神へと至る道
番外編U 始まりの時、始まりの場所で
「ひっ……ひっ、く……」
「舞……もう、泣かないで」
「だって……だって……」
黄金色の麦畑。
秋の夕日を受けてきらきらと輝くその風景は、本当に美しいものだった。
しかし、幸か不幸か、その景色を見る者は……少なくとも、その景色を楽しめる者は、そこにはいなかった。
子供の背丈ほどはあるその麦の群れの中で、黄金の輝きに隠れるように、小さな女の子が、一人で膝を抱えて泣いていた。
ずいぶん長いこと泣き続けているのだろう……目は真っ赤になっていて、もう声も掠れてしまっていた。
けれど少女は、泣き止まない、泣き止めない。
決して。
そう、決して。
「舞……」
「だって……わたし、一人に、なっちゃった」
「……」
「一人ぼっちに……なっちゃった」
一人……そう、一人ぼっちだった。
膝を抱えて泣くその子の近くには、誰もいない。
遠くにさえも、誰も、いない。
ただ麦穂が風に揺れるのみ。
少女の涙に応えてくれる者は、誰一人いなかった。
「わたしが……わたしが、いるよ」
「うん、わかってる。わかってるけど」
「舞……」
「でも、あなたは、わたし、だから……」
「……」
「あなたと、わたしは、おんなじだから……」
誰もいないのに、少女の耳には声が届いていた。
いや、少女だけではなく、風に乗るその声は、確かに存在していた。
誰もいないのに、声だけは、確かに存在していた。
語りかけるその声にも、少女の涙は止まらない。
「……そっか」
「っく……」
「そうだね、そうなんだよね……」
「……お……」
「わたし、舞の“チカラ”なんだもんね……」
「おかあ……さん……」
寂しそうな、泣き出しそうな声で、泣いている少女に声をかけているのは、その少女の力。
強い……本当に、強い……そして、そのために弱くならざるを得なくなった、力。
生まれた時から、力が、私にはあった。
“まい”……それが、私がその力につけた名前。
私の……“舞”の力だから。
だから、“まい”。
私とまいは、いつも一緒だった。
起きる時も一緒。
食事の時も一緒。
お昼寝の時も、お母さんに甘える時も、一緒。
お風呂も、お布団も、一緒。
何も疑問に思わなかった……お母さんは、いつも微笑んでくれていたから。
何も不満はなかった……“まい”は、いい子だったから。
何も問題はなかった……お母さんがいてくれたから……そして、“まい”もいてくれたから。
だけど……
お母さんが倒れた。
思えば、体が元々丈夫じゃなかったのに、私を育てるためにかなり無理をしていたということなんだろう。
後から聞いた話だけど、お母さんは、私が力を持ってるせいで離婚されたらしい。
お母さんの家族も、誰も助けてくれなかったらしい。
私のために……ううん、私のせいで、お母さんは、ずっと辛い思いをしてきたんだ。
そう思うと、悲しくて、苦しくて、辛くて……涙が止まらなかった。
病院に入院したけど、お母さんの容態は、どんどん悪くなっていくばかりだった。
日に日にお母さんがやつれていく姿を、私はただ眺めていることしかできなくて。
ベッドの上で、私に微笑んでくれてるのに、私は胸を締め付けられるような苦しみに襲われていた。
ずっと、ずっと……お母さんは、私を守ってくれていたのに……私は、何もできない。
驚くくらい細くなってしまった手を握って、ただ側にいることしかできなくて。
口を開けばお母さんを困らせてしまいそうで、結局じっとお母さんの隣にいることしかできなくて。
時折苦しそうに咳き込むお母さんを見てるのは、辛かった。
ごめんねっていうお母さんの言葉を聞くのは、苦しかった。
何もしてあげられない自分が、悔しかった。
毎日毎日、神様にお祈りして。
毎日毎日、お医者様にお願いして。
そんなことしかできなくて。
そしてそれは、誰にも、何にも、届かなくて。
お母さんは、いなくなってしまった。
私は一人になった。
独りではないけど、でも、一人になってしまった。
どうすればいいか、わからなかった……お母さんが、何も教えてくれなくなったから。
何をしたらいいか、わからなかった……お母さんが、何も話してくれなくなったから。
どこへ行けばいいの? なにをすればいいの? 誰に会えばいいの?
