人生において、予想もしない事態ってのに遭遇することは、割と多い。
というよりも、起こる事態を予想できることの方が稀なんだろう。
例えば極端な話、次の瞬間に地震が起こるとして、それを予測できる人はいるだろうか?
いるとしたら、単にその人はきっと、毎日地震を恐れて生活していて、いつも次の瞬間には地震が起こると思っているのだろう。
予知能力があるなら話は別だけれど。
それでもまぁ。
何というか、ある程度は予想の範疇にあるってことは、意外と多いんじゃないかと思う。
それは経験からくるものだったり、知識からくるものだったり。
とにかく、突発的な事態が起こっても、ある程度対応できるケースは多いはずだ。
“起こってもおかしくない”と、心のどこかで思っていたり。
“起こることもあり得るな”と、頭のどこかで考えていたり。
しかし。
その時は、全く対応できなかった。
そのまま動かずにいれば、自分に何が起こるか、簡単にわかるのに。
想像もしていなかったことが。
まるで考えてなかったことが。
そんなことが自分に降りかかったら、何も出来なくなってしまうもんなんだなって。
そう、思った。
結局、何が言いたいのか、というとだ。
その時……女の子が、前も見ずに全力疾走で自分に突進してきた時。
まるで予想もしなかった事態に、俺の体がフリーズを起こしてしまって。
鳩尾に鮮烈な頭突きを食らわされるまで、それが解けなかったのは。
まぁ、それも仕方がないだろう、と。
決して、自分が鈍ったわけではない、と。
予測できない事態なんだから、むしろ当たり前なんだ、と。
それが言いたいわけだ。
監視する目も、何だかんだ言って気になってたし。
平和な空気に触れて、気が緩んでたってこともあるし。
結論として、今回対応できなかったのは、どうしようもないことだった、と。
そう考えたわけだ。
にしても。
激痛にのたうちながら考えることではないかもしれないけど。
神へと至る道
第8話 邂逅
「ぅ……」
「痛いー……」
鳩尾に全力の頭突きを受けた格好の祐一は、それでも倒れることはなかった。
激痛に顔を歪ませてはいたけれど。
鳩尾は痛い。
それはもう、シャレにならないくらいに。
涙さえ微かに浮かべている祐一を見れば、簡単にわかることだ。
けれど、女の子もかなり痛そうにしている。
少し涙目になりながら、痛いー、と唸ってることからも、それがわかる。
「げほっげほっ……あのなぁ、前くらい、ちゃんと見て、走れ……」
祐一が、どうにかそれだけを、今だ自分の胸元で痛い痛いと唸っている女の子に言うと、ようやくその女の子は顔を上げた。
女の子は、可愛らしい顔立ちを、痛みのために微かに歪め、恨めしそうに祐一を睨んでいる。
首元までの長さの鳶色の髪をストレートにしており、幼げな雰囲気とも相まって、睨んでいても、むしろ微笑ましく映る。
なお痛みに苦しんでいる祐一には、そんな余裕はなかったが。
「どいてって言ったのに……」
確かに言った。
……衝突の数秒前に。
「あのな、直前に言われて避けられるかよ。っていうか、何でそっちが避けなかったんだよ」
「避けてくれると思ったもん」
「道行く通行人に、そんな期待かけるな」
「ぶー……ケチ」
「ケチとは何だ、ケチとは」
「ケチだもん」
「はぁ……もういいよ。んで? 何で前も見ずに全力疾走なんかしてたんだ?」
祐一が尋ねる。
商店街の真ん中を、脇目もふらずに全力で走っていたからには、何か理由があるのだろう。
というより、ないなどとは考えられない。
体当たりされた祐一としては、その理由くらいは聞きたかった。
むしろ聞かせろ。
それが祐一の本音だったりする。
もういいとか言っておいて、やはり気にしてるのだろう。
とは言え、それを狭量と断ずるのは酷というものだ。
