「なぁ、相沢」
「何だ? えー……北川?」
「何で疑問形なんだよ?」

朝の学校でのことだ。
HRが始まるまでは、学生の時間である。
一時間目の予習をする者。
惰眠を貪る者……該当者は一名だが。
そして、友人と会話を楽しむ者。
様々な時間の過ごし方があるが、祐一が選んだのは、というより、選ばされたのは、三番目だった。

「北川よ、気にするな。こいつは人の名前を32秒で忘れる特技があるんだ」
「黙れっての、折原」

なぜ、32秒などと中途半端な設定なのか、とか。
勝手に人の特技を設定するな、というより、それは特技じゃない、とか。
ツッコみたいところは多々あっても、敢えて無視をする。
経験上、こうすることが彼にとって一番こたえることを、祐一も知っていたからだ。

「……まぁいいか。とにかく、だ。相沢、知ってるか?」
「何を?」

予想と寸分違わぬ形で凹み、けれど、予想を超えて、のの字を大量に机に書いてる浩平の姿を横目で見ながら答える。
指ではなく、わざわざボールペンで書いている浩平を。

「……」

祐一が頭を押さえる。
あるいは、そろそろ頭痛薬でも買った方がいいのかもしれない。

「おい、折原……無駄だろうけど、一つ忠告してやる」
「何だよ? ボケ殺し」
「……そこ、七瀬の席だぞ」
「知ってる」

知ってたのかよっ?! というツッコミを、寸での所で飲み込む。
別に今回は、浩平がどうの、という理由ではない。
正に鬼の形相で、話題の彼女が机……いや、浩平を睨んでいたからだ。
当然、次の瞬間……



「あんたはいっぺん死んできなさいッ!!」



予想通りの展開。
教室を揺るがせるかのような大音響と共に繰り出された鞄の一撃が、浩平に叩き込まれたことを合図にするかのように、担任がドアから顔を出す。

「……一日に一度はこれを見なきゃ始まらない、とか言うんじゃないだろうな?」

深いため息をつく祐一。
もしかしたら、胃薬の用意も必要なのかもしれない。












神へと至る道



第10話  さながら白鳥のように












「……悪いな、北川。で、さっきの話の続きは何だ?」

HRが終わり、一時間目までわずかに時間があるため、祐一は北川と話を再開する。
ちなみに、浩平は机に沈んでいる。
瑞佳がその傍で、先の祐一以上に深いため息をついていた。
それでも、冷やしたハンカチを浩平の頭に当てているあたり、祐一は素直に彼女に感心してしまう。

「ん? あぁ、いやな、もうすぐなんだよ」
「だから、何が?」
「お前、マジで知らないみたいだな」
「だから聞いてるんだよ」
「この時期、もうすぐって言ったら一つだろ」
「……いい加減言えよ」
「武闘会、だよ」
「踊るのか?」

祐一の頭に、クラシックをBGMに踊る、お金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんの姿が浮かぶ。
愚にもつかないおべんちゃらと、心にもないお世辞の応酬。
水面下のドロドロとした争いと対照的に、表面上は穏やかな言葉のやり取り。
……どうやら、祐一には、舞踏会の姿は、相当歪んで記憶されているらしい。
当然、北川は、不思議そうな表情に変わる。

「は? 踊ってどうするんだよ」
「だからそれを聞いてるんだって」
「……そうじゃないんだよ。闘うんだよ、トーナメント制で」
「あぁ、そういうことか」

適当に相槌を打つ祐一……少しその動作が大仰に見える。
だが北川は、祐一の不自然さに気付かない。
祐一は、さらに言葉を続ける。

「で、それがどうしたんだ? まさか確認したかっただけじゃないだろ?」
「当たり前だ。オレは、お前が出るのかどうかを聞きたかったんだよ」

北川が、少しばかり呆れたような声で言う。
それに対して、祐一は肩を竦めながら答える。

「俺は転校してきたばっかりだぞ?」
「そんなの関係ないんだって。開催時に学園の高等部の生徒だったら、誰でも参加できるんだから」
「にしても、何で俺を参加させようとしてるんだ? 折原だの住井だのいるだろが」
「あいつらの出場は決まってる。だからお前も参加しろ」

