白色艦隊

白色艦隊

Pict_1233w. Pict_1188a. Pict_1188a. Pict_1188a. Pict_1188a.

白色艦隊(Great White Fleet)
グレート・ホワイト・フリート(Great White Fleet)は、1907年12月16日から1909年2月22日にかけて世界一周航海を行ったアメリカ合衆国海軍大西洋艦隊の名称で、「GWF」と略されることもある。
名前の由来は、GWFの船体が白の塗装で統一されたことにより、わが国では「白船来航」とも呼ばれた。

GWFはアメリカ合衆国大西洋艦隊に配備されていた新造の戦艦16隻を基幹に編成された。
旗艦はコネチカット(16,000t)。動員された水兵の数は、14,000人にのぼる。航海は、約69,000km(4,300浬)で14ヶ月に及び、その間、世界中の20の港に立ち寄った。
出港時、艦隊司令官はロブリー・D・エヴァンズ少将であったが、彼は西海岸へ向かう間、痛風に苦しみ、サンフランシスコでチャールズ・S・スペリー少将に交代している。


米西戦争に勝利したアメリカ合衆国は、スペイン領であったフィリピン、グアム、カリブ海のプエルトリコを得た。
1903年にはパナマ運河の建設に取り掛かっており、海軍力の整備が急務であった。
1904年から1907年までに11隻の戦艦を新造し、海軍力を誇示するタイミングをうかがっていた。

アメリカ合衆国は当時、大西洋に艦隊が集まっており、太平洋には装甲巡洋艦が1隻配備されているだけであった。
まだパナマ運河も建設中で、太平洋側で有事の場合の不安が強くあった。
また日露戦争でロシア艦隊が消滅すると、太平洋上には日本海軍だけが突出する状態となった。
アメリカ合衆国の保守派や軍人たちはアメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの孤立を恐れていた。

日本側にはアメリカ合衆国への日本人移住制限の検討が行われたことに対する世論の反発や、ポーツマス条約の仲介を行ったルーズベルト大統領に対する批判や不満もあり、日米関係は緊張状態にあった。
また日本政府は来日の前年の1907年の帝国国防方針で初めてアメリカ合衆国を第一の仮想敵国としていた。

アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、1907年に大西洋艦隊を太平洋岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表する。
発表当時はまだ世界一周航海であることを伏せていた。
1907年12月16日、ルーズベルト大統領をはじめとする大勢の見物人の見送る中、バージニア州のハンプトン・ローズを出港し、翌1908年3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、1908年3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表する。

航海の目的はアメリカ合衆国の海軍力を世界中、特に日露戦争に勝ったばかりの大日本帝国に誇示すること、およびアメリカ合衆国西海岸のアメリカ合衆国国民に軍備拡張の支持、具体的には戦艦4隻を新造するための予算を取り付けることが目的だったといわれている。

艦隊が世界一周航海を始めると、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国での世論は日本とアメリカ合衆国の戦争が間近であると騒ぎ立てた。
駐フランス大使の栗野慎一郎は「フランスの新聞は日米戦争不可避と書き、日本の外債は暴落した」と伝える。
また駐スペイン公使の稲垣満次郎は「スペインの貴族や資本家から軍資金の提供の申し出があった」(スペインは米西戦争に敗北直後)と伝えてきていた。
またアメリカ合衆国の新聞も右派系を中心として連日に渡り、日本との戦争不可避と伝えた。

セオドア・ルーズベルトの伝記では、日本艦隊との交戦の可能性は1割ほど捨てきれなかったと回想したと伝えていている。

一方、日本政府は、6日後の1908年3月19日に艦隊に日本への招待の申し入れを行った。

出港後、1907年12月23日にトリニダードのポートオブスペインに投錨。ある水兵によると航海中もっともつまらない町だったという。
1908年を迎えるタイミングで赤道を通過し1月、リオデジャネイロにつく。ここでで、艦隊の水兵と港湾作業者の間で大規模な乱闘が発生。また同地で艦隊に対して無政府主義者が爆弾をしかけるというデマも流れた。このためブラジル大統領はじめ、ブラジルの官僚たちが艦隊に対して賛辞を送るなど沈静化に務めた。

