神へと至る道



第9話  姉妹に罪はあるか












「え……あ……」

祐一に声をかけられた少女は、まだ呆然としている様子で、どうも反応が鈍い。
どこか遠くを見るような眼差しのまま、身動ぎすることもない。
目は祐一の方を向いているのに、焦点が祐一に合っていなかった。

「おーい、大丈夫かー?」

それを見て取った祐一が、ひらひらと少女の目の前で手を振ってみせる。
けれどなお、少女の反応はない。

“……まぁ、無理もないかな”

手を振り続けながら、祐一はそんなことを考える。
この状況は、半ば予想していたことだ。

目の前に突然魔獣が現れて。
しかも、その魔獣は自分を殺そうとしていて。
そしてまた、突然現れた男が、その魔獣を退治して。

そんな事態に直面してなお、平然と返事ができる人間は、まぁまずいないだろう。

“あの魔獣もかなり強かったしな……”

祐一の経験から考えて、最低Bランクのハンターでないと太刀打ちできない魔獣だと考えられた。
祐一は簡単に勝利してみせたが、そこからわかるのは、あくまで相対的な評価である。
絶対的な評価を下すとすれば、充分強い魔獣だったと言えるだろう。

そんな魔獣の殺気を、戦闘などとは遠い世界に住んでいた少女が、真正面から浴びたのだ。
腰を抜かしはしたものの、気絶しなかっただけでも褒めていいだろう。





「……あ!」

と。
根気よく声をかけ続けているうちに、ようやく少女の目に光が宿った。
その大きな目で、まっすぐ祐一を見つめてくる。

「お、大丈夫か?」
「だ、大丈夫とか何とかじゃなくて……ええと……」

それでも、まだ混乱から抜け切れてはいないようだ。
今、頭の中では必死に状況を整理しようとしているのだろう。
こんな時は下手に声をかけるより、立ち直るのを待った方が回復は早いだろうと思い、祐一はとりあえず待つことにする。

「え……と、とにかく私は大丈夫です。どうもありがとうございました。それで、あなたは大丈夫なんですか?」

それから程なくして、少女が落ち着きを取り戻し、祐一に対し、ぺこりと頭を下げる。
それを見た祐一は、内心ほっとしながら、口を開いた。

「あぁ、見ての通りだ。何も問題ない」
「はぁ、良かったです」
「まぁ、な」
「? どうしたんですか? 浮かない顔してますけど」
「ん? いや、ちょっとな……」





ほっとしていたことは事実だ。
だがそれは、あくまでも少女が無事だったことについてだけ。
冷静になった今、彼の脳裏を過ぎったのは、つい先ほどの出来事の不可思議な点。

冬に食糧を求めて、街に魔獣が現れる……一見起こりうる出来事と思えるが、それでもどこか違和感があるのだ。
この地方には、ここ以外にも人里はある。
農業や畜産業を営む人々が多く住む町もある。
さらに言えば、その町の方がこちらよりも山に近い。
ものみの丘から来たのならわからないでもないが、あそこに狼の類が生息していないことはわかっている。
となれば、恐らくものみの丘の山一つ向こうから、わざわざここへやってきたのだろう。

戦闘中は不思議には思わなかったが、そう考えると、どうにも納得できないことがある。
ここまでやって来る必然性が無いのだ。
魔獣は、確かに野生の本能のままに行動していると言えるが、知恵が無いわけではない。
いや、むしろ、通常の獣以上に知恵が働くと言ってもいいだろう。
そんな存在が、あえてこんな危険の多い都会に姿を現すのは、やはりどこか不自然だ。

もし、この街に来る前にどこかの人里を荒らしていれば、間違いなくニュースで報じられるだろうし、保護機関も黙ってはいまい。
となれば、あの魔獣による被害は、この街が初めてであると考えていい。
つまり、あの魔獣は、最初からこの街に狙いを定めてきた、ということになる。

食糧を狙ってきただけだとしたら、まずこの街には来ないはずだ。
いや、そもそも冬とは言え、食糧がなくなるような事態が、そうそう起こるだろうか?

