夢。

夢を見ていた。

いや、夢じゃないのかもしれない。

だって、それは現実にあったことなんだから。

だから、夢だけど、夢じゃない……夢じゃ、なかったんだ。

忘れもしない、あの時。

ほんの少し……もうあとほんの少しだけでも、俺が速く走れていれば。

ほんの少しだけでも、そこに早く着いていれば。

伸ばした手が、届いていれば。

何度も心の中で……夢の中で繰り返した、もしも。

後悔と絶望とに彩られた、もしも。

たとえ何があっても、何に代えても、守りたかったのに。

だけど、これは、夢。

だから、これは、夢。

どれだけ願っても、祈っても、現実は変わらない。

俺はただ、赤く染まる雪に……

力を失っていく、アイツに……

ただ、涙を流すことしか、できなかった。












神へと至る道



第5話  月に祈る












「……最悪の目覚めだな」

痛む頭は、決して気のせいではないだろう。
祐一は、少し頭を振ってから、ゆっくりと体を起こす。

見回すと、そこは見慣れない、けれど少し前に見た、自分の部屋だった。
どうやら誰かが――まぁ十中八九浩平だろうが――運んでくれたらしい。

「そうか、ここは俺の部屋、だな……ははっ、当たり前か」

少し自嘲気味に笑うと、ベッドから降り、窓際に歩み寄った。
薄暗い部屋の中から、それよりもさらに暗い夜の闇へと視線をやる。
目に映る庭には、整然と照明が配置されていて、昼とは違う光景を見せている。

「……雪、か」

どうやら、気を失っている間に、再び降っていたらしい。
今は止んでいるものの、かなり長い間降り続けたらしく、目の前は白一色に染められていた。
豪邸にふさわしくライトアップされた中庭が、けれど今は、ただの雪原にしか見えない。
白く、白く……どこまでも、白く。

「……白い、な。これも、当然だよな」

少し寂しげにそう呟く声が、静かな部屋の中に響く。
祐一の目は、白一色の風景に釘付けとなっている。

「今、どこにいるんだ? 何をやってるんだ? なぁ……」

言葉の後も、なお、彼の唇は微かに動いていた……言葉になったかならなかったか分からないくらい、微かに。
だが、そんな頼りない言葉は、すぐに薄闇の中に消えていった。








ふと時計に目をやると、針は午前一時を指していた。
午後六時からパーティが始まって、デザートに“アレ”が出てきたのが午後七時頃だから、六時間近く気絶していたことになる。
その事実に、祐一は微かに戦慄を覚えた。

「……上には上がいるもんだ」

よもやここまでの食品があるとは、と、内心恐怖する。
祐一も、今まで食うに耐えないような代物を食べさせられた経験はあったが、ここまでのレベルのものはなかった。

「甘すぎるってのも食えるもんじゃないが、甘くないってのも食えないもんなんだな」

心の中で、ブラックリストに載せることを誓う祐一。
しかし、それも仕方がないと言えるだろう
それほどに、オレンジ色のそれは祐一にダメージを与えた。
鏡を見たら自分の顔までオレンジ色になってるのではないか、などと馬鹿な不安さえ覚える。
ある意味ではトラウマだ。



しばらく考え事をしていた祐一だったが、徐に懐から携帯を取り出す。
チェックしてみると、メールが三通届いていた。
すぐに一通目を開いた祐一の顔に、苦笑が浮かぶ。

「人身御供に差し出しといて、今更何言ってんだか」

言葉とは裏腹に、祐一はどこか楽しそうにさえ見える。
しかしそんな表情も、二通目と三通目のメールに目を通した時には、厳しいそれへと変わっていた。

「……予想以上に難儀しそうだな」

画面から目を外し、天井を仰ぎ見るようにしながら、呻くように呟く。
呟いてからも、しばらく天井を眺めていたが、やがてゆっくりと視線を下げると、メールを打ち始める。

「とりあえず、やれるだけはしっかりとやっとかないとな」

指を忙しく動かしながら、小さく呟く。
その言葉は、どこか自分に言い聞かせているような響きがあった。








メールを転送し終わると、ゆっくりと起き上がった。
少し小腹が空いていることに気付いたからだ。
とはいえ、部屋に食料などあるはずもなく、食堂に行く以外には解決策は存在しない。
それ故、立ち上がったその足で扉に向かう。

