「ん……」

ベッドの上で軽く身じろぎをしているうちに、意識が戻ってくる。
それは誰にでも等しく訪れる時。
眠っていた頭が、活動を再開するために、新鮮な酸素を欲する。
目を覚ました祐一は、ゆっくりと起き上がり、深呼吸をする。

「……はぁ」

深呼吸をしたからか、それとも暖かい布団から抜け出たからかはわからないが、完全に彼の頭は覚醒した。
きょろきょろと辺りを見回してから、ふぅ、と一息つく。
時計が示す現在の時刻は、午前六時。

「そういや、昨日は結局トレーニングしなかったな」

言ってから、つい先日のことに思いを馳せる祐一。
待ち合わせから二時間待たされ、歓迎会ではオレンジ色の恐怖を味わい、色々と密度の濃い日だったな、と思う。
だが、それを言い訳にしても、昨日はトレーニングもせずに眠りについた、という事実は覆らない。

「継続は力、なのになぁ」

少し落ち込んだように、祐一は頭を振る。
たかが一日、されど一日。
強くなることに近道などない。
地道こそが、その唯一の道なのだ。
そう考え、反省する。

「……よし」

しばらくしてから、祐一が俯けていた顔を上げる。
反省と後悔は別物だ。
過ぎたことを悔やむことではなく、そこから何かを学び取ることの方が、重要だし、有意義だ。

「さてと、とりあえず、誰かに見られるのも嫌だし……」

そう言うと、祐一は、部屋の中央で、座禅を組むような姿勢で座り込む。
そして目を閉じると、静かに瞑想するように、自分の内なる力と向かい合った。





午前七時。
祐一は、目を開け、静かに立ち上がった。
その足で、シャワーを浴びるためにバスルームへ向かう。

「やれやれ、今日から学校か」

どこか投げやりな口調。
喜びの色は皆無とはいわないまでも、ほとんど感じられなかった。
単純に面倒だ、という考えが心を占めているのかもしれない。

「まぁ必要なことだしな」

そう、必要なこと。
学校に行くための理由など、その一言で充分だった。



シャワーを浴び、着替えを済ませ、自分の部屋を出る頃には、時刻は七時半になっていた。
それを確認してから、食堂へと向かう。

廊下は朝日に照らされ、照明の必要はなかった。
採光を考えて設計されているのだろう。
事実、蛍光灯よりも陽の光の方が、精神的にも物理的にも明るく感じられる。

そんな降り注ぐ朝日に、祐一の気分も明るくなってくる。
朝日で微かに高揚した気分のまま、食堂に着き、扉を開けた。



「うむ、今日も元気だ、納豆が美味い」
「……お前が食ってるのは、どう見てもパンだろ」

朝一番で見た人間の顔が、この男のものであったことに、祐一は、明るい気分が霧散したことを実感した。












神へと至る道



第6話  意味はなくとも












「朝っぱらから全開だな、折原」
「おう、相沢か。朝から全開? はっはっは、それほどでもないさ」

皮肉たっぷりな祐一の意見など何処吹く風。
浩平は、ジャムを塗ったパンを片手に、余裕の表情だ。

「ダメだよ、浩平! 朝はちゃんと挨拶しないと」
「何を言うか、相沢が挨拶してこないのに、なぜオレが挨拶せねばならん? この寮における年功序列を思い知らせてやるんだよ」

そこで、牛乳を片手に、瑞佳が浩平に注意する。
パンは皿に置いてるのに、牛乳はよほど手放したくないということだろうか。
いずれにせよ、浩平はその程度では止まらない。

「おはよう、長森。んで、寝言は寝てから言え、折原。というよりも寝てるのか? もしかして」

一つため息をついてから、祐一は、瑞佳の方を向いて挨拶をする……後半はさておき。
ともあれ、祐一の言葉に、二人が揃って顔を向ける。

「おはよう、相沢君」
「何? 俺が寝てる? 冗談は顔だけにしとけよ? 今日はすっきりお目覚め。今なら100mのタイムだって、20秒を切れるぞ?」
「……なんだよ? その微妙な表現は」
「浩平、何がすっきりお目覚めだよ。あんなバカなことして、すっきりも何もないよ」

折原の微妙な発言に祐一が突っ込んだ直後、瑞佳が、少し怒ったような顔で、浩平に文句を言う。
若干の呆れもまた、そこに滲ませながら。

「また何かしたのか?」
「うん。いつも通り、だよ」
「そうか、いつも通りか。大変だな、長森……」
「もう慣れちゃったよ」

祐一の同情的な意見に、瑞佳は力なく微笑む。
言葉から滲み出る諦めの色に、会って間もない祐一さえ、同情の念を禁じ得ない。
二人のやり取りに、少し不満げな表情になるのは浩平だ。

