る。
副直将校の達しの後、各分隊予定日課課業に向う。
午前の日課時間は、90分を一区切りとし、休みを10分とり、2時間目をおえて、昼食時間になる。
午後は、1時より4時まで、2時間があり、4時から1時間は、別課といった時間割になっていた。
普通学は、数学・国語が主力で海軍文官教授の授業であり、これが、私にとっては、中学時代の授業よりも、大変判りやすかった。
軍制とは、海軍の組織とか、仕組みについて教わる訳であるが、現代のマニアル時代では当然のことながら、正装や服装について、細かく規定してあったので、吃驚したものである。
精神訓話は、軍人勅諭を中心にして、軍人精神を吹き込む為の教育が主眼であるが、海軍では、軍人勅諭を全部暗記させるような方法ではなく、五ケ条の条文を覚え、趣旨が理解できればと言った程度の教育方法であった。そのほか、稚心からの脱却について、橋本左内の???録の解説講話・精神訓話が有って、兎に角、軍人精神の会得を求められた。
運用術は、他の分隊の運用術の教員による、防毒訓練等の教育があった。時間があれば、結索や、端艇等の教育があるのであろうが、そこまでは行かなかった。
通信は、一番精力を傾けて、教育されていた。通信講堂での、電鍵を使っての発信・受信、居住区で、拡声器から流れるモールス信号の受信に相当な時間が配分されていて、後述するが、通信の上達の為練習生は、苦労をするのである。
陸戦とは、陸軍で言う教練のことで、軍人養成教育の根幹を成すもので、整列、行進、敬礼の姿勢、兎に角、軍人としての所作をね徹底的にしごかれるのであり、之にも、相当の時間配分がなされていた。
体操は、予科練鍛錬の華と言われているように、殆ど毎日、別課の時間は、海軍体操か、手旗信号の訓練に終始していた。
体操は、総員起こし後の整列のとき、海軍体操を上半身裸になって実施するが、別課の時間の体操は、体育服に着替えての、航空体操で、柔軟体操的な所作が多く取り入れられた内容であった。
以上の課業が、施設の関係で、各分隊毎に、時間割予定が組まれて、分隊単位で課業が進むことに成っていた。
机に座ってする課業を座学と言っていたが、通信講堂以外の座学は、各分隊の、居住区(食堂兼温習室)で、実施された。
陸戦では、銃は九九式陸戦小銃が、使用されたが、陸軍と異なり、各分隊には、20丁程度が銃架に有るのみで、しかも、夫々の銃の保管担当者は決められていない。分隊全員の銃を揃えるには、他の分隊の銃を借りて、訓練をする事になっていた。
これらの課業が月月火水木金金といわれるように、連日続くのであるが、日曜日は、軽業の日課になっていた。勿論新兵教育中は、上陸無し面会厳禁である。
以上が、課業のあらましであるが、総員起こしから巡検終りまでの、日課の過程の中には、色々な雑務や、アクシデントもあるので、練習生は、息つくまもない超過密な日課が続くのである。

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<<私の予科練記  第9回>>
<新兵教育中の日々>
ここで、練習生の日課の中での、記憶を追って見ます。
先ず、05:55に総員起こし5分前の号令、ラッパは鳴らない。 この時は、既に、教員・教員助手は、寝室に我々を叱咤するため準備を整えておる。
海軍の5分前の習慣は、有名で、現代社会でも、通用する習慣である。
総員起こし5分前では、ゴソゴソ起き出して、服装を整えたりしては成らないのであり、只管次ぎの号令の為の心構えを整えることであるので、ゴソゴソしたら、コラァーと一発来る。
勇ましい総員起こしのラッパが鳴り響き、「ソゥーイン・オコォーシ」とゆったりとした口調(海軍の号令の多くは、艦内で拡声器を通じてなされるので、ゆったりした口調での号令の 掛け方が多い。例えば、戦闘中でも、トォーリィ、カジー、ヨォーソローと言った具合に、一寸間延びした感じ)で3回程度繰り返し号令される。
前に述べましたが、陸式と異なり、ラッパのメロデイーが、1回終わリ、ラッパの意味を確認してから初動に移る決まりに成っています。
さあー、静かであった寝室は、教員が、おそそーい、おそーいと、大声で怒鳴りながら、バッターで床を叩いての叱咤激励が響き亘り、我々は、毛布の整頓、制服の着替え、小用を済ませ、兵舎前に整列し、朝礼場の運動場へ向うのである。
馴れというものは、大したもので、数日もすると、起床から、兵舎前整列まで、10分内外で120数名の分隊全員が集合を終わるようになる。
服装は、前にも述べましたように、事業服は支給されていませんので、第3種軍装(略装)である。 
朝礼場では、次ぎつぎに、各分隊が所定の位置に整列し、終った分隊から指揮台上に立っている、副直将校に、当直練習生が、「第○○分隊。総員○○○名。異常無し」と大声で報告する。全分隊が報告が終ると、副直将校が、「本日の日課は予定表通りとか何とか??」と達して、次いで、朝の海軍体操といった段取りになる。
この、報告の順序は、用意が整った分隊から、順番にする訳であるから、競争原理が働き各分隊一刻も早く出来るようがんばらされる。海軍では、遅れをとることを「込みやられる」と言って、一番厳しく鍛えられ攻撃精神培養に繋げた教育がなされ、色々な、場面で、込みやられるなーーと叱咤された。
体操隊形に展開して、上半身裸になり、誘導振という所作で始まる第2海軍体操に入る。時として、副直将校の号令により天突き体操も加えられた。
朝礼場から、隊列をくみ、駆け足で兵舎に帰り、開け(解散のことを開けと号令する。)に成るのであるが、集合に遅れたり、寝室での起きあがり動作に気合が入っていないと、罰直になる。この時は、兵舎何周駆け足といった類の罰であった。
時間は、06:30位になっていたであろう(この辺の記憶は怪しいぞ。。。。)
食卓番(各テーブル群から3名の食事当番、テーブル群は、12名内外)は、烹炊所に食事を受け取りに出向き、他の者は、小休の合いまに、洗顔を済まし、食卓の準備に懸かる。

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<<私の予科練記  第10回 >>
<新兵教育   続 (1) >
当時は、娑婆でも代用品時代でしたが、福空の、私達に、用意された、食噐は、海軍の伝統的食噐である、琺瑯引き金属製はなく、陶器の錨と桜マークが、印された大食噐・中食噐・湯呑・皿でした。
食缶は、大・小で、蓋附き四角形のアルミ製で、同じく大きな薬缶が各テーブル群毎に支給されていて、分隊・班・テーブル群番号が表示してあった。
烹炊所では、食缶毎に、人数分を、経験と目分量で、配食して、所定の食缶棚に並べてあるのを、食卓番が、受取ってきて、食事準備をするのであるが、これも、馴れると約3〜4分間で、12名のご飯、汁、惣菜、沢庵を、食噐に盛付け、各員ヌ丹勿捶に着いて、教員室に居る班長に食事用意よーしと、報告して、班長の着席を待ち、班長の就けの号令で、各自の食事が始まる。
食べ盛りの年代である上、間食は無いのと、訓練は厳しいで皆、量的に不足を感じているから、食卓番の盛付けに、注目をするもので、ご飯の盛について、不公平がない様に,しかも、短時間の内に盛り付けをし遂げる為に、当番は、苦労した。
時として、班長の命で、席順をづらせて、不公平盛付け(自分のものだけテンコ盛り)の防止を図り、見せしめをすることもあった。
大に汁、中にご飯、皿に惣菜と盛るのが決まりで、惣菜と、沢庵は、食缶の蓋に盛って配食されていた。
福空では、ご飯は、白米食で、何回か、大豆等の混入食があり、それも数回で、殆ど白米食であった。入隊前に、軍隊は、麦入りご飯と聞かされ、そう思い込んでいたが、白米飯であった。量は、今で言うなら、軽く二膳前後であり,何時も、腹8〜9部と言ったところであったろうか。
内容は、定かでないが、朝は、生卵又は、焼き海苔と沢庵、味噌汁(時として、代用汁として、小麦粉を溶かし醤油味の、ツワブキを具とした汁が出た。私は、これは苦手て、その日は、必ず便が緩くなるため困った)が普通。
昼は、ご飯、汁、沢庵。  夜は、一汁一采で、煮物の惣菜が出されていたと記憶している。
軍隊では、早飯早糞を、習いとしていた。食事が終ると、班長の開けの命の後、食卓番は、食噐を片付けていたが、食噐を、兵舎で洗ったか、食缶と共に、烹炊所横の洗い場で洗ったか記憶に無い、食缶は、烹炊所の所定の棚に返納する。
食卓番以外は、軽い室内清掃のあと、次ぎの課業整列に備えるまで、しばしの時間がある。

閑話休題
入隊式の前日であったが、正装をしての整列訓練が有った時の、アクシデントを一つご披露しよう。
服装検査の時、制帽の心金(ピヤノ線が入れてあり、帽子天板部分を円く形作っていた。)をね帽章の上で、山形に曲げて格好をつけて居た者が数名居た(私も)のを、見咎められ、それもう、大変なお説教を受けた。
それ「天皇からの貸与物を勝手に変形した云々」、それ「貴様らが、格好つけるのは、早い云々」等などて有り、それを修整するのに苦労した。焼入れ線である為曲げたものは真直ぐに戻らなくて、なんとかするのに困った。
この件について、後に判ったことでは、兵学校での正規士官が、良く、格好をつけたがる予備学生での予備士官(スペアーと差別されていた)が好んで帽子に型をつけることをさして、誹謗・非難していたとの事で、スペアーのマネをするなーーでも有った。
しかし、搭乗員や、潜水艦のりの中には、心金さえとっていた居る者もあり、我々には格好良く見えるので、あこがれてマネしたのであるが、端正なものを要求される軍隊での一こまであった。

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<< 私の予科練記  第11回 >>
< 新兵教育  続 (2) >
総員起こしから、課業整列まで約2時間の時間があり、その間、寝具収め、朝体操整列、食事準備、朝食、片付け等々と、日課は進むのであるが、その間、当番以外は、幾分か自由な時間が取れるのであるが、新兵中は、僅かなね時間も一息就く間もなく,課業を消化するのが精一杯、それに、班長から、それ、何が何だといって、指導指示が出されるので、よほど手際良くやれるようにならないと、自分の身の回りの整理とか、歯磨きさえままならないほど、きりきり舞の大忙しさが続く。
08:00の課業整列になるのであるが、本来ならば、東宝映画の予科練のシーンに出てくる、真白い事業服に身を固め颯爽として、整列するところであるが、戦局悪化、物資欠乏のこの頃の我々は、陸戦服の略装での整列となる。
次ぎに、海軍での、報告の仕来たりについて、述べます。
陸式では、報告する者が、報告を受ける上官に、敬礼をして、直立不動で報告をして、最後に又、敬礼をして終る。
ところが、海軍では、敬礼をした手を下ろさないで、敬礼の姿勢のまま、報告事項をのべ、報告がおわり、良しとの返答を受けて、敬礼の手をおろして、報告は終るのである。
時として、長い報告事項の場合は、敬礼のまま、報告をする事に戸惑いが出る場合もあり、最初の頃は、中々馴れないで困った。
号令
「かかれ」「開け」この2つの号令ほど、簡潔なものはない。
かかれは、次ぎの課業・作業・行動に移れと言うことで、全て、この号令で団体行動が開始される。令が出されたらまごまごしないで、間髪を入れず初動をこす仕組み。
ひらけは、小休止や、課業の終了から、団体を解散させる時につかわれ、かかれと開けは、あらゆる場面で使用される号令。
作業員整列
隊内では、色々な雑務が必要になることは、娑婆の団地、通り会などと同じで、毎日のように、副直将校より、例えば、「烹炊所の食料運搬に各分隊○名○○:○○に何処どこに整列と」言った命令が概ね朝食の時間に、拡声器をとおして伝達される。作業の内容は、色々で難儀なものから、楽なもの、苦しいもの等などあって、また、時間も、課業中の時間中で別行動をとる場合もあるが、大方は、昼休み、別課課業時間、また、夕方、食事時間までの時間帯が多い。
分隊では、指定された作業員を指名する為、当直教員が我々に作業員何名整列と号令をかける。このとき、まごまごして譲り合ったり、誰かが出るだろうなど思って間合いを見たりしていると、さあ、大変「貴様らは、やる気が無いのか」ときて、総員整列の罰直につながる。
使役に出ることは、僅かな自分が自由になる暇を潰されのであるから、大体が嫌はれるのである。
しかし、使役先で余得に預かることも有ったり、分隊の残りの者より楽な作業であったりで、我々の中には、要領の良い者は、その辺の呼吸を会得して、表面は、やる気満々の姿勢を見せ、選択して作業員に出るようにしている者も出てくる。
教員は、そのような態度は、先刻お見通しで、総員罰直で、ネチネチと搾られることになったことが、何回もあった。

