「写真で見るクロアチアの難民施設」
2002年8-9月

クロアチア共和国にある
難民施設「Kamenjak(カメニャック)」。

現在、160人のボスニア難民が生活している。
彼らの大半が高齢者であり、
何らかの医療が必要な人々である。


軍事施設だった建物を利用している。
周囲は住宅街で、
難民施設であることを知らない人もいるほど、
地域に溶け込んである。
   

Kamenjakの入り口。
重い扉で、夜9時過ぎになると
閉じられてしまう。

入り口のすぐ外では、
いつもおばあちゃん達が
編み物をしている。

   
Kamenjakの中庭。かなり広い空間である。
各建物の前で、おじいちゃん・おばあちゃんがベンチに座りながら一日を過ごす。

Kamenjakの受付で毎日働いているオジサン。
てっきり管理人さんかと思ったら、
この人も難民だった。
ボランティアで管理人業をしているようだ。

いつもこの椅子に座っている。
特等席なのかも。。

   
   
Kamenjakの食堂。朝昼晩、食事が配給される。
基本的に朝と夜は食パンだけ。
昼食には比較的ちゃんとした料理が出される。
   
食堂の風景
   
ある日の昼食。
ポテトシチュー、スープ、キャベツサラダ。
料理は薄味で、高齢者が多いためか
柔らかいものが多い。

 

 

Kamenjakの住人はどのような人々か?

この施設には、国際法上「難民(Refugee)」と「国内避難民(IDP)」に分類される人々が住んでいる。「難民」とは、自分の国を離れて外国へ逃げた人々であり、「国内避難民」は様々な理由で国内の特定地域から逃げてきた人々である。「難民」は国際法上(国際難民条約)でその地位と身分が守られ、条約締結国は彼らに適切な支援等を行わなければならない。「国内避難民」は国際法上は正確に定義されておらず、彼らへの支援は行われない事態が度々起こる。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の救済対象者の中に「国内避難民」は原則として入っていない。現在、旧ユーゴスラビアの各地域では、国内避難民へ目が届いていないところもある。

Kamenjakの住民は、主に北ボスニアからのクロアチア系の人々。クロアチア系はカトリックだが、中にはムスリムもいる。旧ユーゴの場合、カトリック、オーソドックス、イスラムが代表的な宗教だが、人々の人種は同じ「南スラブ人」である。

Kamenjakには、医療を必要として高齢者が住んでいる。160人の住人の内、100人は寝たきりである。また、知的障害者、精神障害者、高齢者、病人など、様々な状態の人々が一緒に住んでいる状態でもある。彼らが適切な医療や介護を受けるには、このような状態は望ましくない。

Kamenjakの人々
   
Kamenjakの廊下。
ベンチに座りながら、一日を過ごす。
毎日がこの繰り返し。
   

ベンチに座っている4人は仲良し。
時には2人だったり、
時には3人だったりする。

立っているおばあちゃんは、
いつもトルココーヒーを飲んでいる。
旧ユーゴの人々はトルココーヒーが
大好きなのである。

   
すれ違うといつも笑顔で挨拶
をしてくれるおばあちゃん。
寝たきりではない人は自分で
身の回りのことはできる。
   

通称“ボンジョールノ爺さん”。
何故か挨拶はイタリア語である。
杖を突きながら、ゆっくりと歩く。
83歳ながら、毎日歩き回っている。

ちなみに、クロアチア語では
こんにちは=ドバルダン
です。

   

ピンクのトレーナーを着ているおじさん
は70歳の母親と一緒にKamenjak
で住んでいる。でも、同じ部屋ではない。

父親と兄弟2人を戦争で亡くしたことを
僕たちに話してくれた。

   
おじさん4人集。
一人で町の中心街に出掛ける事も
ある人たち。
   

中庭に面する建物前のスペース。
みんな、天気の良いは一日中ここに
座って時間を過ごす。

話をするよりは、一人で座っている
だけのことが多い。

   
みんな、こんな風に一日を過ごす。
   

縄跳びをしているのは、Kamenjakの
職員のおばさん。「難民施設」とは言え、
実際は「老人施設」という感じなので、
職員は白衣を着ている。

ちなみに、写真は僕たちが中庭で
縄跳びをしていたら、職員のおばさんが
興味をもって挑戦しているところ。

   

Kamenjakの住人は高齢者が殆どだが、
13歳の少年が父親とお姉さんの
3人で住んでいる。

彼の名前は「ゴラン(Goran)」。
青いシャツを着ているのは僕。
バスケットボールで一緒に遊んだ。

   

食堂の入口。
朝昼晩、僕たちもここで
ドアが開くのを待った。

おばあちゃん、おじいちゃんは
待っている間に色々と話し掛けてくる。

   

Kamenjakの入口の外でいつも
編み物をしているおばあちゃん達。

僕たちが出入りをすると、笑顔で
挨拶をしてくれる。。

クロアチアにおける難民問題とは?

