伊福部昭氏 米寿記念演奏会
木部与巴仁さんによるレヴュー(転載許可済)
『土俗的三連画』は、音のまとまりに、いささか欠ける演奏であった。
個々の楽器が奏でる音が、ひとつに溶けあっていない。聴いているこちらの心が、しばしばつまずいた。会の始まりに配されたせいだろうか。メンバーが硬くなっていたのかもしれない。作曲されたのは、伊福部氏がそこに太古の地を感じた、厚岸である。荒々しい風景が、曲の背景にある。しかし、作品そのものはきわめて繊細。その繊細さを、14人という小編成のオーケストラは、担いきれていなかった。難しい曲だ。それはわかっている。理想の音、その幻想をこちらが持っていて、それに合わなければ、どれも駄目といってしまうのかもしれない。いや、そんなことはない。その日その時の演奏を尊重したい。少々音がはずれていても、演奏につまずきがあっても、曲の全体性が見えていれば、私はよしとする。そこまで至っていないものを、この『土俗的三連画』には感じてしまった。
『ギリヤーク族の古き吟誦歌』。これは本来の形、歌とピアノによる曲ではない。
芥川也寸志、松村禎三、黛敏郎、池野成。こうした四人の弟子によって、ピアノのパートが管弦楽に変えられた。だから、ピアノ一台が伴奏する素朴さはなくなっている。その代わり、「アイ アイ ゴムテイラ」以下、四つの歌の世界に、音の深みと広がりが与えられた。しかし本来は、歌とピアノだけで、深みと広がりを生まなければならない。残念だが、歌がオーケストラに埋没して聞こえた。そう感じたのは私だけだろうか? もっと聴きたい、もっと聞こえてきてほしい。宇佐美瑠璃という一流の声楽家にこんなことをいうのは失礼だが、まずくてもいいから、もっと大きく、手の届くところに、声を放ってほしい。そう思って聴いていた。
『シンフォニア・タプカーラ』。さすがに、この曲には力が入っていた。
演奏する者に、力を入れることを求める作品でもある。だからといって、それまでの曲に、力を入れないでいいことにはならないが。----批評家は、まず批評してやろうという思いがあって聴く。だから、何をどう演奏しても、まず悪口から始まる。伊福部氏がしばしばいう言葉だが、その轍を、私は踏みたくない。正直に、感じたままを書いている。
『タプカーラ』は、もっとすごい音が聞こえてくるはずだ。この日の演奏も悪くはない。しかし、最上ではない。まとまってはいた。しかし、まとまり過ぎだ。破綻をきたすほどの力強さがほしい。こちらは客席で感じるのみ。まとまっているが、まとまり過ぎ。じゃあ、どうすればいいのか? その問い返しに答える具体的な提案を、私ができるわけではない。破綻をきたしかねないほどの爆発力----。そんなことをいっても抽象論に終わる。
私たち、いや、少なくとも私が『シンフォニア・タプカーラ』に求める音の世界。それを新響に、無理強いするのではない。石井眞木氏の指揮により、新響はこんな音を出した。それを素直に受け取ればいいではないか。自分の理想形を、何でもかんでも求めてはいけない。CDを聴きこんでいるうち、これでなければという幻想ができてしまっているのでは? そうなのだろう。あまりの感動で、腰が抜けてしまったという人が、私の友人にいた。素直になればいい。素直になって、腰を抜かせばいいのだ。それをできない私は、不幸な人間かもしれない。批評家病、評論家病にかかっているのかも。その疑いを感じながら、一言だけいう。伊福部氏の曲にある、現実離れした巨きさが、この日の『タプカーラ』には感じられなかった----。
『SF交響ファンタジー』第一番。映画音楽に拠る曲だが、映像を思い浮かべず、純粋な聴覚体験として聴いた。
さすがに、伊福部氏のオーケストレーションはみごとだ。聞こえてくる音の場面を何度も観た私が、映像を浮かべずに聴くのだから。何を生意気な----。そう思われるかも知れないが、正直に書いている。祝賀演奏会から冠を取り去り、一個の独立した演奏会、真剣勝負として私は聴く。私の本も、真剣勝負として読み、批判してほしい。斬られてもいいから、私は断とうとしている。その意味で、抜粋演奏ではあるがそれを感じさせなかった点で、『SF交響ファンタジー』第一番は、この日に最も安心して聴けた演奏だったかも知れない。
