太平洋戦争のアメリカ海軍指揮官

ウィリアム・ハルゼー

1882年(明治15年)に生れ、海軍兵学校卒業後は水雷を専科としたが海軍大学校卒業後、空母サラトガ初代艦長、ペンサコラ航空基地司令、第2空母戦隊司令官、第1空母戦隊司令官と航空畑を歩んだ。 開戦の後は、空母「ホーネット」「エンタープライズ」からなる第16機動部隊を指揮してマーシャル諸島攻撃、東京空襲と戦艦を失い戦力建て直しの時期の米海軍にあって果敢に攻撃を行なった。ミッドウェーの時には悪性の皮膚炎にかかり療養生活を送るはめになったが、復帰後はガダルカナル島を巡る戦いを指揮した。 フィリピンを巡る戦いでは空母機動部隊を率いて戦艦「武蔵」を撃沈し、北方に繰り出してきた小沢機動部隊に全兵力で襲い掛かり6次にわたる攻撃で空母7隻を撃沈した。一方、ハルゼーの手をかいくぐった「大和」以下の戦艦部隊がレイテ湾に迫り、「ハルゼー艦隊いずこにありや。全世界は知らんと欲す」と米軍司令部は大混乱となった。 ブル・「猛牛」と渾名のついたハルゼーは絶大な人気を持ち、自ら先頭に立って緒戦の停滞した米海軍の士気建て直しに貢献した。まさにアメリカ的な提督であった。

トーマス・キンケイド

1888年(明治21年)生れ、大戦当初は重巡洋艦部隊を率いて転戦した。 機動部隊指揮官としては南太平洋海戦において「エンタープライズ」「ホーネット」を指揮するも、戦運つたなく「ホーネット」を喪失「エンタープライズ」も損傷した。 以後は再び巡洋艦部隊の指揮官となり、ガダルカナル島争奪戦、アリューシャン攻略戦を指揮し、レイテ島上陸では第7艦隊を指揮して上陸の支援にあたった。 この時、ハルゼーの機動部隊が小沢艦隊に引き付けられたため、キンケイド指揮下の護送空母群が「大和」以下の戦艦部隊に追い回され5隻を失った。キンケイドは退役してもハルゼーの責任を追及していたそうである。 機動部隊指揮官としては特筆すべき指揮ぶりでは無く、「海軍史上最悪の海軍記念日」と言われる敗戦を招いている。 ただ、艦隊統率には優れレーダー射撃を取り入れるなど柔軟な発想を持っていたようである。

フランク・フレッチャー

1885年(明治18年)生れ、渾名は「ブラック・ジャック」で開戦後は巡洋艦部隊を指揮していた。日本軍のポートモレスビー攻略作戦が迫る1942年に第17機動部隊司令官となり初めて機動部隊の指揮をとった。 空母「レキシントン」「ヨークタウン」を率いたフレッチャーは、幸運な暗号の取り違えから先手を取った形となり空母「祥鳳」を撃沈したが、翌日の戦闘で「レキシントン」を喪失し「ヨークタウン」も損傷した。 フレッチャーは「ヨークタウン」を3日で修理し、「エンタープライズ」「ホーネット」とともにミッドウェーに向った。 フレッチャーは南雲司令部の躊躇をよそに果敢に攻撃をかけ、「赤城」「加賀」「蒼竜」を屠ったが、乗艦「ヨークタウン」を撃沈され指揮をスプールアンスに譲った。 三度、フレッチャーが連合艦隊機動部隊と矛を交えたのは、ガダルカナル島争奪の緒戦で、再建された南雲機動部隊と第二次ソロモン海戦であった。 フレッチヤーはここでも陸軍機の敵発見の報に触れると、直ちに攻撃隊を繰り出し空母「龍驤」を撃沈したが、「エンタープライズ」中破の損害を受けた。この後、空母「サラトガ」が魚雷で損傷、「ワスプ」が日本軍潜水艦「イ19」により撃沈された。 ガダルカナル島を巡る戦いでの消極的な戦い振りにより機動部隊から外され、以後は北太平洋方面司令官となり終戦を迎えた。 ハルゼーの影になりいささか印象は薄いが、専門外から機動部隊指揮官となり大戦の転換期に、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦と指揮を執り、損害はだしたものの日本軍の意図をことごとく跳ね返した指揮ぶりは良将と言える。失った空母「レキシントン」「ヨークタウン」「ワスプ」、撃沈した空母「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」「祥鳳」「龍驤」、日本軍との3度の海戦において一度も譲らなかった闘志は見事なものである。

