「そういやさ、栞って、病院に通ったりとかしてないんだろ?」
「えぇ、そうだけど……よく知ってるわね。栞に聞いたの?」
「あぁ」

昼休みももう終わりに近い。
そろそろ教室に戻らなければならないだろう。
だが、祐一も香里も、まだその場を動く気配も見せない。

「病院にいても、何もできることがないから……って。どうせ気休めの治療しかできないのなら、家にいた方がいいだろうっていう判断よ」
「賢明だな。医者に任せたって、却って寿命が縮まりかねない」

医学では対処できない病であるなら、病院にいる必然性はない。
半ば諦めの境地とも言えるが、希望が見出せないのなら、患者の好きにさせてやるというのも、医者の判断として間違ってはいない。
治る可能性が充分あるのに病院を抜け出す患者なら、それこそベッドに縛り付けてでも、ということがあるかもしれないが。

「えぇ。栞は、家族と一緒にいたいんですってお医者様に言ってたから……」
「まぁ、その方が好都合だしな」
「? あ、なるほど。病院に行ったりしたら、ややこしいことになるかもしれないわね、確かに」

医者の存在意義を根底から揺るがしかねない能力者が、病院にのこのこ顔を出せばどうなるか……
普通に考えれば、簡単にわかることね……と、香里は思った。

「……」

そんな香里の言葉に、祐一は何も言わなかった。



「とにかく、栞にも具体的なことは話してないんだ。だから、武闘会が終わるまでは話さないでくれよ」
「えぇ、わかってるわ、何度も言わなくても。心配性ね」

そこで、ようやく香里が動き始める。
闘技場の端に置かれていた荷物のところまで歩み寄り、拾い上げ、肩に掛ける。

「まぁ、念のためだ」

それを見て、祐一も扉に向かう。

「大丈夫よ、そんなに念を押さなくても。栞を助けるためだもの。約束を破ったりはしないわ」

そして、二人並んで闘技場を出て、教室に向かう。
さすがに時間が時間なので、近くに生徒の姿はない。

「じゃ、急ぎましょ。って言っても、次は石橋先生の授業だから、あんまり焦らなくてもいいけど」
「ん? どういうことだ?」
「来るのが遅いの、いつも」
「なるほど」

そういえば、HRにも遅れてたな……などと考える祐一。
香里の言葉は、これまでの経験によるものなのだから、十分信じるに足るものだ。

「でもまぁ、急いだ方がいいのは間違いないだけど」
「確かに、それが遅刻していい理由にはならないな」

教師が遅刻していい訳ではないが、教師が遅刻するから生徒も遅刻する、ということが正しいわけはない。
苦笑しながら、祐一が香里の言葉に相槌を打つ。

「走った方がいいか?」
「大丈夫よ。歩いても一分くらいの余裕はあるわ」

一分を余裕と見るか否か……微妙なところっではある。
祐一は一瞬考える仕草を見せたが。

「……経験者の言に従うことにしよう」
「賢明な判断ね」

結局、香里の言葉に従うことにしたようだ。
それを聞いて、微かに笑みを見せる香里。

「? 何だ?」
「何でもないわよ」
「……まぁ、いいけど」

その後は、文字通り世間話に終始し、すぐに教室に到着する。
教室の扉を開けたとき、祐一がふと気付いた。

“あ、そういや飯食うの忘れてたな……”

腹の音が鳴るのと、席に着くのと、チャイムが鳴るのと。
無常にも、それらはほとんど同時であった。












神へと至る道



第11話  それぞれの思惑












「祐一っ、放課後だよ」

放課後になるや否や、名雪が祐一に元気よく声をかける。
この世に不幸などない、と言わんばかりの明るい笑顔を見て、祐一も少し気分が明るくなるのを感じる。

「うむ、報告ご苦労」
「どういたしまして、だよ」
「どういう会話よ」

二人の会話についていけない香里が、呆れたように言う。
いや、実際呆れているのかもしれないが。

「香里、挨拶は大事なんだよ?」

けれど、そんな香里の様子を見ても、名雪の調子は変わらない。
めっ、と言わんばかりに指を突き出し、まるで香里をたしなめるかのように言う。

「……はぁ。ま、名雪らしいといえば名雪らしいけど」
「ちょっと違うような気がするね」

ため息混じりの香里の言葉に続いて、瑞佳も苦笑しながらそれに同意した。
少しズレているところのある名雪の言動には、時々驚かされることがある。
けれど、そんなところがマイナスにならないのは、偏に彼女の人柄によるものだ。
いつも穏やかな笑顔を浮かべ、幸せそうに振舞う彼女は、ある意味クラスのマスコット的存在である。
それ故に、人気も高いのだ……男女問わず。