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<< 私の予科練記 第12回 >>
<新兵教育 続(3) >
課業整列は、08:00軍艦旗掲揚からスタートし、副直将校の達し事項が有った後、課業始のラッパにより、各分隊予定の課業に入る為、隊列を組んで行動を開始する事になる。
座学は、各分隊兵舎へまたは、通信講堂へ、陸戦訓練(教練のこと)は、練兵場(滑空訓練場にも使える広さがあった。)に向って分かれて行く。
今回は、通信教育について述べてみます。
通信には、手旗信号、発光信号、気流信号、無線電信、伝令と言った方法があるが、手旗信号は、艦隊生活をする上で、海軍軍人の必須科目であり徹底的に仕込まれる。
発光信号、無線電信は、モールス符号を、発光・電信で送受して通信する方法で、将来、操縦コース、偵察コース(航法・通信・偵察を担当する)に進む者も、必須技能であり、徹底的にしごかれて、身につけて行くことになる。
モールス符号の暗記が求められて,機会ある毎、四六時中その程度が試されることになる。
符号の、覚え方には、同調語も有ったが、それに頼るなと指導された、それは、仮に、キに相当する同調語は、「聞いて報告」(−・−・・)である、発信する時は,短符と長符の長さの割合が安定した間隔にしろ、一文字符号間の間合いは同じ長さの間隔が要求されて正確性を記する為だと言われ、同調語での記憶の場合、受信の遅れが出るし。発信にムラが出ると言われていた。
通信講堂では、電鍵に向い、一トンツー原姿、一トントンツーツー原姿といった具合に、電鍵を正確に叩いて、綺麗な信号になるように、教育される。通信講堂は、各分隊が使用するので、受信だけの訓練は、各分隊の兵舎の中で、拡声器を利用してなされた。
通信術には、予科練生の誰もが、苦労をしていて、夫々が、エピソードを沢山持っている。
各分隊とも、練度を上げるため、色々と工夫し努力がなされていて、それは、それは、我々にとっては、夢にも出てくる難行苦行である。
食事時間後の僅かな休憩時間、温習の時間に拡声器から流れる、モールス信号を解読させられる。時に、テストとして、受信紙の提出をして、その成績を競はされて,成績の悪い者は、罰直が待っておる。
班全体の、成績がね他班より悪いと、これまた、罰直である、この場合は、大概、巡検後に、その班だけ、通路に整列させられて、ながーいお説教と、体罰である。
通信速度は、最初の頃は、一分15文字程度の早さ、ついで、一分当たり50文字程度まで進んだようであり。操縦コースで、80文字/分、偵察コースでは、100〜120文字/分ぐらいが要求されていたようである。
送信は、あまり、やる機会は無かったが、受信は、兵舎で出来るので、これは、日常日課になって機会を捉えては、テスト受信の訓練がなされた。受信紙は、50文字の原稿用紙で、送られてくるカタカナの文章は、乱数表でバラバラにされた、カナ文なので、見当をつけて、穴ぼこを埋めるといった芸当は、通用しないので、困った。
時として、平文で「コノツウシンガワカッタモノハエンピツヲオイテシズカニイスヲタッテヨロシイオワリ」と言ったような、信号があり、判った者は、ホッとして立ちあがる。
多数の者がわかると、分からない者は、判ったような顔をして、立ってごまかした。
我々も、一生懸命になって、習熟につとめたが、外の日課にも追いまくられるので中々上達しなかった。
手旗信号も、習熟に相当の努力が拂はれた。別課課業時間に、手旗が主として取組まれ、そのほか、体育も在ったが、手旗信号の發受の訓練がなされた。
手旗信号は、モールス信号よりは、上達は早かった。

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<< 私の予科練記 第13回 >>
< 新兵教育 続(4) >
変化の無い、日課の噺がダラダラ続きましたが、この新兵教育中に、一番に、娑婆気を抜いて、予科練魂の注入に注がれます。
その為、精神訓話の時間の他に、日課の色々な場面で、分隊長をはじめとして、分隊士、教員から、しごかれて、少しずつ、軍人らしくなっていきます。
予科練魂では、攻撃精神、敢闘精神、積極性、負けじ魂、スマートで几帳面、迅速性など等、それらの、一つでも欠けた態度が見えると、徹底的にしごかれた。
この間は、日曜の上陸(休日外出のこと)は、ありません、娑婆から隔離して、早く軍隊生活に馴れさせる為でもあるが、日曜日は、隊内軽業となっており、通常の課業有りません。
多分、隊内整理や、少しは、自由な時間が有ったようですが、実は、日曜に、使役の作業員○○名整列と言った命令が良く出される。
この作業員は、分隊の一部の人員であるので、作業員に出た者は、隊に残っていて自由な時間を持てるものとは、違い苦労することが多かった。
そこで、要領の良い者は、それを上手に逃れる場合が多く、真面目で要領の悪い者は、度々作業員に出て、折角の自由時間が作れない場面が多かった。
相当、日課になれて、要領良くやらなければ、自分の身の回りの事をすることもままならないのが、新兵教育期間の特徴である。
座学(精神訓話・軍制・国語・数学・運用・特講etc)の時間は、連日の気を抜けない鍛錬の為、疲れが出て、舟を漕ぐ場面も有るが、そこは、教室の後ろに控えている教員に一喝される事になっていた。
夕食後の、温習時間は、日によって、復習・通信術受信・精神訓話などが、あるが、ここでも、眠気を催すことしばしばである。温習時間の終わり近くに、反省録なる日記をしたためさせられて、分隊士に提出して添削を受けていた。(この反省録が手元にあれば、いろんな事が思い出せたのにと残念です。終戦後持っていたのですが、家庭ゴミに成った)
温習の最後に、例の、海軍兵学校に倣って、五省を誓唱して、反省をおわり、温習時間がおわり、寝具用意になる。
この様な、日課を重ねて、5月の始の特別教育の成果を示す総員査察を目指して連日が、隙間の無い訓練が続けられて行く。
この期間の、或日、隊外行軍が、姪が浜、今宿と言ったコース約10kmぐらいの道程であっろうか、その途次、姪が浜海岸に展開し、基地としていた、第20?空の、水偵隊に立寄り、分隊士の同期の士官の高配で、水辺に係留されていた、零式水上偵察機(三座)を、座席まで、整備兵に負ぶわれて、見学することが出来た。搭乗員にあこがれて、予科練に志願してきたものの、飛行機の気配は、何一つ無く、訓練訓練の日を過していた我々には、歓喜の出来事であり、その時、垣間見た、実戦経験を積んだ搭乗員の振る舞いを、まじかに見て、我も続かんと心が逸ったことを思い出だす。
その隊には、零式水偵と零式観測機(いわゆる 零観)が配備されており、玄海灘、東支那海方面を哨戒区域とした任務に就いていた。
水偵・零観は、空襲警報が発令されると、空中退避行動に移り、我々が福空在隊中に一番多く見た機種で懐かしい。
土曜日の別課は、大掃除に当てられていたと記憶している。
甲板掃除は、映画等でご存知かと思いますが、ズボンを八分目に捲し上げる(このとき、膝上まで捲し上げないで、綺麗に畳み上げて、脛の半分ぐらいに裾を畳む)、各人は、ソーフ(マニラロープの編みこみをバラバラにしたもの)を手に持ち、お相撲さんの股割りのように、片足を斜め前方に真直ぐに突き出し、片方の膝は、蹲踞の姿勢のように全屈して、体重をかけて、両手で、ソーフを斜め右から次ぎは,真中そして、左斜めに交互に床を拭きながら足を交互に伸ばしながら、床に撒かれている水を押すようにして、甲板の端から端まで、それ押せ!押せ!と汗をかきかき、の難行である。
最後の、仕上げで、水分をふき取りの為、一列に歩調をあわせ、一般の雑巾掛けの姿勢で、押していくのである。
甲板掃除の、描写で判り難いでしょうが想像してみてください。海軍名物甲板掃除で下級兵としては、避けて通れない日課である。
日曜の別課には、軍歌演習である。軽業、上陸等で弛んでいるから、気合を入れるといっては、軍歌演習に力が入れられた。
分隊全員が、兵舎前の広場に、円陣を組み、歌集を左手に掲げて、右手は歩調と合わせて大きく振りながら、歌を大声で歌いながら、延々と回りつづけるのである。
これで、大雑把では有るが新兵教育の思い出は、少し思い出したエピソードは、又の機会に記すことにして、締めくくり、 次回は、一等飛行兵へ昇進から続けましょう。

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<< 私の予科練記  第14回 >>
< 進級 >
特別教育(新兵教育)の1ケ月間が過ぎると、特別査閲である。
それと、5月1日付けで、海軍一等飛行兵に進級の、進級式があり、司令より、辞令達しがある。 一等飛行兵に任じられるのであり、右袖の階級章も、錨の刺繍の上に兵科識別バッチだけだった二等兵の章の上に、細い横棒一線の刺繍がつき、なんとなく格好がついてくる。
甲飛の当時の、進級は、二等飛行兵     1ケ月  一等飛行兵  2ケ月  上等飛行兵 3ケ月、都合入隊して、6ケ月で 飛行兵長に進級し、予科練教育が終了する仕組みになっていた。
ちなみに、我々、福空に入隊した16期生は、10月1日付けで、兵長に進級する仕組みであったが、8月15日の終戦により、9月1日? 付けで、兵長に任じられて、予備役編入退職と言う辞令になっている。
巷間言われる、ボツダム兵長になっているわけです。
< 特別教育終了 >
特別査察が終了して、一両日、課業日課にゆとりのある日が、続いた、そして、操縦・偵察振り分けの適性検査が実施された。
適性検査
予科練の課程では、操縦員コースと、偵察員コースを適性検査で振り分けて、操縦分隊・偵察分隊に再編成して教育が実施されることになっていた。
我々も、薄々感じてはいたのであるが、と言うのは、14期、15期の両期が、予科練教育を終了したのに、飛行兵長として、未だ、在隊していたことや、連合練習航空隊の解散・福空の隊門に、相浦海兵団分団と言ったような標識がつけられたりしていたので、戦況逼迫で、先行きを案じていたのである。
まさか、それから、数日後、予科練教育中止が下達され、予科練教育だけは、終了できるのでは,ないかと、密かに胸中に持っていた淡い希望が消えたのである。
適性検査に、話をもどそう。
戦後判明したのであるが、当時、甲飛16期の在隊していた、全国の航空隊で、16期生に適性検査を実施したのは、我が福空のみであったと言う事実である。
これは、推測の域を出ないのであるが、当時の福空の司令以下上層部が、尽忠報国の純真な心で、海軍航空兵を志願してきた、我々に対し、せめてもの、温情による正規課業にもとずいた検査を受けさせようとした憐憫の情では、なかっただろうか、と言う説に、大方の同期生が頷くのである。
適性検査の内容
1.クレペリンテスト (現在でも、会社、職訓等で実施されているものと同じ)
2.身体検査
  a 握力・背筋力・視力・肺活量とうの身体検査
  b 眼球検査・斜視・視野の精密検査・視覚反応
  c 平衡検査(機器による静平衡・回転機による動平衡検査)
  d その他、運動神経に関する検査や観察力・計算力等の検査もあったようである。
  e 地上操縦練習機(リンクトレナー)による操縦感覚の試験
 以上のようなものであった。
この、地上操縦練習機による検査は、約3分間づつ、3回リンクトレナーの席につき、最初はカバーを掛けないで、そして,悪気流設定もしないで、指示された各度の旋回操作をするのであり、次ぎからは、蓋をされて、いわゆる夜間飛行の計器飛行状態にして、しかも、気流設定がなされるので、難しくなる。
さあ、この、地上操縦練習機に、数分間でも、乗れたことは、当時の我々にとって、ワクワクドキドキの歓喜の一言に尽きる。本当に、予科練を志願した思いが、満たされたような気持ちがしたことを、今でも良く思い出す。それもその筈であろう、後にも先にも、飛行兵らしい、事は、このことが一回だけで、娑婆で想像し期待ていた、滑空機による訓練も無かったからです。
それから、数日は、隊内では、適性検査のことが関心事で、みな、勝手に俺は、操縦だ、そして、戦闘機搭乗員に行くぞとか、俺はどうだといって、胸をときめかして同期の友と話し合たりしていた。
それも束の間のことで、5月の上旬の或る日のこと、午後の課業時間直前になり、16期生分隊総員整列の下命があり、何だろうと、集合して居たところ、本部庁舎方向から、飛田司令(プロフイールに就いては別稿にて)が、自転車で、副長も連れないで、我々の集合広場の指揮台に上がり敬礼を受けたのち、休めの号令をかけて、我々に楽な姿勢をとらせて,慈父のような口調で達示が始まった。
その時の訓示達示の詳細は、忘却の彼方にあるが、大筋の骨格と肝心なことは、今でも思いだすことが出来るので次ぎに記す。
『諸氏も、入隊して、1月を経過して、よく、がんばっているようである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戦況が逼迫してきて、海軍では、練習航空隊の教育中止のやむなきにいたった。・・・・・・・・・・
前線も、本土に近くなり、お前達の先輩はは、必死の覚悟で戦いにいどんでおる・・・・・・・
先輩達の戦場が、移ってくるための、後方基地の増強を急ぐ必要が出てきた・・・・・・・・・・・
お前らは、予科練教育も中途であるが、ここで、先輩たちの為に、後方基地増強の任に就くように』 と言った達しであり、要するにこの時、正式に予科練教育の中止を宣告されたので訳である。
そして、司令は、当時の軍人としては、一寸、誰でもが言えないような訓辞をされた。
『お前らは、海軍にだまされたんだ、海軍には、お前らを乗せる飛行機は無い、訓練する燃料もないのである』といった意味のことを、我々練習生を前にして、言われた、そして、『お前らは、生きながらにして、神様だ』とも言われた。
<<このことに就いては、内容は、記憶を思い出して書いているので、言葉は正確では無いかも判らないが、趣旨については、他の同期生も、そのようなことで有ったようであると言ってくれている。 又、この件については、司令の紹介記事の稿で補足説明します。>>>
その時、前述のとおり、多少隊内の雰囲気と戦況については、薄々ではあるが不利であることは、想像はしていたものの、本当に涙が出た。それは、土方になることではなく、予科練教育が中止になったことが残念でたまらず、こみ上げてきて、嗚咽はしないものの、その嘆き落胆は相当のものであった。