リオデジャネイロを出港後、航海の一番の難所といわれたマゼラン海峡を通過する際には、濃霧と高波、当時この地域にいると噂されていた人食いの風習を持つ先住民により艦隊が全滅すると書きたてた新聞もあったという。
しかしマゼラン海峡通過ではチリ海軍の艦船の水先案内により無事に通過する。

1908年4月に入り、アメリカ合衆国の西海岸のサンディエゴ、ロサンゼルスで市民の大歓迎を受ける。
1908年5月6日、サンフランシスコに入港。ここでも大歓迎を受ける。艦隊を一目見ようとする人たちのために臨時列車も運行されたという。

1908年7月16日にハワイの真珠湾に入港。
1908年8月オーストラリアのシドニーに入港すると25万人が艦隊を祝福する。またメルボルンでも同様の大歓迎を受ける。
次に向かったフィリピンのマニラではコレラの流行により上陸が制限される。

1908年10月にフィリピンのマニラから日本に向けて出発した後、過去40年間で最大の台風と遭遇。この時、水夫の1人が高波にさらわれるが、その後別の船の甲板に投げ出され無事だったというエピソードが残っている。

1908年10月に入り入港が迫ると、日本では連日歓迎・友好の記事で新聞が賑わった。
アメリカ合衆国艦隊は、その姿から、幕末の黒船との対比として白船と呼ばれるようになった。
1908年10月18日、横浜港に入港すると最高潮に達し、1908年10月18日の朝日新聞に大隈重信は「艦隊来航観」という文章を寄せている。

艦隊の乗組員の日本上陸の許可をするか否かが大きな問題となっていたが、艦隊を率いる将校は連日に渡る園遊会、晩餐会に招待された。
また水兵3,000人の日帰り上陸が許可され、浅草・上野などの観光を楽しんだといわれている。
こうした歓迎ムードのなか1908年10月25日に艦隊は横浜を出航した。
なお、このとき戦艦カンザスの乗組員として、後に太平洋戦争で第3艦隊司令長官として対日戦を指揮するウィリアム・ハルゼー少尉(当時)が来日しており、ハルゼーは東郷平八郎大将の胴上げに参加したという。

日本出港後、艦隊のうち8隻を清(中国)のアモイ(厦門)へ、残りをマニラへ向かった。
16隻すべてが中国を訪問すると考えていた清政府は当惑、体面を保つために16隻のうち8隻が台風で損傷し、訪問できなかったと偽りの発表を行った。
アモイでは水兵が伝染病にかかるのを恐れ、食料や水はすべて上海から運ばれた。
水兵の多くは初めてフカヒレスープの東洋的かつ微妙な味を楽しんだという。

2つの艦隊はフィリピンのマニラで再度合流、1908年12月にインド洋に向けて出発し、途中でスリランカのコロンボに寄航。
スエズ運河を通り、エジプトに艦隊が到着した際、イタリアのシチリアで大地震が発生したのをうけ、艦隊のうち、コネチカットとイリノイの2隻をイタリアのメッシーナへ援助のため派遣している。

1909年2月、大西洋を横断しハンプトン・ローズに戻り14ヶ月の航海を終えた。


日本へ来航した米国大西洋艦隊と日本の接伴艦隊のうち主力は下記の通りであり、1908年10月18日から25日まで横浜港へ4列8隻ずつで停泊した。 なお、( )内は竣役年を示す。