見たこともない人間に激突され、その挙句、文句まで言われたのだ。
怒ったとしても仕方がないだろう。
相手が女の子じゃなかったら、あるいは問答無用ではたき倒していたかもしれない。
そう考えると、異性であったことは、双方にとって幸いだったのかもしれない。
「え……あ! 話は後!」
祐一の言葉を後回しの一言で締め、そのまま祐一の手を引っ掴み、少女が駆け出そうとして……
「後、じゃないって。何なんだ? 一体」
……できなかった。
祐一が踏み止まったからだ。
祐一と少女の体力……どちらが上かなど、火を見るより明らかであろう。
「みゅ〜がっ! みゅ〜がぁっ!」
駆け出そうとしたところを止められ、どうやらパニック状態に陥ったらしい。
何やら謎な言葉を呟き、おたおたとする少女は、状況が違えば、可愛らしく映ったかもしれない。
「……みゅ〜って何だ?」
祐一が首を捻る。
わずか十七年そこそことは言え、それだけ生きてきた中で、祐一も様々な知識を手に入れたと自負しているが……
『みゅ〜』という単語に出くわしたことはない。
文字どおり、見たことも聞いたこともない言葉。
あるいは何かの暗号か。
はたまたどこかのスラングか。
いや、もしかして知らない国の言語かも。
「みゅ〜っ!」
思考の海に沈む祐一をよそに、少女はなおも逃げ出そうとする。
けれど、今度は祐一が少女を止める。
「まぁ落ち着け。何なんだ? 何があった? 落ち着いて話してみろ」
落ち着かせるため、少女と視線を合わせ、できるだけ優しく話しかける祐一。
「みゅ〜っ! みゅ〜っ!」
だが、その作戦は失敗。
落ち着く素振りなど欠片ほども見せず、少女はおろおろし続けている。
だが、指でとある方向を指していることがわかった。
一応何かを教えてくれようとはしているらしい。
その意味では、完全に失敗したわけでもなさそうだ。
そんなことを考えながら、祐一が少女の指差す方向に目をやると、こちらに向かって走ってくる中年のおじさんが目に留まった。
「……たい焼き屋の親父、か? ひょっとして」
その出で立ちは、まさにそれそのもの。
魚をくわえた猫を裸足で追いかける某主婦もかくや、という勢いで、当該人物がこちらに迫ってきていた。
ふと、未だ慌てている少女の手元に目をやる……そこには、白い紙袋。
祐一考える……考える……というか、結論はとうに出ている。
ただ、その答えがあまりにもバカバカしくて。
いくらなんでもあり得ないだろう、それは、と否定したくて。
だから考えて。
けれど、答えは変わらず……
「……なぁ、失礼を承知で聞くんだけどな」
「みゅ?!」
祐一の問いかけに、そんな言葉で答える少女。
まだパニックは続いているらしい。
どうも日本語による、いわゆる会話のキャッチボールなるものはまだ不可能なようだ。
だが、意思疎通は可能らしいので、質問を続ける。
「まさかまさか、その紙袋の中身とあのおっさんが追っかけてることに関係はあるのか?」
「!」
祐一の言葉が発せられた瞬間、少女の目が驚愕に見開かれる。
そこから、祐一は自分の考えが正しかったことを確信した。
同時に……
“……結局、俺が払わなきゃなんないんだろうなぁ”
などと考えていた。
祐一の想像と寸分違わず、彼から代金を徴収し、たい焼き屋の親父は場を去っていった。
警察沙汰にしようとしなかった辺り、優しいというのか、甘いというのか……
ともあれ。
「もぐもぐ」
「はぁ……」
隣で美味しそうにたい焼きを頬張る少女をチラリと横目で見て、祐一が一つため息。
現在は、商店街から少し離れた公園のベンチに腰掛けている。
祐一がたい焼き代を払ってから、祐一はその場を去ろうとした。
が、少女もお代を払わせてしまった罪悪感があったのか、祐一にたい焼きを差し出し、一緒に食べよう、と誘ってきたのだ。
