祐一達が学園から去ったのと、ほぼ同時刻。
同じ街のとある場所にて。
「……あなたには呆れました」
学園を……いや、祐一達を襲撃した男が、仏頂面で説教を聞いていた。
説教をする側は、言葉のみならず、全身で呆れを表している。
「うるせーな、俺の勝手だろうが。一々うるさいんだよ、アリエス」
「リーブラ、それもです」
男――リーブラも、始めの方こそ黙って聞いていたのだが、しばらく続くうちに、我慢できなくなったらしい。
吐き捨てるように、女――アリエスに向かって、睨むようにしながら文句を言った。
そして、その文句が、自身への説教の項目を増やすことになってしまう。
話すアリエスの視線は、先のリーブラの眼光に負けず劣らず鋭いもの。
「何がだよ?」
「あのような場で私の名前を口にしようとするなど、どういう了見ですか? まさか、十二使徒の掟を忘れたわけではないでしょうね?」
射抜くような視線をそのままに、問い詰めるアリエス。
漂う雰囲気は、どこか怒りに近い。
「わかってるよ、十二使徒は極秘扱いだってんだろ?」
いかにも面倒臭そうに、リーブラはそんな言葉を返す。
不真面目な返答ではあるが、それは彼の不快感が表情に出ただけだろう。
アリエスは、彼の態度に特に言及せずに言葉を続ける。
「わかっているのなら、以後慎むことですね。二度目はありませんよ?」
「……お前が俺を殺るってのか?」
アリエスの言葉にリーブラが反応し、一瞬にして場の空気が張り詰める。
凍てつくような緊張感。
一触即発の気配が、二人の周囲に漂う。
「私じゃありません。リーダーが黙っていないだろう、と言っているんです」
「……チッ」
だが、アリエスの一言で、その緊張感は霧散する。
敵意にも近い視線は、そこで交点を失う。
それで終わりかと思われたやり取りは、けれどまだ終わらせられなかった。
続くアリエスの言葉によって。
「あと、自惚れないことですね。私はあなたを殺せないんじゃない、殺さないんです」
「あぁ?」
「命令がなければ、何があろうとあなたを殺すつもりはありません。逆に、命令があれば、何があろうとあなたを殺します」
薄く笑みさえ浮かべながら、アリエスは言う。
殺そうと思えば、いつでも殺せるのだ、と。
そんな挑発のような言葉に、しかしリーブラも軽く笑って返す。
「ふん、自惚れてんのはお前も一緒じゃねーか」
「そうでもありませんよ。私とあなたの能力では、相性の点で、私に有利ですから」
「……」
アリエスの言葉……能力者としての両者の比較による考察。
それを聞いて、リーブラはすっと目を細める。
その考察は、実は正しい。
いざ戦闘ということになれば、おそらくアリエスの方が優勢と言わざるを得ない。
けれど、能力者同士の戦闘に絶対は存在しない、というのもまた事実。
先程とは若干異なる緊張感が、二人の間に広がる。
沈黙する両者。
「……で、一体何なんだ? 俺の任務ってのはよ。わざわざ俺の楽しみを邪魔したくらいだ。それ相応のもんなんだろうな?」
しばらくして、リーブラの方が口を開く。
別に重い空気に耐えられなかったわけではなく、単にそのことを今ようやく思い出しただけのようだ。
アリエスもまた、先程の緊張感を特に引きずることもなく、ゆっくりと口を開く。
「任務は確かに重要なものですよ。でも、それとあなたを邪魔したことは無関係です」
さらっとそう言うアリエス。
当然、それを聞いたリーブラは、不満の色を隠さない。
「どういうことだ?」
「上からの命令ですよ。基本的に、連中にはノータッチでいるように、と」
「あ? 別にいいだろうが」
「そうはいきません。彼らを殺すことは、許されていないんですよ」
それが命令だ、とアリエスは告げる。
それは暗に、命令である以上、反論は許さない、と言っているようにも聞こえる。
リーブラは、それに対し、軽く手を振りながら鬱陶しそうに言葉を返す。
「殺すなってことは、そう何度も言われなくてもわかってるさ。あのアイザワとかいう野郎さえ殺さなきゃいいんだろ?」
「いいえ、メンバー全員です」
「んだと?」
「彼らを刺激したくないのでしょう。とにかく、彼らには決して手を出すな、と強く言われているんです」
アリエスの口からは、ため息混じりの呆れの言葉。