私は……どうしたら、いいの……?
「ひっ、く……」
涙が止まらなかった。
今までのことを想って、泣いて。
これからのことを思って、また泣いて。
「うっ……うっ……」
お母さんとの思い出の場所……この麦畑に来て、ずっと涙が止まらなかった。
楽しかった思い出が、もう二度と自分には訪れないことを思うと、涙が溢れて。
もう誰一人だって、自分の側にはいてくれないことを思うと、また涙が溢れて。
「舞……」
“まい”は、“まい”だけは、私の側にいてくれた。
優しく声をかけてくれた。
でも……
「っく……ぅっ……」
“まい”は“舞”でもあるから。
だから……
「……」
だから、だめだった。
“まい”のことは好きだけど、でも、だめ……
「ごめんね、舞……」
謝る“まい”の声。
でも、“まい”は悪くなんかない。
私が、わがままなだけ。
お母さんにもいてほしいって。
一人は嫌だって。
そんなわがままを言ってるだけ。
一人は嫌。
誰も守ってくれない。
誰も優しくしてくれない。
誰も甘えさせてくれない。
一人は……嫌……
「ふえぇっ!」
突然に。
本当に突然に、そんな驚きの声が、遠くから聞こえた。
思わず顔を上げてしまうくらい、突然に、何の前触れもなく。
それは、女の子の声だった。
「あ、佐祐理! そっちの方にいったぞ!」
今度は、男の子の声。
慌てていることが、その声音からわかる。
さっきの子の声より、近くから聞こえた。
……こっちに来てる? 何で……?
「ふえぇ、待ってくださーい」
ここに来る人なんて、いないのに……いないはずなのに。
「くっそー、風が強すぎるんだよっ!」
だって、私がいるから……そんな噂が、流れてるから。
「あ、ちょっと降りてきましたよー」
そのことを、私は、知ってるから……私が、皆に怖がられてるって、知ってるから。
「お、これなら追いつけるぞ! よし、佐祐理っ、全力疾走だぁっ!」
だから、一人なのに……それなのに……
「あ、祐一さーん、ちょっと待ってくださいよーっ」
なんで……?
「よっしゃぁっ! ゲットォッ!」
「はぁ、はぁ……ゆ、祐一さん、あり、がとう、ござい、まし……」
「まぁ、落ち着けって。ほら、深呼吸深呼吸」
「は、はい……」
気付けば、二人はもう、私のすぐ側まで来ていた。
麦穂の合間から、隠れるようにそちらを窺うと、その子達の姿がはっきりと見えた。
男の子は、野球帽をかぶって、手には麦藁帽子をしっかりと持っていた。
小さく笑いながら、女の子の呼吸が落ち着くのを待っている。
女の子は、栗色の髪を緑のリボンで止めている、おとなしそうな子だった。
でも、全力で走ったりしてたんだから、意外におてんばなのかもしれない。
ただ、二人の雰囲気は、すごく温かいものに感じられた。
それは、お母さんといたときに感じられたものと、すごくよく似ていた。
「はぁ、はぁ……はぁ…………はぁ〜っ」
「お。落ち着いたみたいだな。ほら、帽子。もう飛ばすなよ」
「はいー……ふぅ、疲れました」
「そりゃそうだろ。佐祐理はまだまだ訓練が足りてない」
「はぇー、佐祐理はまだまだですか?」
「うむ、まだまだだな」
「じゃあ、もっともっと頑張らなきゃいけませんねー」
「おうっ、期待してるぞ!」
「あははー、わかりましたっ。祐一さんのためにも、佐祐理は頑張りますよ」
「よーっし…………ん?」
突然こちらを振り返る男の子。
どうやら、私がいることに気付いたらしい。
私の姿は見えてないだろうけど、私の気配を感じ取ったのだろうか。
びくっ――と、肩が震えた。
聞こえてくる足音。
私の方に、男の子が近づいてきている。
その足音が、私を不安にさせる。
また、人に嫌われるの?