「うーん、何かごまかされたような気がするけど……」
「そんなことないわよ」
「そう?」
「そうよ」

未だに首を捻っている名雪にそう言うと、香里は鞄を手に立ち上がる。

「じゃ、あたしは帰るわね」
「あ、うん、バイバイ、香里」

名雪の言葉を聞きながら、香里は、祐一をちらりと横目で窺う。
当の祐一は、意味ありげな笑みを見せながら、手を振っていた。
それを見て、香里は少し苦笑しながら、じゃあね、と言い、教室を出ていった。








「祐一は、今日どうするの?」

名雪は、香里を見送ると、くるりと祐一の方に顔を向ける。
それを聞いて、祐一も名雪の方に向き直る。

「ん? まだ決めてないけど……腹減ってるから、どっかよって何か食って帰ろっかなって思ってる」
「あ、じゃあ、わたしも一緒に行っていいかな?」

祐一の言葉を聞いて、名雪が嬉しそうに顔を綻ばせる。

「そりゃ、別にいいけど……部活じゃなかったのか?」

今日は特に何もないので、名雪と一緒に帰ることに問題はない。
しかし、確か名雪は陸上部だったはず……名雪に限ってサボるようなことはないだろうが、念のために祐一がそれを確認する。

「今日はお休みなんだよ」

その祐一の言葉に対し、何がそんなに嬉しいのか、と聞きたくなるくらいの笑顔で、名雪が答えた。
それを確認すると、祐一も一つ頷いて、鞄を手にする。

「そっか。じゃ、行くぞ」
「うん!」

名雪も祐一と同時に立ち上がり、連れ立って教室の扉に向かう。
と。



「そういや、折原達はどうするんだ?」

教室のドアの辺りまで来た時に、祐一が振り返り、そう尋ねた。

「ん? あぁ、今日は一応部活だが」

北川と喋っていた浩平が、祐一の方を向き、そう答える。

「お前部活やってたのか?」
「やってないぞ」

しれっと言う浩平。

「……じゃあ、どこに何しに行くんだ?」

だが、祐一はへこたれなかった。

「いや、もうすぐ武闘会だしよ。北川と住井と一緒に特訓でもしようかと思ってな」
「なるほど。んじゃ、闘技場か?」
「本音を言えば、山篭りくらいはしたいんだがな」
「行ってこい。心行くまで」

そうすれば、少なくともしばらくは寮も学校も平和になる。
いや、むしろ野性に目覚めて、帰ってこなければベストだ。
心の中で、そっとそんなことを呟く祐一。
祐一も、割と酷いことを考えるものである。
まぁ、どこまで本気かはわからないけれど。

「いくらオレでも、学校の最中にキャンプに出かけるほどバカじゃない」
「……ある意味そんな領域を超越してるだろ? お前は」
「失礼なヤツだな。オレは常に最大限の努力で、考えられる限り最も衝撃度が高く、最も笑いをとれるネタを作り出しているんだぞ? そこらのアホどもと一緒にしないでもらおう」

浩平がそう言って胸を張る。
誇らしげに言うその姿は、どこか凛々しくさえあった。
自分に間違いはない……そう信じきっていることがわかる。



「……祐一、浩平の相手をしていたら日が暮れますよ」
「そうそう。適当に聞いて、適当に受け流しといた方がいいよ。面白そうな時だけ耳傾けるようにしなきゃ、体がもたないから」