熱心に誘う北川。
彼は、祐一の力が、単純に気になっていたのだ。
話によると、祐一は学園で行われる能力者の授業にも参加しないらしいし、武道の授業も受けないらしい。
また、普段の動きも、一般人のそれにしか見えない。
しかし……

「お前、絶対いいところまでいくって。な、出てみろよ」
「そんなこと言われてもな……」

そう、北川は、祐一から何かを感じ取っていたのだ。
あるいは、自分と同等以上の力を持っているんじゃないか? と、そんなことを思っていた。

どうせ武闘会に出るのなら、張り合いのある相手と闘いたい。
住井達も強いのだが、何度も手合わせをしている手前、どうしても新鮮味に欠ける。
その点、祐一については、北川は何も知らない。
もし闘うことができれば、面白いことになるだろう、と考えたわけである。

「な? 出るだろ? いや、むしろ出ろ!」
「何で命令形なんだよ」

祐一が、また頭を押さえる。
どうやら、学校も彼に平穏を与えてくれる空間たり得ないらしい。
けれど、北川はそれを無視して祐一に言い募る。

「な? いいだろ?」
「やれやれ……」

祐一が深く深く、諦めたかのようなため息をつく。

「お」

それを肯定の合図、と思い込み、喜色満面の北川に、しかし祐一は静かに告げる。

「やだ」

さっぱりと、きっぱりと。
爽やかな笑顔で、それがこの世の真理だ、と言わんばかりに。
当然、北川は黙っていない。

「何で?!」
「めんどい」
「4文字?!」
「めんどくさい」
「2文字増えただけ?!」

北川が、信じられないという表情で、祐一に詰め寄る。
どうやら、彼の中では、既に祐一の参戦は決定事項だったらしい。

「出ろよ? もったいねーぞ!」
「何が?」
「お前はそんなことも知らないのか?! 武闘会の優勝者には特典があるんだよ!」
「何だ? バカでかいだけの優勝トロフィーなんぞいらんぞ。のしつけてくれてやる」
「アホ! んなもんじゃねーよ! いいか! 武闘会はな、三年に一度しか開催されないんだ! つまり今回を逃せば、永遠に参加できないんだぞ?!」
「そりゃめでたい」
「めでたくなーいッ!」

北川が思わず大声を上げながら立ち上がる。
瞬間、多くの目がそちらに向く。
だが、ヒートアップした彼は、周りの注目を集めていることにも気付かない。

「いいか! さっきも言ったが、優勝者には特典があるんだ! 三年に一度だからこそ、ものすごい価値がある!」

北川のテンションは、最早右肩上がりだ。
この成長率が日本の経済に適用されればいいのに、などと祐一はぼんやり考える。
その北川のテンションと、見事に好対照な曲線を描く、祐一のテンション。
現在日本を襲っている深刻な不況を彷彿とさせるような沈み込みだ。
浮上の兆しなど、まるで見られない。
どうやら、スイッチが入ったような北川を見て、却って冷めてしまったらしい。
そんな祐一の心情など気にも留めず、北川の説得は続く。



「この学園にはな、神器があるんだよ!」
「……」

それを聞いた祐一が、微かに反応を示す。
微かだったため、気付く者はいなかったが。
そして、反応したのが祐一だけではなかったことも、クラスの誰一人気付くことはなかった。



神器……神がこの世界を作り出した際、人間に残したとされる、全二十四種の武具、と一般には伝えられている。

 通常の武具では実現不可能なほどの威力と強度を誇る、と言われているが、扱う人間を選ぶ。
 強力な能力者でない限り、その力を引き出すことは不可能なのだ。
 『普通の人間は神器を芸術作品としてしか扱えない。しかし、優れた能力者ならば、神器を武器として扱うことができる』
 こんな言葉もあるくらいに。
 そのため、武具としての側面よりも、神が作り出したという、その端正なフォルムに価値を求める者の方が多い。
 実際、その美しい姿は、見る者を惹きつけて止まない。
 だが神器は、それ自身に意思があるかのように持ち主を転々とし、永続的に神器を所有する者は少なく、幻想の武具とも言われている。
 人の手に渡っているものもあれば、厳しい自然の中で、所有者を待ち続けているものもあるという。