差し当たって用事もないし、事情も聞いておきたいし、と考え、祐一はそのたい焼きを素直に受け取った。
そして、落ち着いて食べられる場所まで移動することにして、公園に到着し、今に至るわけである。
余談だが、監視者の気配は、いつの間にかなくなっていた。
目の前で起こったあまりに馬鹿馬鹿しい事態に呆れただけなのか、優秀な監視者に変わったのか、用がなくなったのか。
いなくなった理由は幾つか想像できても、どれが理由なのかはわからなかった。
「? 食べないの?」
と、祐一が考え込む姿を見て、少女が不思議に思ったのだろう。
食べる手を止め、首を傾げながら、祐一にそう尋ねた。
「ん? あぁ、食べるよ」
その言葉に、考えるのを止める祐一。
俺が払ったんだし、という言葉は胸にしまって、祐一は手にあるたい焼きを齧った。
「甘い、な」
「? 甘くないたい焼きなんてあるの?」
祐一の小さな呟きを聞き取ったのか、少女が尋ねる。
少女からすれば、たい焼きの感想に、甘いという言葉は不自然なのだろう。
「いや、そうじゃないよ……」
その言葉に対し、祐一は遠くを見るようにしながら、否定の言葉を口にする。
「?」
何かあると感じ取ったのか、どうでもいいと思ったのか。
少女はそれきり質問することなく、目の前のたい焼きに集中した。
「で、何で食い逃げなんかしたんだ?」
「食い逃げじゃないもん」
たい焼きを食べ終え、祐一がずっと気になっていたことを尋ねる。
少女は、それに対し少しむっとした顔で答えた。
「金払わずに商品だけ持って走り去れば、それは食い逃げって言うんだよ」
「後で払うつもりだったもん」
どこかあきれたような祐一の言葉を聞いて、少女は膨れっ面に変わる。
どうやら少女の中では、さっきの行動は、やむを得ない行為だと判断されているのだろう。
「……とにかく、買おうとする前に、金があるかどうかの確認ぐらいはするようにしろよ」
「うー……わかった……」
渋々ながら、少女は理解を示してくれたようで、祐一もとりあえずこれでいいか、と納得することにした。
となれば、残る問題は後一つ。
「んで、みゅ〜って何なんだ?」
少女がさっき連呼していた言葉……それに何か意味があるのか、について聞いておかねば、気になってしょうがない。
意味がなければどうでもいいが、意味があるのなら知っておきたい。
とりあえず、謎を謎のままにしておくのは、あまり気持ちのいいことではないから。
その祐一の言葉に、少女は首を傾げながら答える。
「みゅ〜?」
「そう、みゅ〜」
首を傾げながら、二人向き合ってそんな風に尋ねあう。
傍から見れば怪しさ漂う会話だが、幸い、まわりには誰もいない。
「みゅ〜」
「ん?」
と、少女が胸の前に手を差し出し、何かを包むかのようにする。
次の瞬間、そこから淡い光が漏れ出し、その手を開いたとき、そこには小さな動物がいた。
それを目の当たりにして、微かに目を見開く祐一。
「みゅ〜♪」
「……フェレット?」
「うん。フェレットのみゅ〜」
「あぁ、名前だったのか、そいつの」
「みゅ〜〜」
みゅ〜、と嬉しそうに繰り返しながら、手の上のフェレットと遊ぶ少女を、やはり少し驚いた表情で見る祐一。
どうやらこの子の能力らしい、と判断し、密かに感心する。
タイプMの能力者なら、生物を作り出すことも不可能ではないが、それは物質を作り出すよりも遥かに難しい。
おそらく、昔飼っていて、死んでしまった動物の魂を、自分のエネルギーで具現化したフェレットに宿らせているのだろう。
双方の信頼がなければ、そして、確かな能力者としての資質がなければできないことだ。
そんなことを思うと、微笑ましくなる……のだが。
“何でたい焼き屋の親父を見て、みゅ〜と叫んだんだ?”