と、いつの間にか傍まで来ていた茜と詩子が、割と容赦のないことを口にする。

「茜も詩子も、そりゃあんまりじゃないか?」

さすがに、サラウンドでこられて、浩平もダメージを隠しきれないようだ。
そんな浩平に対して。

「…………………………冗談です」
「なら何で目を逸らす? さらにその間は何だ?」

茜は長い沈黙の後、静かに答える。
当然、浩平も即座に反応する。

「……気にしないでください」
「気になる」

食い下がる浩平。
そこで、茜がハンカチを取り出し、目元に当てた。
そしてどこか芝居がかった様子で。

「浩平……強く生きてくださいね……」
「何で慰めモードに入ってるんだ?!」

茜の言葉に、浩平が大声で反応する。
どうやら、浩平が勝てないのは香里だけではないらしい。
慌てているためか、茜の口元に微かに浮かんでいる笑みに気付いていない。
おたおたと戸惑っている浩平を見るのは、祐一には何だか新鮮な気分だった。
また、からかわれているけれど、浩平も、それを楽しんでいる節がある。
とりあえず、平和な光景だった。





「まぁ、それはともかく、折原はトレーニングなんだろ? なら早く行った方がいいんじゃないか?」

武闘会が近いのだから、放課後ともなれば、闘技場でトレーニングを行おうとする者は少なくないだろう。
となると、急いで行かなければ、肝心の闘技場が使えない事態ということも起こり得るはず。

「ふっ、心配は無用だ。その辺りに抜かりはない」

だが、浩平は不敵に笑いながら、そんな祐一の言葉に答えを返す。
そこには確かな自信が窺えた。
当然、祐一は首を傾げる。

「? 何かやるつもりなのか?」
「違う。オレ達には最終兵器があるからな」
「最終兵器?」

ずいぶん物騒な言葉が出てきた。
この三人のことだから、文字通りの兵器というわけではないだろうが、いずれにせよ、穏やかならざるものの可能性は高い。
若干不安そうな祐一の表情にも、浩平の勢いは止まらない。

「うむ。極秘に入手した、それはもう極秘中の極秘と言うべき情報だ」

自慢げに言う浩平。
やはり、相当に性質の悪いものだったらしい。

「何だよ? 極秘情報って……」
「言えるわけがないだろう? まぁ、公にすると困る人がいたりするような代物もある、とだけ言っておこう」

自信満々といった表情の浩平。
その言葉に、祐一の不安はピークに達する。

「折原……お前、まさか……?」
「念のために言っとくが、オレ達はバカはやっても、犯罪はやらんぞ」
「そうだな、確かに。じゃあ、どうやって情報を?」
「豊富な人脈はすばらしいものだぞ、色々な意味で」

笑顔で言う浩平を見て、祐一が再びため息。
悪事とまではいかなくても、悪戯はするわけだ。

「まぁ、ほどほどにな」

どこかおざなりに祐一が口にする。
人が本当に嫌がる行為は絶対にしないだろうから、放っておいても無害だろう……祐一はそう判断したらしい。



「ま、お前は参加しないんだからな。観客として楽しめるようにはしてやるよ」

ニッと笑みを浮かべながら、浩平がそんなことを言う。
その笑顔は、まるで子供のように純粋なものに見えた。
だからか、祐一も軽く笑みを浮かべる。

「そうか。まぁ期待しておくよ」
「うむ。オレの華麗な闘いぶりに酔いしれさせてやろう」
「それは遠慮しとく」
「やれやれ、残念だ……ま、それじゃあな」

浩平が、笑顔で祐一に別れの挨拶をする。
その笑顔を見て、祐一も苦笑を漏らし、頑張れよ、と声をかけた。





「じゃ、帰ろう」

浩平の姿が消えると、それを待っていたかのように、詩子が祐一に声をかけてきた。

「ん? 何だ? 二人も一緒に帰るのか?」
「悪いの?」
「いや、別に悪くはないけどな」
「ならいいじゃない」
「……ま、いいか」
「どっか寄って帰るんでしょ? せっかくだし、いいところに案内してあげようってわけよ」

