「お姉さんはね、こう見えても、本当は運動神経いいんだよ」


「楽しいこと、本当はね、いっぱい知ってるんだよ」


「一弥のこと、本当はね……」


「……大好きなんだよ」





それが、最初……わたしと一弥が、姉弟になれた、最初の時。
それは、最初……わたしが一弥に微笑みかけ、一弥が微笑みを返してくれた、最初の時。


そして、最後……わたしと一弥が、姉弟でいられた、最後の時。
それが、最後……一弥の笑顔を、声を、姿を、知覚できた、最後の時。





その後すぐに、一弥はいなくなってしまった。
眠るように穏やかに。
悲しいくらいにあっさりと。
一弥は、自分の生を手放してしまった。





空に還った……そんな言い方を、親戚の方々はしていた。
まるでそれが、運命であったかのように。


でも、違う。
それは、違う。
一弥は、空に還ったんじゃない。
そう……わたしが、空に“還してしまった”のだ……





どうしようもなかった……そんな言葉で、お医者様は説明していた。
まるでそれが、必然であったかのように。


でも、違う。
絶対に、違う。
一弥は、本当は病気にならなくても済んだのだ。
苦しむことなんて、なかったはずなのだ……





一弥も幸せだっただろう、佐祐理がいてくれたのだから……お父様は、そう言っていた。
まるでそれが、救いであったかのように。


でも、違う。
それは、絶対に、違う。
わたしが、ちゃんと一弥に対して、“良いお姉さん”でいてあげたなら。
それなら、一弥は、きっと……










だから、わたしは許せない。
絶対に、許すわけにはいかない。

お父様が。
お母様が。
周りの方々が。

わたしを許してくれたとしても。
そんなことがあったとしても。

わたしが。
そう、わたし自身が、決して許さないだろう。










一弥を殺してしまった、わたしのことを……












神へと至る道



番外編T  許されざる者












――ピッ――ピッ――ピッ――

無機質な病室に、無機質な音が響く。
耳障りなそれさえも、わたしの心を、僅かさえも波立たせることはない。

わたしの耳は、そんな音を的確に捉え、わたしの目は、真白い天井を正確に捉えていた。
聞こえていたし、見えていた。
けれど決して、聴いてもいなかったし、見てもいなかった。

一弥がいなくなってからしばらくして、わたしは自分の手首を切った。
刃物を手首に当てても、それを横に引いても、何の感慨もわかなかった。
ただ、思ったより静かに溢れ出す真っ赤な血を、じっと見つめていただけ。

このままどのくらい待てば死ねるかな……そんな思考が脳裏を過ぎった時に、わたしは誰かの悲鳴を聞いた。
何事かを叫んでいる両親にも一瞥さえくれず、けれどきっと救おうとしていたその手を拒むことさえもなく、ただわたしは為すがまま。
そのまま病院へと搬送された。
何もかもがどうでも良かったはずなのに、救急車のサイレンがひどく不快だったことだけは、なぜかはっきりと覚えている。

そうして結局、わたしは生を手放し損ねた。
一弥は、助からなかったのに。



目が覚めてから、ずっとベッドの上で天井を見上げていた。
一弥もきっと見ていただろう、天井を。

ふと視線を下ろし、手首に目をやると、そこには白い包帯が巻かれていた……嫌になるくらい、白い包帯が。
包帯の下には、一条の傷が刻まれていることだろう。

ためらいはなかった……わたしには、生きる意味が、生きている理由が、わからなかったから。
恐怖はなかった……一弥を殺したわたしには、罰が必要だと思ったから。



病室は、監視カメラで見張られていた。
再び手首を切らないように、監視しているのだろう。

でもそれは、意味のないこと。
もう警戒する必要なんてないのだ。

わたしはもう、自殺するつもりはないのだから。
わたしには、自殺することさえ許されないと、わかってしまったのだから。
何よりも、苦しみながら死んでいった一弥を思えば、わたしが簡単に死に逃げていいわけもなかったのだから。

自分の今までの行為を思い返して、わたしの中の何かが、小さく笑う。
やることは全て空回り。
なんて滑稽。
やったことは全て無意味。
なんて愚か。
やれることは全て無価値。
なんて無力。

わたしは一体、何をしたかったのだろう?
わたしは一体、何を思っていたのだろう?
わたしは一体、何のために、生きているのだろう?