「何だか、えらくバカにされてる気がするんだが?」
「確認しなくても、お前は立派なバカだよ、折原。で? 今朝は何やらかしたんだ?」
「お前、ずいぶん遠慮がないな」
「遠慮する必要なんてないだろ」
「……まぁいいか。で、今朝のことだったな。よし、特別に聞かせてやろう」

いいのか? と突っ込みたい気持ちを、しかし祐一はぐっとこらえる。
席に着き、焼けたパンにバターだけ塗って齧りつく。
そんな祐一を見るでもなく、浩平は話し始める。

「我ながら、今日は実に有意義な目覚めだったな。ぜひとも後世に残したいものだ」
「またわけのわからんことを……」
「はぁ……あんなことのどこが有意義なの?」

私もう疲れました、と言わんばかりのため息とともに、瑞佳が言う。

「聞きたくない気もするが、一体何をやったんだ?」
「うん。わたしが浩平を起こしに行ったらね、寝室に浩平がいなくて」
「……」
「どこ行ったのかなって思って探してみたら……」
「……」
「別の部屋の天井から、蓑虫みたいにぶら下がって寝てたんだよ」



沈黙が場に下りる。
絶句した祐一と、どこか達観したような表情の瑞佳。
一瞬、時が止まったような気がした。

「……折原。お前、一体何でそんなことを?」

しばらくしてから、祐一がゆっくりと浩平の方に向き直った。
呆然となりそうな心と戦いながら、理由を尋ねてみる。

「わからんのか?」
「わかるとでも思ってるのか?」
「オレ以外の凡人にはわからんだろうな」
「……お前が凡人じゃないのは間違いない。あぁ、絶対だ」

紛れもなく変人だ……それだけは、口にするのをどうにか抑え込んだ。
祐一の表情から、本音を悟ったのだろう……瑞佳は、なぜか申し訳なさそうにしている。
その姿は、どこか、出来の悪い子供の行為に頭を痛める母親のようにも見えた。

「言い方が引っかかるが……とにかくだ。オレの今朝の行為だが」
「あぁ」
「夜中になぜかカップラーメンが食べたくなってな」
「おい、夜中のカップラーメンと今朝の蓑虫もどきに、一体何の関係があるんだ?」
「別に何も」
「……殴っていいか?」
「痛くしないでね♪」

一段と低い声で尋ねる祐一に対して、ウインクと共にそんなことを言う浩平。
祐一の額に青筋が走る。

「……オレンジ」

一言、それを口にする……言外に、それを用いてやるぞ、という意思を込めて。
当然、それに気付かない浩平ではない。
余裕の表情が、一瞬にして青ざめる。

「ま、待て、相沢、早まるな! 話せばわかる!」
「わからないな」
「あらあら、オレンジがどうかしましたか?」



突如聞こえてきた声に、三人がびくりと反応する。
揃って振り向いた先には、頬に手を当てた格好の秋子がいた。
それを認識し、浩平を追い詰めていたはずの祐一さえも、顔を青ざめさせる。

「あ、いや、これは……」
「みなさん、オレンジと言えば……」
「あ、秋子さん! そろそろ名雪を起こしてきた方がいいですよ?! 私達は朝ごはん食べてますから!」

楽しそうな秋子に対して、瑞佳が必死に主張。
こんな朝から、危機的状況に追い込まれるわけにはいかない。
かかっているものがかかっているものだけに、その表情は、どこか鬼気迫るものがあった。

「そうですね……そろそろ起こさないといけませんね」

その必死な思いが通じたか、秋子は、ふぅ、とため息をつくと、踵を返して、食堂から出て行った。
残された三人の顔に、安堵の色が広がる。



「た、助かった……」

浩平が椅子からずるずると滑り落ちる。
祐一にしても瑞佳にしても、どこか呆然とした風情だった。
と、そこで祐一が思い出したように口を開く。

「にしても、名雪のヤツ、本当にまだ朝が弱いままなのか?」
「あ、相沢君、名雪の従兄妹だったもんね。昔からそうだったってことかな?」
「あぁ。にしても、高校生になっても、そこは変わってなかったんだな」

