あの子のことが、大好きでした。
悪戯好きで……いつも、私を困らせていました。
困らせて、くれました。
困らせてばかりだったけど、でも、その子はいつも笑顔だったから……
本当に、きれいな笑顔だったから……
だから。
わたしは、その子が、大好きでした。
そう……失った時に、自分の心を閉ざしてしまうほどに。
そして、神に対して……
あの子を、私の元に届けてくれただろう神に対して……
怒りを、憎しみを、抱いてしまえるほどに。
神へと至る道
番外編V 起きた奇跡と起こした奇跡
冬。
あの子が私の前からいなくなってから、ちょうど二年経った冬。
ものみの丘。
あの子が生まれた、場所。
そして、あの子が還った、場所。
私は、その日もその場所にいました。
その日“だから”と言った方が自然なのでしょうが、でも、私にとっては、その日“も”です。
その子と出会ってからは、二人で。
いなくなってからは、一人で。
そう、独りで。
私は、いつもそこにいます。
楽しい思い出も、悲しい思い出も、そこにありますから。
だから、私は、そこにいます……い続けます。
どうして、あの子は私の前に現れてくれたんでしょう?
現れることを、選んでくれたんでしょう?
どうして、あの子は消えてしまったんでしょう?
消えなければ、ならなかったんでしょう?
その日も、丘に向かって問いかけましたが、答えが返ってくることはありません。
いつも通り、冬を再確認させる冷たい風が、でも、どこか優しげに、私の頬を撫でていくだけ。
優しげで、でも、やはり冷たいその風は、この丘にふさわしい……そう思います。
あの子がいなくなってから、この丘にまつわる伝承を知りました。
記憶と命を引き換えにして、人に会いに来る、狐。
あの子は、私に会うために……ただそれだけのために、来てくれたのでしょうか。
命と記憶を失うことになってまで。
それはとても嬉しいことで、でもやはり、悲しいことで。
胸を締め付けられるほどに切ないことで、でもやはり、幸せなことでした。
けれど、納得できないことがありました。
納得するわけには、いかないことが。
なぜ“記憶”と“命”なんでしょう? 引き換えにするものが。
なぜ、そんなに大切なものと引き換えにしなければならないんでしょう?
なぜ、“記憶”と“命”まで犠牲にしても、わずかな時間しか、あの子達には許されないのですか?
そんなにいけないことなのですか? あの子達と心を通わせることが。
そこまで許されないことなのですか? 再び会いたい、と願うことが。
私達が悪いんですか……?
それとも、あの子達が悪いんですか……?
いいえ、そんなわけはありません。
悪いはずなんて、あってはいけません。
だって、あんなに優しいんですから。
ずっと、笑っていられたのですから。
こんなにも、愛しいのですから……
想い合うことが罪だというのならば、確かに、私達は罪人なのでしょうね。
けれど、そんなことなど、あるはずがありません。
人は、あの子達を好きになってはいけないのですか?
あの子達は、人を好きになってはいけないのですか?
もしそうだとしたら……どうして、あの子達に人になる術などあるというのですか?
死ぬことを、失うことを約束された夢が、どうして与えられているというのですか?
神は、そんな些細な夢を見ることさえも、許してくれないというのでしょうか?
神は……平等ではなかったというのでしょうか?