その後、しばらく入院生活が続くうちに、わたしに自殺の兆候がなかったからか、病院内を自由に歩いてもよくなった。
もちろんそれは、敷地内に限られていたが。
それからわたしは、何となく、当てもなく、廊下をさまよい歩くことで時間を過ごしていた。

何をしたいわけでもない。
どこかに行きたいわけでもない。



もう何もわからない。
もう何も見えない。



一弥がいなくなってしまったあの日から、わたしの世界は色を失った。
見る光景全てがモノクロで、聞こえる音全てがノイズ。
全てが空虚。
全てが無為。

生きる……その何と苦痛に満ちたことか。
こうして空っぽの心を抱えたまま、“佐祐理”は、何の感動もなく、何の感慨もなく、停滞した時の中を、ただ漫然と漂っていればいいということなのだろうか?
そうすることしか、わたしにはできないのだろうか?

答えが見つからない。
したいことなんてない。
できることさえもない。
わたしは、一体どうすればいいというのだろう?
一弥……わたしは……















無味乾燥のそんな日々が続いていたある日のこと、わたしは、集中治療室の前でイスに腰掛けて、じっと病室内を見つめている男の子を目にした。
まるで食い入るように室内へと向けられている目。
けれどその日は、特に気にすることもなかった。
わたしには関係のないことだったから。

次の日も、その子は、そこにいた。
その次の日も、さらにその次の日も、そのまた次の日も。
雨が降っていても、晴れていても、いつもその子はそこにいた。

動かぬ視線のその先に何があるのかは知らない。
けれどその目は、何かを悔い、何かを恐れ、何かに苦しんでいることを思わせた。
そんな目だった。

何となく……本当に何となく、思った。
この子は、わたしと同じなのかな……と。
その子の目を見て、なぜかそう思ってしまったのだ。



もちろんそんなわけはないだろう。
いくらなんでも、わたしのように、誰かを殺してなんかいないはずだから。
それでもその子の瞳の色は、そう思わせるだけの何かがあった。
それはきっと、あの日のわたしと同じ色。



だからだろうか、わたしは、自分からその子に声をかけていた。

知りたかったのかもしれない……その子が、なぜそんな眼をするようになったのかを。
理解したかったのかもしれない……その子を通して、わたしの罪を……そして、心を。

ともあれ、これが、わたしと祐一さんの、出会いだった。















「あの、何をしているんですか?」

敬語……わたしが、生活の中で身につけたもの。
形だけの言葉。
大人たちは、みんな褒めてくれる……礼儀正しい子だって。
でも、そんな上辺だけの、敬意も感情も何もこめられていない、そんな言葉に、一体どんな意味があるというのだろう?

「……待ってるんだ」

と、返ってきたのは、そんな簡潔な答え。
弱弱しく、けれど、しっかりとした口調で。
強い意志を感じさせるような、でも、泣きそうな表情で。
視線は、窓の向こうに固定されたままで。

「……何を、待ってるんですか?」

次いでわたしの口から飛び出したのは、その子の心に踏み込むような質問。
以前のわたしなら、しなかっただろう問いかけ。
けれど、なぜか聞いても答えてくれるような……聞いてほしいと思っているような……そんな雰囲気が、その子にはあった。