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<< 私の予科練記  第 15 回 >>
<飛田健次郎 大佐 を思い出して  >
福岡海軍航空隊司令飛田大佐について、記憶を頼りに、プロフイールを綴ります。
駆逐艦関係の戦史を読まれた方は、この名前をご存知かと思います。
スラバヤ海戦記や雪風の艦長としても登場する、豪放磊落な薩摩ぽ,海軍軍人です。
司令は、鹿児島海軍航空隊の予科練隊の当時の司令岡村春基大佐(海軍の航空関係では、有名な方です。ので何らかの資料でご承知の方も有るでしょう)の下で、副長として、予科練当時鹿児島空には、甲、乙の練習隊が在隊していた、予科練の教育に携わっておられ、昭和19年秋に、戦局の関係でしょうが、鹿児島空は、戦闘機中心の実戦部隊に明渡し、新設の福空に、甲飛14〜15期と共に、一部は、小富士分遣隊に移動し、福空の司令に着任されていた。
我々16期は、飛田司令に迎えられたのである。
司令の、風貌は、インドのガンジーに良く似た顔立ちで、眼光鋭い方で、口ひげが良く似合う方でありました。
我々は、愛称として、飛健さん、仲間同士では呼んでいた。
実に、慈父みたいな方で、我々は、心から慕っていました。もちろん、入隊したての、我々が、司令に馴れなれしく近づく訳には行かないのであるが、非常に近い存在に感じさせるような、雰囲気を持った方であった。
福空では、バッター等での、罰直は、司令の命令で、厳禁との事であって、あまり無かった。(隠れて、一部の場面で在ったが、皆無に等しかった。)
たとへば、ある朝、総員起こしの後、分隊全員が、兵舎周回の駈足罰直を受けているのを、見つけられると、コラー何分隊か、分隊長も、分隊士も、教員も一緒に走れと言って、叱咤されたこともあった。
この様に、前触れも無く、ふらりと、我々練習生の日課を視察にこられる事が、多かった。
朝食の時間には、食事はたりるかと、質問されたり、娑婆では、食料が欠乏し苦労しているから我慢してくれ等と諭されたりしていた。
さて、前回の、予科練教育中止の訓示の事を補足説明します。
現職の司令が、『お前らは、海軍に騙されたんだ・・・・』等と、とても、発言出来るような、時代背景ではないのである。海軍軍人の持っているリベラルな面があったのかもしれませんが、聞いた私も驚きました。
そして、司令が我々によく言われていたことに、お前達は、生きながらにして神になる人であると言っておられた。
実は、戦後、司令は、鹿児島県の復員部の長として、在職の時と、県会議員の在職中、鹿児島県の甲飛会に、来賓として出席された折、二回ほどお話をする機会があリました。
その時の、問答を辿ってみます。
福空でのことについて、例の、海軍に騙されたんだと言われました。と聞いたら、『俺は、あまり覚えていないが、それくらいのことは言ったかも知れない』との事でした。
お前らは、神様の件については『俺は、かねがね、若い予科練の純真な尽忠報国に燃えた、けなげな姿を見ていると、神々しく見えてくるんだ。若くして穢れののない真摯な報国の志に打たれていた』との返答がありました。
つぎに、罰直の件については『俺は、駆逐艦乗りだ、一回も、菊のご紋章のついた艦には、乗ったことが無い、だから、兵員の苦労は、良くわかっているつもりだ。だから、陰湿な罰直は、嫌いだから厳しく戒めていたのだ』と答えられました。
この様に、慈父みたいな、暖かい司令で、私達は、随分助かった者です。
司令の一部分だけしか見ていないのですが、戦後、我々の分隊士や教員の方にあったときに、その話をしますと、飛田司令は、本当に良い人であったと懐かしく言われていました。
菊のご紋章のついた艦
海軍のことを資料で調べておられる方は、承知の事でしょうが、補足説明します。私の記憶も怪しいのですが・・・・・・・
海軍では、戦艦を始とした、軍艦と、駆逐艦等の補助艦艇の区別があり、補助艦艇には、舳の菊のご紋章は付けられていません。
では、軍艦群の艦が、駆逐艦より優秀艦かといへば、そうではないのです、建造年月の古いボロボロにみえる砲艦が、軍艦であったりするのです。詳細な区分については、忘れましたが、そのような角度で写真集などをひもどいていくのも楽しいですね。

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<< 私の予科練記  第16回 >>
< 予科練教育の中止 >
戦況逼迫で、予科練教育の中止・聯合練習航空隊の解体と言うことになり、福空の、教育中の甲飛16期生は、飛行場構築整備作業に入ることが下命されたのである。
戦後、飛行練習課程に進めなかった、予科練を揶揄して、土科練と言われた所以にもなった。
5月上旬の、達しの有った翌日から、土方作業に入った。
朝食の際に、時代劇映画で見られるような、柳行李の小さい型の弁当に、昼食を詰め込み、風呂敷で包み、右肩から袈裟に、背負って、兵舎群基地敷地と町道を隔てた、数百メートル離れた飛行場に向って、土工作業に就いた。
福空の飛行場は、田園地帯を、整地して、ペトンで固めた滑走路が一本在ったのであるが、配置された、海軍設営隊の部隊により、細々と、滑走路の補強作業が進められていた。
我々も、それに協力する体制で、作業に就いた、その時の作業は、大きな栗石を、ハンマーで砕き、滑走路に敷詰め、蒸気機関駆動のローラーで、点圧していくのが、主たる仕事で、時には、原石を、小さい機動車に引かれたトロリー連結のトロツコに乗り、原石の運搬にも当たった。
栗石割の作業は、モッコを担ぎや、ハンマー振るいに力がいり、難儀な仕事であった。
当時の、我々の平均的体格は、数え年15〜6歳で、身長は、1メートル55センチぐらいで、現代の、小学校高学年程度の体形であったので、馴れない、土工作業には、難渋した。
しかし、隙間無く訓練に追われる、今までの日課からすると、息抜きも出来るし、私語も出来るで、教育の中止と言った無念さがあったが、それは、違った意味での開放感に浸っていたようである。
また、昼食時に、設営隊の隊員と、相対して話をした。
当時の、設営隊の隊員は、召集兵で、年も、40歳前後で、我々にとっては、父か、近所のおじさんと言った感じがして、話掛けたものである、しかし、彼らの階級は、二等水兵、我々は、たった、一月の海軍生活のみで、一等飛行兵になっていたので、設営隊員は、階級を気にされて、硬くなられる、我々は、練習生の身分で、左程階級を意識していないのであるが、そこは、軍隊の中での相対なので仕方が無かったが、ツイ、おじさんと声をかけ、身の上話をしたのを覚えている。
そのような作業を、数日続けて居た折、飛田司令の巡視があり、司令から、「予科練生は、身体発育途中であるから、あまり、無理に作業を進めては成らない、昼休み時間を延長して、午睡の時間を設けたら」との、指示により、午睡の時間が設定されて、大分楽になり喜んだものだ。
さて、そのような、喜びも、永くは続かなかった。それは、月が替わると、状況・環境とも条件が急変するのである。(これは、今後の、回で詳述する事になるので、その項に譲ります。)
< 入隊から5月までの、体験したこと、 >
今まで、いくつかの、エピソードと、軍隊生活の内容について述べましたが、ここで、その他,記憶に残っている事柄について記してみます。
記念写真
海軍では、よく、写真を撮る風習があるのであろう、古い軍隊写真集にも見られる通り、帽子に名前を書いて,分隊全員の写真がよく出てくる。
我々も、入隊式の前に、帽子に名前は入れなかったが、分隊総員百二十数名が分隊長を中心に、記念撮影をしている。相当大判の写真であるが、総勢百名以上が収まっている上に、七つボタンの制服で帽子をかぶっているので、戦後それを見ても、自分を探すのが難しい、大体この辺の列だったがと、見当つけてみても、同僚ともども、幼顔をしていて、中々判別もつかず、同期生と、これがお前だ、あっそうかと言った具合で、爆笑の種になっている。
巻き脚胖(ゲートル)
ゲートルと言っても、現在判る人も少なくなってきている。
海軍の巻き脚胖は、上海の陸戦隊の写真等で見られるように、帆布製のこれも、日本固有の手甲脚胖のような様式の、格好をしていて、短靴の足甲をカバーするような覆いがあり、一枚の脚胖を、足袋のこはぜを合わせるようにして、脛の部分を包み込むようになっている脚胖であった。陸軍式の巻き脚胖は、編上靴に、足首から約8センチ幅の帯状の脚胖を巻きつけるのであり、我々からしてみれば、ダサイ感じがしていた。
ところが、我々16期に支給された、脚胖は、それなのである、海軍式のあの、脚胖ではないので、いささか、がっかりしていた。前線の陸戦隊では、相当以前からそのようになっていたらしい。14・15期は、海軍式のものであった。
この、巻き脚胖は、上手に巻かないと、巻きが崩れることに成って始末に悪いことになった。
当時、娑婆では、女性はモンペ服、男性は国民服に巻き脚胖姿が、普通であった。
< 上陸 (休日外出) >
私は、二回の外出を経験している。 海軍では、准士官以上は、当直以外は、毎晩外泊上陸(海軍では入湯上陸という。)
が許されていた。下士官と古参の水兵には、3日に1回程度の割合で、入湯上陸が在った。
入湯上陸でも、夕方から外出して、巡検前に帰ると言った制度もあったようである。
しかし、練習生には、入湯上陸は許されない。
5月に入っての、日曜日に、半舷上陸(分隊の半分)で,班長の引率で、班長が探した、指定倶楽部につれて行かれた。我々の倶楽部は、隊から歩いて、小一時間近く歩いて行くところであるので、午前午後に分けての半舷に上陸で、時間は正味四時間程度なので、そこそこに倶楽部を後にするのである。それに、後一回機械があったが、その時は、倶楽部まで到着しないで只、町を歩いて帰隊した様で、あまり楽しい記憶が無い。
当時は、既に、食料は欠乏しており、酒保品もなく、上陸で買い食いすることも出来ない状況で、クラブも、良い所は、既に先輩の期の倶楽部になっており、我々のときは、クラブの家族との交流も出来る環境でもないし回数も少なかった。
上陸の手続き風景は、上陸員整列の号令で、当直士官事務所の前に、風呂敷包みの弁当を小脇に抱え、上陸札(分隊班氏名が記入してある名札で、裏に、上陸承認の分隊長の認印が押してある)をもって、整列していると、順次副直将校が、上陸札いれの盆を持った当直下士官を従えて、各人の、所持品検査、服装検査、容儀検査をして行く、その時、上陸札は、下士官の盆の中に入れる。
予科練は、スマートで几帳面を旨とするときつく躾られていた。しかし、海軍では、上陸の際の服装点検は厳しかった。そのとき、少しでも乱れがあると、即上陸禁止か、帰隊後班長にしごかれる。
それから、隊門までは、列を作って団体行動であり、代表が、歩調をとれと号令をかけ、衛兵司令に敬礼をして、隊門をでて後、個々の行動になるが、さあ、隊外にでると、自分より階級の上の者と、出会うと、挙手礼をしなければ成らない、当然一等飛行兵の身分では、敬礼の連続になることは、当り前のことであるので、あまり、軍人と会わないところを選んで行くことになった。下級兵の間では、階級より海軍の味噌汁の数、つまり、古参の程度をもって、差別をする風習があった。
これは、艦隊勤務でのシーマンシップの練度に、勤務の経験の差により、歴然としてくるので、経歴の長さが自慢になっていたのだろう。
シーマンシップは、陸上では経験の出来ない体験により、船乗り特有の所作・技能が身につき、いわゆる、汐気たっぷりの風格が滲むようになるのであるが、ただ、年季が永いだけで威張る兵隊が多かった。
帰隊時間に遅れたら大変なことになることは、皆さんも知っておられる通りで、我々新兵は、その怖さと時間調整に見当がつかないので、早めに隊門を潜る、そして、当直将校事務室の前に並べてある上陸札を受け取り兵舎に帰るのである。
分隊では、時間をたがえる者が出ないかと、心配しながら班長が待っている。
半舷で、残った者は、時により違ったが、軽作業あり、自習あり、身の回り整理の時間が与えられ洗濯したり、時としては、演芸会が持たれたりしていた。
そのようなことで、番の回りにより、きつかったり、楽したりで、まちまちに成った。
< 教員の入湯上陸 >
班長(教員)は、下士官であるから、週に一回か、二回の入湯上陸が、交替である。
上陸する教員は、午後の別課時間のあとは、服装を整えたり、靴を磨いたりで、ウキウキした気持ちになられたようで、顔は、微笑んでいることが、我々にも判ることがあった。
ところが、当直で残る教員は、あまり面白くないので、その、鬱憤晴らしで、我々の巡検後の罰直が長くなることもあったように覚えている。
また、上陸で楽しかった班長の、朝は、ニコニコご機嫌である。
班長は、上陸する時は、夕食は、早く済ませるのであるが、残すので、その班の誰かがおこぼれに預かりにんまりとする事になる。
< 我々の入浴 >
在る日、バス用意急げの号令が掛かった。ハテナ今からバスに乗って何処に行くんだろうと、怪訝に思いボヤボヤしていると、何をグズグスしているか!!タオルと石鹸を持って早く整列しろである。そこで、初めてバスとは、入浴のこととわかり、大急ぎで集合する。
約千名近い16期の兵舎群に、浴場は一つであるので、分隊を順番で、週二回程度か、それ以下だったろうか、入浴があった。
さあ、その入浴が難行苦行なのである。脱衣室で裸になり浴室に入ると、そこには、バッターを片手に浴場当番の兵隊が待ち構えており、それ、体を少ないかかり湯で良く洗え、次ぎは、浴槽に入れと号令をかける。
初めてのことで、まごまごしていると、ボヤボヤするなと、バッターをトンと叩いて、怒鳴られる。
浴槽は、板張りの肩ぐらいの深さの浴槽で蒸気で沸かす方式であったが、我々が入るときは、お湯の量は、約40センチぐらいの深さで、とてもゆっくり浸るなどトンでもない。それに、数分もすると、揚がって交替でありる。
最初裸になって、大事な部分を隠していたら、こら何を女々しいことをすると怒鳴られ、浴槽に入る時は、タオルを畳んで頭の上に載せることを躾られる。
約15分ぐらい間隔で交替して、次ぎの班または、分隊が入ってくる仕組みになっていたので、脱衣場での、衣服の紛失、取違があるので、入浴は、あまり、良い記憶になっていない。
< 用足し >
小用は良いのであるが、大の方を利用する時は、ドアーの外に、帽子を架けて、用を済ませることに成っていたので、帽子の盗難に気を使いながら、ビクビクして気持ちのよいものではなかった。
どうしてか、員数合わせのためか、紛失してしまうのか、何だかわからないが、官給品は勿論のこと、私物などの盗難が良くあった。