「その神器にな、優勝者は触れることを許されるんだぞ?! こんな体験、他にできるか?!」

北川が興奮気味にまくし立てる。
いや、間違いなく興奮状態だ。
ここまで熱くなれるのは、ある意味羨ましいかもしれない。
けれど、あくまで、ある意味、だ。
決してこうはなりたくないな、というのが、偽らざる祐一の本音である。

「それで?」
「それで? だと?! お前な、神器だぞ?! 幻想の武具だぞ?! 憧れるだろ?!」
「別に」
「枯れてやがるーッ!」

パンッと額を叩き、北川が大げさに仰け反る。
だが、枯れている、とは、祐一にとっては大きなお世話と言えるだろう。
要は、その行為が自分に意味があるのか、価値があるのか、が問題なのだから。
祐一にとって、武闘会に参加する必要など、露ほども見当たらないのである。
つまり、武闘会参加には、意味も価値も見出せない。
ただそれだけの話なのだ。





「あのなぁ……大体、この大会はすごいんだぞ。過去、四強に残った人間は、皆凄腕のハンターになってるんだ」
「ふーん」
「しかもしかも、あの伝説のハンターと呼ばれる人も、この武闘会の優勝者だっていう、もっぱらの噂だぞ?!」
「ただの噂なのか」
「ええい、いらん茶々を入れるな! とにかくだ。わかるか? ここで優勝すれば、ハンターとして箔がつくってことだぞ? それでも参加しないのか?」
「もちろん」
「……信じられねぇ。お前、ハンターにならないのか?」
「あぁ、ならないぞ」

祐一は、あくまで軽く、爽やかに、北川の疑問に答えた。
それを見て、がっくりと肩を落とす北川。

「くっそー、面白くなると思ったのに……」
「悪いな。でもさ、別に俺がいなくても楽しめるだろ?」
「まぁ、そうだけどな。何ていうか、強敵がほしいんだよ、俺は」

それでも、さすがに祐一を誘うことはできないと理解したのだろう。
首を振って残念そうにしながら、自分の席に腰を下ろす。

「あーあ。あの川澄先輩も倉田先輩も出ないし……何か盛り上がりに欠けるよなぁ」
「ん? 誰だって?」
「川澄先輩と倉田先輩だよ。知ってんのか? まさか」
「あぁ、舞と佐祐理だろ? 知ってるよ」
「何?! 名前呼び捨て?! お前何者だ?!」

祐一がしれっと言った言葉に対し、再度加熱する北川。
またしても席を立ち上がり、びしっと祐一を指差しながら叫ぶ。
対する祐一は、やはり落ち着いたまま。

「そんなに驚かんでもいいだろ?」
「バカヤロウッ! お前、川澄先輩と倉田先輩と言えば、この学園の正にアイドル的存在! 誰もが憧れる高嶺の花なんだぞ?! それを親しげに呼び捨てェ?! 一体どんな関係だァ?!」
「落ち着けって。昔こっちに来た時に会ったことがあるんだよ。つーか、そもそも俺は七年ぶりにこっちに来たところなんだぞ?」
「そ、そうか。ってことはそんな深い仲でもないのか……ふぅ」

ようやく落ち着いたらしき北川。
額を手で拭うような仕草を見せながら、再度席に腰を下ろす。
祐一は何も言わず、呆れたように北川を見ている。

「しかし、いいよなぁ……あの二人と知り合いなんて」
「んー……でも、こっちにきてからは会ってないからなー。んなに羨ましがらんでも」
「くそぅ、余裕見せ付けやがって。何か? すでにお前の勝利だ、と。そう主張してんのかよ?!」

落ち着いたかに見えた北川だったが、やはり火は消えていなかったらしい。
それを冷めた目で見るクラスの一同。
折原、住井の二人と合わせて、三馬鹿と称されることもあるほどだ、と言えば、このクラスの彼らに対する認識は容易に知れよう。
このクラスの三人に対する認識には、情け容赦の欠片も見受けられない。

