脱走兵の問題

北朝鮮拉致事件の被害者である曽我ひとみさんの、夫である元米兵のジェンキンス氏が、脱走兵と言う事で、問題になっている。

曽我さんが、永住帰国する為には、夫と子供が日本に帰国する事が必要で、その為には、脱走兵として訴追されたくないと言う事である。

曽我さんと、日本政府は、拉致事件と言う特殊性に鑑み、訴追をしない様働きかけている。

確かに、曽我さんの境遇を考えれば、一考の余地も必要であろう。

が、脱走兵とはどういう性質のものであろうか。

そもそも、軍隊と言うものは、戦闘を遂行するものである。
されば、勝敗にかかわらず、犠牲を伴うものだ。そして戦死も別に珍しくもない。
犠牲を最小限に食い止めるのは指揮官の責任だが、犠牲を「0」と言う前提では、作戦は成り立たない。

さて、実戦において、いざ戦闘となった時、兵隊も人間であれば、死にたくないのは当然である。
が、ここで、死のリスクを避ける為に「私は命令に従いません」と言う兵隊が続出すれば、作戦は成り立たなくなる。
「戦闘に参加すれば死ぬかもしれない」だから「逃げてしまえば命は助かる」と言う事なら、みんな逃げ出してしまうだろう。
志願兵制度であれば、当初から覚悟して軍隊に入っているハズだから事情が違うが、徴兵制の場合、命令に従って、残って戦死するのは割が合わないと考えるのは当然であろう。

そこで、一つの規則として、敵前逃亡(ないしは脱走)について、重い罰を科しているのである。
そして、その一つは銃殺と言うものまである。
逃げれば罪を背負いかつ死刑、と言う事であれば、残って闘い、勝利して生き残る可能性に全力を傾けるであろう。

かつての日本軍でも同様で、脱走は非国民である。
まして、敵前逃亡など、ありえなかった。

さて、現在の日本は、半世紀に渡り、戦争に直接かかわっていない。
言わば平和である。
平和ならばこそ、戦争の苦しみを忘れているとも言える。

平和が当然であり、戦争と言うものが「辞書」に書いていない世の中では、脱走と言うものに罪悪感がないのもやむをえないのかもしれない。
しかし、法制度は秩序なのである。
朝鮮戦争では、多くの兵隊が犠牲となっている。
性質が違うのだが、海上保安庁の職員も、掃海に駆り出され、犠牲者を出している。
多くの者が命をあがなっている中で、脱走し、あまっさえ敵国に亡命しているわけである。
それを、訴追しないと言うのは、アメリカの国民感情が許さないだろう。

もし、日本で殺人を犯して北朝鮮に逃亡していた者が、夫であったとしたら、訴追を逃れると言う事をどのように受け止めるであろうか。
罪の重さとしては、ほぼ等価なのである。
直接他人の人権を侵す殺人は許されない事はわかるであろう。
脱走の場合、直接誰かに迷惑をかけているわけではないかもしれない。
しかし、秩序をみだし、ひいては国運を危うくすると言う意味では、実は殺人よりも罪が重くもある。

例えば、凶悪犯に襲われて、生命に危機が訪れている状態と考えてみよう。
ここへ警官がやってきた。
犯人は銃を警官に向けて「近寄ると撃つぞ」と脅かした。
ここで警官が「小額の危険手当しか貰ってないのに、撃たれて死んだら、2階級特進と賞状程度では割に合わないから帰るわ」と帰ってしまったらどう思うだろうか。
ただの職務放棄だけでは済まないであろう。

拉致事件の被害者である、曽我ひとみさんの境遇には同情する。
しかし、脱走兵本人が、罪をあがなう姿勢を示さない限り、納得されるものではないだろう。
個人が嘆願するのは、心情として自由であろう。
しかし、ノー天気に、我が国が政府として働きかけるのは、法秩序の維持の上で、極めて問題の多い事なのである。

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新規作成日:2002年12月7日/最終更新日:2002年12月8日