第一列
ルイジアナ(1906年)、バージニア(1906年)、ミズーリ(1903年)、オハイオ(1904年)、ウィスコンシン(1901年)、イリノイ(1901年)、キアサージ(1900年)、ケンタッキー(1900年)。
第二列
コネチカット(1906年)、カンザス(1907年)、ミネソタ(1907年)、バーモント(1907年)、ジョージア(1906年)、ネブラスカ(1907年)、ニュージャージー(1906年)、ロードアイランド(1906年)。
第三列
三笠(1902年)、富士(1897年)、朝日(1900年)、相模(1901年)、吾妻(1900年)、八雲(1900年)、日進(1904年)、春日(1904年)。
第四列
香取(1906年)、鹿島(1906年)、筑波(1907年)、生駒(1908年)、宗谷(1901年)、音羽(1904年)、新高(1904年)、対馬(1904年)。
第五列
諸外国艦艇

アメリカ合衆国大西洋艦隊の主力16隻は全て前ド級戦艦であり、接伴停泊した日本側は前ド級戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻、防護巡洋艦4隻である。
その他、GWFは通報船ロンクトン、工作船パンサー、給品船グレーシャ、給品船カルゴーヤ、病院船レリーフ、給炭船エイジャックスが随伴し、日本側は通報艦の最上、龍田、淀なども横浜港に停泊した。

日米の主力艦の停泊位置は、現在の横浜港大黒ふ頭、及びその東方海域周辺である。
また、随伴艦艇等の停泊位置は、現在の横浜港山下ふ頭付近の海域周辺である。
現在の山下埠頭から伸びる防波堤沿いにケーブルが敷かれ、ここから戦艦三笠、更に戦艦コネチカットへ、電話線が繋がれた。
Dcim4296/DSC_3380. Dcim4296/DSC_3379.

寄港地
第1航海
港 入港日-出港日 次港間の距離
ハンプトン・ローズ(アメリカ合衆国・バージニア州) -1907年12月16日 1803浬
ポート・オブ・スペイン(トリニダード) 1907年12月23日-1907年12月29日 3399浬
リオ・デジャネイロ(ブラジル) 1908年1月12日-1908年1月21日 2374浬
プンタ・アレナス(チリ) 1908年2月1日-1908年2月7日 2838浬
カラオ(ペルー) 1908年2月1日-1908年2月7日 2838浬
マグナレナ(メキシコ) 1908年3月12日-1908年4月11日 1132浬
サンフランシスコ(カリフォルニア州) 1908年5月6日-

第2航海
サンフランシスコからワシントン州のピュージェット・サウンドの間を往復。

第3航海
港 入港日-出港日 次港間の距離
サンフランシスコ(カリフォルニア州) -1908年7月7日 2126浬
ホノルル(ハワイ州) 1908年7月16日-1908年7月22日 3870浬
オークランド(ニュージーランド) 1908年8月9日-1908年8月15日 1307浬
シドニー(オーストラリア) 1908年8月20日-1908年8月28日 601浬
メルボルン(オーストラリア) 1908年8月20日-1908年8月28日 601浬
アルバニー(オーストラリア) 1908年9月11日-1908年9月18日 3458浬
マニラ(フィリピン) 1908年10月2日-1908年10月9日 1795浬
横浜(日本) 1908年10月18日-1908年10月25日 1811浬
アモイ(中国)(第2艦隊) 1908年10月29日-1908年11月5日
マニラ(フィリピン)(第1艦隊) 1908年10月31日-1908年12月1日
マニラ(フィリピン)(第2艦隊) 1908年11月7日-1908年12月1日

第4航海
港 入港日-出港日 次港間の距離
マニラ(フィリピン) 1908年10月31日〜11月7日-1908年12月1日 2985浬
コロンボ(セイロン) 1908年12月13日-1908年12月20日 3448浬
スエズ(エジプト) 1909年1月3日-1909年1月4日-1月6日 2443浬
ジブラルタル 1909年1月31日〜2月1日-1909年2月6日 3579浬
ハンプトン・ローズ(アメリカ合衆国・バージニア州) 1909年2月22日-


参考
艦船の塗装
船体塗装の色々
艦船の迷彩塗装
20世紀初頭の艦載兵器
日露戦争の日本の軍艦
日露戦争のロシア艦隊
帝政ロシア海軍の軍艦




戻る TOPに戻る

新規作成日:2008年12月13日/最終更新日:2008年12月13日