だから、私は、神を信じません……信じるわけには、いきません。
あの子達の想いを許さない存在なんて、信じたくありません。
でも、それだけ。
私にできることは、それだけ。
信じない、と叫ぶだけ。
許せない、と吼えるだけ。
聞こえもしない声で、いるとも思えない神に、ただ声高に訴えるだけ。
たった一人で、それこそ馬鹿みたいに。
私には、何もできません。
あの子に会うことも、声を聞くことも。
そう、何も……
どのくらいそうしていたでしょうか……陽が傾いてきた頃、ふと何かの気配を感じました。
それは些細な気配でしたが、能力者の資質を持っているため感覚が鋭敏になっていた私だから、それに気付くことができたのでしょう。
その資質の高さが、私にとって幸福なことなのか不幸なことなのかは、わかりませんが。
振り返ると、一匹の狐が、茂みの奥で蹲っているのが見えました。
他の動物に襲われたのか、ずいぶんと血を流して。
私は、思わず駆け寄って、その子を抱き上げました。
その弱弱しい呼吸から、放っておけば、すぐにもその命を手放すだろうことは、素人目にも明らか。
今にも消え入りそうな命の灯火。
それを知覚して、動転せずにはいられませんでした。
もう、目の前でこの子達が消えていくのは、見たくないのです。
そこまで考えると、私は駆け足で丘を後にしていました。
できるだけ振動を伝えぬように、けれど、できるだけ速く。
誰でもいい。
お願い、この子を、助けて……
誰にも届かぬ叫びを、心で繰り返しながら。
着実に迫るその時に、怯えながら。
どこをどう走ったのかも、覚えてはいません。
何度目かの曲がり角を駆け抜けようとした時、私は一人の男の子とぶつかりそうになりました。
「うわっ」
「きゃっ」
すんでのところで、転ぶことだけは避けられたのは、運が良かったと言えるでしょう。
けれど、そのことに安心するよりも、どんどん時間が過ぎていくことへの不安の方が大きく……
「なぁ、どうしたんだ?」
その男の子の声が、言葉が、正直、鬱陶しく感じられました。
何も知らない人間に、私の邪魔は、されたくありませんでした。
「あなたには関係ありません。どいて下さい」
だから、口をついたのは、そんなきつい言葉。
はっきりと拒絶の意。
「……それ、狐だよな? ケガしてんのか?」
けれど、その男の子は、そのことを気にする風でもなく、私に話しかけてきました。
それさえもまた、私を苛立たせるのみ。
「そうです! はやくしないと、この子が……」
そう……こんなことをしている場合ではないんです。
すぐに、この子の手当てをしてあげないと。
そうしないと、この子は……
「なぁ、治してやろうか?」
「え……?」
不安と恐怖に震えそうな私の耳に届いた言葉。
瞬間、耳を疑いました。
治す? 誰が?
もしかして、この男の子が、この子を……?
冗談にしか思えない言葉なのに、その声は真剣そのもの。
「だから、急がないとヤバいんだろ? ほら、見せてみろよ」
「は、はい」
藁にもすがる、とはこのことでしょう。
言葉に秘められた強い調子に、動転してどうすればいいのかわからなくなっていた私は、素直に頷いていました。
私の腕の中で、荒く浅い呼吸を繰り返すその子を、その男の子の手が届く位置にまで持っていきます。
「……よし」
――真紅なる炎帝――
「!」
次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは、眩いばかりの白い光。
けれど、その輝きに目がくらむよりも、驚きに目を見開かずにはいられませんでした。
これは、紛れもなく能力。
人に与えられた、過ぎたる力。
となれば、この男の子は、能力者……?
初めて見ました……能力者を。
私の場合、資質を持っていることは自分でもわかっていますが、まだ形にはなっていませんから。
形にする必要も、そのつもりも、ありませんでしたから。
「……よし、これで大丈夫だ」
「え?」
安堵の息。
それに気を取り直すと、目の前では男の子が安心したような表情になっていました。
慌てて視線を下ろしたその先では、静かな寝息を立てている子狐。
その身は相変わらず血で汚れていましたが、あれほどひどかった傷は微塵も見当たらず、この子が完治していることに、疑う余地はありません。
ほっ、と、私もそこでようやく一息つくことができました。
抱く腕に伝わる鼓動の力強さに、その子の命を感じ、安堵の息を漏らさずにはおれません。
「あとは、体をきれいにしてやればいいさ」
「は、はい……あの……」
思えば、そこではお礼を言わなければならなかったのでしょうが……
「ん?」
「その力は……」
私は、男の子の能力について、尋ねようとしていました。
聞き出そう、としていました。
単純に知りたかっただけでしょうか?
それとも、話のきっかけを作ろうとしていただけでしょうか?
「あぁ、俺の能力。驚くことでもないだろ? 君も持ってるみたいだし」
「あ、はい……」
「その子、大事にしてあげろよ。泣くほど大切なんだろ?」
「え……?」
不意打ちのような言葉。
ふと自分の頬に手をやれば、確かにそこには、涙が流れていました。
それは、先ほどまでの悲しみの涙なのか、助かったことへの喜びの涙なのか。
それはわかりませんでしたが。
「……ま、いっか。とにかく、かわいがってる子なんだろ?」
「え? い、いえ……」
言えるわけがない、この子達のことを。
……私は、この子を、これからどうすればいいのだろう?
丘に帰すべきだろうけれど……もし、もしも……
「……心配しなくてもいいよ。こいつは、もう大丈夫だから」
「はい?」
「伝承を知ってるんだろ? その様子だと。でも、大丈夫。俺が生命エネルギーを与えたから」
「え……?」
逡巡する私の耳に、男の子の声が遠く響く。
言葉の意味がわからない。
生命エネルギーを与えた? 一体、どういうこと?