カチャ、という音が、ドアから響く。
誰もが寝ているのだろう……静かなはずのその音が、静寂の廊下の空気を震わせ、やけに大きく聞こえた。
夜の廊下は、昼の装いとは明らかに異なる雰囲気を見せている。
まるで、異世界に迷い込んだかと錯覚するほどに、暗く、静かだった。
天窓から降り注ぐ月明かりが、照明の役よりもむしろ、神秘性を高める小道具と化している。

月には魔力がある……そんなことを言う人間がいることも頷けるほど、頭上の月は妖しげに輝いていた。
その淡い光は、見る者を惹きつけて止まない。
祐一は、しばし空腹を忘れ、そんな月に魅入られていた。
それは、月の魔力によるものなのか、単にその月を美しいと思っただけなのか、或いは月を通して別の何かを見ていたのか……



しばらく月を眺めていた祐一も、ようやく歩き出した。
廊下の絨毯の上をスリッパで歩いているのに、注意しないと足音が響きそうな気がして、少しゆっくりと歩く。

目の前には、幻想的な光景が広がっていた。
目の前に広がる、単色の、だが決して人には作り出せない深い色合いに彩られた廊下。
その闇の中に射し込む月明かりは、さながら舞台を照らし出すスポットライト。
場の雰囲気も相まって、それこそ妖精でも現れそうな世界。
そんな景色に、祐一は言葉を失う。


赤よりも紅い日の出……雲の切れ間から覗く天使の階……闇に染まり行く紅の夕焼け……そして、月明かりに染められた風景……


こういった、自然がその時々に見せてくれる光景は、捻くれ者の彼でも、美しいと素直に思える。
きっと、本能に刻み込まれている、原初の記憶なのだろう……そんな風に祐一は思う。

人の作り出した芸術作品では、ここまで素直に感動することはできない。
スケールが、絶対的に違うのだ。

原始の人々は、そんな妖しくも美しい、自然の織り成す光景に、神を見ていたのかもしれない。
自然と共に生き、自然の中で死ぬ……そんな人生も悪くないのではないだろうか。

しかし、現代の人々は、そんな光景に目をやることなどほとんどない。
だからこそ、稀に見られるその光景が、より美しく、より鮮明に、心に刻まれるのだろう。



「……神……か」

ぽつりと漏れた呟き。
その直後、祐一はまた無表情に戻り、廊下を少し早足で歩き始める。
月明かりは、変わらず祐一を照らしていた。








少し軋むような音を響かせて、食堂の扉が開けられる。
誰もいるはずがないその扉の向こうに、なぜか人の気配を感じ、祐一は微かに表情を変える。

けれど、傍目にはほとんど変化がないように見えるだろう。
食堂にいることから考えて、それが寮生の誰かであることは明白。
故に、自分と似たような理由だろう、と大まかに推測する。
ならば警戒の必要はほとんどない……故に、変化が表れるほど表情を変えることもない。



食堂に入り、並ぶテーブルの横を通り抜け、冷蔵庫の方向へ一直線に向かう。
目的の物も、感じた気配も、そこにあるから。

「……はぁ、やっぱりか」
「ん?」

祐一の気配に気付いたのか、冷蔵庫の前に陣取っていた先客が、動かしていた手を止めて振り返る。
その顔を見た祐一は、小さくため息をつく。
そこにいたのが、予想していた人物の顔と寸分違わなかったからだ。