それは多分、わたしが同じ目をしてたから。
その目を、彼が同じ目で見てたから。
だから、わたしは、そう感じたのだろう。



「……大切な……本当に大切な友達が、帰って、くるのを」



そしてわたしの想像しとおり、その子は答えてくれた。
だけど、その子の言葉はそれで止まらなかった。
まるで吐き出すかのように、話し続けた。



「生きてるのに、ケガは治ってるのに……治したのに……目を覚まして、くれないんだ……」

「ずっと……ずっと一緒にいられるって……一緒に、いようって……」

「そう、約束したところだったのに。いつも、笑っていられるって、思ってたのに」

「……何でだろう? 何が悪かったんだろう?」

「ただ、一緒にいられれば、それでよかったのに。二人でいたかっただけなのに。それ以上、何も望んでなかったのに……」

「俺は、幸せになっちゃ、いけないのか? あいつは、幸せになっちゃ、いけないのか?」

「そんなのって……そんなのって、ないだろ? なんで、こんな……」

「これが、運命だってのか? 仕方ないことだってのか?」

「そんなの……認められるかよ……」

「……神なんて、いないのか? それとも……」

そこで、彼は口を閉じ、ぎゅっと手を握り締めた。
握り締めた手が震えるほど強く、噛み締めた歯がぎりっと音を立てるほどに強く。

「これが……神の、意思だってのか?」

その瞬間の表情に表れていたのは、疑念と……そして、わずかだが、でも確かな、憎悪。





「佐祐理は……」

気付けば、考えるより先に言葉が出ていた。
飾り付けのない言葉……偽りのない言葉が。

「佐祐理は、信じてませんよ、神様なんて」
「……どうして?」

不思議そうな声。
そこでようやく目と目が合う。
涙に濡れた瞳が、まっすぐにわたしを見ている。

その目は、わたしが、何で神様を信じていないのか、ということよりも。
わたしが、何で神様を信じなくなったのか、を尋ねているように思えた。

同じような体験をしているだろうことを、わたしが、彼の目から感じとったのと同じように。
彼もまた、わたしの目から、何かあっただろうことを感じとったのだろう。
だから、わたしも話すことにした。
わたしの……佐祐理の、罪を。





「佐祐理には、弟がいたんですよ。一弥っていう、とっても大切な弟が」

「佐祐理は、一弥を正しく育てたかった。良いお姉さんに、なりたかった」

「だから、一弥を厳しく躾けました。立派になってほしいって、思ったから。それが一弥のためになるって、そう思ったから」

「……本当は、かわいがってあげたかったんです。でも……」

「佐祐理は、お父様とお母様に厳しく躾けられて、正しい子供になったんだって、そう信じてましたから……」

「だから、厳しく……本当に、厳しく、一弥に接しました」

「時が経つにつれて、一弥の表情に、恐怖の色ばかりが浮かぶくらいに厳しく」

「だから……だから、一弥の体がおかしくなるのは、当然だったのかもしれません」

「一弥は、生まれてから、一度も喋りませんでした……喋れませんでした」

「きっと、言いたいことは、たくさんあったはずです。でも……一弥には、無理でした」

「一弥は、一人だったんです……そして、今も、きっと……」










「ほんとう、は……」



だめ……



「……わたしが……」



我慢しなきゃ……



「わたしが、いって、あげなきゃ、だめ、だったのに……」



わたしには、ない……



「かずや、に……」



涙を流す、資格なんて……



「……ひとりじゃ、ない……って」



一弥を、殺したくせに……



「おしえて、あげなきゃ……だめ、だった、のに……」



手遅れになるまで、気付かなかったくせに……



「たのしい、こと……たくさん、ある……って……」



どうして……



「……しって、る、のに……しって、た、のに……」



どうして、わたしは……



「……わたしが、まちがって、るって……」



“お姉さん”で、いてあげられなかったの……?