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<< 私の予科練記  第17回 >>
< 入隊から 5月までの アラカルト >
故郷からの手紙
練習生宛ての、郵便物は、全て、教員室で受け取り、開封の上、検閲の後、各人に渡される仕組みになっていた。
発信にが女性名であったら、これは、どんな関係の人かと質される。従妹、親戚で同姓で在っも、しっこく聞かれた。
時には、恋人からの恋文も在ったりで、その時は、全員に披露されて、本人が、娑婆気を出さないよう冗談めかしで、話の種に、わざとされたりしていた。
つぎに、発信についてだが,これも検閲され、不都合な部分は、真っ黒く墨で消しこみがなされる。
それに、我々の乙分隊士は、広島高師出身の予備生徒からの見習士官であったので、文章、当て字、誤字の添削も厳しくなされた。
私は、元々筆不精のせいも在り、あまり手紙を書かなかったが、まめな者も居り、良く手紙を出していた。
この様に書くと、現代ではプライバシーの侵害ではないかと、息巻かれる方も多いと思いますが、これが、戦時下の軍隊の実情ですので当然と受け止めていました。
分隊対抗相撲大会
海軍で、相撲が盛んなことは、いろいろな海軍文集に出ていますね。
海軍記念日に、福空でも、分隊対抗の相撲大会が開かれました。その時は、選手で無い者は、応援していたのですが、一寸、団体行動の規制が緩められて、自由な時間が出来たものですから、つい、気が緩んで、先輩を尋ねたり、親しい期友と、ブラフラしたりしてしまいました。
ところが、我が分隊は、対抗戦で、惜敗してしまいました。
それからが大変。
当日の夕食は、入隊してはじめて、お目に懸かる、頭付き魚の甘煮のほかに、何かご馳走があり、ウキウキして、食卓について、班長の懸かれの令を心待ちしていたところ、先任教員の待ての一喝があり、今日の敗退は、応援をしないで、ウロチョロした者どもがいるからだ。怪しからぬと言うわけで、ご馳走が既に配膳してある食卓を、二人掛かりで、捧げ上げろの号令で、あの、頑丈なテーブルを頭の上高く支える罰直が始まった。
重いし、汗はかくは、よろよろするはで、傾けると、折角のご馳走が落ちるし、皆必死の形相でがんばったようである。
降ろせの号令で、ホッとしたものの、それから、数分説教が続き、付けの令で、食事にかかったときは、食事時間の終わり近く、ご馳走の味もそこそこに、かっ込んだものの、時間が足りず、涎して、残飯処理する羽目になり、恨めしいことしきり、誰を恨む訳にもいかず、只、残念がるばかりの一巻のオワリである。
飛行場整備作業中の日課
予科練教育中止による、土方生活が始まったが、今までの、日課が、陸戦とかその他の、座学が、飛行場作業に替つただけで、朝晩の、兵舎内の生活は、予科練教育中と替わらず、指導教育も厳しくされ、温習時間には、通信の受信訓練も続けられていた。
空襲警報
福空在隊中、空襲警報で防空豪に、避退したのは、二晩だけであったようで、それは、博多の街に、夜間空襲が在った時のようで、夜間の退避は、寝姿から、略服を着て、かく分隊所定の豪に避退するのであるが、そのときは、真っ暗闇の中、期友と私語を交わすことが出来るので、楽しい一時にもなった。
昼間、通信講堂で、課業中に、空襲警報が出て、ギョッとした、表情をしたら、前線帰りの通信教員が、何をオタオタするか!!と言って、敵機からの射線を逃れるのはこうするんだと、言って、その場に一瞬の間合いで倒れこんで、ゴロゴロと横に体を数回回転させて、数メートルも離れたところで、やおら、立ちあがりこうするんだと諭され、実戦経験の兵隊の凄さを目の当りに見せられ慄然としたり、感心したりであった。
福空には、隊から離れた、町の小高い丘に、横穴式防空豪が掘られていて、各分隊が、入り口の偽装をする事になり、在る日、作業員が4〜5名出ることになり、たまたま、K県出身の者ばかりで、分隊長(K県出身)に引率されて、偽装作業(草木を入り口に立てる)に出た。
作業も済み、分隊長の配慮で休みをとり、同郷同士の気安さで、方言丸出しで、楽しい語らいを持っていたら、分隊長が俺も、方言は判るんだぞ、ほどほどにしろよと冷やかされたりしていたら、福空の副長(この方もK県出身??)の巡視があり、うちの分隊長にやっていますかと言って笑顔で去って行かれた。
今、考えると、軍の方針で、防空豪の構築をしているが、現地としては、たいした効用は信じていなかったのではないかと疑いたくなるような光景に映った。
その、隊外の防空豪への避退訓練が一度だけあった。駈足の行動でバテた、記憶がある。その時は、防毒マスク入りの袋を背負っての行動であった。
映画会
娯楽の無い、生活の中で、二回ほど、映画があった。それは、野外運動場に、高く大型のスクリーンを張り、その、スクリーンの前面と裏側に、見物席をしつらえるので、丁度我が分隊は、裏側の位置に指定されたので、椅子替わりに、各人の手箱(日用小物と私物を整理する、薬箱程度の木箱)を、片手に持って席につく。
その時の、映画は,確か,高田馬場のシーンがあった。ところが、裏からの影法師を見ているわけであるから、堀部安兵衛が、左ギッチョで、チャンチャンバラをするので勝手が悪いこと甚だしいことで、愉快な思い出で在る。
その他、観たのは、戦後のテレビなどで放映されている、米空母に特攻機が突入する場面の捕獲品のフイルムであり、驚いたり感心しきりである。

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<< 私の予科練記 第 18 回 >>
< アラカルト 続 >
罰直のいろいろ
海軍に入って、驚いたのは、罰直の種類の多さです。
入隊前に、軍隊は、厳しくしごかれて、練成が行はれることは、覚悟してきた積りであったが、なにせ、何だかんだと、理由付けがされて、次々と、罰直があるのには、恐れおののいたり、すこし、幻滅を感じることもあった。
自分は、精一杯、精神誠意、体力の続く限り精励している積りが、気合が入っていない!!,とか、連帯責任による罰直を受けるのである。
股を半歩開け、歯をくいしばれ
これは、所謂アゴであり、15歳ぐらいの少年を、成年に達した大人の体格の教員が、体を半身に開いて、腕を後ろに回した姿勢から、拳で、アゴを、力をこめて、殴るのである。
この頃の、少年をそのような、殴り方をしたら、先ず、大怪我をするであろう。
気合とは、恐ろしいもので、時として、歯で、頬を傷つけて、血が出るが、大怪我をするようなことは、なかった。
気合を入れる方も、拳が痛くなるし、それを、数十人ものを相手することは、それも、大変な苦行であったろう。
そのようなことで、直接大人数を、一人で殴る代わりに、同期生同士を、対面させ、相互に、何発づつ殴れである。
このとき、手加減しているのが、見つかると、納得のいくまで、やり直しをやらされるので、多少、相手には、気の毒と思いながら、手加減はするものの、相当な力で殴っていた。
前支え
腕立て伏せであり、腕屈伸を数十回、または、ゆっくりと、腕曲げ、伸ばせの号令で屈伸をさせた後、腕立伏せの姿勢で、数十分にわたり、やらされ、へたり込みでもしたら、こらー!!と、尻にバッターが飛んでくるといった具合で、堪えたへる罰直であった。
手旗十二原画・踵上げ・膝半屈の姿勢
これは、丁度万歳をした姿勢で、膝を半屈にして、踵をあげた姿勢で、数十分立たされる罰直で、静かにやれるので、巡検後の、罰直に多かった。 これも、数分もすると、体がふらついてくるので、ぐらぐらすると、一発くる。
ボーイングの急降下
これは、衣嚢棚の整頓が悪いとき、衣嚢を背負い、腕立て伏せををして、足を、衣嚢棚の二段目にかけて、体を急降下の角度にして、腕の屈伸をさせられる。
時として、ニ人が、肩を組み、互いは、片手で腕立てをして体を支え、双発機になぞらえた、急降下罰直もあった。
鶯の谷渡り
寝台の、下を潜り、つぎの列の一段目、そして二段目と昇ったり潜ったりして、寝台の列を片端から、鶯の谷渡りのごとく、渡り歩く競争をさせられた。
手箱の閉め忘れ
手箱の蓋が開いていたりしている時、朝の清掃の時間中に、口に白墨等を挟まれて、大きくあけ、手には、手箱を捧げもって、立たされるといった罰直も会った。
説諭
罰直の前には、一通りの、説諭がある。
これが、堪えることが多かった。よくも、こんなに、因縁付けが出来るもんだと感心させられる場面もあり、無理偏に無理といった感じの、説諭に感じることも多々あった。
説諭だけで、体罰はないと言ったことは、多々在ったが、これが堪えた。
罰直は、いろいろ在ったが、思い出したら、またの機会に追記しましょう。

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<< 私の予科練記  第 19 回 >>
< 臨戦態勢の逼迫 >
5月の上旬の新兵教育終了の特別査察が終わって、操・偵コース判定の、適性検査の後、突如予科練教育の中止を申渡され、飛行場整備作業についたことは、前述しました。
5月中は、半日の半舷上陸では、憧れの七つボタンの制服を着て、外出も経験し、隊に残った場合、特別な隊内作業がない日の午後のひととき、隊内演芸会をするといった、息を抜ける時間もあった。
しかし、正規教育の課業が、飛行場整備作業に変わっただけといった、雰囲気で、予科練習生として躾教育、優秀な海軍軍人になる為に必要な精神鍛錬、心構えの持ち方、日常生活における所作行動を、練り上げる為に、練成の手は緩められることなく、5月は、終わろうとしていた。
たしか、5月末に近い日か、6月の早い日に、突然、編成替えの命令が出された。
聞くところによると、前線の後退時期が早まり、基地の臨戦態勢の強化完成がいそかれると言うことで、戦雲急な事態を感じ取る事になる。
編成替えは、福空に在隊している、甲飛14・15期の各分隊全員と、われわれ16期の分隊が混成になり、陸戦隊組織に改編され、その態勢で、飛行場の臨戦整備の完成を急ぐことになったのである。
編成替え風景
我々は、14分隊の兵舎を、各個が、衣嚢を担いで、本部棟前の広場に向かって、兵舎に別れを告げた。
初めての、移動経験であり、どの様にして編成が組まれるのであるか、皆目知識はないので、不安と今から変わる生活様式に、少しでは在るが、希望も持っての整列であった。
その時の、司令の訓示は記憶していない。多分滋味あふれる内容では在ったのであろうが、漸く勝手が判ってき始めた期友と、離れ離れになることの不安に慄いていたのであろう。
いよいよ、編成替え作業が始まった。
名簿が出来ていて、配置が令されるのかと思っていたら、遇数番号左に列を作れと礼され、第何列と、第何列とが、一個中隊といった編成作業の仕方であった。
そのような、区分が終わった後に、旧分隊の班長が分隊名簿に配属分隊を、氏名を書くにしながら記録していくということであった。
それ以後、終戦までに何回か、編成替えの場面を、体験したので、そのときは、気心の通じた期友と離れないような要領を使うことになった。
私が、編入された中隊は、第2中隊であったと記憶しているが、集まった面々は、14・15期生の飛行兵長が約3分の1と、我々16期生の一等飛行兵で編成され、2小隊(2こ班)が組織されたように記憶している。
1班の編成は、14 期生が班長になり、その下に14期生3〜5名、15期生3〜5名、16期生6〜8名で、合計16〜8名程度の組み合わせであった。
さあ、初めて、上級者と、生活をすることになり、いろいろな、戸惑いが生じたのであるが、そこは、予科練の先輩後輩の気脈が通じていたのか、さほど、陰湿な関係ではなく、特に、14期は16期を兄のような気持ちで暖かく扱ってくれたようである。

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<< 私の予科練記  第 20 回 >>
< 編成替え発令の頃の出来事 >
私は、知らなかったのですが、戦後同期生の話で、我々の編成替えより早い時期に、16期の、数分隊が、大村の海軍航空隊等に基地要員として派遣されていたそうである。
近くの兵舎に居るのですが、毎日の日課に追われて、ユトリのない日々を送っていたのでそんな事も判らず仕舞でした。
教員助手 桜花要員として、石岡空へ転出
5月の末近く、我が分隊の教員助手として、本当に、兄みたいにして、いろいろな事をを指導してもらったのであるが、当時の戦況逼迫で、それまで甲飛では、13期までが、飛練ないしは、水中(回天)・水上(魚雷艇)方面に進出していたが、14期が、そのような実戦部隊に進出するような事態になってきたのであろう。
3人の教員助手(14期生飛行兵長)は、操縦分隊所属2名、偵察分隊所属1名の方々であったが、転出の前夜の巡検終わりの後、我々の寝台を巡り、みんなの、寝顔に別れを告げながらそっと立ち去られた、光景をたまたま目覚めていたので、垣間見た思い出が残っている。
< 入隊4月ごろの、白菊特攻隊の仮在隊 >
4月の初旬間、烹炊所の食缶洗い場で、飛行服姿の、一等飛行兵曹が、食缶洗いにきているのに出くわすことがたまたまあった。
一般兵科では、下士官が、食卓番をすることはないのであるが、飛行科では、若輩搭乗員が下士官であるため、食卓番もこなさなければならないのである。
さて、白菊特攻の隊は、前線へ進出のため、外地にあった基地から、移動途中の中継訓練基地として、仮在隊していたので、見かけたのは、数日の間であった。
白菊隊は、機上作業練習機(本来の用途は、偵察要員の機上偵察訓練に使用されて居た3〜4名載りの機体)で編成されていた。
入隊数日の我々は、食缶洗いでも、おぼつかない様であったのであるが、先輩の搭乗員の手さばきは、見事で、その風情からキリットしたものが感じ取られ、われもこの様に成りたいと、身震いしたような思い出もよみがえってきました。
在る日、貴様は何期か、俺は、乙の何期だといわれ、頑張れよと声を掛けられたこともあった。
< 沖縄方面出撃機の不時着 >
当時、K県にある、陸海軍の航空基地からは、総力を挙げて、沖縄戦の最中であった。
5月の在る日、陸軍の偵察機が、福空の飛行場に舞い降りた。
事情は、天候不良で、機位を見失い、我が福空に不時着したとの事。
当時は、航法援助施設は皆無で、無線も封鎖に近く、地上から誘導もなく、搭乗員の腕に頼っていた時代であるから仕方のないことである。
陸軍さんであるから、当基地の関係者は、十分なもてなしの上、帰隊してもらったと聞かされた。
我が分隊の、分隊長は、福空の掌整備長を務め、甲分隊士は偵察の士官として、偵察関係を束ねていたので、その話を聞いたのであ。
ところが、数日して、海軍の天山艦攻機が、前述のような理由で、不時着したときは、海軍の偵察員が陸式みたいに、機位を見失うとは、たるんでいるといって、相当絞られた挙句帰隊していった。
当時、陸軍は、洋上推測航法が未熟であったため、長途の陸海協力の洋上進出になる協同作戦は、難しかったようである。
< 海軍の階級の表記 >
海軍は、何でも略することが得意のようで、海軍の隠語にも傑作な言葉があることは、皆さんご承知のとおりのことです。
一等飛行兵をイッピ、一等水兵のことをイッスイと読んだりしている。下士官の場合もイツピソウと同様である。
士官の階級で、大尉と大佐は、ダイイ、ダイサと濁り、大将はタイショウで濁らないのである。
よく、○○ダイイは云々と呼ばれていた。
多分、昭和17年に海軍の軍制に大改革があったことは、海軍マニアはご承知のことですが、それまで、兵から昇級していった士官は特務士官、商船学校出で士官になった者は、予備士官と区別して呼ばれていたのが、我々の時代では、士官にそのような区別はなかった。
しかし、あの有名な海軍承行令??は厳然として残り、兵学校出身の正規士官が優先順位の命令権者となり、ついで海軍機関学校出の正規士官という制度があり、前線での軍運用に齟齬をきたした面も戦後反省として、出ている。