ここに書いた鑑賞態度について、おそらくは批判があると思う。しかし、それは甘んじて受けます。伊福部氏と新響に対する尊敬の念は、批判めいたことを書いた今も、まったく薄れずにある。
それに対するmasshの感想会場の音響に対しての不満は、そのようなクラシックのホールには行ったことがなかったのでよくわかりせんでした。(はじの椅子が横を向いているのを見た時は、これがクラシックなのねっ!とちょっと感動しました。)
木部さんのレヴューは、伊福部氏の演奏会へ何回も足を運んだ人のみが書ける、素晴らしいレヴューだと思います。
これを読んで、同じ作曲家の同じ曲でも、指揮者と演奏者とアレンジが違ってしまうと、全くの別物になってしまうのがわかりました。
確かにクラシックでも、ピアニストの解釈の違いによって、好きなCDとそうでもないCDに分かれてしまいます。それが生演奏で聴くのでしたら、音楽を楽しみながら、「今日の演奏はココが良くて、ココが良くない」と評価してしまうのも無理ありません。どうしてもそのような聴き方になると思います。
でもね、木部さん、それだけ伊福部氏の音楽を愛しているから、違いに目を向けてしまうのよ。そのような聴き方になっちゃって、心をからっぽにして音楽を十分に楽しむのが出来ないのなら、そのことはかわいそうだと思うのですが(私に同情されたくないと思うが。。)、その違いがわかる自分がお嫌いではないのでしょう?それでいいと思えるのでしょう?
私はそこまで聴き込んでいる木部さんはスゴいと思いましたよ。
私は1階の最後列の真ん中あたりでしたが、そういう位置的な違いはあるのでしょうか?
『土俗的三連画』は、小編成だからこじんまりとまとめていたのかと思ったのですが、そうじゃなかったのですね。
『ギリヤーク族の古き吟誦歌』は、普通バージョンとアンプラグドバージョンの違いくらいに感じたことでしょうね。
あれっ、この場合はオリジナルがアンプラグドだからまたちょっと違うかな。
私は、その曲は演奏会以外で聴いたことないんですが、“刷り込み”というか、最初に聴いた音の方が圧倒的に好きだったりします。オリジナルバージョンに対する愛着が強いです。アレンジされた曲、特にお弟子さん達がアレンジされたので、カバーのような気持ちを持ったんじゃありませんか? 私だったらそう感じてしまうでしょう。
ソプラノの音量に対する不満はありませんでした。演奏と溶け合っているとも思いませんでしたが、きれいに並んでいると思っていました。言われてみれば、ボーカルをもっとフューチャーした方が迫力があったでしょう。
『シンフォニア・タプカーラ』の、まとまりすぎによる、不完全燃焼は、状況としてよくわかります。私は感動していましたが。。
ある程度のレベルをクリアしていると、それに満足はするんですが、今日のスペシャルというか、今日ここだけでしか味わえないプラスアルファがほしくなるんですよね、ライヴって。ドリームシアターのライブで同じようなことを味わいました。CDにはない、何か特別なものがほしいんです。
「破綻をきたしかねないほどの爆発力----。」
そうなんですよね、感情の発露というか、なりふり構わず壊れるまでやってくれぇ〜と願ってしまうんです。演奏がきれいだった場合は特に。
ヘンに理性的な演奏よりも、わがままなくらいの感情的な演奏の方が、絶対楽しいと思うのです。
そっかぁ〜、あれに荒々しさや爆発力が備わったとしたら、凄まじいものになったでしょうね。『SF交響ファンタジー』第一番のレヴューを読んだら、ぼ〜っとしないで、きちんと聴けば良かったなぁ〜と思いました。
木部さんは、伊福部氏を愛するあまり、こうしてほしいというイメージが出来上がっているんですね。
無理からぬことです。
そうやって、各自が各自の心の中には、さまざまな思いとイメージが出来上がっているんでしょうね。
よくわからないのですが、感じたことをそのまま書いてしまいました。
生意気な表現がありましたら、ごめんなさい。