「……あ! ゆ……え、えっと……」

と、振り返ってから笑顔に変わろうとしたその先客の表情は、しかし祐一の含みを持たせた視線により、複雑な表情に変わる。
出かかった言葉も途中で止まる。
それを確認してから、祐一が静かに口を開く。

「……ふぅ、こんな時間に何やってるんだ? みさきさん」
「え……えっと、祐一、君、だよね」

少し窺うような感じで、みさきが確認する。
祐一はというと、頷きながらそれに返事をする。

「あぁ、そうだよ」
「えっと……とりあえず、ごめんね」
「いや、それはいいから。で、ここで何やって……って、答えは一つか」
「あ、ひどいよ。ため息つくなんて極悪だよ?」
「どちらかというと、夜中に冷蔵庫を食い荒らしてるみさきさんの方が極悪だと思うけど」

小さく首を振りながらの祐一の言葉。
声には、微かに呆れの色が混じっている。

「うー……食事の途中で逃げ出したんだもん。お腹だって空くよ」
「……それまでだって、相当食ってたはずだろ?」
「あれだけじゃ足りないよ」

祐一の言葉に対し、事も無げに答えるみさき。
底なしの胃袋……彼女を知る者は、人の頭には測れない異次元があることを実感することになる。
だが、目下のところ祐一にとって問題なのは、自身の空腹をどうにかすることだ。

「あ、俺の分は何か残ってないのか?」
「え? うーん……じゃ、これあげる」
「……チーチク?」
「うん。おいしいよ」
「……いただきます」

背に腹は代えられない。
とりあえずは、胃に何かを入れることが先決。
渡されたものが食料であることに違いはない。
何も、氷を渡されて、『塩でもふって食え』と言われたわけでもないのだから。
チーチクも立派な食材。
たとえそれが、腹に溜まるどころか余計に空腹を刺激しそうなものであっても。
そして同時に、かなり侘しい思いをすることになろうとも。

「はぐはぐ」
「……」
「むぐむぐ」
「……って、ちょっと待ってくれよ!」

想像通り、いや、想像してただけに余計に侘しい思いを抱き始めた頃、ようやく祐一はみさきが食べているものに気付いた。
それは紛れもなく、今日のパーティに出されていた料理。
時間は経っていても、それがまだ十分賞味に耐えるものであることは、微かに漂ってくる匂いから明白だ。
思わず声を上げてしまう祐一。

「何かな? 祐一君」
「何かな、じゃなくて、パーティの残り物があるならわけてくれよ」
「ダメだよ。これは私が食べるんだから」
「そんなこ……」
「……」

と、祐一が固まる。
なぜなら、見てしまったからだ……笑顔のみさきの額に微かに浮かぶ青筋を。
どうやら、彼女は少なからずご立腹らしい。
少なくとも、しっかりと手元にキープしている料理を譲ってくれるとは思えなかった。

祐一は改めてチーチクを頬張る。
なぜか、その瞳から涙が流れているように見えた。








「はぁ……」

その後、チーチクを食べ終わると、彼はすごすごと自分の部屋に撤退した。
さすがに、目の前で美味しそうに食事を続けるみさきを、見ていられなくなったのだろう。

「油断できないな……」

部屋に入り、ベッドに寝転んでから、祐一がそんなことを呟く。
次いで目を横にやって時計を見ると、既に午前二時をまわっていた。
想像以上に時間を使っていたことに気付き、微かに苦笑する。
明日からは学校なのだから、とりあえず眠った方がいいか、と判断し、布団を被る。

「明日から大変だな……」

そんな呟きが闇に吸い込まれ、それからしばらくすると、安らかな寝息が聞こえ出した。
月はわずかに雲に隠れていたが、その微かな光が部屋に差し込んで、静かに祐一を照らしていた。









 続く












後書き



読んだことのある方には何も言えませんし、読んだことのない方にはそれ以上に何も言えません。

ぶっちゃけ、後書きで書くことがないんですよね。

まぁ一応、この第5話は結構重要な話なんですよ、とだけ書いておきます。