しかし、それも止むを得ないだろう。
毎日のように騒動を巻き起こし、平凡な学園生活を掻き乱しているのが彼らなのだ。
その中に入ってしまえば、それは楽しく時間を過ごせるのだが、さすがに毎日毎日そのハイテンションについていくのは、常人には厳しい。
体育祭などのイベント時には重宝がられる彼らも、普段は冷めた目で見られることが多い。
もっとも、本人達はそんなことで怯むことなどないのだが。

「……アホくさ」
「おい、何だ、その呆れ顔は?」
「そのとおりだよ。呆れてんだ、心底」

祐一のため息に、北川が再び反応。
このままどこまでもヒートアップか? と思われたが、救いの手は思わぬところからやってきた。



「よーし、授業始めるぞー、ほら席につけよー」

ガラッと扉を開け、教師が入ってきて、授業の開始を告げる。
さすがに大人しく席に戻る北川を見て、祐一が安堵の息をつく。
その横顔には、紛れもなく疲れの色が滲み出ていた。










「さて、と……」

昼休み、それは、平穏と同時に、修羅場をも生み出し得る時間。
購買にて数少ない人気商品に全てをかけ、男達の熱き戦いが繰り広げられる横で、穏やかにお弁当を広げる生徒がいたりする。
祐一達のクラスでも、それは例外ではなく、授業終了と共に、素晴らしいスタートから、刹那の時間を争うデスレースが展開されていた。
だが、祐一は、そんな競争に加わろうとすることなく、ゆっくりと席を立つ。

「あれ? 祐一、お昼はどうするの?」

それを見て不思議に思った名雪が、首を傾げながら尋ねる。
彼女の今日のお昼は、母が持たせてくれたお弁当だった。
茜や詩子、留美や瑞佳といった寮の仲間達と共に、机を引っ付けて、食事に入ろうとしているところだ。

「ん、ちょっと用事があってな。飯は適当に食うよ」
「適当にって、学食?」
「まぁ、そんなとこだ……あれ? そういや香里は? 一緒に飯食うんじゃないのか?」

教室を見回しながら、誰にともなく尋ねる祐一。
多くの生徒がそこにはいたが、香里の姿は見当たらない。

「香里さんは、今日は闘技場に行っているはずです」

と、茜が食べる手を止めて、祐一に向き直りながら答える。

「闘技場に? 何でまた……」
「北川君から話は聞いてるよね。もうすぐ武闘会があるから、そのトレーニングだよ」
「にしても、飯ぐらい食ってから行ってもいいんじゃないのか?」
「少しでもトレーニングの時間に充てたいらしいわ。だから闘技場で食べるんだって」
「なるほど……」

祐一の質問に対する瑞佳と留美の返答で、祐一も納得の表情に変わった。
そこに、名雪が時計を指差しながら、祐一に声をかけてくる。

「祐一、用事があるんでしょ? 急いだ方がいいよ。学食のメニューがなくなっちゃうから」
「だな。じゃ、また後でな」
「うん。いってらっしゃい」

教室を出ようとする祐一に、名雪が笑顔で見送りの言葉をかける。
それを聞いた祐一は、背中越しに手を振って返しながら、教室を後にした。





「闘技場か、めんどくさいな。ま、好都合っちゃ好都合だけど」

教室を出た祐一は、その足でまっすぐ闘技場に向かう。
その足取りは軽やかなものだったが、眉根を寄せたその表情は、少し重い何かを漂わせていた。

「さて、ややこしいことにならなきゃいいんだが」

栞……先日、偶然出会った少女。
昨日の彼女との会話を思い出し、祐一はため息をつかずにいられなくなる。



『……私、何のために、生まれてきたんですか?』



重い、重い言葉だった。
もちろん、自身の生を否定するつもりなんてなかっただろう。
だが、それでも、問わずにはいられなかったに違いない。

“私は、お姉ちゃんの重荷になるために、足枷になるために、この世に生を受けたのですか?”