パニックに陥っていたから、とも考えられるが、似ても似つかぬ両者を思い、また思考の海へと沈む祐一。
どうでもいいことを真剣に考えてしまう辺りは、浩平と似ているかもしれない。
祐一は全力で否定するだろうが。
それからしばらく色々なことを話した。
自己紹介から始まり(名前は椎名繭というらしい)、祐一達と同じく学園に通っていること、一つ下であること、など。
その中で、浩平達の知り合いということに、祐一は一番驚いた。
世間は狭いものだ、と妙な感心の仕方をしながら、話を続ける。
浩平や瑞佳、留美に、特に懐いているようだ。
浩平と祐一が似ている、と言われたことが、祐一にとって一番ショックだった。
悪気があって言ったことではなく、むしろ良い意味で言ったのだろうが、それだけに特に。
そうこうしているうちに、フェレットのみゅ〜も祐一に懐いてしまったらしい。
祐一としても、動物は結構好きな方なので、悪い気はするはずもなく。
少し嬉しそうに、繭とみゅ〜との時間を過ごしていた。
「ばいば〜い」
「あぁ、またな」
しばらくして、そろそろ日が傾いてくる、という時間帯になったので、お開きとなった。
まだまだ明るいので、一人で帰れるだろうと判断し、祐一はその公園で繭と別れる。
いなくなってからも、繭の笑顔が、祐一の頭に強く残っていた。
「……似てる、かな、少し」
何となく微笑ましい気持ちになり、微かに笑みを漏らした。
そして、そんな気持ちのまま、家に帰ろうか、とベンチから立ち上がった瞬間。
「……」
微かに……本当に微かに、悲鳴が祐一の耳に聞こえた。
瞬間、厳しい顔つきに変わり、声の方向を向く。
「……このエネルギー、魔獣か?!」
魔獣……一言で言うと、能力を持つ獣。
基本的に、能力を行使するのは人間がほとんどなのだが、ごく稀にそれ以外の生物が能力を手に入れることがある。
能力を手にした獣は凶暴性を持つことも多く、人間にとって大きな脅威となる。
なお、魔獣の能力のタイプは、PかCに限られる。
本能に忠実であるため、人間のように捻った能力はないが、基本的な身体能力の違いもあり、人間よりも性質が悪いことが多い。
魔獣にランクはないが、もしつけるとしたら、最低でもCランク以上は確定であると言われている。
捕らえるか殺すかして保護機関に報告すれば、一定額の賞金は出るが、その危険度は高い。
そのため、高ランクのハンターでなければ、基本的には逃げることが不文律となっている。
「魔獣だとすると、やばいな。この街の状況から考えて、間違いなく犠牲者が出る」
祐一は経験上、魔獣が人里に現れるケースが二つしかないことを知っている。
一つは、テリトリーを広げるため、移動している際に現れるケース。
もう一つは、食糧を求めて現れるケース。
一つ目の場合は、さして問題はない。
基本的に、目的が他にある以上、下手に手を出したりしなければ、魔獣が人間を襲ってくることは稀だからだ。
しかし、二つ目の場合は、大いに問題となり得る。
人を見れば、間違いなく襲いかかってくるだろう。
人を喰らうケースもあるし、人が持っている食糧や、家畜を喰らうケースもあるからだ。
今、悲鳴が聞こえてきたということは、現在進行形で人が襲われているということだ。
冬のため、食糧を求めてやってきた魔獣という可能性が、現時点では最も高い。