少し呆れ加減に祐一が言う。
その言葉に対して、瑞佳は苦笑いしかできない。
浩平はというと、やれやれと肩を竦めていた。

「全く、水瀬はダメだな」
「浩平も同じレベルだよ」
「何? オレのどこが?」
「いつも長森に起こされてるんだろ?」

しらばっくれる浩平に対して、祐一がツッコミを入れる。
一瞬動きを止める浩平。

「……そうとも言う」
「そうとしか言わん」
「それだけじゃないんだよ。いっつも今朝みたいなことするから、名雪よりもずっと悪質だよ」
「そうだな……で、結局何だったんだ? 蓑虫騒動は」
「あぁ、単に蓑虫の気持ちが知りたくてな」
「……は?」
「あと、それを瑞佳が見たらどんな反応をするか、と思うと、もう止められなくて……」

素敵な笑顔でそう言う浩平を見て、聞くんじゃなかった、と祐一も瑞佳も思い、何も言えなくなってしまう。
結局、新たに寮生が食堂に入ってくるまで、五分ほど、二人の機能停止の状態は続いた。








「やれやれ。朝から無駄な時間を使ったな」

祐一は、部屋で学校に行く準備をしながら、朝食時の出来事を思い返し、少し顔をしかめた。

「バカにつける薬はないし。長森も本当に大変だろな」

割と失礼なことを言う祐一。
瑞佳への同情が、そこには多分に含まれていたが。
とは言え、心労は絶えない感じだが、瑞佳がそれを嫌がってるわけではないことはわかっていた。
彼女の世話焼きの一面、というだけでは片付けられない何かが、そこにはあるのだろう。
そんなことを察したのだ。

「前途多難な人生を歩んでるな、わざわざ茨の道を選ぶなんて」

幼馴染と言っていたが、それだけの理由では、あそこまで面倒を見ることなどしないはず。
すなわち、それ以上の感情が働いていることは、想像に難くない。

色々頭が痛くなるような行動をとるとは言え、浩平は悪人ではなく、むしろかなりいいヤツと評されるだろう。
実際、寮の中でもかなりの人気者であることは、先日の歓迎会で祐一も知った。
少なくとも、周囲の人間が本当に嫌がるような行動はとらないし、何だかんだ言っても、彼の行動は面白いものと言える。
要するに、ちょっと手のかかるやんちゃ坊主といったところだろうか。

あるいは、そんなところにも彼女は惹かれているのかもしれない。
もっとも、浩平はそれに気付いてなさそうだったが。



「さて……ん?」

携帯が着信を示している。
時計に目をやると、時刻は八時十分。
学校は寮の近くにあり、走れば五分とかからない距離だ。
そう考えてから、携帯を耳元にやり、会話を始める。
相手の声はもちろん聞こえてこないため、部屋には祐一の声だけが響く。

「もしもし?」
「あぁ、俺だ」
「……そう、今日からだよ」
「え? 心配ないって。ちゃんと行くよ」
「で? それだけで電話かけてきたわけじゃないだろ?」
「……」
「……そうか、三週間か」
「いや、特になくても問題ないが」
「あぁ……あぁ、一ヶ月後だろ? 覚えてるよ」
「それで、例の件は……やっぱりそうか」
「ん? あぁ、大丈夫。その辺は考えてあるから」
「おう。とにかく無茶はするなよ? 危険を冒す必要なんてないんだから」
「ところで、連中はいるのか?」
「……そうか。まぁ、いくらなんでも街中で襲いかかってくることはないだろうけど」
「あぁ……油断は禁物だ。あいつらは手段を選ばないからな。警戒だけは怠るなよ」
「おっと、時間がもうないな。って、お前もだろ? じゃあ電話切るぞ」
「あ、あと連絡はメールで頼む」
「ん? あぁ、今は誰もいないからな、部屋にも廊下にも。けど、いつもそうだと限らないだろ?」
「おう、わかった。じゃあな」

そこで通話を終える祐一。
電話を切ると、鞄を手にとって、少し急ぎ足でドアへと向かう。

「さて、じゃあ頑張っていこうか」

そう気合を入れると、部屋のドアを開け、学校へ行くべく歩き出した。








「ようやく来たか。遅いぞ、相沢。あんまり人を待たせるな」
「誰も待ってくれなんて言ってないだろ?」

突然かけられた声。
玄関に到着した祐一の目の前には、浩平、瑞佳、茜、詩子、留美が並んでいた。
どうやら、祐一が来るのを待っていたらしい。

「他の人達は?」
「もう行ったわよ」
「名雪以外は、ですけど」

祐一の質問に、留美と茜が答える。

「ふーん。で? 何でお前らは待ってたんだ?」
「いやなに、転校したてのお前が迷子にならないように、と思ってな」
「目の前にあるのに?」
「何? じゃあ職員室の場所がわかるのか? お前は」
「……つまり、案内してくれるってのか?」
「時間もないのに、そんなことしてやるわけがないだろ?」
「まぁそうだろうな」
「くっ、その冷静な対応……まさか先を読まれてたのか?」
「単純なんだよ、お前は」
「そんな目で……そんな目でオレを見ないでくれ!」