山の中なら、冬でも餌となる生物は数多くいる。
あのレベルの魔獣なら、熊を襲って喰らってもいい。

それでは他の可能性があるのか、というと、これも考えにくい。
考えられるとすれば、テリトリーを広げるため、という理由くらいだろうが、それならまず、ものみの丘に異変が起きていなければおかしい。
だが、ものみの丘が今も平穏を保っていることは間違いないのだから、この可能性も否定される。

となると……



“あの魔獣の意思ではない、ということも考えられるな……”
「……あ……」

誰かが、あの魔獣を操るなりなんなりして、この街まで誘導した可能性も、ないとは言い切れない。
そういう風に、自分以外の何かを操ることが可能な能力者は、いないわけではないからだ。

“だが、そこまでして、何を……?”
「……あの……」

しかし、魔獣を操るなどと簡単に言っても、それはかなり困難なことである。
そうした能力は、最低でもその魔獣以上の力を有していなくてはならない場合が多いからだ。
そこまでして何がしたかったのかもわからないし、どんなメリットがあるのかもわからない。

“だが、もしそうだとしたら……”
「……あの、ちょっ……」

これは由々しき事態である。
今回は偶々祐一が近くにいたため事なきを得たが、もう少しで少女が犠牲になるところだったのだ。
いや、少女だけでなく、近隣の人間が数多く襲われる危険があった。
もしこれが人為的なことだとしたら、その目的は、お世辞にも平和なものとは言えないだろう。

“……いや、もしかしたら、狙いは、俺か?”
「……すい……あの、ちょっと……」

祐一の力を測るために魔獣をぶつける……あり得ないとは言えない。
そしてこれが目的ならば、わざわざ魔獣を利用する理由もわかる。
祐一に直接ぶつかりたくなかったということ。
相手と直接対峙するのはリスクも大きいし、何よりそれは、相手に自分の力を教えることにも繋がる。
戦闘において、情報の漏洩は何より恐れるべきことなのだ。
逆に、相手の情報を掴めば、戦局は有利なものとなる。
故に、この可能性は否定できないのだが……

“だが、それだけでは……弱いな”
「すいません! あのですね!」
「うぉわっ!」

と、そこで、変な声を上げながら、祐一が飛び上がった。
そこにあったのは、驚きの表情。
思考の海に沈んでしまっていたために、ないがしろにされてしまった少女の逆襲だった。
もっとも、当人にその意思はなかったのだが。





「び、びっくりしました〜」
「こっちのがびっくりしたっての。何もあんな大声出さなくてもいいだろ?」

驚いたのは少女にしても同じだったのか、少し涙目になりながら祐一を睨むようにしている。
祐一にしても、文句を言わずにいられなかったらしく、耳を手で押さえながら言い返す。
だが、少女の言葉は止まらない。

「だ、だって、私がどれだけ声をかけても、全然返事もしてくれないんですから……」
「そ、それは……」

じとっとした目で祐一の言葉に言い返す少女に、祐一も勢いを失った。
確かに、冷静に考えて、無視し続けた祐一の方にこそ、非があるだろう。

「あー、悪かったな、無視しちまって。ちょっと考え事しててな」
「え……あ、べ、別にいいですよ、そんな気にしなくて。助けてもらったんですし。本当にありがとうございました」
「ん? あぁ、それこそ気にしなくていい」
「気にしなくていいって……」
「助けたのは、あくまで成り行きだからな。感謝されても困る」
「でもでも……」

少女はなおも食い下がろうとする。
命を助けられて、気にするな、と言われても、それは無理な相談というものだ。
それこそ酷というものだろう。
だが、祐一は、少女の心情に興味はないのだ。
危険は去り、二人とも無事だった、とくれば、何も問題はないはず……そう結論付ける。





「とりあえず、だ。まずここから移動しよう。話は後でも出来る」
「え? 何でですか?」
「多分、もうすぐこの魔獣の回収のために、保護機関か警察の人間が来るだろうからな」
「? それで何で移動するんですか?」
「厄介ごとには巻き込まれたくない」
「えーっ?! もったいないですよ! 折角のチャンスですよ?! あんなに強いんですから、堂々とインタビュー受けましょうよー」