直接言っていなくても、暗にそう言っているように、祐一には聞こえた。
それが、彼の心に波紋を呼ぶ。

悲劇などという言葉は、今の彼女らの前には、陳腐にしか聞こえない。
そんなたった二文字の言葉で言い表せるものではないのだ。
こんなとき、人がいかに無力なのかを思い知らされる。
かける言葉など、ありはしない。

言葉は、時に何にも勝る力となる。
だが、同時に、何にも劣るものともなり得るのだ。

誰も、何もできない。
姉妹を襲う事態に気付く者があろうとも、何もできることはない。
慰め、励まし、同情……それしか、そんな程度のことしか、できない。
だが。



「……冗談じゃない」

そう、冗談ではない。
理由なき絶望など、見逃せようはずがない。

「何とか、できるはずだ」

目の前に闘技場が見えてきた。
祐一の表情も、その距離に呼応して、さらに険しさを増す。
そこに宿るのは、不退転の決意と、微かな、けれど確かな怒り。








「……へぇ」

思わず漏れた祐一の感嘆の声。
闘技場では、香里が目を見張る動きを見せていた。
荒々しく、だが華麗に。
矛盾する要素を、けれど確かに纏い、彼女は一心に剣を振るっている。

舞を踊るような、繊細で美麗な動き。
一方で、触れるもの全てを切り裂かんばかりの鋭敏な剣の軌跡。

「……なかなかやるもんだな」

驚いた表情の祐一。
動きは、あくまで型通りといった感じで、実戦ではどうなるかはわからないにしても、その動きは充分賞賛に値するものだった。
自分の力を完全に見極め、その上で、最も効率的な動きを実践している。

扱う剣も、かなりの業物のようだ。
刀身はやや細く、そして鋭く、斬ることを主流においたフォルム。
力に任せて相手を潰すのではなく、あくまで速さに主眼を置いていることがわかる。

しなやかに、軽やかに。
それはまさに剣舞であった。

少なくとも、学園の武闘会程度で遅れをとるようなレベルではない。

「……いける、かな」

そんな呟きは、ピンと張り詰めた闘技場の空気の中に散っていった。





その後、五分ほど続いた香里の剣舞が、ようやく終わりを告げた。
最後に一振り剣を振るってから、流れるような動作でそれを鞘に収める。

「大したもんだな、香里」

そこで、小さく拍手をしながら、祐一が香里に歩み寄る。
一人きりの拍手ではあったが、それは広い闘技場に響き渡った。
そこで、やっと祐一の方へ顔を向ける香里。

「……あら、覗き見? 趣味が悪いわよ?」

汗をぬぐいながら、皮肉を言う香里。
けれど、小さく笑っていることから、それが本心ではないことがわかる。
祐一もまた、苦笑いしながらそれに答えた。

「まぁそう言うなって。結構かっこ良かったぜ、楽しませてもらったよ」
「あら、じゃあ見物料でも取ろうかしら」
「……勘弁してくれ」
「ふふっ、冗談よ」

祐一が大仰に肩をすくめてみせたのを見て、香里がおかしそうに笑った。
つられて笑う祐一。
と、そこで香里が再び口を開く。

「大体、あなたからお金を取ろうなんて考えないわよ」
「そりゃまたなんで? あぁ、想像はつくな……」
「多分、想像通りよ」
「やっぱり、か……」
「えぇ」

祐一の苦笑に合わせるかのように、香里も苦笑を漏らす。
だが、次の瞬間、香里は表情を真剣なものに変え、祐一に真正面から向き直る。

「……ありがとう、相沢君。栞を、助けてくれて……」

そう言ってから、優しげに微笑む香里。
そこにあったのは、深い感謝。

「……栞に言ったんだけどな、礼なんていらないって」

それを確認すると、祐一は、わずかに視線を逸らす。
そんな仕草を見て、香里は小さく笑みを零した。

「栞に聞いた通りね」
「……何て聞いたんだ?」
「秘密」
「気になるぞ」
「まぁまぁ。でも、凄かったわよ、あなたの英雄活劇」

と、そこで、少し含みを持たせた笑みに変わる香里。
そこから、祐一も全てを察した。

「ぐわっ……やっぱりか」

祐一の脳裏に、どんなことが起こったのかが思い浮かんでくる。
おそらく、妄想全開で語りに語ったのだろう。
どんなことを話したのか、容易に想像できてしまう。
いや、あるいは、その想像のさらに斜め上をいっているかもしれない。