また、あんな言葉をかけられるの?
また、あんな目で、見られるの?
いや……耐えられない、きっと、もう、私は。
お母さんが、いないから。
いなくなってしまったから。
私は、一人だから。
どうしよう……どうしよう……
どうしたら、いいんだろう……
教えて……誰か、教えて……どうすればいいの? 私は。
お母さん……私は、どうしたらいいの? 今。
どうしていけばいいの? これから。
ねぇ、お母さん……
「大丈夫だよ、舞……」
と、その時、“まい”の声が頭に響いた。
優しい声。
お母さんは、いないけど。
答えてくれることは、もうないけど。
“まい”が、答えてくれた。
「え? だけど……」
そう……だけど。
だけど、私は、簡単には信じられない。
信じることなんて、できない。
お母さんじゃないから、ではない。
“まい”だから、でもない。
だって、今までいなかったから。
“私”に声をかけてくれる人なんて、いなかったから。
「大丈夫だよ、この子達は。きっと受け入れてくれるよ、“私達”を」
それでも、“まい”の答えは変わらなかった。
知ってるのに。
思い知らされてるのに。
今までずっと、味わってきたのに。
“まい”も、知ってるのに。
「でも……」
疎まれてきた……強い力を持ってるから。
嫌われてきた……人にはない力を持ってるから。
恐れられてきた……人を傷つけられる力を持ってるから。
「でも、じゃないよ、舞。大丈夫、私、わかるから。この人たちは大丈夫だって」
「まい……」
「それに、私はあなたなんだから。だから、あなたもわかってるはずだよ」
「……」
「それとも、逃げるの? それじゃ、いつまでたっても一人のままだよ? それでもいいの?」
「いや……それは、いや」
「でしょ? それなら、ほら……舞」
背中を押されたような、そんな気がした。
もしかしたら、実際に押されたのかもしれないけど。
ともかく私は、前へ一歩、踏み出した。
まだ迷いはあったけど。
まだ不安は感じてたけど。
それでも、恐怖だけは封じ込めて。
「は、はじめまして……」
そんな言葉を。
始まりの言葉を。
その子の前に飛び出した私は、まず口にしていた。
今の私の、精一杯の勇気を込めて。
「……おうっ、はじめまして、だな」
その男の子は、ちょっと面食らったような顔をして。
でも、すぐに笑顔になって、返事をしてくれた。
「はぇー、かわいい女の子ですね。はじめまして、佐祐理は、倉田佐祐理って言います。よろしくお願いしますね」
そんな男の子の後ろから、ピョコンと顔を出して、笑顔で言う女の子。
「お、そうそう。自己紹介は大事だもんな。俺は相沢祐一。祐一って呼べばいいぞ」
その女の子の言葉に、思い出したように、男の子も名前を教えてくれた。
「あ……私は、舞。川澄、舞」
だから、私も、名前を名乗った。
他の人は、誰も覚えようとはしてくれないだろう、私の名前を。
「舞ですか、いい名前ですねぇ」
「うん、確かに。よろしくな、舞」
「あ、う、うん……」
よろしく……そんな言葉、初めて聞いた。
まだ落ち着かない心は、けれど次の瞬間凍りつく。
「ところで、他にも誰かいた気がしたけど」
「!」
“まい”のこと……
どうしよう、“まい”はああ言ってくれてるけど、だけど……
私が考える間もなく、私の中から何かが飛び出す感覚。
それに驚く間さえもなく、“まい”は笑顔で口を開く。
「はじめまして。私、まいだよ」
人と変わらないくらいの存在感は、その力の証。
お母さん以外、誰一人だって“まい”を見て怖がらない人はいなかった。
私の力……それを見られて、二人がどんな顔をするかなんて、見たくない。
