ゆっくりと扉が開く音と共に、祐一がキッチンに顔を出す。
まぁ、正確にはダイニングキッチンと言うべきかもしれないが。
庭先に面した場所にあるからか、採光性が非常に高く設計されており、ドアの先にある大きな窓からは、柔らかい陽光が室内に射し込んでいる。
仕事をするには非常に良い環境と言っていいだろう。
祐一達がこの自宅に帰って、まだそれほど時間も経っていない。
全員が自分の部屋へと戻ってからでも、まだ十五分程度。
各々の部屋に向かった少女達は、当然のことではあるが、様々な私物を水瀬寮に持ち込んでいたため、片付けにはまだまだ時間がかかることだろう。
「さて、と」
腕まくりしながら、流しの方へと歩き出す祐一。
少女達と違い、祐一は元々ほとんど荷物を持ち込んではいなかったので、片付けなどする必要はなかった。
部屋の掃除だけを終わらせれば、それ以上やることはないのだ。
「約束だしな。ちゃんとやっとかないと」
祐一は、冷蔵庫の中から、雪見が先程補充してくれた様々な食材を取り出す。
取り出したそれを、隣の机へと並べてゆく。
材料から判断するに、どうやらカレーを作るつもりのようだ。
そう。
武闘会の当日に、みさきと約束したカレーの用意。
祐一が今キッチンにいる理由はそれだった。
この家を建て、全員で共同生活を始めてから、もうすぐ五年。
家事全般は、全員で当番制にして行っているため、祐一も充分な家事技能を身につけていた。
調理を始めるその動作にも、年季のようなものが感じられる。
手際よく食材に手を加え、料理を形にしてゆく。
食材を切る音、調理器具を扱う音、祐一の動く際に立つ音。
そうした音が、キッチンに微かに響く。
響くほどに、そこは広く、また天井も高い。
まるで空の下にいるかのような開放感がそこにはあった。
それが故か、調理する祐一の表情は、快適さを感じていることが容易に窺える。
祐一の目の前には、学校給食で使われるような巨大な鍋と、それに値するだけの食材。
少なくとも、一家庭で用意できるようなものではない。
彼らの人数は十人であるはずなのに、どう見てもその倍以上の量が用意されているのだから、どこかそら恐ろしい。
一番恐ろしいのは、そのことに最早疑問を抱くこともない、祐一達の精神なのかもしれないが。
「〜♪」
機嫌よく鼻歌などを披露しながら、祐一が調理を進める。
慣れているからか、災害時の炊き出しを思わせるほどの調理をしているにも関わらず、疲れているようには見えない。
そこには、多分に久しぶりの自宅という意識も働いているのだろう。
その手際のよさもあり、作る量の割りに早い時間で、良い匂いがこの広い空間に満たされていった。
「うー……美味しそうな匂いがするよ」
その匂いに引き寄せられたのか、泣きそうな顔で、みさきが顔を出した。
空腹という言葉は、彼女にとっては、他のどの人よりも生死に関わる意味を持っている。
それ故に、キッチンでカレーを準備している祐一の姿を見た途端に、その表情は一変。
泣きそうな表情はどこへやら。
キラキラと目を輝かせて、凄まじい勢いでその体に飛びついた。
「祐ちゃーん! お腹空いたお腹空いたお腹空いたよー!」
「どわっ! あ、危ないだろ? みさき!」
火を扱っているところで、いきなり背後から抱きつかれて、祐一が慌てる。
しかし、そんなことに頓着できるほど、今のみさきに余裕はない。
再度言うが、今、彼女は生死の境にいるのに近しい状態なのだ。
「カレーでしょ? カレーでしょ? 食べたいよー。ねぇ、祐ちゃーん……」
背中に引っ付いたまま、ごろごろと甘える猫のように、祐一にせがむみさき。
良い匂いを漂わせる鍋の中身を見てしまっては、彼女はもう止まらない。
既に視線はカレーに釘付けだ。
そしてまた、祐一がそれに気付かないわけがない。
「わかったわかった……じゃ、皿を」
「はい!」
祐一が言い終わる前に、みさきは素早く動き、皿を高く積み上げる。
そう、用意された皿は一枚ではなかった。
何枚もの皿を積み重ね、祐一に差し出している。
「……」
はぁ、と。
呆れを伴った苦笑のような、けれど、優しい微笑みのような。
そんな感じのため息をついた祐一。
そして、用意された皿にカレーを盛り付ける。
「……はい、召し上がれ」
「やったー!」
目の前で湯気を立てる出来立てのカレーを目にして、みさきの表情がこれ以上ないほどの輝きに満ちる。
輝く目をカレーに向けているみさきは、まさに喜色満面。
単に空腹を満たすことができるから、という理由だけではなく、それが彼女の大好物だから、という理由が、彼女にそんな子供のような笑顔をさせているのだろう。
そんな無邪気な姿を、微笑ましげに見つめる祐一。
「まだまだあるから、焦らなくてもいいぞ」
「うん! ありがと、祐ちゃん」
急いで食堂の方へと移動し、早速食べ始める。
カレーを口に運びながら、感謝の言葉を紡ぐ。
その表情は、まさに至福。
次から次へと、カレーの山が、彼女のお腹へと消えていく。
「いい食べっぷりだな、ホントに……」
苦笑しながらも、祐一が纏う空気は優しげなもの。
しばらくの間はそうしていたものの、仕事はまだ終わっていない。