表情にもそれを隠さずに表したまま、さらに言葉を続ける。
「大体、命令もなしにここに来たということだけでも問題なんですよ? 処分がないだけ感謝してもらいたいものです」
「あぁはいはい、わかったよ、あいつらに手を出さなきゃいいんだろ? くそっ、つまらねぇ……」
大仰に肩をすくめながら、リーブラはぼやくようにそんな言葉を吐き出す。
表情には、先程までの怒りや冷酷さは見られなかったが、不満と怠惰の色が、ありありと浮かんでいた。
つまらないの言葉の通り、完全にやる気を削がれているらしい……全てにおいて。
けれど、アリエスの態度は先と変わらない。
「退屈している暇はありませんよ。言ったでしょう? 次の任務がある、と」
「やる気ねーなぁ……」
「……戦闘ありですよ?」
怠惰な態度から一転。
アリエスの口から出た、戦闘という単語に、鋭い反応が返ってきた。
睨むような目が、アリエスに向けられる。
「……S級なんだろうな?」
「もちろんです」
「どいつだ?」
「“アルテマ”の連中ですよ」
決定的な単語。
“アルテマ”という言葉を耳にして、男の目に、再び危険な輝きが宿る。
自身がその戦闘に身を投じている姿を想像しているのか、体が小さく震えている。
もちろん、それは恐怖によるものではない……何より、表情がそれを物語っている。
そこにあるのは、紛れもない歓喜。
その表情のまま、リーブラがアリエスにさらに問う。
「ってことは、アメリカか?」
「そうです。今から空港に向かいます。すでに飛行機は用意してありますから」
「他にどいつがいくんだ?」
「私とタウロス、それとキャンサーにサジタリウスです。あと、遅れるそうですが、リーダーも来るとのことです」
「ヴァルゴが? そりゃ大事だな。完全にありつらを潰す気なのか?」
リーブラの声には、これ以上ないというほどに強い喜びの色があった。。
彼にとって、強者との戦闘そのものが、自身の生きる意味であり、楽しみなのだろう。
そんなことが、彼の言葉からも表情からも窺い知れる。
「そうですね。そういう風に命令が下されましたから。ただ、今すぐ攻めるのではなく、しばらく様子を見てからだそうですけど」
「何? ったく、面倒だな」
「それが任務ですよ」
「まぁいいか。暴れられるんなら、少しぐらい我慢してやるさ」
そう言うと、リーブラがその場で立ち上がる。
歓喜の表情そのままに、彼は出口へと歩き始めた。
それに静かに続くアリエス。
そして、その場には、ただ静寂だけが残された。
神へと至る道
第20話 夢が終わりを告げるとき
同日、夕刻の水瀬寮、一階のホールにて。
普段は、明るく軽やかな空気に満ちている自慢のフロアも、この時ばかりは重苦しい雰囲気に包まれていた。
天窓から差し込む陽の光は、いつもと変わらず、また、手入れの行き届いたそのフロア自体も、変わらず美しさを見せている。
噴水の飛沫も、所々に植えられている季節の移り変わりを示してくれる花も、いつものとおりだった。
「…………」
だが、その場の空気は、いつものそれとは明らかに異なっている。
普段は明るい笑顔に溢れ、楽しい話題に事欠かない、いわゆる団欒というものを体現しているのに。
それなのに。
今この場にいる人からは、そんな普段の空気を、欠片さえも感じ取ることはできない。
そこに漂うのは、ただ重い空気のみ。
誰も何も話さず。
誰も顔を合わさず。
気まずいというのではなかった。
ただ、何もできないだけ。
何をしていいのかわからないだけ。
そう、何もしないのではない。
何もできないのだ。
今、この場にいるのは、祐一達と特に縁の深かった者達。
水瀬名雪。
水瀬真琴。
折原浩平。
長森瑞佳。
広瀬真希。
椎名繭。
北川潤。
住井護。
本来ならこの場にいるはずだった美坂香里は、妹である美坂栞を迎えに、病院へ行っていた。
事の顛末を説明するために、それから二人はこちらに来ることになっている。
祐一達が神器を奪取し、彼らの前から姿を消してすぐ、学園は文字どおり大騒ぎとなった。
学園の宝……いや、この街の宝とも言うべき神器が、事もあろうに、学園に通っていた学生により奪われたのである。
それも、計画的としか思えない犯行方法で。