面倒臭そうに言う祐一に対し、少女は逆に勢いづく。
むしろ驚愕の表情で、祐一に詰め寄る。

「ヒーローですよ?! ヒロインですよ?! 一躍時の人ですよ?!」

どうやら、少女の頭の中では、めくるめくサクセスストーリーか何かが展開されているらしい。
うっとりとした表情で、そのストーリーを語り始める。

「二人の間に芽生える友情! けれど、寄り添う二人の間にはやがて友情を超えて愛情が! そしてそして、感動のゴールイン! なんですよ?!」
「……あのな」
「はぁ、素敵ですぅ……正にシンデレラストーリー……あぁ、苦節十六年、ついに私にもこの時が来たんですね」
「おい……」

どこか陶酔したような面持ちで、妄想全開としか表現のしようのない語りが展開されていく。
潤んだ瞳は、こんな場でなければ、かなり魅力的に映るだろうと思わせるものだったが……
その形のいい唇から紡がれるストーリーには、正直祐一はついていけなかった。
呆れているのか、若干顔が引きつっている。
だが、少女はそれに気付くことはなく、さらに加速してゆく。

「いえ、何も言わなくてもわかってます。えぇ、わかってますとも。何と言われようと、私の答えは常にイエス、ですよ!」
「人の話を……」
「さぁ、王子様! 私と共に楽園へ……」
「聞けッ!」

放っておいたらいつまでも続きそうな語りを止めるため、祐一が鞄から薄いノートを取り出し、くるくると丸めそれを丸めてから、語りの最高潮に達した少女の頭にお見舞いした。
もちろん、ダメージがあっては困るので、思いっきり加減はしたが。

「えぅッ!」

加減してもまぁ、突然の衝撃には変わりなく、少女はよくわからない悲鳴を上げて、頭を押さえる。

「うー……ひどいじゃないですかぁ」
「やかましい。わけのわからん妄想に1人で浸るな」
「あ、ひどいですよ、そんな言い方。もっと優しく言ってくれても罰は当たりませんよ?」
「そんなことどうでもいいんだよ。とにかく、ほれ、行くぞ」
「えー?」

言い募る少女に対し、祐一はにべもない。
あからさまに不満げな顔になる少女。
このままだとまた妄想が始まりそうだと判断したらしく、祐一が説得に入る。

「だいたい、インタビューなんてかっこいいものにはならないんだって。保護機関とか警察の鬱陶しい尋問があるだけだ」
「え? テレビ局は?」
「来ない」
「そ、そんなー……」



少女の言葉に、祐一は表情一つ変えずに答える。
次の瞬間、ガーンという効果音を背負って、少女はよよと崩れる。

「あぁ……薄幸の美少女、ここに極まれり、です。ひどいです、あんまりです。あんな悲しい目にあった美少女に救いの手はないんですか?」
「とりあえず、ほら、行くぞ」
「うぅー、神は死に給うた、です……」
「はいはい、よかったよかった、じゃあ行くぞ」
「良くないんですよー」

このまま放っておいたら埒が明かない、と判断したのか、少女の手を取って、祐一がさっさと歩き出す。
少女は、まだ文句をぶつぶつ言い続けてはいたが、手を握られてからは、大人しく祐一の後に続いた。
少しだけ、その白い頬を赤く染めながら。








「さて、ここらへんでいいか」

祐一達が来たのは、先程繭と別れた公園。
ここなら誰にも何も言われないだろう、と判断し、ベンチに少女を座らせる。
手を離す時、少女が少し不満げにしたこと以外は、特に問題も無かった。

「……」
「そんな恨めしげな視線向けられてもなぁ」

ため息をつく祐一。
少女は思いのほか頑固だったらしい。
白馬の王子様願望とでもいうものだろうか。
とにかく、少女の中では、自分達がヒーローでありヒロインであるという物語が、今なおロードショー中らしい。