この街は、都市化が進み、畜産業を営む者はほとんどいない。
つまり、魔獣が食糧とするものは、人が貯蔵しているものか、もしくは、人そのものしかないのだ。
「ちっ……やるしかないか」
魔獣は、生きるために人を襲っている。
それはわかる。
だが、祐一は人間だ。
だからこそ、放ってはおけなかった。
たとえエゴと言われようが、その場は動かなければならない、と思った。
精神を集中させ、自身の生命エネルギーを呼び覚ます。
大河を彷彿とさせるエネルギーの流れが自覚できる。
静かに、静かに。
だが、強く、強く。
駆け出した祐一は、すぐにトップスピードに入り、あっという間にその場を駆け抜けた。
「ぁ……ぁ……」
たどり着いた場所は、噴水のある公園だった。
その噴水の前で、声にならない悲鳴を少女が発していた。
その少女の前に佇んでいた魔獣が、彼女から眼をそらし、祐一の方を向く。
“狼……いわゆる魔狼だな”
祐一は、冷静に戦況を分析する。
魔狼の体長は、約二m。
少女は腰を抜かしているようなので、戦線の離脱は不可能だろう。
というよりも、この状況で彼女が下手に動けば、間違いなく魔狼の攻撃の手はそちらに向く。
魔狼は、現時点では、祐一を食事の邪魔に来た厄介者としか考えていないことが、怒りに染まったその目からわかる。
ならば、少女が動かない限り、攻撃の手は祐一に集中されるはず。
よって、少女に声をかけたりはできない。
魔狼の注意を、わずかさえも逸らさせるわけにはいかない。
一歩だけ、祐一が後ろに下がる。
魔狼もまた、一歩祐一に近づく。
“……よし”
少女からの距離を考えると、これ以上近づくわけにも遠ざかるわけにもいかない、ギリギリの距離。
これ以上近づけば、戦闘の余波を少女が被るかもしれない。
だが、これ以上遠ざかれば、魔狼は少女にまず止めを刺しにかかるかもしれない。
低い唸り声を上げながら祐一を睨みつけている魔狼。
凝視すると、その魔狼の周囲の空気が、微かに揺らめいているのがわかる。
“……なるほど。タイプCだな。恐らく、炎”
並みの能力者ならば震え上がってしまうであろう強烈な威圧感が襲っていたが、祐一は微動だにしない。
戦闘において、冷静さを欠くことが死に直結することを、彼は学んでいたからだ。
能力者同士の戦闘において、最も優先して思考すべきこと……それは、相手の能力を見抜くことだ。
より早く、より正確に。
そのための思考能力は、冷静な状態でなければ働かない。
と、魔狼の周囲に火の玉が複数浮かび上がったかと思うと、次の瞬間、その全てが祐一に襲いかかった。
その速度もさることながら、能力発動のタイムラグがほとんどなかったことが脅威。
そのこと一つとってみても、この魔狼が強力な力を有していることがわかる。
そして、何の反応も見せることなく、祐一は炎に飲み込まれた。
“あぁっ……そんな……”
突然現れた救いの主を飲み込まんと炎が飛びかかるのを見て、少女は、心中で悲嘆の声を漏らす。
けれど状況は、自分を助けに来てくれた人の最期に涙を流す暇も与えてはくれない。
素人目に見ても、この魔獣が桁違いな力の持ち主であることがわかる。
次の対象が自分であることを悟り、逆に心が落ち着くのを感じる。
“まさか、病気で死ぬんじゃなくて、魔獣に殺されるなんて……”
自身を蝕む病による死は想像していても、魔獣による死は想像もしていなかった。