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<< 私の予科練記  第 21 回 >>
< 陸戦隊編成での飛行場整備作業 >
甲飛14,15,16期の、福空在隊の練習生隊を、解体して、混成の陸戦隊編成が、されたことは、前項までに述べました。
いよいよ、飛行場作業に取り組むことになったが、我々の隊に割り当てられた、現場は、滑走路から東北東に、約1kmぐらいいったところに在る、丘の中腹に、飛行機の掩退壕の新設構築作業であった。
その他、避退誘導路の構築ほか、さまざまな、作業区分があったようである。
我々の、作業は、丘の中腹を、半円形に掘削して、飛行機の1機分の広さのオープン壕を構築、その壕に、蒲鉾型の梁を設置して、草木で、擬装することであった。
多分、6月の第2週目ぐらいから、約3週間と数日の期間で在ったように記憶している。
そのような、背景で、作業に取り組み始めて、数日後に、戦時日課態勢に移行した。
05:30 起床、06:00には、作業現地に向かい、直ちに作業開始、朝食・昼食・夕食共に、食卓番が、基地の烹炊所から、作業現場に運び、三食とも、作業現場で済ませて、帰隊するのは、18:30ごろになっていたようである。
この様に、突貫作業がなされた。
この間、我々は、初めての経験で、14,15期生の飛行兵長と、階級が上の先輩と生活をすることに成って、色々な戸惑いを感じていました。
勿論、16期が人数も多く、下級者であるので、食卓番は当然、作業の主力に為らざるを得ません。
分隊長(このときの分隊は、陸戦隊編成の分隊で、15名程度の編成)の14期生を先頭に、14期 3〜4名、 15期生 3〜4名、 16期 6〜8 名が、他の分隊と、作業区分して、構築作業に取り組むので、
他の分隊との比較され、その結果、14期生から発破をかけられるといった事も度々在った。
しかし、14期生は、我々16期生に対しては、兄のように振舞ってくれた、15期生は、中間にあって、苦労していたようであったが、大方は、16期生の練成不足に、同情的な感じをもっていたようであり、最初の戸惑いも薄れていった。
藪を、切り開いての作業の中で、時として、山芋ほ掘り出したり、食べられる、野草を採取したりして、昼のおかずつくりをしたりした。
山芋のおろしには、金網を探して、手に入れて道具にした。
ときには、蛇をとらえて、蒲焼にするといったことも在った。蛇の皮を剥ぐのに器用なひともいて驚いたりしたが、私は蛇アレルギーで、見ているのも大変な経験で在った。
基地内での、正規日課に比べ、作業は、土工作業で堪えたが、甲種飛行練習生の絆の中で黙々として、作業に就いていた。
その様に、起床から、就寝まで慌しい日課が続いていた、現代なら、大型建設機械で、瞬く間に、完工する事になるのであろうが、モッコと鍬、スコップと、人力で構築に取り組んでいって、略八分目程度の進捗度で、外観が出来あがった時点で、いよいよ、佐世保鎮守府特別第14陸戦隊(この隊の名前は、佐世保に行ってから判明した)に転属する事になる。
それは、我々が上等飛行兵に進級して、すぐであったので、7月の早い日であった。
転属令が出された。我々には、どこに行くのか訳が判らなかった。
例により、各自衣嚢を担いで、本部指揮所前に、各隊毎に整列して、この列とこの列で一隊など、編成替えが進められた。
前項で、述べたように、今回は2回目の編成替え経験であるので、ある程度、組分けを予想して、気心の知れた、期友と離れないようにしたが、何処に、配置になるのかは、判らないので、ただただ、期友と離れ離れにならいないようにするのみである。
いくつかの組分けが出来た時点で、行き先が示されたのであるが、我々は、汽車で針尾海兵団に向かうことが判ったが、詳細はわからないので、仲間同士勝手に詮索してみるが、これといった確定的なことはわからなかった

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<福空から針尾海兵団へ移動>
 いくつかの集団に、区分され、名簿確認がされた。
とにかく、我々には、詳細な行き先は、正確には分からないので、只、陸戦隊として、転属していくことだけは、想像できた。
 いよいよ、福空を後にすることになり、周船寺駅に向かい、特別仕立ての、列車に乗ることになった。その時点で、当面の行き先が、針尾海兵団であることが分かった様である。
   当時の、針尾には、海軍が、陸軍に若年兵を、青田刈り(陸軍は、幼年学校、少年兵制度などが古くから在り、小学校卒業後1年ぐらいすると入隊資格があった。)されるのに対抗して、S19年度から募集をはじめた、海軍予科兵学校(中三卒資格)・特別幹部練習生制度(中三卒資格、陸軍の特別幹部候補生に対抗しての制度)による、学校および練習生隊と、海兵団が、設置されており、S20年7月時点では、海軍予科兵学校の生徒は、岩国に新設された、海軍兵学校分校に移動していた。
 憧れの七つボタンの夏正装(戦時色、ライトブルーグリホン色に染め替えてある)を、着用しての、移動であるので、しばしではあったが、予科練を志願して、予科練習生の気持ちを確かめるような心境であった。
 列車は、博多径由鳥栖を経て、早岐駅までの旅であったが、途中車窓は、ブラインドを命ぜられていて、景色を眺めることなく、少し残念であったが、同期生同士で、いろいろな話ができて一寸ばかり、気の休まる時間が持てたようであるが、その時の、話題 は、行く先ののことが中心であったようであるが、思い出せない。
 鳥栖駅で、小休止の時間があったので、そっとブラインドを下ろして、ホームを眺めることができた。フトその時、目に付いたのは、女子の駅員がいたことで、その顔が、郷里で汽車通学していた時分に、見かけていた、某女学校の生徒に似ていて、動員でここ に来ているのかと思ったりした。
 同期生同士の語合いも、先輩の上司もいるので、遠慮がちに話していたようで、あまり、にぎやかな雰囲気ではなかったように、記憶している。
 いよいよ、早岐駅のホームに降り立った。そこから、海兵団に向かって、徒歩で行くことになった。距離は、定かでないが、1〜2KMではなかっただろうか、ところが、14期生の衣嚢は、前にも述べたように、海軍古来の正規の装備で、帆布製で直径40CMぐらいで、高さ120CM程度の棒筒状の型式で、担がなければならないので、我々16期生は、リュクサック式で、背負っているわけで、そこで、駅の土場にあった、丸太棒を見 つけて、14期生の衣嚢を、二人で棒にぶら下げて担ぐことになった。
 海兵団に着いてみたら、兵舎は、2階建で、ハンモック式の居住区の様式になっていたが、我々は、床に、毛布に、包まっての仮宿生活が始まった。
 ここでの、仮入隊期間は、数日であったが、西も東も分からないままの、右往左往の生活であり、雨の日も在り、この地は、赤土土壌で泥濘に難行苦行した。それに、雨で、正装が濡れて、着替えの支給品を持っていないので、仕方なく下着のままでいたら、 海兵団の下士官にどやされたりで、びくびくしていた。
 数日の、仮入隊の期間であったが、その間に、14期が、徒歩移動のとき衣嚢担ぎに利用した、丸太の端を握れるように削り上げて、バッターに仕上げ、それで、入隊して初めての、バッターを見舞われる経験をしたのである。
 その時の理由が、定かではないが、移動その他で、多少気合がぬけ、ダラダラしたように見えたのであろう。そこで、一発気合を入れるといったことであったのではなかろうか。
 初めてのことで気を揉んだが、シッカリと、尻を引き締めておれば、叩くほうが、的をはずさない限り、痛いが怪我はなかった。

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<針尾島から佐世保鎮守府へ>
 針尾海兵団での、仮滞在は、2〜3日ぐらいの、短時日であったようで、過ごし日々の行動ゃ行事は、記憶に残っていない。ただ、針尾に仮宿したことだけが記憶に残っている。
   7月の上旬の日であるが、いよいよ、佐世保鎮守府に向かい、佐世保鎮守府第14特別陸戦隊に編入された。
 移動は、徒歩で、針尾を後にして、佐世保鎮守府の正門を潜ったとを記憶していが、なにか、交通機関を利用したような思い出はない。
 ここでは、福空から一緒に移動して来たグループの1コ小隊程度の、約30数名が、我々を、引き取りに来ていた、菅少尉(予備生徒出身)に、引率されて、佐世保市第一大野国民学校に引率されていった。
 すでに、乙飛の練習生隊が、30名程度在隊していた。
ここで、甲、乙の両予科練習生が、混成の中隊を編成したことで、いろいろな、軋轢を生み色々なことを経験することになった。
 乙の先任は、飛行兵長(乙18〜9期 ?)で、甲14期より、先任であり、ついで、甲15期の飛行兵長となり、甲16期我々上等飛行兵と乙23期の上等飛行兵といた階級の混成になったが、乙23期の上等飛行兵の進級は、我々甲16期と同じ7月であり同列であるが、乙23期の入隊は、甲16期より数ヶ月早いのである。つまり、味噌汁の数が多いのであった。
 このような、序列があるので、一応、乙飛の兵長が先任として、隊の運営がなされていくことになった。
 ここでの、日課は、空襲に備えて、強制疎開した空家を解体して片付ける作業に出ていた。食事は、近くに在った、小さい軍需工場(砲弾の加工中の弾頭を錆取り研磨する作業を勤労動員中の女子挺身隊の女学生が従事していた)の炊事場に、受け取りに行っていた。
 宿舎での、日課では、甲、乙両予科練習生が、互いに、込みやられない様に、張り合って、特に我々甲16期に対して、甲14期からは、乙に込みやられるのではないぞと、徹底的な叱咤が出されていた。勿論、我々16期も意地の張り合いで精を出した。15期生から、ねだられたりして、困ったことを覚えている。
甲板掃除では、それ、おせー、おせー、回れと這いつくばりながら、乙との我慢比べみたいな様相を醸し出していた。
 ここでの、清涼剤は、食卓番で、少し離れた、軍需工場の炊事場に食缶を取りに行く時である。それは、挺身隊の女子学生に、予科練さん、特攻隊さんといって、慕いよられる事があるからであり、食卓番は、我々甲、乙の上飛の役割であるから、15期に羨まれたのである。
 私は、在る日、当時流行していた、手作りのマスコット人形(現代のキーホルダーみたいなもの)を、女学生が、搭乗員にプレゼントするように、貰ったのである。それからは、先輩の飛長からねだられたり、冷やかされたりで散々だった思い出がある。
 ここでの、罰直は、乙の飛長がやると、甲の飛長がやると言った按配で、数回経験している。そして、竹製のバッターが使われた。叩く側と叩かれる側の呼吸が合ったときは、あまり、ダメージはないが、振り下ろされる間合いを計りながら待つ身になると、何時振り下ろされるか、尻の筋肉を閉めたり緩めたりで大変である。
 或乙の飛長で、素人が金槌を使うとき、外さないように、本打ちの前にコツコツと小さく試し打ちする様に、尻にバッターを当ててコツコツとして振りかぶられて、多少間があいてからバシッーとやる人がいて、あれは、気持ちが悪かった。
 バッターは、普通一回に、3〜5本ぐらいで、この程度では、尻が痛いが、何日も痛みが続くことはなかったが、的が外れて、太股の下のほうに当たったり、尾底骨ああを叩かれると痛さは倍増した。
 ここでの、生活は、長くは続かなかった。多分、甲乙の混成が円滑に行かないことが、他の隊でも在ったようで、ものの、一週間ぐらいで、乙飛の練習生と別れを告げて、我々甲飛の練習生だけで、大野国民学校を後にすることになる。