クロアチアにおける難民問題は、コソボやマケドニアなどと比べればその緊急性や緊張感はない。UNHCRは2002年中にクロアチアからの完全撤退を決定している。UNHCRの撤退は、ある意味、クロアチアにおける難民問題の過渡期として考えられるだろう。それは、ボスニアなどからの難民流入が停止し、難民の帰還などが行われていることを示す面もあるからである。実際、クロアチア国内の難民施設は次々と閉鎖されている。国内の難民キャンプは既に数えるほどとなり、ピーク時に比べると社会問題としては大きく扱われることはなくなった。現在のクロアチアの関心事は、20%以上もある失業率など、経済問題などである。

しかし、現実に「難民」はまだ国内に存在している。元々、Kamenjakはクロアチア政府やUNHCRなどが援助をして設立された施設であり、ピーク時は1000人近い難民が生活していた。クロアチア政府や国連からの資金援助を基にその運営が行われていた。現在、Kamenjakはキリスト教系の慈善団体により運営され、クロアチア政府や赤十字などの資金援助を受けている。しかし、これらの資金援助も各種の医療が必要なKamenjakの人々にとっては十分ではない。「難民」はクロアチア国内では外国人であり、保険を受給できない。加えて、彼らの故郷であるボスニア政府は財政難であるため、国外の自国民に援助資金を与えることをしていない。

これらの「財政的な問題」がクロアチアにおける難民問題の大きな比重を占める。ここで注意しなければならないことは、Kamenjakの人々はボスニアへは絶対に帰れないという事実である。それは、彼の健康状態の問題、ボスニア政府が彼らの面倒を看られないこと、そして彼の家や土地が現在は第三者により占領されているということである。故に、Kamenjakの人々は死ぬまでクロアチアで生活をするしかないのである。こららのことから、彼らの支援のためにも「お金」が必要であり、クロアチア国内のNGOなどが直面する問題は「財政」である。

300km離れたクロアチアの首都ザグレブから来たクロアチア人の
高校生や大学生たち。毎月一度、難民施設などで歌を歌いながら
“励ましている”そうだ。
しかし、難民のある一人のおじさんは“うるさい”と言っていた。
決して、良いと思って行うボランティア活動を誰もが快く受け止めるとは
限らないことを実感した。
   

難民問題とは何だろうか?

日本人にとって「難民」とは馴染みの無い言葉だ。実際、毎年日本の政府が難民として認定し、日本国内に定住することを許可された人々の数は20人程度である。世界的にも日本の難民政策は排他的であると言われることがある。このような環境にいる我々日本人にとって、「難民」とはTVで見る飢餓で苦しむアフリカ難民などを想像させる存在かもしれない。

現実には、日本にも「難民」は存在する。インドシナ難民を日本は受け入れた。僕の地元には「難民救援センター」があり、日本で生まれた彼らの子どもは、僕と同じ保育園や小学校、中学校へ通っていた。そんなことを改めて知ったのは、つい最近だった。一緒に遊んでいた子どもたちの両親は「難民」だったのだ。幼かった僕には、友達のおとうさんやおかあさんが日本語が話せないことなどは全く疑問にも思わなかったことだった。今思うと、子どもとは、何でも疑いなく受け入れられるもっとも「寛容」な人間なのかもしれない。大人になるにつれて、そんなことが出来なくなるものだ。

僕がクロアチアで出会った「難民」とはアフリカなどの難民と比べれば「豊か」なのかもしれない。しかし、それは物質的な側面を見ただけであり、彼らの心情からすれば、「故郷」へ帰ることが本当の幸せなのだ。しかし、彼の健康状態や祖国ボスニアの状況は良いものではなく、故郷に帰還することは不可能である。そのような絶対に帰れないという、どうすることも出来ない現実を受け止めて、Kamenjakの人々は生活している。毎日同じベンチに座り、毎日同じ時間にご飯を食べ、毎日一つの部屋で他人と生活をする、というのがKamenjakの生活である。刺激の無い毎日が永遠と続く。

世界各地の「難民」がおかれている状況は千差万別である。一ヶ月間生活して僕が見たクロアチアの難民の状況は、ある意味、難民問題の“最終段階”であるのかもしれない。故郷への帰還は不可能で、生活も決して良くはない環境の中で死ぬまで外国の地で過ごす。

Kamenjakのソーシャルワーカーにある質問をした。それは“難民の人々は故郷に帰りたいと思っているのですか?”だった。すると、このような返事が返ってきた。“それは質問になっていない。「難民」に限らず、お年寄りなら自分の住み慣れた土地で過ごしたいと思うのが当然です”と。

前国連難民高等弁務官の緒方貞子はスピーチの終わりをいつも同じ言葉で締めくくった。“Respect for refugees.(難民に尊厳を)”。彼らは「難民」と分類されてはいるが、普通の人間であり、ただ哀れむのではなく、尊敬の念を持って接するべきであるとの緒方貞子の考えを示したものだ。Kamenjakで僕が得たものもそれと同じで、「普通の人」でだった。自分の祖父や祖母となんら変わらない。「難民」という人種や民族があるのではない。戦争では、誰でも「難民」になる可能性があるのだ。

「難民」とは決して特殊な人々ではない。我々と同じ人間である。戦争の歴史は紀元前からある。戦争のたびに「難民」は発生していたのだ。それが強く認識されるようになったの20世紀になってからである。犠牲者としての「難民」は常に弱い立場の女性や子供、老人である。戦争により住み慣れた土地を離れなければならくなった人々であり、外国の地で故郷へ帰ることを切望する人々だ。

「終戦」とは物理的な武力衝突が終了したことをさすのではないだろう。本当に戦争が終わるとは、これら難民となった人々が故郷へ帰還し、以前の暮らしを取り戻すことだ。

旧ユーゴスラビア紛争は、NATOのコソボ空爆以降、国際社会からは既に忘れさられようとしている。実際、それは各地域で活動するNGOの撤退などで実感できる。しかし、援助を必要としている人々は未だに存在している。決して何も解決したものはないのである。

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