北朝鮮問題
北朝鮮 朝鮮民主主義人民共和国
金主席全権の元、社会主義国家が形成されている。
人民の平等を求めた国家だが、今や、一部を除いて「平等に貧しい」らしい。
「苦楽を平等に」と言う理想も、働かなくても得るものは同じならと、働かなくなってくる事情は、どこも同じようだ。
同様の事情から、中国の場合、限定的に「一国二制度」「資本主義」を取り入れて、経済活性化を図っている。
地理的環境から、作物の不作も伝えられる。
また、南北朝鮮分断という状況もあり、韓国との軍事的対峙も続いており、時より、紛争事件が絶えない。
そんな中、日本人拉致事件や、核開発、武器輸出などの問題も起きている。
日本人拉致事件は、人権問題であり、早期解決が望まれるところだが、ようやく途についたところだ。
核開発は、原子力発電などの平和利用に限定されれば問題ないが、核兵器と連動する部分も有り、事は重大だ。
武器輸出についても、世界中の紛争地域の軍事バランスを乱すという問題が有る。
もちろん、既存の軍事バランスを是とするわけではないのだが、それよりも以上に、獲得した外貨により、北朝鮮の軍事力が拡大することが問題だろう。
さて、このような、前近代的な国家に対して、日米韓は、危機感を強めている。
韓国の太陽政策などのように、援助し、融和を図ることにより、平和と安定を求める向きもある。
が、援助はかの国民に行き渡っておらず、暗黒政権延命にし必ず、かえって軍事的強化を招くので、断固たる態度を取るべきだという声もある。
世論としては、圧倒的に後者だろう。
しかし、広く考えなければなるまい。
さて、ふと60年前の我が国を振り返ってみたい。
大陸に進出していた我が国に対し、アメリカが経済制裁を加えてきた。
この「大陸への進出」が、侵略にあたるか、経済拡大にあたるかは、議論の余地が有るだろう。
が、確実なのは、これ以上日本が拡大することをアメリカは喜ばなかったのである。
それは、アメリカの利益を損なうという、アメリカの事情ゆえである。
そして、日本に対して、輸出制限、禁止などの圧力を加えてきた。
アメリカは「日本は圧力に屈し、拡大から撤収する以外に道はない」と判断した。
が、我が国は「闘える力の残っている段階で、軍事的打撃を与え、外交的突破口を開く」と考え、昭和16年12月8日の開戦に至った。
その後の経緯は、歴史として確認できるが、結果的に、当時の双方の判断は、期待に満ちていたわけである。
当時の我が国では、アメリカの性風俗や白昼街中を若い男女が連れ添って歩く姿をして、怠惰なアメリカ人と称した。
むろん、アメリカとしては、自由平等な社会の具現の一つに他ならない光景なのだが。
そして50年、我が国の性風俗は、幸か不幸か、このアメリカと変らない状態となって居る。
「婚前交渉」などという単語は、卑劣な意味でしか使われなかったが、現在では、なんら抵抗のない風俗であり、単語自体が「死語」になっている。
さて、北朝鮮の風俗、倫理観は知る良しもないが、国家統制という意味では、我が国の太平洋戦争当時と似通っていよう。
その意味では、アメリカに50年遅れる日本社会よりも尚も50年遅れているわけである。
通算100年といえば、1世紀遅れていることになる。
人にはそれぞれ考え方も有ろう。
気候風土、生活習慣の違い、などさまざまな要因から来るものだ。
国家はその集合体である。
しかし、国際社会として共存するには、互いに理解協調しなければならない。
その一つとして、経験有るものが、経験を生かした判断をするということも重要だ。
アメリカが、北朝鮮に対し、支援を行っていたのは、過度の締め付けは、暴発に繋がることを懸念している為である。
これは、太平洋戦争開戦の経緯が教訓となって居る。
戦争で一気に解決という選択肢もあろう。
しかし、損失も大きい。
韓国の太陽政策も、戦争による損失よりも、当面の低コストという判断から、行われている。
現在、我が国では、拉致問題をきっかけに、強硬な意見が目立つようになって居る。
個人的心情としては当然だ。毅然たる態度で臨むべきだ。
しかし、国家間に「法律」は存在しない。
いや、法律が存在しても、犯罪はなくなっていないのは、一般社会でも言えることだ。
強盗が入った時に「あなたの行為は刑法による犯罪行為で・・・」と言っている時に刺し殺されてしまうことが、合理的かどうかは言うまでもないであろう。
強い態度で臨むこと、それは、次なるステップにおける、リスクをはらんでいる。
そのリスクと、社会正義とのバランスが、政治的判断であろう。
全ての援助を止める、されば枯渇するであろう。
篭城戦であれば、降参してくるかもしれない。
しかし「ジリ貧による負けを潔しとしない」のであれば、一挙に打って出てこよう。
これは停戦ラインを南下するに留まるまい。
弾道ミサイルは、我が国を射程に収めている。
決して「脅しに屈しろ」といっているわけではない。
が、圧力にはリスクを伴っているということだ。
もちろん、最終的には、政治が国家国民の前途の為に、高度に判断すべきものだ。
無知な国民、軍事評論家や、マスコミが、思い付きで賑やかに言っても意味がない。
しかしながら、賢者の判断を試みるのも、重要なことだ。
関連情報
新規作成日:2002年12月22日/最終更新日:2002年12月22日