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<大野国民学校から海軍工廠日野宿舎へ>
 甲乙混成での、生活も旬日を待たず解隊となった。この期間は、ほんの、一週間にも満たない日数であったが、重苦しい日々であった様に記憶している。そして、この間に、私をはじめ数人が、私物の紛失を経験していて、本当に良い思い出はない。
 甲14、15、16期は、菅小隊長に引率されて、近くの国鉄の駅から、列車で、日野駅に向かい、海軍工廠の第2日野工員寄宿舎に着いた。
 たしか、7月20日前後の日であったろう。工員宿舎には、既に、甲14,15、16期の練習生が、2個小隊ほど、先着していた。その殆どが、福空での同分隊で顔見知りの同期生であったので、安堵した。彼らも、佐鎮から、いずれかの隊に配置されたものの、我々みたいに、甲乙の軋轢に遭ったり、何らかの理由で、日野に来ていたようであった。
 そこに、集まっていた、士官は、中隊付き士官前田瑞穂海軍少尉(海機出)、菅小隊長・本田少尉候補生(予備生徒出)・岩山少尉候補生(予備生徒出)それに、中隊付き下士官柏木二等兵曹(砲術学校高等科出)であって、未だ中隊長は、赴任していなかった。
 工員宿舎は、畳敷きの部屋で、木造二階建で、部屋は、大部屋で、約10丈ぐらいの広さではなかっただろうか、14〜5名が寝泊りしていた。
 ここで、中隊編成が行はれた、各小隊長の出身県が、菅(大分県)・本田(福島県)・岩山(鹿児島県)であった。編成について話を進める前に、今後の我々の行動に、重要な関わりがあるので、各士官のプロフィールについて、記します。
 前田瑞穂少尉=機関学校出身で、乗る艦もなく、当時は、機関科配置の部署も無かったのであろう、陸戦隊の中隊付き士官としての赴任である。戦後海上自衛隊に入り、鹿屋基地隊指令を勤め、海将補で退職。
   菅少尉候補生=大分高商からの、予備生徒出身。前任地不明、戦後高商に復学と聞いている。おとなしいタイプ。
   本田少尉候補生=東北の出身、予備生徒出身。前任地魚雷艇隊、戦後、生家の医業を継ぐため医学校に進まれたとのこと。東北人らしく、朴訥で、温厚な性格。
   岩山安隆少尉候補生=鹿児島の士族の旧家で、父君は、陸軍少将で、南方軍の部隊長、弟は、甲飛15期生、秋田鉱山専門学校から、予備生徒として、旅順で訓練を受け、魚雷艇隊に配属されたが、艇の損傷により陸戦隊配備に着いた。西郷南州先生に心酔し、頭山満門下の国粋主義者で、壮士風の熱血漢。
 このような、背景から、第1小隊小隊長菅・隊員は、主として、大分県出身者を配す。
 第2小隊小隊長岩山・隊員は鹿児島・熊本出身者を配す。
 第3小隊小隊長本田・隊員は佐賀、長崎出身者を配す。  勿論、16期は、そのような出身で固めることが出来たが、14期は、四国出身者もいたり、15期も、区々であった。
 わたしは、第2小隊に配属された。ところが、編成があって、小隊長の訓示が凄かった。
『俺が岩山である。今後、お前等の命は俺が預かる。何事も、自分がこれと信じ正しい思ったら、正々堂々と軍務に励め、若し、やり過ぎても俺が責任を取るから、がんばって精励せよ』と言ったような意味合いであったようであり、その時、シャツの袖をたくし上げた、右腕は火傷の跡が在りテッキリ、魚雷艇勤務時代の怪我の跡かと思って見たりした。(後で判明したが、この傷は、幼少時代、さつま汁の鍋に転んでの火傷の跡であった。)そのような、ことで、これはどうなることになるのであろうと、身震いをしたものである。
 ここでの、日課も、佐世保市内の民家の解体家屋の整理に何日か、従事したようである。
ここの、工員宿舎の別棟には、当時、半島からの、徴用工員が入っており、夜には、故郷の歌(アリランなど)が聞こえてきた。私たちは、石鹸とタバコの物物交換をしたりしていた。(練習生には、タバコの支給は無かった)
 ここでの、面白い想い出は、総員起こしのの前総員起こし15分前、南京虫取り方はじめ」と言う、奇妙な号令が出されていたことである。
 南京虫は、この地方に多く発生していて、これに刺された中隊付き士官は、免疫が無く、体中発疹が出ており、練習生にもそのような症状が、出ていたのである。
 号令に従い、ソット起きて、蚊帳に張り付いている南京虫を退治するのである。
(南京虫は、闇の中で活動して、少しでも、明るくなると逃げて隠れ様として、蚊帳の出口を阻まれて、攀じ登っていて、それを見つけて退治していた。)
 ここでの、生活も旬日に満たない内に、移動することになる。
移動先は、北松浦郡佐々村にいる、第14特陸第2大隊に編入とのことで、国鉄の駅で次の次ぐらいの、佐々への移動となる。

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<< 私の予科練記 第25回 >>
<日野から佐々へ>
 予科練教育の中止の日から、たびたびの、編成替えや、転属を繰り返してきた。
その、ピッチがあまりにも短かったので、落着く暇も無く、それぞれの場面での、業務、日課も定まらず本当に、右往左往の連続と、最下級の階級の環境に過ごしたので、細かいことは、忘却の彼方にある。
 陸戦隊編成に成ったものの、正装の七つボタンの詰襟には、桜とウイングマークの刺繍の、襟章が゜、着いたままで、甲種飛行予科練練習生としての、襟度を維持するため、誇りと意地は持っていた。
 編成されていた隊が、予科練の先輩後輩のみの集団であったことも、一層、プライドを持って行動することにもなった。14〜5期生にしてみれば、とうに、予科練教育は卒業して、飛練に進んでいなければならなかった時期であるので、我々以上に、陸戦隊暮らしが不本意なものであったであろう。
   入隊して、数ヶ月を経過しているのであるが、福空での、教育練成で、特に、叩きこまれたことは、予科練魂(予科練の歌、若い血潮にある、攻撃精神と、体当たりの精神)であり、滅私奉公、死を恐れない精神、肉弾攻撃の精神と言った今考えると,猛々しいものであった。
 勿論、志願入隊に当たっては、国家危急存亡の時節に、滅私奉公の覚悟は、持って入ったのであるから、それらの、指導練成は、当然のことと受け入れていた。
 ただ、特攻で散るにしても、犬死はしたくない、何らかの成果をあげて死するのなら依存は無いと言った気持ちが心中をよぎっていた。
 そして、もう一つ、願望しつづけたことがある。死に赴く前に、軍装姿で、母に一目会いま見えて、別れを告げて、死地に赴きたいと言ったことがある。
 当時、数え年 16才の、年端の行かない少年がと、不思議に思はれるかも知れませんが、当時の、わが国の大方の国民には、理解が出来た常識的ことであったのです。同期生の大部分の者も、似たような心境であったことを、戦後の同期生会等で吐露している。
 移動の話に戻しましょう、佐々に移動することが分かって、我々には、或ことが、話題になりました。それは、いよいよ、陸戦隊の正規編成の部署に就けると言うことである。
 そのことは、我々にとって、大変関心事であった。われわれは、前述のように、飛行予科練習生という、身分を背負い、また、そのような生活態度で、過ごしてきていた。
 陸戦隊の実践部隊の配置につけば、そこは、一般兵科の陸戦隊員と混成になることであり、一海軍軍人として、区署されて、日課、行動も、それに準ずることになるだろうと言った点である。
そのことに、期待と、危惧を混ぜ合わせたような話題を、囁き合っていた。
 そのように、一般兵科の兵隊と混成になると、味噌汁の数こそ少ないが、一応、上等飛行兵の階級章をつけているので、我々より下級の階級の兵隊もいることであり、日課、仕来たり、処遇も、実践部隊風に変わるだろうと言った点が関心の最大たる点であった。
 佐々の小学校に駐屯している、佐鎮第14特陸第2大隊に到着してみると、一般兵科の中隊が待っていた。そこで、再編成がなされることに成るだろう待機していたら、その日の内か、翌日になっていたか定かでないが、我々予科練習生だけで、一個中隊を編成して、近くの、佐々青年学校に宿舎を設定して、駐屯することになった。
 我々の、期待と危惧は、露に消え、青年学校に移ったのであるが、その時までは、中隊長は、着任しておらず、数日して、佐世保海軍軍需部勤務から、清水中尉(予備学生出)が着任し、校門には、清水中隊と言う門標が掲げられた。

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<< 私の予科練記 第26回 >>
<長崎県北松浦郡佐々町 青年学校での 清水中隊 >
 7月末日近い日であったろう、度々の烏合集散の末、佐鎮第14特別陸戦隊第2大隊清水中隊が、佐々青年学校の校舎を、隊舎として開隊したのである。
 佐々は、松浦湾の内懐に位置する、海岸に接していたのであるが、青年学校は、山手の小高い丘の麓にあった。木造2階建ての小さな建物で、2階に1教室、1階が2教室と、別棟に、宿直室兼用務員宿舎があった。
   我々2小隊(岩山小隊)は、2階の教室が割り当てられた。別棟が、士官室になり、数日後に赴任してきた清水中隊長、前田中隊付き士官と、菅、岩山、本田の第1〜3小隊長と、中隊付き下士官と、新たに加わった、一等衛生兵の、7名という多勢が、2部屋程度の狭いところに入ることに成った。
 一つの隊が独立して、活動することになると、いろいろな、用務をこなさなければならない。其の第一が、歩哨、夜警、営門哨兵などの衛兵業務であり、早速、15期生が、衛兵伍長の役割で、各小隊が持ちまわりで、衛兵当直をすることに成った。
 当時、青年学校には、日清戦争当時の陸式小銃(多分村田式で有った。)が、教練用として、数拾丁有ったので、それで、武装(勿論、弾の出ない訓練銃である)して、哨兵当直に立つわけである。
 食事は、数百メートル離れたところに有る、佐々国民学校に駐屯している第2中隊の烹炊所に食卓番が受け取りに行くことに成った。
 移動して、数日は、士官も連絡その他で忙しく、我々も、色々な雑役に駆り出されていたようで、日課も定まらなかったが、我々としては、この編成で、敵の上陸攻撃に備えて、水際作戦のための任務につくことに成ると言った程度のことが、分かってきた。
 数日して、雑役がない小隊では、陸戦訓練を始めたが、隊の中で、陸戦に精通しているのは、中隊付き下士官一人で、手探りでの訓練で、其の内、マルト兵器??が我々の装備になるらしい、そして、それらをもって、水際で、敵戦車や、上陸舟艇に肉弾攻撃をするのが、我々の隊の任務であると言ったことが判明してきた。
   其の兵器たるものは、現在の感覚で考えると、荒唐無稽の玩具みたいな、粗製濫造、間に合せみたいな兵器で、それでも、サンプル程度の模型が支給されていて、只、形を想像できるのに役立つ程度であった。
 狙撃銃=現在の狙撃銃と言えばゴルゴ13に出てくるような、スコープ付の命中精度の高いものを想像されるであろうが、さにあらん、99式陸式小銃も、全員に支給出来ないほど、欠乏の時代であり、その銃たるや、鉄パイプに、装弾構造と撃鉄と引き金が作りつけられた、手製の鉄砲である。それはもう、子供の兵隊ゴッコでも、もっとマシな玩具を使って居たであろうに、敵と合間見えて、対峙しようとする兵隊に装備するにしては、笑い事では済まされなかった。
 箱爆雷=海軍で各人に貸与され使用していた、家庭配置薬の箱程度の、木箱を利用した爆雷で、箱に爆薬を詰めて、長い紐を雷管(起爆薬)と連動させて、その爆薬の入った木箱を戦車の動帯に投げて、紐を引っ張って爆発させる仕組みのものである。
 棒地雷=4x6センチの楕円形状で、約60センチ程度のブリキ製棒状のものに、爆薬を詰め、それを竹竿の先に括り付け、戦車の下に敷かせて爆発させる構造。
 円錐爆弾=直径25〜30cm高さ25cmぐらいの、ブリキ製の円錐形のもので、底辺の平らな部分が頭で、突起をつけてあり、これが信管を作動させる仕組みで、逆円錐形を、竹竿の先に取りつけて、直接戦車に突きつけて、爆発させる構造。
 破甲爆雷=これは、亀の甲みたいな形をしており、これは、本格的工場製品で、手のひらに乗る程度の大きさで、磁石がついていて、戦車の外板に吸い付かせて、爆発させるもので有った。
 チビ弾=陶器製で、丁度茶碗蒸の器みたいな形をしていて、戦車の銃眼や窓等の開口部から投げ込み、目くらまし程度の爆発と、ガスが発生する仕組みのもの。
 このような、装備で、水際陣地を構築して、蛸壺等の遮蔽に一人一人潜み、上陸してくる戦車に特攻肉弾攻撃をするのが、我々予科練中隊に与えられた任務であった。
 以上のようなことが、分かって来ては居たが、我々が、配置に就く、海岸には行くこともなく、大八車に、戦車の仮装をして、模型の爆雷兵器を使って、肉薄攻撃の訓練を数日続けていた。
 ここで、変わった事と言えば、風呂を近辺の民家に、各小隊毎、契約して、貰い湯をすることに成り、交代で、午後の早い時間からバス当番で、貰い湯の民家に行って、風呂沸かしの役務につくことであった。
 我が小隊の、民家は、土地の写真館であり、同年輩の女学生もおり、当番の日は、ワクワクしたものである。
 そのころ、日本中各地が、B29や艦載機による空襲を受け、焦土と化してきている実態や、ニュースなど、世間のことは、全く分からないで、其の日の日課に追われて、てんてこ舞いをしていたのである。

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<< 私の予科練記 第27回 >>
<佐々青年学校での生活 >
 あわただしい、部隊編成で、曲がりなりにも、我々の予科練中隊も、模索を重ねて、日課をこなして行くことになったが、士官も、陸戦隊について、専門家ではないので、戸惑いもあったことでしょう。
 我々も、水際陣地の、防備要員になったという、自覚をしながら、どのようになるか想像も出来ないで、始めのうちは、隊外に雑役に駆り出されることが多かった。
 8月になって、数日経たころから、前回述べたような、攻撃訓練が、狭い青年学校の校庭で繰り返されるようになった。
 清水中尉が中隊長として、着任された後の、或る日のこと、清水中尉の引越し荷物を運ぶ要員として、同期のK県出身の16期生3名と、中尉の前任地の、下宿先まで、中尉に引率されて、公用外出で、佐世保市に出かけた。
 下宿先は、海軍通船桟橋から、交通艇で数分、渡った地区にあったので、海軍に入って、初めて、船に乗れたことは、船狂ちの私にとっては、ほんの一往復の数十分間の僅かな時間であったが、内心欣喜雀気で、今でも予科練生活の中で、福空でのリンクトレナーの適性検査に次いで、楽しい想い出として、心に残っている。
 佐世保は、海軍の街であるので、色々な階級の軍人と出会うのである、しかし、引率者の階級が、其の集団の階級になるので、中尉以下の階級の者が、敬礼をしても、被引率者の我々は、其の敬礼をしている者が、我々より上級者でも、中尉が答礼をするだけで、敬礼は要らないのであるが、初めての経験であったので、非常にまごついた。
 8月10日前後のことであった。海兵(江田島)出のN少尉が、コレスのよしみで、前田少尉(海機出)を尋ねられた際、N少尉は、K県K中出身で、私の先輩であったので、其のとき、K中出身者が呼ばれて、話をした。其の話で、数日前に、故郷に帰ってきたとの話で、其の中で、私の故郷M駅は、空襲に遭っていないが、隣駅前は、被害が出ているとのことで、安堵した。(しかし、これは間違っていたのである、復員の事を書くとき述べます。)僅かで有っても、故郷の情報が聞けてうれしかった。
 其のようにして、8月に入って2週間近くの日数が経っていたのであるが、我々の日課は、雑役に陸戦訓練と、区々の日々を過ごしており、あまり記憶に残っているような事柄がないようである。
 しかし、其の頃には、広島、長崎の被爆の日があったわけであるが、我々には、全く情報は伝わっていなかった。それだけでなく、戦況の逼迫はなんとなく感じ取れて覚悟はしていたが、具体的戦況についての情報は知らされていないので、何処からか、伝ってくる断片的な情報をもとに、あーでもない、こーでもないと言って、想像を交えて同期生と話をしていた。
 福空で、陸戦隊編成に成り、14、15、16期の混成で、2け月近くを、多少のメンバーが、転属のたびに替わったものの、殆どが福空以来の顔ぶれであった。
そのような事が根底に有ったからか、甲種飛行予科練習生と言った気分は抜けず、練習生としてのプライドは強かった。
 この頃になると、14期は、上級者としての振る舞いをするのであるが、人により性格が異なるように、中には、鼻持ちならない、振る舞いで、我々16期に当り散らす人も居て、多少窮屈な思いもする日も有った。
 ここでの、罰直は、アゴ、腕立て伏せ、バッターといったもので有ったが、ゼロ戦の急降下という罰直が編み出された。
 それは、下痢をしている者は、何か、余計な者を食べたのだろうと、テーブールの上に真直ぐに寝て、頭と、両足を30度くらい上げて、くの字の状態になって、其のまま頑張るのであるが、腹は下痢気味なので、腹の筋肉を引き締めなければ、すぐに足が下がるので苦痛な事である。それに、首の下と脚の下には、日本刀の抜き身が横にして、刃をむき出しているので、じたばたすることも出来ない、それは、苦しい罰直の一幕である。
 14期生の気分により、罰直は良く行はれたようである。
このような、生活の中で、旬日を過ごしたのであるが、そして、8月15日を迎え たのである。