詩子が満面の笑みを浮かべて、そんなことを言う。

「いいところ?」
「……とってもおいしい喫茶店があるんです」

首を傾げる祐一。
と、そこで茜が横から説明を加える。

「あ、百花屋のこと?」

名雪が、はっと気付いたらしく、店の名前を口にする。
それに対して、詩子も茜も頷いてみせる。

「そうそう」
「喫茶店か……ま、軽食をとるには最適だな。じゃ、案内してくれよ」
「おっけー。じゃ、行こう」
「うん、行こう行こう。うー、イチゴサンデー楽しみだよ」
「もうメニュー決めてんのか? 気の早いヤツだな……」
「名雪は、いつもイチゴサンデーしか頼みませんから」
「だって、イチゴなんだよー」

名雪がイチゴの素晴らしさをとうとうと語るのを何とか黙らせ、四人揃って教室を出る。
というより、祐一にしてみれば、そろそろ空腹も限界に近いのだ。
成長期の人間が昼食を抜けばどんな事態に陥るのかを、今、祐一は身をもって思い知らされていた。










所変わって商店街。
その中心部付近にある喫茶店の前までたどり着くと、名雪が満面の笑顔で祐一に話しかける。

「はい、祐一。ここが百花屋だよ」
「へぇ……結構いい店だな」
「ね、言った通りでしょ」

詩子の言葉に頷いてみせると、祐一が先頭に立ってドアを開く。
涼やかな鈴の音を聞きながら店内に入ると、そこは制服姿の男女で賑わっていた。
かなり人気があることが、そこからも窺うことができる。
店内も、観葉植物が、邪魔にならない程度にあちらこちらで飾られており、落ち着いた雰囲気を作り出す一助となっている。
また、壁やテーブルや椅子にも、趣向が凝らされており、見ていて飽きない。
そして何より、全面ガラス張りであるため、自然の明るさが、心も明るくしてくれる。

店内で甘いデザートに舌鼓を打っている者も、友達と会話に興じている者も、皆笑顔だった。
その雰囲気を作り出しているものの一因として、この店の雰囲気が果たす役割は、小さなものではないだろう。
祐一自身も、こうした雰囲気は好きだった。



「いらっしゃいませ」

祐一が店の雰囲気を味わっていると、笑顔のウェイトレスに声をかけられた。
気付いた祐一達が振り返るのを待ってから、彼女は一礼してから口を開く。

「四名様ですね」
「はい、そうです」
「では、こちらにどうぞ」

ウェイトレスも、この店を気に入ってるのだろう。
案内する声も明るく、聞いているだけで、どこか楽しくなってくる。

「それでは、ご注文がお決まりになりましたらお知らせください」

そう言うと、もう一度にっこりと微笑んで、ウェイトレスがテーブルを離れる。
それを見送ってから、祐一はメニューを開いた。

「いっちご♪ いっちご♪」
「わかったわかった……イチゴサンデーなんだろ?」
「私、シフォンケーキとアップルティーにしよーっと」
「私は、ワッフルとミルクティーで」

女性陣は簡単に注文が決まったらしい。
と言うよりも、おそらく悩むことなどないのだろう。
どれも美味しい、と来るまでの間にも、祐一は何度も聞かされたのだから。
名雪に至っては、メニューを開くことさえなかった。

「んー……じゃ、俺はサンドイッチとコーヒーでいいや」

祐一も、あっさりとメニューから眼を離した。
そして、ウェイトレスを呼んで、注文を告げる。



「祐一は、イチゴサンデー食べないの?」
「俺は甘いものが苦手だって知ってるだろ?」
「あ、そうだったね……」
「何だ? その、かわいそうって言わんばかりの眼は」

少し沈んだ名雪の声に対して、祐一が微かに声を尖らせる。
名雪から同情の視線を送られることなど考えてもいなかった祐一としては、文句を言わずにはいられないらしい。

「だって、あんなに美味しいのに、その美味しさがわからないんでしょ? もったいないよ」
「俺は別にそうは思わないけどな」
「いいえ、甘いものを味わえないなど、これを不幸と言わずして何というのですか?」

しれっとした祐一の言葉。
だが、そこで茜が名雪の援護に回る。
彼女にとっても、甘いものは絶対のものであり、譲れぬものなのだろう。
祐一を見る茜の目には、同情の色がありありと浮かんでいた。