おまけに、この街の最大のイベントでもある、武闘会の表彰式の最中に。
学園の運営者にとって、まさに面目丸潰れであった。
いや、この武闘会に関わる全ての者達にとって、と言うべきか。
これがもし、今回のような公の場での強奪ではなく、忍び込んだ賊による単なる窃盗であったならば、隠蔽することも不可能ではなかった。
もしそうであれば、運営者側は、内密に捜査し、事が公になる前にそれを取り戻すという手段をとったことだろう。
しかし、表彰式の最中に、大勢の観客の目の前で盗まれたのでは、話が違ってくる。
四桁にも及ぶ人間の口を塞ぐことなど、実質不可能なのだから。
対応も対処もあったものではない。
唯一の救いは、強奪した者達が、単なる盗人ではなかったということ。
すなわち、単なる窃盗犯などではなく、紛れもない強者であったことだ。
彼らの力を目の当たりにした観客達は、それを恐れた。
もちろん観客達は、武闘会の面々の強ささえも、自分達とは次元が違うという自覚があった。
だがそれでも、決して自分達とは異質な存在だ、とまでは思っていない。
ところが神器を盗んだ面々は、それと比べてもなお、さらに高次元に位置する能力者達だったのだ。
およそ自分達には測れない存在……そこまでくればもう、ただ恐怖以外抱くことはない。
だからこそ、公の場で神器があっさりと奪われたというのに、学校や警察などを批判する声は、どこからも上がらなかった。
誰一人として、そんな言葉を口にする者はなかった。
“あれほどの能力者が相手では仕方がない”、と。
一般には、そういう風に捉えられていた。
実際にその場にいた者達だけでなく、伝え聞いた者達もまた声を揃えて。
運が悪かったのだ、と。
相手が悪かったのだ、と。
そう囁かれた。
学園側としては、そのことに安堵する反面、腹立たしくもあった。
どうあれ、自分達の半分も生きていない子供達に、コケにされたのだ。
街に住む者達に、学園の人間はその子供達の相手にもならない、と自然に捉えられているのだ。
当然のことながら、黙っていられようはずがない。
結果、表彰式は中止(これは当たり前のことだとも言えるが)となり、学生達は即時帰宅となった。
そして今頃、学校の会議室で、対応策を協議しているのだろう。
おそらく保護機関や警察の人間を招いての、相当に大掛かりなものとなるはずだ。
なぜなら、学生達が三日間の臨時休校を宣言されていたのだから。
もっとも、神器を盗まれて、平常どおりに授業を行えるはずもないが。
ともあれ学生達は、予期せず三日間の休みを手に入れたことになる。
しかし、そんな突然与えられた休日を喜ぶ者は、誰一人いなかった。
もしこれで犯人が外部の者であったならば、学園の生徒達も、それぞれ色々と考え、様々な仮説をたて、持論を戦わせるようなことになっていたかもしれない。
三日間の休みをどう有意義に使おうか、と嬉しい悲鳴を上げていたかもしれない。
だが、今回の犯人は内部犯。
それも、学内の超有名所にして超綺麗所。
加えて、何かと噂のあった転校生がリーダーのように振る舞っているグループ。
色々と複雑な事情を垣間見せるやり取りを、同じく学内の有名所と交わしてはいたが、そんなことは大多数の学生達にはどうでもよかった。
問題は、彼女達が神器を強奪した犯人であり、であるならば、二度と彼女達に会うことは叶わないだろうということ。
多くの男子生徒を襲った衝撃は、推して知るべし、である。
もちろん、高嶺の花だ、とは誰もが自覚していた。
それでも、夢見ていなかったわけではないのだ。
何も、呼び出されて告白される、といった単純で浅はかな妄想を抱いていたのではなく。
あるいは、何かがきっかけになって親しくなれるかも、と。
それが叶わないにしても、同じクラスになれば、会話する機会だってある。
文化祭や体育祭など、共に参加できるだけでも充分だった。
だが、住む世界まで違うとは、さすがに思ってもいなかった。
夢だと、あるいは偽りだと、そう信じたかったことだろう。
けれど、現実は過酷。
昨日までは普通に見ることができた笑顔も。
時折聞くことができた楽しそうな声も。
もう二度と、見ることも聞くことも叶わないのだ。
果たしてそんな状況で、休みを喜ぶことなどできるだろうか?