涙が、堰を切って溢れ出そうして、けれど、それを堪えているわたしの頬を。
男の子の手が覆っていた。


「……もう、いいよ……」


まるで、わたしの涙を受け止めようとするかのように。


「……神って……残酷、なんだな……」


触れているその手は、とても温かく……かけてくれる言葉には、同情ではない、優しさがあった。


「……おんなじなんだな、俺達」


そんな、心に触れてしまったら……


「……俺も、同じなんだ」


そんな、優しさに浸ってしまったら……


「あいつは……あゆは……俺が、あの時、もっと早く……」


そんな、温かさを感じてしまったら……


「もっと早く、あそこに行ってやれたら……こんなことに、ならなかった、のに……」


同じように、声音がおかしくなってることに、気付いてしまったら……


「こんな……こと、には……」


止められるわけが……止めてしまえるわけが……


「ならな、かった、の、に……」


なかった……















「……だから佐祐理は、神様なんて信じられないんですよ」

二人、声を殺しながらひとしきり涙を流した後、わたしは、再び話し始めた。
男の子もまた、静かにわたしの話を聞いてくれる。



「だって、もし、神様が本当にいるのなら……神様が“神様”だったのなら……」

「一弥が、あんな風にならなくて済んだ筈ですから」

「佐祐理の弟にならなくしてもよかった……」

「佐祐理が間違ってるって、誰かに叱らせてくれてもよかった……」

「お父様かお母様が、もっと早く、一弥の異常に気付くようにしてもよかった……」

「方法は、いくつもあったのに……」

「対策だって、いくらでもあったのに……」

「……何もしてくれなかった」

「ただ、きっと空の上から、見下ろしていただけで……」

「救いもせず……罰も与えず……」

「それは、人に干渉したくなかった、ということなのかもしれません……」

「でも、それじゃあ、神様って、何なんですか? 何のためにいるんですか?」

「一弥は、何も悪くなかったのに……悪いことなんて、何一つしなかったのに……できなかったのに……」

「幸せになっていいはずだったのに……ならなきゃいけなかったのに……」

「だけど一弥は、苦しむだけ苦しんで……絶望しか知らず、命を手放しました」



開いた口は、止まらなかった。
溜めに溜めてた気持ちを、全部……抑えに抑えてた感情を、全部……
全部、吐き出した。



「佐祐理は、佐祐理を許せません」

「でも、その次に……もし、いるのなら……」

「もし、神様が、本当にいるのなら……」

「一弥に、そんな運命を与えた神様なんて……」

「許すことは、できません」





わたしのその言葉を聞いて、男の子は、力なく笑いました。

「俺も、同じだよ。神なんて、信じられない……信じてやったりなんてしない」

その瞬間、わたしの人生は……生きる意味は……決まったんでしょう。
たとえそれがどんな道であっても、それはわたしにやっと見えた光明。

わたしもその子も、似た者同士。
その子の気持ちを、わたしは理解できる。
わたしの気持ちを、その子は理解してくれる。
たとえ、神様への恨み辛みで結びついたものだとしても、これはわたしにとって確かな事実。










わたし一人では、生きていこうなんて思えなくても。
でも、わたしは一人じゃないって……そう、思えたから。

だから、ごめんね、一弥……まだ、わたしは死ねない。
わたしが祐一さんに救われたように。
祐一さんも、わたしに救われてるって……そう、思うから。



一弥……許してくれるなんて、思ってないけど。
わたしの罪が消えるなんて、考えてないけど。

でも、せめて、誰かのために生きる……そんな生き方なら、させてくれる?
一弥みたいに、不幸にならなくてもいいのに、不幸になってしまった人……そんな人のためなら、生きていてもいい?



答えなんて、返ってはこないけれど、でも、だからこそ、わたしは誓った。
決して偽れない一弥の前で、わたしは誓った。

その生き方を貫こう、と。
祐一さんと共に、歩んでいこう、と。



これが、わたしの物語の、幕開け……









 続く












後書き



やれやれ、どうにか過去編ですか。

ここは文章も粗いし、修正箇所も多そうなんで、やる気もがりがり削られるんですが、何とか気合入れてやっていこうと思います。

さて、この過去編は、結構重要な話が多かったりします、実は。

現在の彼らの目的や行動の動機、それらのヒントが、この過去編で、かなり婉曲に示されています。

忘れないでくださいね、“かなり婉曲に”です。

そんな微妙なヒントと共に終わり(ぇー)