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<< 私の予科練記  第28回 >>
<清水中隊の八月十五日>
 目まぐるしく、移動転属を重ねて、到達した、佐々での生活も、二週間が過ぎていた。只、本土決戦に備えて、水際陣地防備で、特攻肉弾攻撃要員が、我が隊の任務であることだけが判っているだけで、具体的な方針は示されていず、どの地区が、我々の、防備配置であるかも全く知らされていないところで、手探りの肉薄訓練が繰り返されていた。
 お粗末な、爆薬兵器で、肉薄するには、投擲して、敵戦車に命中させなければならないが、それより、爆薬を抱いて、其のまま、敵戦車の動輪帯の下にもぐりこめと、教えられた。
   蛸壺壕から、飛び出して、爆薬を投擲して、また、壕に潜り込むなどと言った、余裕はないであろうと想像していたので、肉弾で、戦車の下に潜り込む方法が最適と考えていた。しかし、自分が、そのような場面で、実際に飛び込めるだろうかと言った不安も時々過ぎることも有ったが、漠然とでは有ったが、自分に言聞かせながら、其のときは、潔く突撃し様思っていた。
 8月15日、部隊幹部には、其の日、待機みたいな指示があったのであろう、午前中各小隊とも、教室で座学が、各小隊長を教官にして実施されていた。座学といっても、小隊長に、陸戦の専門的知識と経験があるわけではないので、要するに、肉弾特攻についての決心でなければ成らないと言った意味のことを中心に時間が過ぎていった。
 丁度、正午になる頃、衛生兵が、教壇の小隊長のところに、伝令としてやってきて、耳元に囁いたら、小隊長は、我々に其のまま待ての令を出して、教室を出ていった。
 我々は、何事であろうと言った、不審は有ったが、ホット気を抜いて、席に就いたまま、数十分が経過したとき、岩山小隊長がアタフタと教室に入るなり、教卓の上に胡座をかいて、どっかりと腰を据えて、我々を睨み付けるように見回した後、忠君楠公の七生報国の古事を懇々ととき始め、我々にそのような覚悟を持てといったような話の後、お前等の命を俺にくれと言った後、日本は負けたのだ、恐れ多くも陛下の詔勅が有ったと告げられた。
 ついで、我々は、最後の一兵になるまで戦うんだ、皆、覚悟せよ、若し、事情が有って、行動を共に出来ない者は、その旨申し出よ、じっくり考えて、決意してくれ、詳しいことは、追って判るであろうから、直ちに、身辺整理にかかれ。と言い残して、教室を出ていかれた。
 我々は、この様子を最初は、怪訝に思いながら聞いていて、敗戦と言う言葉をきいて、一瞬唖然とした。
 それを聞いて、私は、『あぁ、死に損なった。これで、寿命が来るまでは死ねないなぁ。』次に、『あぁ、どの面下げて、故郷の人に会え様か、オメオメ、故郷に帰れるのだろうか。』最後に、『負けて、残念だ、悔しい』といった、三のことが心中こみ上げてきたことを今でも鮮明に覚えている。
 何故その様な順番に、なったのか、其のことしか、考えが及ばなかったのか、判らない。とにかく、その三点のことだけであった。
 他の小隊は、他の教室であったので、事情は、詳らかでないが、篭城戦に入ることだけは、言い渡されていたようである。
 昼食の時間が゜過ぎていたが、みな、只呆然自若、涙して、身の回りの整理も手につかず、ヒソヒソと、周りの期友と、話をしていたようであるが、どのような内容の話をしたかは、全然覚えていない。悔しいと言ったようなことは、言い合ったようである。
 其の日は、そのまま、何することなく、虚脱状態のまま、日が暮れていったようであり、其の日の内には、何ら具体的な情報も、行動も無く、過ぎたのではなかったろうか、思い起こせない。
 私の予科練生活は、これから、復員までの間に、色々なことを経験することになる。

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<終戦から解隊まで   其の1>
 8月15日は、虚脱感と、悔しさ、先行きについての不安、色々な思いが錯綜して、日が暮れて、16日を迎えたのであるが、中隊全員が、篭城戦に参加することに成ったが、具体的な、戦術なり作戦があったわけではなく、兎に角、最後まで戦うと息巻いていた。
 中隊幹部と、14期生の代表によって、話し合いが会ったことであろう、我々には、武器も無く、食料もない、丸裸である。
   16日の夜のことであった。どの小隊が先頭になったか覚えていないが、食料の収奪蓄積をしなければと言ったことで、各小隊から、1分隊が出て、佐々の町屋の納家や倉庫に居たく保管してあった海軍軍需部の食料の収奪にかかることに成り、それから、毎夜、交代で、収奪が始まった。
 収奪した量は、米数俵、砂糖2袋、燃料アルコール 2ドラム、缶詰数箱などてあり、それらを、各隊が競って挺身奇襲の要領で収奪してきた。
 翌日は、盗難にあった、町屋では、警察官が来て被害調査をしていた。我々は、横目でそれを眺めながら、知らぬ半兵衛を決め込んでいた。
 それらの、物資は、我々が使役に出て、整理したことのある町屋で、勝手知った、収奪作戦であった。今思うと、使役に出たとき、60Kgの米俵を、15歳の体格で担がされたもので、今では、担げる自信もない、環境というものは、人間の極限の力を引き出す者だなぁと思っている。
 私も、数夜、収奪に出掛けた。物資を担いで兵舎に辿りつくのは、明け方になることが多かった。在る朝のこと、隊門近くに辿りついたら、隊門衛兵が突然敵襲と言って、非常警戒報をだして、我々に対して、攻撃を仕掛けそうになり、あわや、味方撃ちの寸前になり、誤りがわかって、大事に至らなかった。
 これも、当時の情勢では、起こるべくして起きたのである。其の訳は、この地方は、ご承知のとおり産炭地区であり、半島から徴用工が多く動員されていて、彼らが反乱を起こし不穏な空気があるとの、予備情報が、隊にもたらされていたからである。
 夜になると、ドラム缶の燃料アルコールと砂糖を食器に盛り、飲んで大トラになり、日本刀の抜き身を振り回す者も居て、隊内は、荒んでいた。我々は、再下級なので、オロオロしているだけであった。
 多分8月18日であっただろう、我々2小隊と3小隊の二ヌ甑ぢ小隊が、清水中隊長と、岩山小隊長に引率されて、汽車で佐世保市に行き、海軍軍需部に押しかけた。
 そして、強引な交渉がなされたのであろう、陸戦隊1ヌ甑ぢ中隊の標準武装の兵器を受け取ることになった。
 それは、 99式陸式小銃 30丁、拳銃9丁、装備弾薬小銃弾銃1丁について、300発、拳銃は、90発、チビ弾数箱、破甲爆弾数箱、ダイナマイト数箱、導火線等の引渡しを受けるために、佐世保市の地形を利用して、掘ってある、横穴式トンネル倉庫に連れて行かれた。そこには、我々には、驚くほどの兵器が゜蓄積保管されていた。それを、伝票に従い係りの兵隊から受け取るのであるが、そこは、海軍名物銀蝿の要領で、武器は、定数であったが、弾薬は、規定の数倍の量が持ち出されて、帰隊した。(数量については、記憶が怪しいので?????)
 この行動は、清水中尉の前任地が、海軍軍需部であり、軍需部の事情にある程度精通しておられたところを、岩山小隊長たちの、過激な意見で、仕方なく、その様な役割をされていたのではなかろうかと思う。
 数日して、航空兵に対して、米軍の追及が厳しいといった情報が何処からかもたらされたのであろう、我々は、憧れ、一番大切にしていた、予科練の軍帽と、桜にウイングマークの襟章の着いた、第2種軍装の焼却を命じられて、渋々ながら焼却をして、飛行兵としての、跡形を消していった。
 私は、このころ、当時多かった皮膚病の疥癬に罹っていて、時々医務室に通っていた。
 ここで、私の、予科練生活の中での痛恨事に遭遇することになる。

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<終戦から解隊まで   其の2>
 18日の、武器引取りの際、疥癬の疾病に加え銃に塗られている漆にかぶれてしまった。
それから、一両日後のことであったろう。衛兵当直に立ち、青年学校の裏手の小山に在る武器庫へ通ずる入り口の歩哨に就いた。連日の夜襲や、目まぐるしく駆け回ってきた疲れが出て、歩哨に立ちながら眠気を催し、それを、15期の移動衛兵当直に、発見されたのである。
   それを、小隊の14期に報告がなされ、其の夜は、アゴ 36発、バッター16本の罰直を受けることに成った。それでも、頑張って、フラフラしながらも耐え忍んだ、其のことで、疥癬と漆負けの顔面が腫上がり、故郷に帰るまで、腫れが引くのかと、心配をした。
   中隊は、軍需部から強引に受け取ってきた、武器で、裏山に在る沼地に行って、実弾射撃訓練を始めた。しかし、私は、医務室通いの輕業患者扱いで、兵舎で休んでいた、訓練から帰ってきた、14期が、私をみつけて、昨日の続きで、殴り始めた、そして、テーブルにあった、アルミ製の海軍の頑丈な薬缶を振り上げて、私の頭に振り下ろして殴りつけられた。
   同期生が帰隊して、薬缶が、凹んでいるので怪訝な顔していたので、大変ばつの悪い思いをした。
   私を、殴った、14期は、腹の虫が悪く、歩哨の不手際は、軍法違反になるものであることを種に憂さ晴らしをしたのではないかと、今では、思っている。
   私は、医務室通いも在って、実弾射撃訓練には、参加できなかった。
 実射訓練の際、拳銃の銃身が暴発で折れて、15期生が一人片眼失明の重症事故も発生した。
   其の様な、生活の中、22日ごろであったと思うが、予科練中隊に対して、鎮守府から、25日までに、強制解隊命令が出されたとのことで、篭城戦の計画は頓挫し、故郷に向かって、復員することになった。
   復員準備が始まったのであるが、内心は、ホットといった気持ちも多少はあったが、故郷に帰って、壮行会で見送ってくれた皆に会うことが、恥ずかしく思えたり、オメオメ敗残兵として帰るのが残念に思えたり複雑な心境であったと覚えている。
   各人には、多少の米、砂糖、缶詰が配分された。それに、復員証明書とそれまでの給料と、退職金として、970円ぐらいの現金が渡された。
 当時の、千円は大金であった。現金を貰ってびっくりもした。
 ちなみに、二等兵の給料は、5円50銭、一等兵は、12円位、上等兵が15円くらいで、それに、8割位の戦時加俸が支給されていたのであるが、我々は、手にしたことは無かった、歯磨きや、私物の購入費用は、班長が俸給から差し引いて、貯金として保管されていて、我々は、現金を必要とするような外出も無かったし、現金を手にしたことは無かったので、退職金にそれまでの俸給が合わせて、支給されたのであるが、年端の行かない自分は、軍隊に奉公に行ったつもりで、金のことなど頓着なく、俸給が出ることさえ怪訝に思ったりもした。

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<< 私の予科練記  第31回 >>
<解隊から故郷へ   其の1>
 我々の隊に、特命で解隊命令が出たので、解隊してそれぞれ故郷に散っていくことに成ったが、我々に、訓示されたことは、故郷に帰って機会が有ったら、篭城戦を続けようとのことであった。
 8月23日であったろう、それから、隊内では、復員準備に入る事になったが、其の日のことは、殆ど思い起こせない。
 其のとき、各人に渡された、携帯暦(各人の所属、進級、移動の記録が記されている公用履歴書)には、9月5日付けで、各人一階級進級辞令と、予備役編入の記録がしてあった。
 とにかく、帰るにしても、どの様にして帰るのか見当もつかなかった。
 翌日になると、K県方面は、岩山少尉(終戦により、ボツタム少尉に昇進)を中心にして、十数名がチームを組んで出発することになった。それに、東北出身の本田少尉も、K県組に同道することになって、一応、私の実家に落着く事になった。このことは、何時その様な取り決めをしたのか、詳しい経緯は覚えていないが、多分、実家が、旅館業をしていたので、同道を同意したのであろう。
 帰る方法として、いろいろ詮索された様であるが、K県方面は、国鉄を利用する方法で決まり、25日の昼過ぎ、隊に残っている隊員に別れを告げ、先ず、佐世保駅まで行くことに成った。
 佐世保駅についた時刻は、既に、夕暮れの時間になっており、何時列車が動くか、乗れるかといったことも全然判らなかったので、駅前の復員軍人や、民間人で列車待ちの人人の混雑した群れの中で、目的の列車が出るまで、待つことになった。
 我々K県組みは、岩山少尉の発議で、爆薬を3箱(多分破甲爆弾とチビ弾であったろう)と、拳銃3丁を、所持していた。
 夕闇みが迫ってきて、米を持って、駅前の食堂に行って夕食を取ることに成り、交替で、各人の荷物を見張り番をしたが、私は、其の見張りのとき、肩にぶら下げていた雑嚢に、拳銃2丁をいれて皆の交替を待つことになった。其のときの駅頭には、しょんぼりした風情の者や、復員兵や、ヤケッパチで酒を飲んで管を巻く者、騒然としていた。
 佐世保は、空襲の被害があって、混沌としていた。私が、小用のため、焼け跡の建物の影に行って、用を済ませて出てきたら、海軍の3種軍装の飛行下士官(多分一等飛行兵曹だったろう)に呼び止められたのである。
 「おい、お前は、予科練練習生か」と訊かれ、「お前の雑嚢には、何を持っているのか」と言いながら私を、建物の影に連れていかれた。私は、口篭もってはっきりした返答に困っていると、下士官は、すっと手を伸ばして、拳銃を取り出してしまった。
 「俺は、米軍の命令で、彗星艦爆を、サイパンに空輸することになっているから、これを俺に譲れ」といって、迫られた。相手の掌には、拳銃が渡っていての交渉であり、必死の思いで、これは、小隊長の命で預かっているので、私の一存では、どうにも出来ませんと言ったようなことをいって、断りを繰り返し、押し問答をした末、相手も、了解したのか、拳銃を返してもらった。そして、其の下士官は立ち去っていった。一時どうなることかと、内心ビクビクして、恐ろしかったので、一瞬ホットしたことを思い出す。
 岩山少尉に其のことを、報告したところ、それは、俺が会って話をすれば良かったなあ、もし、空輸が本当なら譲ってやっても良かったのにと言われた。
 今、考えると、その、下士官が、何故私の雑嚢に、ねらいをつけたのか、前後の事を詳しく思い出せないが、多分、私が、雑嚢の中身を意識した振る舞いがあって、一見して、判読されたのだろうか、真実は、どうであったか、忘れてしまっているが、その様な事件を経験したことは、確かである。
 いろいろな情報で、国鉄K本線は、KM県内で、2ケ所鉄橋が被災していて、区間折り返し運転をしているらしいとの事がわかってきた。
 佐世保の駅頭で、野宿をして一夜を明かすことに成った。