戸惑う私の様子を気に留めるでもなく、男の子は説明を続けた。
「こいつらが人間になる時に命を失うのは、こいつらの生命エネルギーの不完全性のためなんだよ。狐から人間への変化に、身体がついていけないんだろうな」
「……不完全性?」
「あぁ。だから、その不完全な部分を補ってやれば、少なくとも命に関しては、何も心配いらなくなるんだ」
「え? でも、どうやって……」
「それを可能にできるのが、俺の能力だよ。強すぎるくらいの力、だけどな」
「え……? じゃあ……」
「ああ、こいつがもし人間になりたいと願ったとしても、命を引き換えにすることはないよ。記憶はどうかわかんないけど」
そんな……ことが……
そんなことが、可能なんですか?
恒久の奇跡を、実現できるんですか?
運命を、変えられるんですか?
疑うのは簡単でしたが、私はそうはしなかった。
いえ、できなかった。
見てしまったから……その能力を。
そして、その男の子の、瞳を。
それは、深い悲しみを味わった者にしか、出せない色合い。
「どうして……?」
どうして、そんなことができるの?
どうして、そんなことをしてくれるの?
「ん? 簡単だ。俺は神が大っ嫌いだからな。思惑通りにはしてやんないことにしてるんだ」
私の問いかけを、どちらにとったのかはわからないけれど、男の子は、私の質問に答えてくれた。
きっと、この男の子は、私に、偽らざる思いをぶつけてくれたのだろう。
少し悪戯っぽく笑う男の子を見ていると、それがよくわかった。
「私も……」
「ん?」
それなら、私も答えなければならないだろう……
「私も、大っ嫌いですよ、神なんて」
偽りなき私の思いを、私の言葉で。
「はははっ、気が合うな」
「えぇ、そうですね」
「よし、じゃあ友達になるか!」
「宣言するのもおかしな気がしますが……」
「気にすんな」
さっきまでの雰囲気から一転して軽い雰囲気。
けれどそれは、なぜか、どこか、心に優しくて。
「はぁ……」
「ため息つかなくてもいいだろ? で、名前は?」
「あ、私は天野美汐と申します。以後お見知りおきを……」
「俺は相沢祐一だ。にしても、小学生のくせに堅っ苦しすぎるぞ、美汐」
「最低限の礼儀です」
「……何かちょっとおばさんくさいな、そのセリフ」
「失礼ですね、物腰が上品と言ってください」
軽い調子に軽い言葉。
些細な言葉のやり取りに、確かな喜びを感じて。
「……まぁいいか。で、その子の名前は?」
「え、えっと……どうしましょう?」
「何だ? 名前なしかよ? ひどいなぁ、それ」
「そ、そんなこと言われましても、さっき会ったばかりですので……」
ぶっきらぼうな言葉の奥にある優しさ。
それを感じるこの一時は、心満たされる何かがあって。
「何? そうなのか…………うーん…………じゃあさ、『真琴』、なんてどうかな?」
「真琴、ですか……そうですね、いい名前です」
「だろ?」
「はい」
だから、きっと、私は笑っていられたのでしょう。
気付けば、私は普通に喋っていました。
他人と喋ることなんて、今までほとんどなかったのに。
でも、それは不快ではなく、むしろ温かく感じられるもので。
能力者としての共感のためでしょうか?
いえ、きっと、それだけじゃないですね。
そう……似ていたからでしょう、私達が。
きっと、男の子……祐一さんも、誰かを失ったのでしょう。
何となくそんな気がして。
でも、聞くわけにもいかないので、確認はできなくて。
「そうだ! なぁ、美汐。今から時間空いてるか?」
「はい、それは大丈夫ですが……」
「よっし。じゃあ行こう」
「え? どこにですか?」
「俺の友達を紹介してやるよ。一筋縄じゃいかないやつらだから、お前とも気が合うだろうし」
「失礼ですね」
こんな失礼なことを平然と言ってのける人ですけど。
「気にすんなって。お嬢様口調のあいつとおばさん口調のお前なら、いい勝負になるぞー」
「……わけがわかりません」
「いいからいいから」
「あ、ち、ちょっと、祐一さん?」
どことなく影を感じさせながらも、明るい一面を……偽りではない明るさを見せてくれる祐一さんに。
あるいはこの時、私は、惹かれてしまったのかもしれませんね。
続く
後書き
うん、とりあえず過去編の改訂作業に共通してることだけど……一話が短くて助かる(爆)
いやもうホントに。
心情描写がメインの過去編だけに、あんまりいじるところもないし。
一時のオアシスのようなものかもしれない、とか思ったり。
まぁ、第一章に入ったら、話は全然変わってきますけど(泣)
さておき、残りもできるだけ早く仕上げられるようがんばります。
それでは。