「……茜の場合は、ちょーっと違うと思うんだけどなー」
「? 何ですか? 詩子」

微かに呟く詩子。
だが、ぼそっと喋ったため茜にははっきりと聞こえなかったのか、彼女は小首を傾げている。
それを見て、詩子が再び口を開く。

「だから、茜の甘いもの好きは度を越してるって話」
「そんなことはありません」

迷いなく断言する茜。
だが、いかにそう主張しようとも、寮の食事風景を見る限り、彼女の嗜好が極端なものであることは、誰の目にも明らかである。





「それでは、ごゆっくりどうぞ」

それほど待たされずに、各々が注文の品を口にすることができた。

「美味しいよー」

まさしくとろけるような笑顔で、イチゴサンデーを味わう名雪。
その表情は、猫を見つけた時のそれとよく似ている。
あまりにもわかりやすい幸せの表情。
彼女は、感情が表に出やすいのだ。
まぁ、喜怒哀楽のうち、怒の感情が表に出ることはほとんどないのだが。

「うーん、やっぱり百花屋はいいね」
「そうですね、美味しいです」

茜も詩子も、目の前の品に心を奪われている。
名雪ほどではないにしても、その表情は幸せそうなものに見える。
特に茜は、元々感情の起伏が名雪と対照的であるため、その表情が新鮮に映る。

「……へぇ、本当に美味いな」

そして、祐一もその味わいに舌を巻いた。
たかがサンドイッチ、されどサンドイッチ。
簡単なメニューではあるが、そこには一切の妥協もなかった。
食材に気を使うのは当たり前。
その上で、調理法にも様々な工夫がこらされている。
空腹であることも加わり、祐一の食事の手は、止まることはなかった。





「ねぇ、祐一、もう一杯食べたいんだけど……」

しばらくして、祐一達のテーブルの上に食器だけが残された状態になった頃。
名雪が、少し窺うような目で祐一を見ながら、そんなことを言った。
彼女にとって、それがいかに至高の品であるかを示す言動ではある。

「またか? もう二杯も食っただろ?」

だが祐一は、そんな従兄妹の執念にも似た食欲に対して、呆れの色を隠せない。
そう、すでにおかわりと宣告し、二杯目を平らげていたのだ。
にも関わらず、さらにもう一杯と言われては、さすがに呆れてしまうのも仕方がないだろう。

「だってイチゴなんだよ?」

けれど名雪は、そんな理由にならない理由で、不満を表す。
もっとも、名雪の中では、それは絶対の真理なのだろう。
名雪に言わせれば、イチゴの魅力がわからない祐一の方がおかしく見えるのかもしれない。

「だめだ。秋子さんの用意してくれるご飯が食べられなくなるだろ?」

しかし、無常にも、祐一から許可を引き出すことはできなかった。
実際、時は既に夕刻で、日が暮れるのもそう遠くない時間帯。
これ以上食べれば、まず間違いなく夕食に差し支えると判断したわけだ。

「うー……」

そんな祐一の判断にも、不満げに唸り声を上げる名雪。
祐一の言っていることはわかっても、やはり大好物だけに中々踏ん切りがつかないということか。
と、そこで、茜と詩子が、苦笑しながら説得に入る。

「名雪、さすがにこれ以上は止めておきましょう」
「そうだよ。また今度でいいじゃない」
「……わかったよ」

二人の言葉を聞いて、少し考える仕草を見せた名雪だったが、やがてゆっくりと首を縦に振る。
さすがに諦めざるを得ないと思ったのだろう。



「それじゃ、帰るか」

祐一がそう言い、テーブルの上の伝票を手に立ち上がる。
それを見て、名雪が慌てて声をかける。

「あ、祐一、お代は……」
「あぁ、別にいいって。今日は俺が出しといてやるよ」
「え? いいの?」
「おう、いいぞ。いい店を教えてもらったことだしな。今日は特別だ」

いつもは奢らないぞ、と念を押すように言う祐一。

「ありがとう、祐一」

名雪は、まるで目の前にイチゴサンデーが現れたかのような笑顔で答えた。
つまりは、それくらい嬉しかったのだろう。
祐一が、奢る、と言ってくれたことが。
もちろん金銭的な理由は皆無ではないが、その要素は、彼女にとってそれほど重要ではなかった。