涙で枕を濡らす男子学生の数は、決して少なくないだろう。
そして、女子においては、意味合いが多少異なる。
もちろん“お姉さま”を追いかけている者もいないわけではなかったが。
まぁ、その辺りは置いておくにしても、多くの女子生徒にとって、彼女達、特に三年生の四人が、憧れの対象であることには相違なかった。
清く正しく美しくを地で行くような、その品行方正な振る舞い。
如何な美辞麗句を並べ立てたとしても表現しきれないであろう、その眉目秀麗な容姿。
それでいて、スポーツ万能にして頭脳明晰。
そして何より、そんな神の祝福を一身に受けているような存在でありながら、それを鼻にかけず、常に穏やかで優しい人柄。
同じ女性として、嫉妬するのを通り越して、憧れの対象とまでなっていたのである。
そんな彼女達の突然の犯行を目の当たりにして、平静を保てというのは、無茶以外の何物でもない。
遠くから羨望の眼差しで眺めていただけの者達にとっても、それほどの衝撃だったのだ。
より近くにいて、寝食を共にし、学内でも学外でも懇意にしていた者達は、何をか況や、である。
それ故に、水瀬寮において重苦しい雰囲気が充満していたとしても、何も不自然ではなく。
むしろ、当たり前のことと言えた。
それを払拭する者がいないことも、また。
そんな重い空気を動かしたのは、ゆっくりとドアを開ける音。
いつもなら、ざわめきの中に消え入るだろうそれが、今のこの場においては、何より大きな騒音だった。
自然に、全員の意識がそちらに向かう。
「お母さん……」
名雪がゆっくりと顔を上げ、そこに秋子の顔を見つけると、そう呟いた。
だが、いつもならその声にもれなくついてくる明るい笑顔はそこにはなく、赤く充血した目を向けるのみだ。
その憔悴しきった相貌は、まるで普段とは別人のようだ。
「皆さんに、色々とお教えしたいことがあります」
部屋に入ってきた秋子もまた、常とは異なっていた。
普段は絶やさぬ穏やかな笑みも、今は彼女の顔に浮かんではいない。
どこか暗く、疲れたような表情……それが、彼女を年相応に見せてしまっている。
いつも若々しい彼女を知る者にとって、それは信じられない事態だった。
「……何ですか?」
重い空気は変わらずとも、秋子の登場は、場の時間を動かした。
沈んだ声ではあるが、瑞佳が顔を上げて、秋子に尋ねる。
「詳しくは香里さん達が来てからになりますけど……お話しする内容は、もちろん祐一さん達について、です」
その言葉に、皆が顔を上げた。
誰も何も言わなかったが、秋子に向ける眼差しから、続きを待っていることはわかる。
「お話しする前に、聞いておきます。わたしがこれから話す内容は、あまり良いものではありません。それでも、聞きたいですか?」
居住まいを正すようにして、秋子が真剣な目で、場の面々に問いかけた。
だが、誰一人としてこの場から動こうとせず、まっすぐ秋子の目を見返している。
一瞬訪れる沈黙。
「……聞かせて、ください」
真希が、代表するかのように口を開いた。
「わかりました……」
沈んだ声で答える秋子。
その表情からも、声からも、彼女の得た情報に対して、悪い予想しかできない。
けれど、誰も何も言わなかった。
「すみません、遅くなりました」
「お待たせしてすみませんでした、皆さん」
それからほどなくして、香里と栞が寮に駆けつけてきた。
当然と言おうか、二人の表情もどこか暗い。
ともあれ、部屋にいた者達の視線が、二人に集中する。
「……美坂?」
常ならぬ態度を見せていた浩平だったが、栞が視界に入った瞬間、沈んだ表情から、一転して疑問顔になった。
武闘会の準備に忙殺されていた浩平は、栞とはまだ面識を持っていなかったのだ。
それに気付いた香里が、隣の栞に一度視線を向けてから、浩平に話しかける。
「あ、折原君は会ったことなかったわね。この子は、あたしの妹の栞」
「はじめまして、折原さん。美坂栞です」
沈んでいた顔を、何とか微笑のそれにして、栞が自己紹介をする。
今の彼女にできる、それが精一杯の笑顔なのだろう。
それに対して……
「……」
「……浩平?」
瑞佳が、心配そうに浩平の方へ目を向ける。
浩平はというと、呆然と栞を……いや、栞と香里を見ていた。
瞬き一つせず、ただ二人に意識を奪われているようだ。
「いもうと……」
一瞬後、浩平がボソッとそう呟く。
それはまるで蚊の泣くような声。
「……」
だが、それを聞き取ることができたのは、浩平の右隣に位置していた瑞佳だけだった。
位置でいうなら、左隣にいた繭も聞き取ることができたはずだが、彼女は聞こえただけ。
聞いた上で、その意味を理解することができたのは、ただ瑞佳一人だった。