「運命の出会いですぅ、とかはしゃいじゃって……大人しくなるまで、ずいぶん時間がかかったわ」
「……なんつーか、全く想像に違わないこと喋ってたんだな」

祐一の肩が、少し下がり気味に見えるのは気のせいなのか。
とはいえ、香里はにべもない。

「あら、言っとくけど、まだまだそんなものじゃなかったわよ」

楽しそうに話す香里。
まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のようにも見える。
だとしたら、ずいぶん意地の悪い子供だが。

「いや、もう言わなくていい。聞くとますます頭が痛くなりそうだ」
「あら、あの子の気持ちを踏みにじるつもり?」

そんな言葉を発したにしては、彼女の笑顔の質は変わっていない。
つまりは、冗談なのだろう。

「程度問題だ。あそこまでくると、いくらなんでも引く」

それがわかっているのだろう。
祐一の言葉も、軽いものだった。





「でも、本当に感謝してるのよ、あなたには」

香里が、再び感謝の言葉を口にする。
さんざんからかった後のセリフではあるが、言葉に含まれる調子は、それまでの軽いものではなかった。
だから、祐一も口を挟まない。

「もちろん、あの子の命を救ってくれたこともだけど、でも、それ以上に、あの子の心を救ってくれたことが、嬉しかった」

祐一は何も言わない。

「あの子の、あんなにはしゃいだ姿、久しぶりだったわ。あんなに明るい笑顔も、本当に、久しぶりに……」

何も、答えない。

「いつもは、もうちょっと違ってたの。笑顔なんだけど、でも、どこか無理してるの。笑顔のための笑顔……そんな感じかしら」

答えない……いや。

「わかってるの……あの子が、あたしに気を使ってるのが。あたしの重荷になってる、とか考えてるんでしょうね」

答えられない。

「そんなこと、考える必要なんてないのに……考えてほしくなんてないのに……ううん、多分、そのことも悟ってるかな、あの子は」

口を挟むことは、許されない。

「わかってるけど、ううん、わかってるから、余計に辛くなって……だから、あんなに辛そうに笑って……」

大切なことだから。

「そんな笑顔を見せてることに気付いて、また、それで辛くなって……それでも、笑って……」

誰よりも姉を愛する妹と。

「笑って、笑って……でも、きっと、ずっと泣いていて……涙を見せずに、泣いて……」

誰よりも妹を想う姉の。

「……あの子は、栞は、本当にいい子なの。優しくて……誰よりも、優しくて」

そんな二人の心を……

「幸せになっていいはず、なのに……幸せになれなくちゃ、おかしいのに……」

想いを……

「何で、こんなことになってるの? 何で、あの子が、こんなに苦しまなきゃならないの?」

しっかりと、受け止めることは。

「あの子が、何かしたっていうの? ううん、あの子は、何も悪くなんてない、絶対に。なのに……それなのに……」

受け止め、理解することは。

「……ねぇ。あの子、何のために生まれてきたって言うの?」

だって、助けたいから……救いの手を、差し伸べたいから。

「苦しむため? 不幸になるため? そんなの、誰が望むって言うの?」

だから、知らなければならない、全てを。

「そんなの、認めない。絶対に、認められないわ」

想いも、辛さも、全て。

「だから、あたしは栞を助けるの。栞は、助からなきゃいけないから。それ以外は、認められないから」








「……当ては、あるのか?」

長い沈黙の後、祐一がゆっくりと口を開く。
無表情に、淡々と。

「……いいえ」

悲痛な声、悲痛な表情。
紡がれたのは、否定の言葉。
彼女は、泣いている……そんな風に、祐一は感じた。
やはり姉妹なのだろう、そんなところまでよく似ている。
頑固で、我慢強くて……見ている方が辛くなるくらい、我慢強くて。