「祐一、ありがとうございます」
「ありがと、祐一」

茜も詩子も、嬉しそうに感謝の言葉を紡ぐ。

「ん。じゃ、行くか」
「うん」

揃って立ち上がると、レジへと歩き出した。








「ありがとうございましたー」

カランカランという、入った時と同じ音に見送られ、祐一達が外に出る。
日は大分傾き始めており、しばらくすれば、景色を真っ赤に染めることだろう。

「祐一、また来ようね」

と、名雪が祐一の前に回りこんで、その顔を覗き込んだ。
その顔は、やはり満面の笑顔。
言われた祐一もまた、笑顔で口を開く。

「言っとくが、次は奢らないぞ?」
「もう……わかってるよ。また一緒に来たいだけだよ」

名雪がクスクスと笑う。
言った祐一の方も、声に出して笑っていた。

「じゃ、また今度な」
「うん」
「その時は、ぜひワッフルをどうぞ」
「遠慮しとく」
「……残念です」

茜の誘いに、祐一は即答。
けれど彼女は、微かに笑みを浮かべていた。





「あ、ねぇねぇ、ちょっと寄りたい店があるんだけど」

歩き始めようとしたところで、詩子が思い出したかのように口を開く。
全員の視線が、詩子に集中する。

「あぁ、別にいいけど」

とりあえず、祐一が代表するかのように答えた。
名雪も、表情から察するに、反対の意思はないらしい。
それじゃ決まりー、と元気よく詩子が宣言し、百花屋を出たその足で、商店街を歩き始めた。





「じゃ、ちょっと待っててねー」
「すぐに戻ってきますので」

茜と詩子が、商店街にある広場に着くや否や、名雪と祐一をおいて、奥の方へと向かっていった。
口を挟む暇もなく、取り残された形になる祐一と名雪。
思わず苦笑する二人。

「やれやれ……」
「すぐ帰ってくるって言ってたから、そんなため息つくほどのことじゃないと思うんだけど……」
「まぁな」

祐一が辺りを見回す。
時間が遅いためか、周囲の人達は、どこか急ぎ足だ。
雪が融けることなく道の端に積み上げられているのを見ると、ここが雪国なんだな、と改めて思い知らされる。
ぼんやりと、祐一はそんな雪に目をやっていた。










「すみません……」

と、突然、後ろから知らない声がかけられた。
祐一が振り返ると、二十代後半くらいの女性が、少し控えめの笑顔で祐一と名雪を見ていた。

「……何ですか?」

祐一が、少し面倒臭そうに答える。
それを見て、名雪が少し諌めるような視線を祐一に送っていたが、祐一は当然のごとく、それをスルーした。

「はい、実はですね、少しお話したいことがありまして」

しかし、その女性は特に気を悪くした様子もなく、話を始める。

「はぁ」

祐一は、相変わらずそっけない。

「あなたたちは、現在の生活に不満はありませんか? 何か悩みはありませんか?」
「いや、別に……」

祐一が、あからさまに嫌そうな表情に変わる。
それを見て、名雪が慌ててフォローに入った。

「あ、あの……えっと、その、どちら様なんでしょう?」

そう言いながら祐一の前に立ち、彼の表情が女性に見えないようにする。
当の女性は、祐一の表情の変化に気付かなかったのか、それとも気にしていないのか、あくまでも笑顔を崩さない。

「あ、申し遅れましたね。私たちは教団の人間です。いわゆる布教活動ですね」

今度は、名雪が話の相手と判断したのだろう。
女性が笑顔を強める。

「実は私、今日が始めてなんですよ、こんな風に活動するのは。だからちょっと緊張してるんですよね。すみません」
「え、あ、いえ、そんな謝らなくても……」


名雪は、女性の言葉に動揺してしまう。
そのため、祐一の表情を見ることはなかった。
祐一の表情に走ったものを、知ることはなかった。
元より、彼は名雪の後ろにいたのだから、見たくても見ようがなかったわけだが。


「あ、はい。えっと、それで、私達と一緒に教祖様のお話を聞いてみるつもりはありませんか? 教祖様は素晴らしい方なんですよ。優しくて、暖かくて、きれいで……本当に素敵な方なんです」