「……どうしたの? 折原君」
呆然としている浩平と、その隣で目を伏せた瑞佳が気になって、香里が声をかける。
その声で、浩平が、はっと我に返ったように一度目を見開いた。
「え、あ、いや……そうか、美坂栞、か。えーと、何て呼べばいいんだ?」
「あ、はい。栞で結構ですよ。美坂だとややこしいですから」
「そうか。俺は折原浩平だ。よろしくな、栞」
「はい、よろしくです、折原さん」
ぎこちない微笑みを伴った、そんな二人のやり取りをよそに、瑞佳だけは、どこか悲しげな表情をしていた。
それは、先程までの悲しみだけではない何かを、新たに背負ってしまったような、そんな表情。
それに対して、浩平は、何か釈然としないというか、気になることがある、といった表情だった。
少なくとも、瑞佳のように、悲しみが増したような感じではない。
そんな浩平に声をかけるのは香里。
「それで折原君。一体何だったの?」
「え?」
「さっき、ぼーっとしてたじゃない」
「あぁ、いや、妹って聞いたら、何か引っかかるような感じがしたんだよな……何でかはわからないけど」
そう言って小さく首を傾げる浩平を見た瑞佳の表情が、さらに悲しげなものになろうとする。
だが、下を向き、ぐっと何かを堪えるかのようにした後、顔を上げた時には、その表情を、何とか消すことができていた。
そして、幸か不幸か、誰もそれに気付くことはなかった。
「……それでは皆さん。お話ししたいと思います」
香里と栞が席に着くのを待ってから、秋子が話を切り出した。
全員の顔が、秋子の方へと向けられる。
「まず最初に言っておきますと……今回の件で、祐一さん達が、警察や保護機関に捕らえられる、あるいは狙われる、ということはありません」
「ちょっ……ど、どういうことですか?!」
いきなり頭を殴られたような気分だった。
思わず声を上げた香里の表情には、驚きの色に染まっている。
公の場で盗みをやらかした彼らが、罪に問われることはない……そんな意味の発言に、全員が衝撃を隠せない。
「祐一さん達は特別なんです。彼らの行動に関しては、極端な場合を除いて、常にこれを超法規的に扱う、となっているんです」
「それって、神器を盗んだだけなら罪にはならないってことですか?! そんな無茶な!」
真希が声を荒げる。
突然与えられた情報は、とても彼女の理性が看過できるものではなかった。
彼らが憎いわけではない。
いや、むしろ仲の良い友人だったのだから、保護機関に命を狙われたりしないことには文句はなかった。
だが、理性はそれに納得しようとしない。
それも当然だろう。
盗みを公然と許される存在がいる……そんなバカげた話があるだろうか?
ましてや、ものは神器。
世界に二十四種しか存在しない、まさに人類の宝。
その価値は、国宝級ともそれ以上とも言われている、至高の品なのだ。
そんなものを盗んで、けれど罪に問われないというのは、いくらなんでも受け入れられるものではない。
真希だけでなく、他の面々も、同じことを考えているだろうことは、その表情から明らかだ。
「確かに無茶です。しかしこれは事実です。罪のない一般人に危害を加えない限り、祐一さん達は、咎められることもないんです」
だが、秋子は冷静だった。
あるいは、そうしないと彼女自身も取り乱してしまう、と、そう思っているのかもしれない。
説得するような口調で発せられた言葉も、誰よりもまず自分に向けているような、そんな響きを持っていた。
「……どういうことなんですか? 何の理由もなく、そんなことが認められるはずはないでしょう?」
香里もまた冷静だった。
感情的にはならず、論理的な思考が可能な状態であることから、彼女は本当に落ち着いているようだ。
隣に座る妹の方は、そうでもないようだが。
ともあれ、問われた秋子は、香里の方を向いてその質問に答える。
「えぇ、もちろんです。皆さんは、賞金首の制度についてはご存知ですよね」
「はい。下はF級から上はA級まで。能力を用いた犯罪者の強さに合わせてランクをつけて、捕まえた者にランクに合わせた報奨金を与える制度ですよね」
ハンターを目指して学園に通う者にとって、バカにされていると思えるような質問だ。
学園の生徒である香里が、それを答えられないはずがない。
その返答に一つ頷いてから、秋子が言葉を続ける。
「そうです。けれど、一般には知らされていないのですが、実際には、A級の上に、S級というランクが存在するんです」
「え……?」
固まる香里の表情。
いや、香里だけでなく、他の面々の表情も、同じく固まっている。
そこに浮かんでいるのは、疑問の色。
S級……全く聞いたことのない単語。