涙を流さんばかりに、過剰な演技で落ち込む浩平。
けれどそれを無視する面々。
そこには確かに、慣れが感じられた。

「まぁ道くらいどうにでもなるだろ。それより急がないと遅刻するぞ」
「そうですね。早く行きましょう」
「あ、祐一くーん、何だったら、この詩子さんが案内してあげよーか?」
「いや、いい。というか、職員室ぐらい一人で行ける」
「なーんだ。つまんないのー」
「詩子……」

明らかに楽しんでいる詩子を、微かに咎めるような茜の声。
それを耳にして、詩子も、冗談だってと言い、それから全員で学校に向かって歩き出した。
いつの間にやら立ち直った浩平もまた、そこに並んで。



「あれ? そういえば、名雪は?」
「名雪はまだ寝てるわ」

深いため息をつく留美。
よく見れば、全員がどこか暗い表情になっている。
そこから、祐一も何かを察したらしい。

「……よくわかった」

きっと、全員が名雪の過剰睡眠によって、過去に何らかの被害を被っているのだろう。
深いため息の後、茜がゆっくりと口を開く。

「……基本的にはいい人なんですけど」
「あの寝ぼけ癖と、猫、イチゴが絡まなければねー」
「相沢さんは……」
「あぁ、俺のことは祐一でいいぞ。さん付けもやめてくれ」
「わかりました。では、祐一は、名雪の従兄妹なんですよね。何か効率のいい起こし方はないんですか?」
「そうだな……一度、猫で釣ってみようと試みたんだが」
「いえ、もういいです。知ってますから」
「猫アレルギーなんてかわいそうだよね」

猫アレルギー……無頼の猫好きである名雪が持って生まれるには、あまりにも酷な体質。
現実は、どこまでも残酷だった。
母親を尊敬し、誰よりも愛している彼女をして、唯一文句を言いたくなることらしい。
……まぁ、実際に文句を言うことなどないのだが。
とにかく、そのアレルギーのために、名雪は、猫に過剰に反応してしまう……心も体も。
そのことを知っていれば、猫で起こそうとした時、どんなことが起こるかなど容易く予想できる。

「そうか。まぁ、想像通りのことが起きたわけだが」
「……結局、地道に声をかけ続けるしかないんだね」

そこで重なる複数のため息。
問題は驚くほど単純で、解決は馬鹿馬鹿しくなるほど難しい。

「っていうか、名雪ちゃんがもーちょっと頑張ってくれればいいんだけどね」

詩子の気楽そうな声が、やけに明るく響く。
あるいは、どうでもいい、と思っているのかもしれない。
確かに、これを解決すべきは名雪自身なのだから、突き放すことも一つの策かもしれない。



と、そんな下らないことを話しているうちに、校門が見えてきた。
それを見た祐一が、少し感心したように、小さく目を見開く。

「へぇ……でかいな」
「うん。ここが、これから相沢君が通うことになる学校だよ♪」
「浩平! わたしの真似なんかしてどうするんだよ!」
「似てただろう? 相沢」
「吐き気をもよおすほど似てなかったぞ」
「浩平……」
「あははっ、外しちゃったね、浩平君♪」
「気にしない方がいいわよ。コイツ真性のバカだから」
「あぁ、身をもって知ったよ」

浩平の言葉をさらりと流す面々。
全員の白い目に耐えられなくなったのか、さすがに彼も少しいじけていた。
それを見ても、かわいそうに思う気持ちが一片も湧いてこないのはなぜだろう。
ふっと浮かんだそんな疑問もすぐに思考から追い出し、祐一は、これからしばらく通うことになる学校を見上げた。









 続く












後書き



改めて読み直すと、本当に話の展開が遅いな、と自覚しますね(汗)

とはいえ、あまり大々的には手を加えられないし……

でもまぁ、可能な限りは修正したいと思います。

あるいは、もっと大きく変更することもあるかと思いますが、その点はご容赦願います。

それでは。