「ダメですよ。ここは、しっかりと手を握って愛を囁いて下さらないと。やり直しを要求します」
「却下」
「うー……」

万事この調子。
もういい加減日も傾き始めており、祐一でなくてもそろそろ帰路につきたいところだ。
ましてや少女なら尚更のはず。

「……まぁいいです。次回以降に期待します」
「はぁ……」

どうやら祈りが通じたのか、少女も折れてくれたらしい。
まだ若干不満げではあるものの、小さく頷いてドラマの終了を告げた。

「少しずつ育てる愛というのもいいですし」

どうやら、ベクトルが変わっただけだったらしい。
それでも、今回はここで終わらせてくれることは間違いないのだから、祐一もそれ以上何も言わなかった。





「それで、ですね。とにかく、今日はありがとうございました」

それから程なくして、改めて少女が祐一にお礼の言葉を言う。
それに対して、手を振って否定する祐一。

「言ったろ? 礼はいらないって」
「はい、聞きました。でも、人に感謝している時は、ありがとう、ですよ」

にっこりと笑いながら、そんなことを言う少女。
そのまっすぐな言葉に、さしもの祐一も折れるしかなかった。

「……そうか」
「それで、すっかり聞きそびれてたんですが……あなたのお名前は? もしよろしければ教えて頂けませんか?」
「相沢祐一だ。相沢でも祐一でも好きに呼べばいい」
「そうですか。では、祐一さん、と呼んでいいですか?」
「あぁ、いいぞ」
「私の名前は美坂栞です。栞って可愛らしく呼んでくださいね」
「可愛らしくかどうかはわからんが、とにかく、栞、と呼んでいいんだな?」
「うーん、今イチ愛が足りないんですが……まぁいいです」

若干不満げな表情の少女――栞。
口元に指を当てて考え込む仕草は、先程の出来事がなければ、祐一の目にも可愛らしく映ったに違いない。
と、祐一が、そこで何かに気付いたように目を小さく見開く。

「ん? 美坂?」
「どうかしましたか?」
「いや、美坂って名字に聞き覚えがあってな……」
「もしかして、美坂香里、ですか?」
「あぁ。もしかして姉妹か?」
「もしかしなくても姉妹です」

祐一の言葉に、笑顔でもって答える栞。
そこには、確かに姉妹という絆への深い愛情が感じられた。








「ふーん。じゃ、栞は俺の一つ下ってことか」
「はい。あんまり学校に行ってないのに、先輩後輩って少し変な気もしますけど」

その後、少し雑談に華を咲かせ、姉妹が同じ学園の生徒であることも聞いた。
その最中、気になるフレーズを、祐一は耳にした。

「あんまり行ってない?」
「はい。私、ちょっと病気がちで……」

そう言うと、栞は力なく微笑む。
透明な……それ故に寂しさを醸し出す、そんな微笑だった。

「あ、そんな大したことじゃないですよ。ただの風邪で……」
「嘘だな」
「!」

栞がごまかすように紡いだ言葉は、しかし祐一の言葉により、その役割を果たせなかった。
祐一が栞を見詰める……それは、一切のごまかしも冗談も許さない、そんな瞳の色。
栞は、その目を見続けることができず、思わず目を逸らした。
それでも、祐一は栞から目を外さない。

「結構、いや、相当重いんだろ?」
「……デリカシーないですよ? そんな時は、黙っていてくれるものです」
「俺はヒーローなんかじゃない。ついでに言えば、上辺だけの慰めなんかも嫌いだからな」

病人に対し、症状が重い、などと面と向かって言うなど、常識に外れた行為である。
しかし、祐一は、下手な慰めほど辛いものはない、と知っていた。
優しさに包まれた嘘ほど、つかれて辛い嘘はない。
感謝と申し訳なさを感じずにいられないから。
気を使わせていることが、重荷となってのしかかってきてしまうから。