それが意味するところを理解できないわけではなかったが、突然の知識に、誰もが混乱を隠せない。
いや、それと祐一達との関係を想像し、また、想像できることに、本能が恐れを発しているのかもしれない。
「そして、S級賞金首には、基本的に保護機関は干渉しないんです。もちろん監視はしていますし、場合によっては殲滅することもあるらしいんですが」
当然、秋子がそれに気付かないはずもない。
けれど、それを意図的に無視して、秋子は言葉を続けた。
「そして、祐一さん達も……S級賞金首なんです」
「ゆういちが……ゆういちたちが……賞金、首?」
名雪の声が震える。
いや、名雪だけでなく、その場にいる全員が、衝撃を隠せないでいた。
こんな短い間に、信じられないような情報を与えられ続けたのだから、それも当然だろう。
自分の腕をかき抱く者。
俯いてぐっと何かを堪える者
呆然としているだけの者。
自分達の仲間が賞金首だ、という現実に、頭がついてこない……いや、ついていきたくないのかもしれない。
悪い冗談であってほしかった。
だが、秋子がそんな冗談を言う人ではないことは、疑うことのできない事実。
となれば、受け入れなければならない……彼らが、賞金首だ、と。
紛れもないお尋ね者なのだ、と。
たとえ、S級という特別扱いを受けるものであろうと、犯罪者である、ということを。
「……S級って、結局何なんですか?」
しばらくしてから、栞が静かに口を開く。
その栞の問いを受けて、秋子が詳しく説明を始める。
S級になる条件や、S級が特別な扱いをうけることなど。
そして……
「祐一さん達は、『九龍幻想団』と呼ばれています」
祐一達の正体も明らかにした。
つまり、彼らのグループ名を。
祐一達は、個人としてではなく、グループとして保護機関に目をつけられているのだ、と。
「『九龍幻想団』、ですか?」
「はい。日本でS級指定を受けているグループは二つあるそうなんですが、そのうちの一つです」
「……でも、何でランクがSになってるんですか? S級賞金首になる条件って、結構厳しいじゃないですか」
真希が首を傾げる。
確かに、祐一達は強いだろう。
少なくとも、今の彼女達では、手も足も出ないほどに。
だが、保護機関が手をこまねくほどのものなのか、というと、それは若干疑問が残る。
「そうですね……わたしもそこまで詳しく教えてもらえる立場ではないので……」
秋子が言葉を濁す。
彼女もまた、同じ疑問を持っていたのだろう。
けれど、教えてもらえないことは、どうしようもない。
秋子は、その能力の特性もあって、国賓に対する食事を一身に任されている。
完全に安全が保障され、健康に良く、その上、万人の舌を満足させる料理を、彼女は実現できるのだから。
そのため、秋子の国際的な評価は、極めて高い。
能力者としてもそうだが、料理人としても。
そんなこともあって、今回のように、一般には隠されている情報も、ある程度は入手が可能なのだ。
けれどそれも、あくまで“一般人に比べれば”の話だ。
決して何でも教えてもらえるわけではない。
とは言え、秋子自身、自分の能力を過大評価するつもりなどないのだから、そのことに文句など口にしようはずもない。
祐一達がS級指定であることを教えてもらえただけでも感謝しなければならない、と思っていた。
「……多分、相沢君の能力ね」
再び停滞し始めた空気を、香里の涼やかな言葉が切り裂く。
彼女の言葉には、全員の意識を向けるだけの力があった。
「相沢の能力?」
北川が、興味をひかれたような表情で、香里に続きを促す。
北川だけでなく、全員の目が、香里に向けられている。
「えぇ、あたしの予想が正しければ。もっとも、まず間違いないと思うけど」
その言葉を紡ぐ様は、いつもの香里のそれだった。
強く、気高く、美しく。
美坂香里はかくあるべし、と自身で律したその姿を、今まさに体現している。
「でも、相沢君の能力なんて見たことないわよ?」
真希が香里に聞く。
友人として付き合っていたのは、ほんの短い間だった。
それでも、能力の片鱗さえも見せてくれた覚えはない。
強いて言うならば、今日の武闘会での出来事だが、あれでは何もわからない。
「私の病気を治してくれたから……だから、祐一さんの能力が、わかったんです」
栞は、微かに悲しげな笑みを浮かべている。
その顔は、何かを手に入れるためには何かを犠牲にしなければならない、ということを知ってしまった子供のようにも見えた。
「そう。栞は病気だったの。普通では治る見込みのない……医者が匙を投げるような、ね」
栞の言葉を継ぐ形で、香里が口を開く。
そのいきなりの告白に、誰もが言葉を失う。
香里は、さらに話を進める。
