琉球 冊封使

琉球

琉球は、古くから本土や中国、朝鮮と交易し、また20トン程度の山原船(帆船)によって遠く安南、シャム、ジャワ、スマトラまで往来している。
中国との往来は1372年に明の太祖の使節が渡来し、入貢を求めたことから始まる。中山王察度は、直ちに進貢使を出し宝物を献じた。やがて南山、北山も入貢することとなるが、この進貢船が往来する時は久米島、慶良間、本島と順次「のろし」を上げて通報したとのことである。
1404年、察度の後を継いだ武寧に対し明の世祖は使を送り、冊封して中山王となし、冊文を授けた。これが冊封使の始まりであり、それ以来1866年まで続いている。1429年、琉球は尚巴志により統一されることとなるが、1432年、尚巴志は明から足利義教への国書を託され、宝物とともにこれを届け、義教は尚巴志に返書を送るなどしている。
この時代琉球は、日中の文化をよく消化して独自の文化を発達せしめ国が栄えた。「駅郵」が創建されたのもこの時代である。駅郵は番所即ち役場のことで、間切(村)ごとに置かれたが、首里政庁から発令された布達の逓送が重要な公務の一つで、その費用は各間切の負担となっていた。
また、布達のことを羽書(ハガキ)また逓送事務のことを宿次(シュクツギ)と称していた。宿次は首里に隣接する西原、浦添、真和志、南風原の各間切を起点として北部、中部、南部に発せられ、各間切からの報告は駅郵を伝って首里に達していた。


冊封

中国の皇帝が属国の国王に対し、その即位を認める文書を与えること。その際、中国から派遣される使者を「冊封使」という。当時の中国「明」の洪武帝は「明」を頂点とする世界(それを冊封体制という)を築くため、琉球もその一員に加えるべく、再三使節団を派遣していた。
尚巴志は三山を統一し、琉球国として「明」の冊封体制の仲間入りを果たすことになる。以後、琉球王の世代が代わる度に冊封使を迎え、載冠式を行うようになる。冊封使は300−500名にのぼり、6−8ヶ月もの間滞在するため、冊封使を迎える準備は一大イベントと化していた。
冊封体制の一員となり進貢国となった琉球は、ただ単に中国皇帝への貢物を差し出すだけのものではなく、国として認知されるとともに、中国への貢物を運んだ船「進貢船」は、帰りには中国の特産品を満載して戻ってきた。
進貢国の王侯がかわると、中国皇帝が使者(冊封使)を派遣し新王を命した。琉球にたいする冊封は1404年から1866年の最後の琉球王尚泰(しょうたい)まで24回行われたという。冊封使一行は400〜500人にのぼり、4〜8カ月滞在した。冊封の式典は首里城の前庭で行われた。

御冠船

冊封の行事は、御冠船ともいうが、その宴席に共されたところから、御冠船踊りとも呼ばれる。御冠船とは、冊封使が乗ってくる封船のことで、中国皇帝の琉球国王任命の紹勅、王冠、王服などを携えて来るところから、そのように呼ばれたのである。


進貢

中国の冊封体制下にあった国が皇帝に貢物を献上することをいい、進貢使は総勢100〜300人程度で編成され、その使者を進貢使という。琉球の中国への進貢は1372年から明治初年まで続けられた。進貢の回数は2年に1回、5年に1回、10年に1回、そしてまた2年に1回と時代とともに変遷していった。

進貢貿易

当時の中国は「自分の国は世界の中心であり,中国皇帝は世界の君主である」という中華思想を持っていたので、外国との対等な貿易を認めていなかった。そこで、諸外国は中国皇帝に貢物を差し出し、その代わりに持参した品物を買ってもらうという方法で貿易を行っていた。
持参品を中国政府が高く買い上げたので、諸外国は大きな利益を上げることが出来た。またその後、進貢国同士の広いネットワークが出来ることによって琉球はこのネットワークを巧みに利用し、朝鮮や日本、東南アジア諸国との間に、活発な外交・貿易を展開するようになる。
三山分立の「中山王」の頃から中国との国交が始まり、それは、中国から船大工や航海の専門家、外交・貿易の専門家など多勢の中国人が琉球にやってきて、当時離れ島だった那覇の久米村(現在の久米町)に住まいを形成した。また、中国へ留学生を派遣することでますます中国との親交が深まり、中国の優れた文化や学問が琉球に入ってきたのであった。