女性は、まだどこかぎこちない様子で、けれど真剣に名雪に対して話しかけてくる。
その名雪はというと、眉根を寄せて困惑した様子を見せている。

「え、えっと……わたし達、友達を待ってますので」
「あ、そうですか……残念ですけど、仕方がないですね」

名雪の言葉に、女性が少し落胆した様子を見せる。
その様子に、表情を曇らせたのは名雪だ。

「ごめんなさい……」

申し訳なさそうに謝る名雪。
それを見て、今度は女性の方が慌てた様子で口を開く。

「あ! そ、そんな、私がいきなり声をかけたんですし」

いえいえそんな……こちらこそ……いや、こちらこそ……
延々と続く謝り合い……見てて退屈はしないが、面白いわけでもない。

「ふぅ……ほら、もういいだろ?」

呆れ顔で、両者の間に割って入ったのは祐一。
その言葉に、二人もはっとした表情に変わる。

「あ、そ、そうですね」
「う、うん……」

両者とも、安堵したかのような表情になっているところを見ると、あるいは止めてほしかったのかもしれない。
実際、謝り合いなんてものが楽しいはずもないのだから。

「え、えっと、それじゃあ、もし少しでも興味がでてきたら、いつでも結構なので、私達のところに来てくださいね。歓迎しますから」
「は、はい……」

照れくさそうに笑って、女性がパンフレットのようなものを名雪に手渡した。
素直にそれを受け取る名雪。
それを見て、もう一度頭を下げると、彼女は二人から離れていった。





「やれやれ、そんなに丁寧に応対する必要なんてないだろ?」
「あ! ダメだよ、祐一。あんな態度とったら。失礼でしょ?」
「いいんだって、別に。どうせロクなもんじゃないし」
「だからー……」

先の祐一の態度を責める名雪の言葉にも、祐一は首を竦めるだけ。
さらに名雪が祐一に説教を続けようとしたとき、二人の目に、茜と詩子がこちらに向かってくるのが見えた。

「おー、お帰り」

これ幸いと、祐一が二人を笑顔で迎える。

「もう……」

完全にタイミングを外された形の名雪。
諦めたように小さくため息をつくと、彼女は祐一の横に並んだ。
そこに到着する茜と詩子。

「すみません、遅くなりました」
「ごめんね、ちょっと悩んじゃって」

二人が謝るのを、祐一と名雪は笑顔で制し、それから、四人で寮に向かって歩き始めた。

「で? 何買ってたんだ?」
「はい、傘が壊れてしまったので、新しい傘を……」
「で、どれ買うか悩んじゃったってわけなの」
「そっか、新しい傘なんだ。ねぇ、見せてもらってもいいかな?」
「えぇ、構いませんよ」
「うん、ぜんぜんおっけー」

その返事を聞き、名雪は傘を手に取るため、持っていたパンフレットを鞄にしまう。
その直前、祐一の目に止まった文字は、彼の予想していた通りのものだった。


『神翼教団』


傘を手にはしゃぐ三人をよそに、祐一は思考の海に沈んでいた。
柄がどうの色合いがどうの、といった会話に盛り上がっている名雪は、祐一に目を向けることはなかった。

大分時間が経っていたのだろう、既に太陽は山の稜線に差しかかっている。
夕日が四人を照らし、彼らの影法師が長く伸びていたが、なぜか祐一の影だけは、少し三人から距離をとっているかのように見えた。

“……まだ、早いからな”

心の中でそっと呟く。
そして、傘談義で盛り上がる少女達の方へ目を向ける。
まだまだ話に華が咲いていたが、祐一は参加する気などない。
ただ、横目で見ているだけ。
それから寮まで、四人は同じ状況のまま歩き続けた。









 続く












後書き



話が長いだけに、改訂作業も本当に苦労します。

いくら読み返しても、完全にこれ以上手を加えることはないってな状態にできるわけもないですが、それにしても手を加える部分が多すぎる(泣)

まだまだこれからが大変なんですよねー……三十話くらいからはあんまり手を加えなくてもよくなると思うんですが。

まぁやるしかありませんね、頑張ります、はい。