現実は、どこまでも過酷。
ドラマでもないだろう展開に自分がいることを思い、しかし、不思議とそのことに涙が流れることはなかった。
けれど。
“お姉ちゃん……”
お姉ちゃんに、会いたかった。
お姉ちゃんと、もっとお話をしたかった。
死ぬことよりも何よりも、お姉ちゃんと二度と会えないことが、悲しかった。
『あなたの病気を治せる能力者……絶対に、あたしが捜し出してあげるから』
私の病気が不治の病だ、と知らされた時のお姉ちゃんのこの言葉は、とても嬉しかった。
けれど、同時にとても申し訳なくも思った。
お姉ちゃんの人生の重荷に自分がなっていることを、再確認してしまったから。
遊ぶ暇も、恋をする暇もないほどに、お姉ちゃんは自分のために動いてくれていた。
けれど、まだ学生の身分でしかないのに、そんな特異な能力者を捜し出す手段なんて、あるはずもない。
だから、お姉ちゃんはハンターを目指した。
より信頼度の高い情報を得るために。
それを得られるだけのお金と伝手を、手に入れるために。
お姉ちゃんは、学年首席だった。
知識も、技術も、ハンターになる素養を、学園の誰よりも持っていた。
誰もがその将来に期待せずにはいられない……そんな人だった。
だから私は、誰よりもお姉ちゃんのことを尊敬し。
その人の妹であることが誇らしく。
そして、辛かった。
大好きなお姉ちゃんの足枷となっている自分が、嫌だった。
でも、お姉ちゃんの優しい笑顔が。
かけてくれる温かい言葉が。
本当に、本当に、大好きだったから。
足枷となっていることがわかっていても、お姉ちゃんの傍にいられないのは、もっと嫌だったから。
だから、何も出来ないけど、でも、せめて。
せめて、お姉ちゃんの前では、ずっと笑顔でいた。
『あなたの笑顔、素敵ね』って。
一度だけ、お姉ちゃんが褒めてくれた笑顔で、ずっと。
お姉ちゃんのおかげで、私は笑顔でいられるんだよ……
お姉ちゃんのおかげで、私は幸せなんだよ……
お姉ちゃんのことが、大好きなんだよ……
そんな想いが、伝わるようにって。
お姉ちゃんが私を助けようって頑張ってくれてるから、私も頑張れた。
治療は辛くて……泣きたくなるくらいに、辛くて。
症状はひどくて……少しずつ近づいてくる死の足音が聞こえそうなほどに、ひどくて。
でも。
お姉ちゃんが頑張ってくれているのに、私が弱音を吐くわけにはいかなかったから。
だから、これまで頑張ってきた……頑張ってこれた。
きっと、私一人だったら、耐えられなかったと思う。
お姉ちゃん、ありがとう……何度も何度も、心の中でお礼を言って。
直接言うのは、病気が治ってからだって決めてたから、だから、心の中でお礼を言って。
でも、今日、ここで、私は殺されてしまうのだろう。
死ぬことよりも、お姉ちゃんに会えなくなることが悲しくて。
そしてそれ以上に、お姉ちゃんの想いを、これまでの努力を、全部無にされることが、悲しくて。
“お姉ちゃん、ごめんなさい……”
そう心の中で呟いた時、頬を温かいものが流れたのがわかった。
と、そこで、ようやく少女が異変に気付いた。
いつまでたっても、魔狼が襲いかかってこないのだ。
ただ、低い唸り声が聞こえ続けるだけ。
“……? どうして?”
どうして、まだこの魔獣は、私に襲い掛かってこないんだろう?
どうして、まだ同じ方向を、警戒するように見つめているのだろう?