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<< 私の予科練記  第32回 >>
<解隊から故郷へ   其の2>
   翌日26日に、どうにかして、鳥栖行きの列車に乗ることが出来て、K本線の下り列車に潜り込み、多分大牟田付近の破損した、鉄橋を、徒歩で渡り、列車を乗り継いで、荒尾あたりの鉄橋寸断を徒歩で渡って、列車を待つことに成ったのが、夜の8時ごろになっていただろうか、そこに、辿りつくまでの記憶に残っていることは、渡河の際、陸軍の補助憲兵が、復員兵の持ち物を検査していたことのみである。
 我々が所持していた、菰包みの爆薬の箱は、これは、何だとシッコク誰何を受けたのである。其の都度、何を抜かすか、缶詰だよと言うと、重さを試して、それは、可笑しいと言って疑いが晴れない。そこで、缶詰にしておけと此方が凄むことになり、我々の凄みで足りないときは、岩山少尉の貫禄で凄み検閲を潜りぬけた。
 ここで、失態を引き起こした。それは、手分けして、民家に夜食に出て居たとき、急に列車が来たので、慌てて、皆を集めて乗りこむことに成った。その、ドサクサ紛れの最中に、岩山少尉の持ち物、海軍士官用衣嚢こおりを盗難に遭ったのである、それで、岩山少尉は、着たきり雀になった。
 この、盗難事件は、荒尾でなくて、最初の鉄橋渡河のときであったかも、記憶が混乱していて、はっきりしない。
 佐々を出て、二日をかけて、K本線Y駅に辿りついた、昼前後であった。ここで、K本線方面に帰るものと、H支線方面のK郡方面の者と、別れた。
 我々、K郡方面には、岩山・本田両少尉と、全部がK中出身の同期生6名であった。ここでは、たいした待ち時間も無く、H支線の列車に乗れた。
 この線は、天下の急流K川にそって、山間を登って、南九州3県の分水嶺であるY嶽をループ線とスイッチバックを繰り返して上り詰め、劣悪な石炭を炊いてあえぎながらの行程である。
 故郷に、まもなくと言う地理的位置に近づくと、私は、なんとなくそわそわしながら、いろいろな、不安が心をよぎっていた。皆もそうであったのであろう、列車は、ギュウギュウ詰になるほどの混雑はしていなかった様であるが、あまり話を交わしたような記憶がない。
 いよいよ、スイッチバックをしながら、K県のY駅に着いた。ところが、列車が停車中、そこの駅員に、故郷の顔見知りの助役さんを見つけたので、早速挨拶をして、鉄道電話で私の実家に連絡を頼んだ、それは、実家が、駅前旅館で昔から、鉄道の方々とは懇意にしていたのでそれに甘えてのことで、伝言の内容は、「小隊長2名の方と帰るので、荷物もあるからリヤカーを持って駅頭に迎えてくれ」と言ったことである。
 ところが、この伝言が、父を驚愕落胆の極に陥れた様で、ようやく、出征して出立した、M駅のホームに降り立った私が見た、父は顔面蒼白心配顔で待っているではないか、これは、後でわかったことであるが、鉄道電話で、小隊長を同道して、しかも、荷車を用意せよと言うことは、テッキリ遺骨か、事故で怪我でもしたのかと思いこんだらしい。
 今では、笑い話の様に言えるのであるが、入隊中文通も侭ならず、父母は、私の動静が全くわからず、毎日が心配の連続で、しかも、同町から志願していた、陸海軍の、同年代の復員は、20日以前終わっていたことや、我々が通過してきた、H支線のY駅を昇ったところの、トンネル内で、列車が蒸気力不足で立ち往生して、鈴なりに乗っていた復員軍人が犠牲になったと言う事故が数日前に起きていたこともあったようで。
 この事故では、K県のKY海軍航空隊基地に基地要員として派遣されていた、松山空の16期予科練生が犠牲になっているのである、現在も、当時救出に当たった地元の方々が、毎年事故現場の線路脇に立てられた、銘碑の前で、8月22日に慰霊祭を続けられている。甲飛の同期生として合掌である。
 故郷の駅頭に立った、私は驚いた。それは、佐々で、中村中尉に聞いた情報では、空襲の被災は無かったときいていたのであるが、駅前を見ると、正面から我が家の方向へ、家々と倉庫群が、被災し焼けてなくなっているではないか、吃驚して、見通すと、我が家の2~3軒目のところで、延焼が止まっていたので漸く安堵した。
 父は、無言の侭我々を自宅まで連れて帰った。家に帰りつくと、母が涙して待っていてくれた。そして、妹を始め、家業の従業員の女中さん達や、近所の人、疎開してきていた親戚の者一同が良く帰ったと迎い入れてくれた。
 早速仏前に復員の報告をし様と、仏壇に向かったら、そこには、私の出征の写真が飾られ、陰膳が備えてあった。
 妹の話によると、母は、毎日、陰膳を欠かさず、武運を祈って居たそうで、それに、我が故郷には、旧暦の18日は、陸軍関係の出征兵士の留守宅では、近隣知人が集い武運長久を祈る祭事を催す風習があった。海軍関係は、毎月の23夜であったので、当日は、母は、ご馳走を作り、参加してくださる方々に振舞っていたとの事で、水商売と言ったこともあって、参集してくれるお客も多く、物資欠乏のなか、色々工面に、苦労していたことを聴かされ、改めて、母に心配をかけたことを心に刻んだ。
 其の夜、父母に、両小隊長を同道したことを説明した。岩山少尉は、K市の実家が焼け出され、家族の行く先が判明していないこと、本田少尉は、東北で交通が困難なことで同道したことを告げた。
 母は、何も言わず、両小隊長をもてなしてくれた。
 それから、荷物の内容の事も、父には、報告したが、非常に心配した様で、誰にも他言するなと釘を刺された。

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<< 私の予科練記  第33回 >>
<故郷に帰って   其の1>
8月27日に帰着したのであるが、家業の旅館は、一部の部屋の畳は、積み上げられて、防災態勢の名残をとどめており、其の夜は、宿泊のお客と、同道復員してきた、両少尉達は、旅館の部屋に泊まり、私は、家族が、少し街外れの、小さな疎開の為に拵えた、バラックに、K市から疎開してきていた親戚と、棟割の一室に生活していたので、夜は、そこに泊まった、母は、私が、疥癬に罹っていることや、少しやせていたので、気を遣い、それから、私の健康回復に懸命の配慮をしてくれた。
 さて、一夜明けて、近所を歩いてみた、ところが、近所の人と会うことになり、恥ずかしい思いもしたが、挙手の敬礼で、帰還挨拶をすると、皆が元気で帰ってこられて良かったですねと、喜んでくれた。
 当時の世相は、国民総虚脱状態で、終戦後の混沌ととした世相の始まりの頃であり、田舎である我が故郷でも、主食の米の調達には、苦労があったらしい、しかし、母は、私達を心からもてなして呉れていた。
 我家の建物にも、敵機による、機銃掃射による、弾貫通の後が、壁から引戸にと、3け所程有り、陶磁器製の火鉢が割れたとの事で、其の程度の被害ですんで幸いであった。
 妹の、話によると、近くの小山に拵えてあるチャチな防空壕に逃げ込むのに、危機一髪といった場面も経験したそうで、銃後の人のほうが、私達より命からがらの経験をしたのだなと思った。
 当時の、復員兵は、持ちきれないほどの、衣料、毛布などを担いで、帰ってくるのが多かったが、私などは、員数も不足した標準支給の衣料の入ったリュックサック一つに、あろう事か、爆薬などを持ちかえったので、良く、後々話題にされた。
 一両日後に、同郡内に復員した、同期の家を、両少尉と尋ねて回った。
 月末になって、S市の親戚の、海兵の1号生徒であった従兄弟が我家を尋ねてきた、お互い無事を祝って、私の両親も、喜んでくれた。
 月があけて、私は、中学時代の友で、私が薦めて、予科練を受け、7月に、天理空に16期生として入隊した、KK君の家を訪問した。私は、自分が薦めなければ、入隊することも無かったのにと、済まない気持ちが有ったが、彼と、会ったら至極元気でむしろ、予科練に入ったことを喜んでいた様で、私の杞憂も晴れホットした。
 其の夜は、従兄弟と2人で、KK君の家で歓待を受け、泊まった。
 従兄弟が、帰ることになり、私も、S市の従兄弟の家え一緒に行くことに成った。 (多分、従兄弟は、私の父から、例の荷物を持ちかえったことで危惧しているのでと言い含められていたのではないかと後で考えた。)
 両少尉は、其のまま、我家に逗留し貰って、私は、従兄弟の家に往って、約2週間程度、戦災で焼け出されて、郊外の田園地帯に疎開していた従兄弟の家族と農作業などを手伝いながら日を過ごした。
 9月25日前後、自宅に帰ってみたら、岩山少尉は、実家の疎開先が判ったとの事で、また、本田少尉は、交通事情も何とかなりそうだと言うことで、約2週間ぐらいの逗留で、例の荷物を何処かに運び出されて、それぞれ出発されていた。
  この間、母は、両少尉に対して親切にもてなしをしてくれていた。
  この頃、父母から、中学校に復学する様に、しきりに、薦められるようになった。しかし、私は、復学するような気分に成れなかった。これと言った目標も無かったのであるが、どうしても、復学するには、ためらいがあった。

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<< 私の予科練記  第34回 >>
<故郷に帰って   其の2>
 9月の末ころ、父に、高等商船学校に進学を許してくれたら、中学に復学すると、押し問答していた。父は、時代が変わったから、その様なコースに進のは、許さない、それでは進学しないよと、言った調子で、復学をためらっていた。
 地元の旧友も、遊びにきていたが、彼らも、学校が戦災に会い、また、勤労動員で戦闘道路工事に駆り出され、食事も劣悪で、大変苦労していたことを話してくれた。
 私達は、予科練生活中、米のご飯には、有り付けていたし、訓練は、当然厳しかったがそれは、覚悟の上のことであったので左程悔いは無かったし、空襲も直接受けることも無く、志願をしなかった級友よりもマシであったのかなと思ったりもした。
 或る日、母が、中学校の恩師から伝言があって、学校に出て来いということで、多分、9月の末日頃か、10月の初めの日に、焼け出されて、隣町の旧海軍の施設で分散授業をしていた、母校に尋ねていったところ、恩師S先生が、おぉ元気で帰ってきたかといって、即学級に組み入れられ、其の惰性で、復学を果たし、紆余曲折しながら、旧制官立水産専門学校漁業学科に、進学を果たし、船に一歩近づいた。
 この時の母が言った、恩師の伝言と言うのは、小生を復学させる為に母が咄嗟の知恵を出したのではないか思っている。
 それからの、2年数ヶ月の間は、戦後の混乱期で、経済も闇経済、物資も欠乏時代で、学業もそこそであったが、民主主義の波が世間を覆い、軍国思想の徹底的排除と言った風潮の中、予科練時代の気分が中々抜けないで、巷間土科練・与太練と、言われるのが悔しくて、俺達は違うんだと息巻いていた。
 しかし、攻撃精神と海軍精神は、忘れず所謂行き脚がついた果敢な気構えで中学生活を送りながら、平和時代の青春を謳歌しながら、少しずつ、心中の整理もつき始め、普通の中学生らしくなって行った。
 岩山小隊長とは、この後も交友があり、戦後1年目の終戦記念日には、県内の同期生の一部が、K市のKT学舎(郷中教育の拠点)に集まり、日本国の存亡危機に際しては、必ず再起することを話し合ったりした。
 その後も、岩山小隊長の影響で、国粋的思想について、興味と憧憬を抱くようになった。
 10月の或る日、焼失していた母校に往った時、他の分散教場の担当であった、私が志願したときの担任教師と出会い、元気で復員したことを報告したら、其の先生は、大変済まなかったと言ったような顔された様で、多分教え子を戦争に駆り出したことを気にしておられるのかな感じた。私自身は、自分の希望で志願したので、担任に対しては、何もわだかまりも無く挨拶をしたのであった。機会があったら、ハッキリと、気持ちを申し上げたいと思っていたが、その後会う機会も無く、私の心に残ったままである。
 ここまで、時系列的に、私の予科練記を綴ってきました。拙文で脈絡の無い、話の連続で、読んでいただいた皆様には、あまり、参考にもならなかったのではと思っております。この、投稿を始めて、あらためて、当時を思い起こし、16期生の一つの記録の一端にでも成ればと言った義務感も出てきて、今回まで回を重ねました。

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船狂ち爺さんの連絡先
E-Mail sk_kawa@d1.dion.ne.jp
URL http://www.d1.dion.ne.jp/~sk_kawa/


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新規作成日:1998年11月22日/最終更新日:2002年10月28日