「ふふふ……変わってますね、祐一さんは」

言われた栞も、なぜか、どこか嬉しそうにしている。

「そうだな。変わってるな、俺は」
「でも、うん、ちょっと嬉しかったですよ、ズバッと言ってくれて。同情の視線を向けられるより、よっぽど」
「そうか」
「はい」

静かで穏やかな会話。
そして訪れる沈黙。
だが、それも長くは続かない。








「……私、小さい頃から体が弱かったんです。ずっと病院と家を往復する生活。たまに、その往復の周期が短くなったり、長くなったり……変化なんてそれだけでした」

そして、栞がゆっくりと語り始めた。

「退院しても、家にいられても、結局、また病院に戻って……」

優しく微笑みながら。

「家に居たって、外で遊べるわけでもなく……友達と遊べるわけでもなく……」

けれど、ついさっきまで見せなかった悲しみの色を、少し……

「でも、お姉ちゃんだけは、傍にいてくれて。私を、支えてくれて」

ほんの少しだけ、そこに滲ませながら。

「……お姉ちゃんだけだったんです、私には。どんな時でも、お姉ちゃんだけは……」

泣きたい気持ちを……

「確かに病気は辛いです。悲しいです。嫌、です」

叫びたい気持ちを……

「でも、耐えられないことは、本当に辛いことは、そんなことじゃないんですよ」

一生懸命こらえているような。

「お姉ちゃんに、迷惑をかけてることが……迷惑をかけてるってわかってながら、でも、お姉ちゃんの傍から離れられない私の弱さが、耐えられないんです。辛いんです」

そんな、どこまでも優しく、どこまでも悲しい、微笑みを浮かべて。

「私……お姉ちゃんの重荷になんて、なりたく、ないのに……」

その頬を流れる雫は……

「……私、何のために、生まれてきたんですか?」

自分の不幸を嘆いてのものではなく。

「やりたいことはたくさんあります。でも、それ以上に、やりたくないことが、やってはいけないことが、あるんです」

愛する姉を思い。

「死ぬわけにはいきません、絶対に。お姉ちゃんを裏切ることになりますから。でも……」

そして、思われていることに応えられない自分が悔しくて……悲しくて……だから。

「でも、お姉ちゃんに迷惑をかけることしかできないなら……病気で苦しむことしかできないなら……それなら、いっそ最初から……」








「それ以上は、言うな……言っちゃ、だめだ」

そっと栞の頭に手を置き、優しく、本当に優しく、祐一が言った。
けれど、その表情は辛そうで。
きっと誰にも漏らしたことのない、そんな栞の言葉に、祐一は何も言えなくなる。

この小さな体に、どれだけの想いを抱いているのだろう。
その壊れそうな心に、どれだけの痛みを抱えてきたのだろう。

祐一は、静かに泣き続ける栞の頭を撫で続けることしか、できなかった。








「……祐一さん、ありがとうございました。もう大丈夫です」

しばらくしてから、栞がそっと顔を上げる。
少し赤くなった目を祐一に向け、弱弱しく、けれど確かに微笑んだ。

「そう、か……」
「はい。泣いたら、ちょっとだけ、すっきりしました」
「……」
「あの……?」

それで終わりと思っていた栞だったが、祐一は微動だにしない。
だからか、少し怪訝そうに、自分の頭になお置かれ続けている手に目をやる。
そこで、祐一はようやく口を開いた。

「……ちょっとした、おまじないだ」
「え?」

祐一の言葉に首を傾げる暇もなく、祐一の手が、淡く光を放ち始める。
それは、温かい光。
全てを包み込むかのような、白い輝き。
その光が、栞の全身を静かに包む。

光の中、母の手に眠る赤子のような心地を、栞は感じた。
安らぎ……そこにあったのは、正にそれだった。
瞳を閉じると、春風が吹きぬける草原の光景が、心に浮かぶ。
あぁ、これが、私にとっての安らぎの光景なんだ……そう思った時、その至福の時間は終わりを告げた。



「っと。栞がよくなるようにってな」
「え、もう終わりですか?」
「そうだけど?」
「うぅー、もうちょっとやって下さいよぅ」
「や、結構疲れるんで、これで打ち止め」
「その辺は愛の力でカバーして下さい」
「そんな無茶は通じないっての」
「ここでもう一押しすれば、私の心をガッチリとキャッチできるんですよ?」
「別にいいし」
「わ、ひどいです」

ぷくっと頬を膨らませて、栞が文句を言う。
その表情に、先程までの悲嘆の色はない。
そのことに、祐一は安堵する。



「でもでも、こういうのも素敵だと思いませんか? 勇敢な男の子と、助けられた美少女が、胸の内を吐露し、愛を爪弾く……」
「そんなものは、ハープ持ってる吟遊詩人にでも頼め」

もしいれば、の話だけどな、と祐一は心の中で付け足す。
そもそも、何で栞は美少女で、祐一はただの男の子なのだろうか。
もちろん祐一にしても、別に美男子と言って欲しいわけでも、そう自惚れてるわけでもないのだけれど。