もうだめだ……私は、反射的に目を瞑った。
「お、なるほど、能力だったのか。納得納得。よろしくな、まい」
「あははー、この子もかわいいですねぇ。よろしくです、まい」
「ぇ……?」
先と変わらない穏やかなやり取りが、目を閉じた私の耳に届く。
予想していた恐怖の言葉ではなく、何でもないような普通の言葉につられて。
どうなってるのか、全くわからなくって、思わず目を上げた。
そこには、まいを普通に受け入れている二人がいた。
「でも、舞、いいなぁ」
「ん? どした? 佐祐理?」
「だって、こんなにかわいいんですよ? うらやましいです」
「あぁ、そういうことか。うーむ、確かに」
「ね、そうでしょう?」
「えへへ、ありがと、二人とも」
女の子は、まいはかわいいって、そう言ってくれてる。
男の子も、それに賛成してくれてる。
そして、まいは、そんな二人の言葉に少し照れて、でも嬉しそうにお礼を言ってる。
能力なのに……強い、本当に強い能力なのに。
それでも二人は、怖がる気配もない。
……あ、そっか、そうなんだ。
二人も、きっと同じなんだ、私と。
「ん? どした? 舞?」
「え?」
「いや、なんでぼーっとしてるのかなって。どっか悪いのか?」
少し目線をずらして、男の子がそんなことを言う。
きっと、私が泣いてたことがわかってるんだろうな……私の目、真っ赤だろうから。
そんなさりげない優しさが嬉しくて。
心配してくれる気持ちが温かくて。
だから。
「……ううん、そんなことないよ」
「そっか。それならいいや」
私は、信じてみることにした。
「あ、そういえば」
「ん? なんだ?」
きっと、この子達は、信じられると思うから……まいが、信じてるんだから。
「自己紹介、まだ終わってませんよ?」
「あ、そういやそうだな」
私に、これからの道を教えてくれるって、そう思うから。
「あははー、じゃあ、まずは祐一さんからですね」
「おう、どっからでもこい」
お母さん、私……
「祐一ぃ、自己紹介がどこからくるって言うの?」
「あ、まい、そこまで呆れた感じで言わなくたっていいじゃないか」
進んでみるね、前に……この二人と、一緒に。
「だって、ねぇ……」
「うぐぅ」
何が待ってるのか……何かが待ってるのかどうかもわからないけど、でも。
「ふぅ」
「あ、今度はため息か? ため息攻撃なのか?!」
一緒なら……一緒にいられたなら、きっと……
「あははー、祐一さん、ため息は攻撃じゃありませんよ?」
「うっ、さ、佐祐理まで俺の包囲網に……って、舞? どした? また黙ってるけど」
声をかけられて、私ははっと顔を上げる。
「! ううん、なんでもないよ。ねぇ、それよりも」
「何だ?」
「ここで、一緒に遊ぼう」
「うん、そうするか」
「決定ですね」
「よーし、きまりー」
「じゃ、何して遊ぶか……むむむ、ここは一つ、鬼ごっこでいいか。こんだけ広いんだし」
お母さんとの思い出の場所で、一生の友達に出会えるなんて、本当に素敵なことだった。
私が寂しくないようにって、お母さんが助けてくれたのかもしれないって、そんなことも思った。
それが正しいかどうかはわからないけど、でも、ここから私の物語は始まったから。
思い出は、常にここにあるから。
だから、お母さんに感謝するんだ。
“お母さん、ありがとう”
この言葉、お母さんに届くといいな……
続く
後書き
うーむ、しかしどうせなら一から書き直した方が良かったかもしれない、などと思ったり。
時間と気力の関係上、それも無理だったのですが。
改訂って、言うは易しするは難し、ということなんでしょう。
一から考えるより、ある意味頭を使ってます。
青いロボットがほしい(笑)