レイモンド・スプールアンス

1886年(明治19年)生れ、真珠湾以後ハルゼー艦隊の巡洋艦部隊を指揮していた。 1942年6月、当初部隊の指揮をとるはずのハルゼー提督が緒戦からの疲労により神経性皮膚炎が悪化し不眠症となったため急遽代役に抜擢された。 フレッチャーが「ヨークタウン」を、スプールアンスが「エンタープライズ」「ホーネット」を指揮してミッドウェーに向かい、攻撃機数、技量、攻撃機の性能ともに劣勢であったが果敢に攻撃を繰り返し南雲機動部隊を壊滅に追い込んだ。フレッチャーの乗艦が沈没したため、航空戦の総指揮をとる事になり山口多聞指揮する「飛竜」との戦いとなったが、空母数でまさるスプールアンスが「飛竜」を屠り、衝突事故を起こし損傷していた巡洋艦「三隈」を撃沈した。 その後、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将の参謀長に任命され、反攻計画の立案に奔走した。 1943年、中部太平洋艦隊司令長官となり前線に復帰、翌44年にはマリアナ諸島の攻略を実施、「マリアナの七面鳥射ち」と呼ばれるほどの厚い対空防御で、小沢機動部隊のアウトレンジ作戦を粉砕し潜水艦による攻撃と併せて空母「翔鶴」「大鳳」「飛鷹」を撃沈した。 その後、硫黄島攻略、沖縄攻略と駒を進め終戦を迎えた。 「計算尺のような頭脳」と言われた冷静な判断力はニミッツの高い信頼を得て、米機動部隊は猛牛ハルゼーと冷静なスプールアンスが交互に指揮をとっていた。無け無しのワンセットの艦隊にワンセットの司令部では無く、2セットを用意し休養と再編成を行ないながら戦う体制は米軍ならではである。

ジョン・S・マッケイン

McCain,John Sidney,Sr.
1884(明治17)年8月9日生
1945(昭和20)年9月6日没
ミシシッピー州Carroll County出身
アメリカ海軍軍人 海軍中将
1901(明治34)年〜1902(明治35)年 ミシシッピー大学に在学
1906(明治39)年 アナポリス海軍兵学校卒(卒業成績116人中80番)
1909(明治42)年8月9日 Katherine Vaulxと結婚
1929(昭和4)年 海軍大学校卒
1936(昭和11)年 Flight Instruction School卒
1941(昭和16)年 海軍少将
1942(昭和17)年9月〜1943(昭和18)年7月 海軍航空局長
1943(昭和18)年7月 海軍中将
1943(昭和18)年7月 Deputy Chief of Naval Operations for Air
1944(昭和19)年10月 比島沖海戦
 当時、第38任務部隊第1群指揮官
1945(昭和20)年9月2日 戦艦「ミズーリ」(USS Missouri BB-63)艦上で行われた降伏文書調印式に出席
 9月6日 死去
墓所、アーリントン国立墓地 Section 2
彼の名を冠したアーレイ・バーク級イージス駆逐艦「ジョン・S・マッケーン」(USS JOHN S. McCAIN DDG-56)は1997(平成9)年6月30日に横須賀に配備されている
マッケーン



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新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2002年2月26日