そんな疑問が、彼女の頭の中をぐるぐると回り続ける。
魔狼は、炎を祐一にぶつけた後も、変わらず前方を睨みつけていた。
いや、むしろその表情が、険しくなっているかのようにさえ見える。
「……なるほどね。結構強いけど」
「!」
少女の耳に届いたのは、少年らしき声。
燃え盛る炎の中から響くのは、まるで何事もなかったかのような至って普通の声。
と、信じられない光景が、少女の目の前に広がった。
炎に包まれて焼き尽くされるはずだった少年が、まるで炎を引き裂くかのように両手を振るい、そして実際に炎を引き裂いて現れたのだ。
彼は、熱く燃え盛る炎を、まるで体にまとわりついた糸くずを払うかのように、涼しい顔でかき消している。
少女は、ただその超然とした光景に、目を奪われていた。
「よっ、と」
軽い調子でそんなことを言い、けれど、眼光は鋭く目の前の魔狼を捕らえながら、祐一は炎を全てかき消した。
そして、小さく笑う。
「こんなもんじゃ、俺の生命エネルギーの障壁は突破できないぜ」
言葉が通じるとは思わなかったが、とりあえず宣告する。
「炎には慣れてるんでな」
今から始まる……
「じゃ、そろそろ幕引きといこうか」
殺戮という形の、終焉を。
祐一が露にした殺意にあてられて、魔狼が突然その場を飛び出し、祐一に向かってその大きな口を開く。
そこにあるのは、恐怖。
絶対であったはずの自分の力を、いとも容易くかき消した相手の放つ殺気に、耐えられなかったのだろう。
野生の狼よりなお早い踏み込みから、全力で噛み砕かんと牙を剥き出す。
ガキッという鈍い音と共に、魔狼の牙が止められる……祐一の左腕に噛みついた形で。
信じられないことに、魔狼の鋭い牙を、祐一は避けるのではなく、自身の腕に噛み付かせることで止めた。
普通ならば、そのまま噛み砕かれ、腕を失い、食い殺されるのが落ちだ。
けれど、牙は祐一の肌にまで届いてはいなかった。
見れば、祐一の体全体が、淡く光るエネルギーに覆われていた。
そのエネルギーの流れに止められ、ダメージを与えることが叶わなかった魔狼の目に、驚愕と絶望が広がる。
「じゃあな」
祐一が右手を握る。
その部分の生命エネルギーが、輝きと力強さを増していく。
魔狼がそれに気付き、身を離して逃げようとする、そのわずかな間に、祐一が、エネルギーで強化した拳を、魔狼の顔面に叩き込んだ。
まるでハンマーをコンクリートの壁に叩き込んだかのような、鈍く強い音が、公園内を重く響き渡った。
悲鳴を上げることも出来ずに、魔狼が凄まじい勢いで吹っ飛ばされる。
信じられない速度で飛ぶその巨体は、すぐに木に激突し、それでもなお勢いが止まらず、さらに数本の木をなぎ倒してようやく止まる。
魔狼は、もうピクリとも動かない。
確認しなくても、既にその生を手放していることは、誰の目にも明らかだった。
「……」
祐一は、少し魔狼に黙祷を捧げるように、目を伏せた。
魔狼を殺したことを後悔してはいなかった。
これはいわば生存競争の一環だ。
けれどそれでも、その死を悼む気持ちは否定できない。
勝手ではあるが、これも祐一なりのけじめだった。
「さて、と。大丈夫か?」
そして、黙祷を終えると、祐一は少女へと向き直り、そう声をかけた。
続く
後書き
さて、ホントにどんどん話が長くなりますね……まぁどうしようもなかったんですけど。
とりあえず今回は、繭ともう一人登場。
あと、ちょっと戦闘っぽい話もありということで。
本格的な能力者同士の戦闘は、もっともっと先になります。
本音言うと、そっちを先に書きたいという気持ちが強いんですが(笑)
それでは、最後に繭の能力について書いておきます。
椎名繭(タイプM)
能力名 :
夢でもし会えたら
効果 : 自身の生命エネルギーを使って、フェレットを生み出すことが出来る。
このフェレットには、繭が昔飼っていたみゅーの魂が込められている。
そのため、繭の能力でありながら、繭の意思で操ったりすることはできない。
なお現時点ではフェレットを生み出すことしかできないが、成長の可能性は大いにある。
恐らく、最終的には、地球上のあらゆる生物を具現化することさえも可能となるだろう。
もっとも、繭自身にその意思がなければ意味はないが。
加えて、作り出した動物以上の性能は期待できないので、戦闘には若干不向きである。