進貢使路(しんこうしろ)

進貢使は中国皇帝によって定められた貢期にしたがって派遣された。那覇から泉州・福州まで海を渡り、そこから北京までの3000キロを約60日かけて徒歩や河や運河を辿っていった。琉球専用の受け入れ港は当初泉州であったが、1472年に福州に移り、進行ルートも泉州ー南京、泉州ー北京、そして福州ー北京に変わっていった。進貢使路は数百年におよぶ琉球と中国の交流史が刻み付けられた「歴史の道」や「経済の道」であり、また「文化に道」でもあった

琉球と中国の交流は、1372年、琉球国王中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ進貢したのが始まりだといわれている。これに対し中国からは冊封が行われ、以来、廃藩置県までの500年間に渡って「冊封−進貢関係」をベースに琉球と中国の関係は続けられた。琉球と中国の交流史は、この「冊封−進貢関係」を抜きにしては考えられない。琉球国は中国との進貢貿易をもとに、広く東アジアや東南アジアの国々とも交易を行い「大交易時代」を築きあげた。

琉球使節船

琉球使節船
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薩摩藩の支配

1609年、薩摩は琉球に3,000名余りの兵を派遣して侵攻し、首里城を落した。
以後、琉球は与論島以北の奄美諸島を薩摩に渡すこととなり、「掟15ヶ条」と呼ばれる法度や上納を強制されるなど、薩摩藩の植民地となる。薩摩藩は琉球支配後も、中国に知られぬよう琉球王国が存在しているかのように見せかけ、進貢貿易を続けさせた。
1635年の鎖国により、日本が外国から遮断される中、唯一幕府公認の中国貿易の窓口としての役割を課せられることとなる。そして、薩摩は琉球に対し、幕府将軍の代替わりを祝う「慶賀使」と国王の世継ぎを認められる感謝の意を表す「謝恩使」の派遣を強制する。その使いが上京する際は、服装などを中国風に仕立てられ、中国風の演奏をしながら行列を強いられる。それを「江戸上がり行列」という。薩摩・島津氏が「琉球」を支配していることを誇示するためであった・・・・・。


琉球の交易

貿易の発展〜14世紀以降⇒大交易時代
琉球船の東南アジア進出⇒貿易港那覇発展
マラッカ・ジャワ・スマトラ・シャム・安南、中国を経て日本とも交易(中国の文物も運ぶ)
*中継貿易 中国から生糸・絹・陶磁器、南海から香料・薬種〜蘇木や胡椒、日本から刀剣・扇子
琉球:薩摩に「紋船」を派遣
薩摩:琉球渡来許可の印証発行の権限〜幕府認可
慶賀使(将軍交代の祝賀)
謝恩使(琉球国王交代の挨拶)

福建省 省都 副州市

沖縄県の那覇港からそのまま真っ直ぐ西に行くと、福建省の省都副州市に至る。どちらもほぼ北緯26度10分の線の付近に位置している。 もちろん海流や風などの影響を受けることが大きかった琉球王国時代の船は、そのまま直進して那覇港から福州に着くというわけにはいかなかった。
かつて、明・清時代に琉球から中国に行く進貢船や、中国の皇帝の名代として琉球に来て、新しく即位した国王を認定する儀式を執り行う冊封使の乗った船などの、長い航海の始まりと終わりを象徴的に示す指標の一つがこの塔である。
この塔の立つ羅星島は、もとは馬江(この付近のびん江こうのこと)に浮かぶ一つの島であった。江の河口から約30キロさか上った所にあり、福州までは陸路でさらに20キロ以上ある。 現在は、 かつての造船所として知られる馬尾とつながっており、福州への高速道路ができていてとても便利になっている。
羅星塔は、 別の名を 「磨心塔」 とも言う。 この塔の上から眺める江周辺の風景は、 見る者を海の彼方の見知らぬ土地へ誘う魅惑的な力を持っている。眼下をゆったりと流れる江にしたがって下れば、すぐに海に出られるからだ。創建は宋代と言われているから、千年近い歴史を経ていることになる。何回かの修復を重ねて現在に至っているが、高さ約30メートル、7層8角形の美しい姿は、江を行き来する船舶はもちろん、陸路で周辺を通過する者にも、交通の目印となっている。現在は福建省の第二級文化財に指定され、周辺は公園として整備され市民の憩いの場となっている。


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新規作成日:2002年2月6日/最終更新日:2002年2月6日