「……もう一つドラマチックな展開に至りませんね。こんなに条件は揃ってるのに」
「諦めろ」
「祐一さんは、優しさが足りてませんね。大体ですよ? 偶然が織り成す恋物語のチャンスを見過ごすなんて、それでも男の子なんですか?」
「問答無用で寸分の狂いもなく男の子だが?」
「素で返さないで下さい!」

さっきまでの調子を取り戻した栞と、それを軽くあしらう祐一。
それでもそこには、楽しそうな雰囲気が満ちていた。
最後は、笑顔だった。








「あ、もうこんな時間ですか」

その後もしばらく雑談を続けていたが、時が過ぎるのは早かった。
ふと腕時計に目をやった栞が、そう呟く。
その口調から、別れを惜しんでいることが、簡単に窺い知れた。
祐一もまた、そのことに思い至ったらしく、若干驚いた表情をしている。

「ん? おぉ、こりゃやばいな。いい加減帰らないと」
「残念ですけど、ここでお開きですね」

栞が三度、祐一に頭を下げた。

「祐一さん、今日はありがとうございました」
「だから言ったろ? 礼は……」
「違いますよ。私の弱音を聞いてくれたことです」
「……そっか」
「はい。私、祐一さんに会えてよかったです。元気、わけてもらえましたから」

笑顔で言う栞の表情は、どこか晴れやかなものだった。
つられて、祐一も微笑む。

「そっか」
「はい!」

祐一も栞も、その顔に浮かぶ笑みは、明るいものだった。

「ん? そういや家は近くなのか? なんなら送っていった方がいいか?」
「大丈夫です。すぐそこですから」
「わかった。じゃ、またな」
「はい。また、です」

そう言ってから、踵を返し、栞は去っていく。
その影法師の頭が、祐一を追い越そうとした時、栞が、くるりとこちらを向き直った。

「祐一さん、さっきのあれ、能力、ですよね?」
「……」
「温かかったです。でも、残念ですけど、効果は期待できませんよ」
「……何でだ?」
「これまでにも、回復系の能力者に治してもらえないか、何度も試してみたんです」
「……」
「でも、ダメでした。やっぱり、能力は人間のものですから。人間の限界を超えた力は、使えないですから」
「……」
「医学が手も足も出ない病気には、能力も効果はないんですね……」
「……」
「あ、でも、諦めたりはしませんよ。今日、少し元気をもらいましたから」
「……」
「明日から、また頑張ります……でも」
「……?」
「もし……もし、また、辛くなったら……」
「あぁ。また、励ましてやるよ。だから、いつでも来い」
「……はい、ありがとう、ございます」

祐一の言葉に、一瞬不安げになった栞の表情も、元に戻る。
夕日に照らされた栞の笑顔は、間違いなく、今日見た笑顔の中で最高のものだった。










「……運命、か」

栞の姿が完全に見えなくなっても、祐一は、まだその場に佇んでいた。
そして、どこか吐き捨てるような口調で、運命という言葉を紡ぐ。

「香里の思いつめた表情は……そういうことだったのか」

香里と栞……悲しい運命に翻弄される、確かに薄幸の姉妹だった。

「どこまでも世界は残酷だな、全く」

誰よりも姉を想い、迫り来る死の恐怖と戦う少女……
誰よりも妹を想い、その死の回避に全てを傾ける少女……

「あいつらも、そんな運命を強いらされてるのかよ……」

ギリ……という音が、祐一の口から低く響く。

「本当に平等だな。限りなく不公平で、どこまでも平等だよ」

運が悪かった。
そういう運命だった。
そんな言葉で片付けられる、連綿と続く人の歴史の、些細な一コマ。
けれど。

「……上等だよ」

嫌だった。
どうしようもなく、嫌だった。
罪人であるならば、裁かれもしよう……咎められもしよう……責められもしよう……
けれど。

「見てろよ……」

そう呟く祐一の横顔からは、確かな決意が窺えた。









 続く












後書き



栞さん登場。

改めて見ると、めちゃくちゃ暴走してますね。

にしても、話の進行は遅いのに、展開はかなり急ぎ足だったんですね……ちょっとヘコみました。

こ、この反省は、ちゃんと今後に活かさないとなぁ。

読み返す度に痛みがありますが、これも成長のための糧と解釈しないと。

が、がんばります。