「可能性があるとしたら、能力だけだと言われたわ。それも極めて特別な……ね」
「でも、栞は、今は健康体なんだろ?」
疑問を表情に浮かべたまま、浩平が聞く。
それに対し、頷く香里。
「えぇ。医者も首を傾げてたわ。完治してることは間違いないって」
そこだけ、若干嬉しそうな声に変わっている。
両親が大騒ぎして大変だった、という発言をした時には、やや苦笑気味に。
だが、話が元に戻ると、また無機質な声に戻っていた。
「相沢君が転校してきた次の日に、相沢君に言われたの。栞を治せる能力者を知ってるって」
香里が、目を閉じながら話す。
あるいは、そのときのことを思い出しているのかもしれない。
「誰でも彼でも治す訳には行かないから、あたしが武闘会で優勝することと引き換えに、その人を紹介してくれるってね」
「な……?!」
激昂しかける北川。
けれどそれを手で制し、香里は話を続ける。
「栞の命を天秤にかけるような振る舞いではあったけど、言ってることは正しかった。確かに、栞だけ特別扱いはできないものね」
北川は、祐一の言葉に不満を覚えずにはいられなかった。
だが、当事者である二人が納得しているのに、部外者の自分達が怒るのは筋違いだと思い、大人しく引き下がる。
「武闘会の直後、相沢君が薬だって言って、瓶に入った液体を渡してくれたわ。で、それを栞に飲ませて病院に連れて行ったら、見事に治ってたってわけ」
「ん? でも、それじゃ誰が薬作ったかわからないだろ? 何で相沢の能力だってわかるんだ?」
浩平が、当然の疑問を発する。
薬ならば、誰かが精製したものを持ってくることだって可能だろう。
「薬じゃなかったんです」
その疑問に答えたのは、栞。
「薬じゃない?」
「はい。瓶に少し残っていた液体を調べてもらったら、ただの蒸留水だったんです。もちろん何かしらの能力を使った痕跡さえ見つかりませんでした」
「じゃあ……」
「えぇ。それを飲んだだけじゃ、何も治らないわ。喉の渇きは癒せるでしょうけど」
香里は、病院に行った際、持っていた瓶の中身を医者に調べてもらっていた。
だから来るのが遅れてしまったわけだが、その甲斐はあったと言えるだろう。
そのおかげで、祐一の能力を推察できるのだから。
香里の言葉を待ってから、栞がストールを握り締めるようにしながら、静かに話し始める。
事の推移を。
「実は、祐一さんが転校してきた日に、私、祐一さんに命を助けられたんです」
「え……?」
「その日、お買い物に出かけた時、公園に立ち寄ったところで魔獣に襲われて、もうだめだ……って思った瞬間に、祐一さんが駆けつけてくれたんです」
思い出すようにしながら、栞は言葉を続ける。
「それでその後、祐一さんが私の病気を見抜いて、おまじないだ……って言いながら、頭に手を置いて、能力を使ってくれたというわけです」
「だから、栞の病気が治ったのは、タイミングから考えて、その時以外にありえないの」
「待てよ。じゃあ、美坂に話を持ちかけた時、すでに栞は治ってたってことだろ? それなら何で相沢のやつはお前に優勝しろなんて言ったんだ?」
栞の言葉を捕捉する香里。
だが、浩平の表情から疑問は消えない。
既に治していたのなら、そのことを言えばいいだけではないのか?
大体、なぜ薬だと偽って、ただの水を飲ませる必要があるのだろう?
「多分、理由は二つね。あたし達のためと、相沢君達のため」
「そうですね、それ以外考えられません」
「どういうことだ?」
納得の表情の香里と栞。
けれど、周りはそうもいかないようだ
北川や住井は、何がなんだかわからない、という顔をしている。
確かに、二人の言葉は抽象的過ぎて、何を言ってるのかわかりにくい。
納得しているのは、真希と秋子くらいのものだ。
瑞佳は、やはりどこか沈んだままだった。
「あたし達のためって言うのは、栞が、自分が完治したという現実を受け入れやすくするため」
「……私、あの時に自分が治ったなんて思ってもいませんでしたから」
「でも、実際に治ってたんだろ?」
「はい。でも、信用できなかったと思います……いえ、信用するわけにはいかなかった、と言った方が正しいですね」
「……早い話、栞の精神的な問題ってことね」
「精神的?」
「はい。私の病気を治してくれるのは、お姉ちゃんしかいないって、そう信じてましたから」
「だから、あの水も必要だったのよ。あれはただの水だったけど、あたし達にとってはそうじゃなかったの」
精神が人間の身体に及ぼす影響は、意外に大きい。
有名な話である。
その時の栞は、自分の病気が治るとすれば、香里が見つけた手段によってのみだ、と完全に信じ込んでいた。
香里の行動の成果によってのみ、自分は治るのだ、と。