「だから、武闘会なんて出るんだな。名前を売るために……」
「えぇ」

ハンターとしての登竜門……それは、何かの武闘会などで勝利すること。
そうすれば、広く自分の実力をアピールできるからだ。
そういう意味では、今回のイベントは、正にうってつけである。
けれど。

「間に合うのか?」

辛い、そして厳しい質問。
遠慮も配慮もない、不躾な質問。
だが、これは聞かなくてはならないことだった。

「間に合わせるわ」

しかし、香里は、それに怒るでもなく、静かに宣言した。
絶対の決意と、不変の意志でもって。

「栞は、あたしが助けるの」





それを聞けば、祐一には充分だった。
だから、彼は迷うことなく言う。

「なぁ、香里」
「何かしら?」
「どんなケガでも病気でも治せる能力者がいるって話を、聞いたことがあるか?」
「……噂は、聞いてるわ。というより……」
「そいつを、捜してんだな」
「えぇ」



数年前から噂に上っている話。
たとえ致命傷であろうと、死病であろうと、その者が生きている限り、どんな状態からでも完治させることができる、そんな能力者が存在するということ。
実しやかに、様々な場で語られている話だ。
もちろん、それがデマだという説の方が一般的だったが、状況はそれを覆す方向に動いた。
死を宣告された財界の著名人が、何事もなかったかのように会合に顔を出したり。
国会中に倒れ、血を吐いた議員が、数日後にテレビで持論を熱い口調で語っていたり。
そんなことが相次ぎ、それについて事情を聞いても、その人達は何も語らなかったので、逆にその能力者の存在は、信憑性を増した。



「今のあたしじゃ、誰も情報なんてくれない。でも、ハンターとしての信用を勝ち取れれば、話は変わってくるわ」
「……確かにな」

この世界において、名のあるハンターの言葉は、権力者の言葉よりも強い。
故に、ハンターとして名前が売れれば、それまで非協力的だった人間でも、掌を返すかのように友好的になったりする。

「だから……」
「香里。もし、俺がそいつを知ってるって言ったらどうする……?」
「!」

話を遮るかのように祐一が口にした言葉が、香里を一瞬硬直させる。
驚きの表情のまま、香里の目が祐一の方を向く……真っ直ぐに香里を見るその眼差しに、冗談やからかいの色はない。

「本当に……知ってるの……?」

震える声、震える言葉。
元より、栞を助けてくれた人間の言を疑うことなど、香里にできようはずがない。
だが、事が事だ。
確認の言葉を口にするのも当然だろう。

「あぁ。連絡をとる事だって、できる」

そして、祐一は口にする……希望を生み出す、そんなフレーズを。
何よりも……香里が、栞が、望んだフレーズを。



「じゃあ……!」

香里が祐一に詰め寄る。
そこに、普段の彼女の調子は見られない。
溺れかけた者が浮き輪にしがみつく時のような、切羽詰った表情で。
失いかけた光を、再び見出したような、希望の色を、微かに、だが確かに滲ませて。
だが。



「香里……事はそんなに簡単じゃないんだよ」
「どういうこと? 何が言いたいの? ねぇ!」

ゆっくりと首を横に振る祐一。
香里は、僅かに顔を歪ませて、さらに祐一に詰め寄る。
そこで祐一が、無表情のまま香里に告げる。

「誰でも、その恩恵が得られるわけじゃないんだ」
「!」



祐一の言葉に、目を見開く香里。
そう……そんなことになれば、その能力者は全国の病に苦しむ者全てを救って回らなければならないことになる。
現実問題として、そんなことは不可能なのだ。
ある人は助けて、ある人は助けない……悲しいことだが、それは現実。
誰彼問わず助けることなどできない……また、するわけにはいかないのだ。
栞は、死病に苦しんでいる。
だが、苦しんでいるのは、彼女だけではない。
そして毎年、いや毎日、どこかで、誰かが、苦しみながら、その生を手放している……望まざる形で。



