ニッポン号

「ニッポン号」
毎日新聞社では、「神風号」が欧亜連絡親善飛行に成功した直後から国産航空機による世界一周親善飛行を企画していた。2年にわたってその計画を細かく練り上げた末、昭和14年(1939年)7月に社告をもって「五大陸、二大洋征覇の世界一周親善飛行」の計画を発表した。
このような飛行の正否の第一歩は、「神風号」と同様に、使用する飛行機の選定にあるが、毎日新聞社では、当時海軍が使用して大変好成蹟をあげていた96式陸上攻撃機を長距離輸送機に改造して使用する計画てた。
96式陸上攻撃機は、三菱の本庄季郎技師を主務者として設計された、金属製、双発、引込脚の当時としては世界最高水準をいく機体であった。それだけに、海軍は毎日新聞社の計画に簡単には応じなかったが、最終的には海軍次官山本五十六中将の決断によって、これを長距離輸送機に改造することに賛成した。
この飛行機の名前は、毎日新聞の機名募集に応募した百万余通から選ぱれた「ニッポン号」に決まった。そして中尾機長以下6名の乗員は、新造の「ニッポン号」で訓練飛行にはげんだ。
昭和14年8月26日、「ニッポン号」に中尾機長以下6名と毎日新聞航空部長の大原武夫親善使節が乗り込んで羽田(東京)を出発し、千歳空港(北海道)からアメリカのノームに向かって第一歩を踏み出した。この第一歩の北太平洋横断が「ニッポン号」にとっては最大の難関であったが、4、34Okmを15時間48分で飛び切った。その後は、アメリカの各都市、南アメリカの各都市からスぺイン・イタリアを訪問し、カルカッ夕・バンコク・台北を経て、55日目の1O月20日午後1時47分に羽田に無事帰還した。
その実飛行時間は194時間、飛行距離52、860kmにおよんだが、この間に少しの故障もなく、日本製航空機の高い実用性と信頼性を全世界に知らしめた。


参考
神風号
航研機
A-26


戻る TOPに戻る

新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日