また、そうでなければならなかったのだ。
香里の努力を、誰よりも近くでその目に焼き付けてきた栞にとっては。
それ故に、祐一が治したと言っても、栞は受け入れられない。
受け入れるわけにはいかない。
彼女を治すのは、あくまでも香里なのだから。
また、香里にしても栞と同様だ。
栞を治すのは、栞の病気を完治へと導くのは、自分しかいない、と強く信じていた。
どうあっても、自分が治してみせる、と心に固く誓っていたのだ。
それなのに、降って湧いたような存在に簡単に栞を治されてしまっては、自分のこれまでの努力の全てを否定されることになる。
到底、受け入れられるものではない。
だが、武闘会で優勝するという条件と引き換えに、香里が手に入れた薬。
この存在が、その状況を救うことになる。
薬ではなく水だったのだが、栞も香里も、これならば受け入れることができるからだ。
間違いなく香里の力によって勝ち取ったものであり、信頼する人間が、その条件と引き換えに渡してくれたものだったのだから。
そしてまた、祐一は、これらのことがバレると予想していたからこそ、控え室であんなセリフを言ったのだろう……今になって、香里はそう思う。
香里が何かをするまでもなく、栞が治っていたことを知られた時のために。
すなわち、取引が成立している、と伝えるために。
何が取引なのかというと……
「それで、相沢のためってのは?」
「……引き分けだと困るから?」
住井の問いに答えたのは、繭。
どうやら話を聞いていて、パッと閃いたらしい。
そう……これこそが、取引材料と言えるもの。
祐一達は、神器奪取のために、武闘会で優勝する者が必要だった。
引き分けの可能性はそう高くないと言っても、ゼロではないのだから。
そんな事情を持つ祐一に、『優勝してくれ』、と言われた香里が、優勝したのだ。
そのため、栞の治癒と引き換えに、香里が優勝した、という形が成立している。
事後承諾のような形ではあるが、少なくとも、香里も栞も、そして祐一も、この形式に納得している。
どうあれ、祐一も香里も栞も、お互いの協力によって、目的を達成しているのだから。
「えぇ、きっとそうね」
「でも、もしお姉ちゃんがいなくても、何らかの方法で、確実に優勝する存在を見つけ出していたと思います。最悪、祐一さん自身が出ていたかもしれませんけど」
繭に対して、頷いて答える香里。
その香里の言葉を補足するようにして、栞が締めくくった。
「で、相沢の能力はわかったけど……それとあいつらがS級になるのと、どう関係があるんだ?」
浩平はさらに疑問を重ねる。
「もう、鈍いわね……どんなケガや病気でも治せる能力なのよ? 充分に取引材料になるじゃない」
若干呆れたような声音の真希。
そのくらい考えなさい、と言わんばかりの表情だ。
「そうですね。医者にかかるより確実に、さらにどんな病人やケガ人でも治せるとくれば、保護機関としても、簡単に犯罪者として糾弾するわけにもいかないでしょう」
秋子が、得心のいったような表情になる。
どんなケガや病気でも治せる能力者がいるということ……夢物語のようなそれを、けれど秋子は小耳に挟んでいたからだ。
過去のニュースでも、それらしい報道があった。
突然の病に倒れた人間が、次の日には元気な姿を見せていた、という類の。
それは不自然なことであり、マスコミも大いに騒いでいたが、祐一が関与しているのならば、理解できないこともない。
おそらく、自分達に干渉させないことを条件に、能力を行使したのだろう。
いや、今もそうしている、と言うべきか。
地位や権力を手にした者は、それを守るための保険を求める。
彼らが何よりも恐れるのは、その権力の失墜と、そして自身の死。
そんな者達にとって、祐一の能力は、まさに喉から手が出るほど欲しい力のはずだ。
そう考えると、S級指定となるのも頷ける……保護機関や政府関係者などの人間が、その能力に目をつけたのだろう。
あるいは、祐一自身が売り込んだのかもしれない。
賞金首の一人として殺してしまうことと、自分達のケガや病気の心配を失くすこと。
この二つを天秤にかけた場合、どちらが重いかなど、悩むことではない。
一つの疑問が解消された、と思ったのも束の間。
今まで黙って聞いていた真琴が、ふと呟いた。
「でも……何で祐一は、そこまでして神器を集めてるのかな?」
続く
後書き
あぁ、長い……(半泣)
新しく話書くより、あるいはしんどいかもしれません。
いやまぁそんなことはないんでしょうけど、そう思ってしまいたくなると言いますか。
ホントにもう、毎回毎回ダメージ大きいです。
もう手の施しようのない箇所も多いし(泣)
……がんばろ。