「……どうしたらいいの? どうすれば、栞は助けてもらえるの?」

自分に何を求めているのか。
何と引き換えならば栞が救えるのか。
どうすれば、栞を救うことができるのか。

「どんなことでもするわ。栞が助かるのなら、あたしはどんなことでも……」
「落ち着け、香里」

興奮気味にまくし立てる香里に、けれど祐一は静かに言う。
その祐一の冷静さに、香里も若干落ち着きを取り戻したのか、一呼吸後に、改めて口を開く。

「あたしは、何をすればいいの? どうしたら、栞を助けてくれるの?」

その目に宿るは決意。
栞を絶対に救ってみせるという、決意。

「……覚悟だ」
「覚、悟……?」

祐一が口にした言葉に、香里が疑問の表情を見せる。
覚悟……何の覚悟なのか? どんな覚悟なのか?
だが、香里は、既に覚悟は決めているのだ……栞のためなら、どんな艱難辛苦でも超えてみせるという覚悟を。
どんな無理難題でも、突破してみせるという覚悟を。

「そう。お前の覚悟を見せてくれ」
「どうやって? どんなことでもするって言ったでしょ? 教えて」

そう言う香里の目には、既に理性の光が戻っている。
そのことに安堵し、祐一は次の言葉を紡ぐ。

「もうすぐ行われる武闘会……そこで、優勝すること。これが条件だ」
「……それで、いいのね」

どんな難題が出てくるのか、と思えば、意外に身近なものだったことに、少し拍子抜けといった表情を見せる香里。
だが、それもすぐに表から消える。
身近であろうと、それが困難であることに違いはないのだ。
学内には、強敵がたくさんいるのだから、そこでトップをとるということが、容易い道であろうはずがない。
特に今回は粒ぞろいのメンバーである、と内外に情報が流れている。
だが、それでも。

「あぁ、あと、言わなくてもわかってるだろうけど、他言無用だ」
「まぁ、それは当然でしょうね。わかったわ」
「……言っとくが、簡単じゃないぞ」
「もちろんわかってるわ。でも、元から優勝するつもりだったところに、新しい目標がついてくれただけ。むしろ張り合いが出るわ」



そう、絶対に負けられない。
栞を救うことと優勝が、同義になってしまったのだから。
優勝すれば、栞を救うことができるのだから。



「誰が相手でも、負けはしないわ。見ていなさい、相沢君、あたしの覚悟を」

不敵に笑い、香里が宣言する。

「……あぁ、もちろんだ。お前なら優勝できるだろうからな」

祐一もそう言って、同じく不敵に笑う。

「じゃ、早速、連絡とっといてよね、優勝したらすぐに治してもらうから」
「心配いらん、すでに連絡済みだ。抜かりはない」
「あら、用意周到ね」
「まぁ、な……」
「言っとくけど……」

そこで、香里は、少し意地悪い笑みを浮かべる。

「どんな結果に終わっても、あなたに対する感謝の念は揺らがないから。安心してよね」
「お見通しか?」
「もちろんよ。大体、あたしは負けないんだから。杞憂よ、そんなの」
「……だな」

そこで、祐一も表情を崩す。

「頼むぜ、香里」
「えぇ、言われるまでもないわ」

小さく笑いあう祐一と香里。
そして最後に、固く握手をする。

栞を救う糸を、香里は確かに見つけた気がした。
武闘会で優勝……確かに生半可なことではない。
強敵がいる。
ましてや、自分には負けられないというプレッシャーがある。
けれど、勝算はないわけじゃないのだ。
武闘会まで、あと三週間と少し。
その間に、どれだけ自分が成長できるか……これが、栞の生死をわけるかもしれないのだ。
トレーニングメニューを、よく考えなければ、とそんなことを、香里は思った。









 続く












後書き



節目の話ですね、10話。

しかしこの頃は地の文が荒かったんだなぁ、と痛感。

そしてまた、手を加えようにも、どこに加えていいやら、といった状態。

改訂作業というのは、なかなかに痛みを伴うものですね。

まだまだ先は長い……とはいえ、多分第一章以降は、それほど手を加えないで済むと思いますし、それまでの辛抱ですか。

頑張ります。