高島秋帆
高島 秋帆(たかしま しゅうはん)
寛政10年8月15日(1798)慶応2年正月14日(1866.2.28)
名は舜臣(きみおみ)、字は茂敦(しげよし)、号は秋帆、通称は四郎太夫。
長崎町年寄、講武所砲術師範役。
高島流砲術の創始者。洋式兵学者。
砲術家。西洋砲術により、幕府軍隊の近代化を促進。
長崎の町年寄兼鉄砲方の家に生まれた。
長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った高島四郎兵衛茂紀(しげのり)の3男。
文化11(1814)年、父の跡を継ぎ長崎町年寄、のち会所調役頭取となった。
坂本天山の創始した荻野流、天山流砲術を学んだ。
1823年(文政6)ズーフの後任スチュルレル大佐に西洋砲術を学んだ。
1832年(天保3)ごろより非常な熱意をもって西洋最新の火器とその付属品,製造機械これに関する蘭書類を求め研究,1835年(天保6)臼砲鋳造に成功した。
また町年寄の特権である脇荷(わきに)貿易によって私財を投じて各種の火器やオランダ兵学書を買い求め、天保5(1834)年頃にはこれらの成果を基に高島流砲術、洋式銃陣を教授するようになった(門弟300人とも言われる)。
アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け、天保11(1840)年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。
これが幕府に認められ、翌12(1841)年、幕命により門弟100余人を率い、大砲四門・小銃50挺とその付属品とを携えて江戸に出て、5月9日武蔵徳丸ケ原(とくまるがはら)(現東京都板橋区赤塚)で日本最初の洋式砲術演習を行った。
これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣の江川太郎左衛門(坦庵)・下曾根金三郎に伝授し長崎に帰った。
現在の高島平の地名は、この高島秋帆にちなむものである。
ところが、かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)によって天保13(1842)年謀反の罪を着せられ、江戸に檻送投獄されたが、のちに鳥居耀蔵失脚により再吟味となり、中追放に処せられた。
その後ペリー来航など情勢が変化したこともあって、嘉永6(1853)年、幽囚10年の後赦されて江川太郎左衛門の手付となり通称を喜平と改めた。
安政2(1855)年、品川砲台を完成させ普請役に任ぜられ、鉄砲方手付教授方頭取を命じられた。
安政4(1857)年、富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め、武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献した。
現職にあって没す。
著書に翻訳書「高島流砲術伝書」がある。
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参考
⇒和流砲術 火縄銃
新規作成日:2004年2月11日/最終更新日:2004年2月11日