美味しいよー、というみさきの言葉を聞きながら、祐一はその他の準備をすべく、再びキッチンへと向き直った。
神へと至る道
第23話 まずは小休止
「あ! みさきさん、何で先に食べてるんですか?!」
次いで食堂に顔を出したのは留美。
どうやら彼女も片付けなどをしているうちに、程よく空腹になってきたのだろう。
至福の表情でカレーを平らげていくみさきを見て、その空腹が加速されたようだ。
「まぁまぁ、落ち着けって、留美。ほら、お前も食うだろ?」
「あ、うん。ありがとう、祐一」
席に着いてすぐにカレーを用意してくれた祐一に、笑顔を向ける留美。
本当なら皆が集合するまで待つのが正しいだろうけれど、既にみさきが食べ始めているし、目の前には美味しそうなカレー。
とても我慢できるものではない。
留美が食べ始めてからほどなくして、他の面々も食堂に顔を出す。
そして、全員で少し早い夕食となった。
『ご馳走様なの。おいしかったの』
澪は、元々少食のため、食べ終わるのも早い。
笑顔で手を合わせてから、皿を流しに運んで、水につける。
「真琴さんが来るまで、あとどれくらいだったっけ?」
「あと三十分というところですね」
留美の問いに、湯呑みを手にしつつ美汐が答える。
「それで祐一さん。真琴さんとは何を話すつもりなんですか?」
「……まだ早いと思うけど」
佐祐理と舞が、美汐と同じくお茶を啜っている祐一の方を見る。
その視線を受けて、祐一が顔を上げた。
「んー、一応定期的に連絡とっとかないと不安だし。それに、次にどこ行くのかとか聞いておかないと、計画も立てようがない」
「それ以前に、まずは二十四種揃えないと、意味はありませんよ」
「そうですね……今何種類でしたっけ? 学園で『ディミニュエンド』を手に入れましたけど……」
美汐の言葉に、佐祐理が考え込むような仕草を見せて、誰にともなく聞く。
その言葉を受けて、祐一が雪見の方を見る。
神器を保管しているのは、彼女だからだ。
「えっと……今、十三種だったっけ? 雪見?」
「えぇ、わたしが保管してるのはそうね」
「なんか引っかかる言い方だな」
「私が手に入れたものは、まだ渡していませんでしたので」
「お? 手に入ったのか? 美汐」
「はい。お金は大分かかってしまいましたが」
そう言うと、美汐は、懐から小刀程度の大きさの白い布に包まれたものを取り出す。
全員の視線が、そこに集まる。
「これです」
美汐は、テーブルの上にそれを置くと、ゆっくりと布を解く。
その中から表れたのは、紛れもなく神器。
美麗な装飾も、七色の輝きも、神器しか持ち得ないもの。
弓形の刀身は、夜空に浮かぶ三日月を思わせる造形。
感嘆の息を零しつつ、祐一が美汐に賞賛の言葉を向ける。
「ナイスだ、美汐。で、これって『イーストオブザムーン』だよな」
「えぇ、そうです」
美汐が、もう一杯お茶を淹れる。
もちろん、自分の分だけでなく、全員の分を。
皆、礼を言って、そのお茶を受け取ると、美味しそうに口をつける。
「ということは、これで十四種ってわけだね。順調、順調」
「……そうですね、ここまでのところは」
楽しそうに話すのは詩子。
彼女はいつも前向きだ。
その隣の茜は、慎重な姿勢を崩しはしないが。
「だな。楽に取れるのって、あとどれくらいだろ?」
「というより、今までも別に楽じゃなかったと思うけど」
雪見の言葉に、祐一も苦笑してしまう。
確かに、簡単に手に入れられた神器は、本当に少ない。
だが、これからのことを思えば、これまでのことは楽だった、と言ってもいいかもしれない。
問題は、今後、確実に衝突するだろう、とある相手。
自分達と同じく、神器を求めているであろう、相手。
「“連中”は、いくつ揃えてるんだっけ?」
祐一がそう言うと、美汐は淀みなく答えを返す。
「“教団”ですか? 情報によると、四つ所持していることは確実らしいんですが……もう一つある、という噂もあります」
「となると、最大で五つってことだな」
「はい」
「となれば、まず取るべきは、他の五つか六つ……だな」
「そうですね」
「じゃあこれまで通り、佐祐理も美汐も、情報の収集を頼むな」
「はい」
「もちろんです」
佐祐理も美汐も、一切の不満を見せず、微笑みを浮かべて、了承を返す。
基本的に、美汐と佐祐理は、幻想団内において、情報の収集や処理などがメインの仕事だった。
特に美汐は、その傾向が顕著である。
戦闘に参加できる佐祐理と違って、美汐は、戦闘においては完全に無力だからだ。
だが、気配を殺す術に関しては、一流の暗殺者顔負けの技能があり、能力もまた、直接戦闘用ではなく、補助的な効果を持っている。
そして何よりも、幅広い知識と常に冷静な判断力、優れた論理的思考能力を持つ美汐は、まさに情報収集・処理にうってつけの存在。
言ってみれば、幻想団の生命線。
常に裏方に徹し、影から支える彼女がいるからこそ、幻想団の面々は自由に動けるのだ。
「はぁ……さすがにお腹一杯だよ」
満足そうな表情で余韻に浸っているのはみさき。
目の前に積まれた皿は、十を優に超えている。
それを見て、苦笑を漏らす面々。
「……そろそろ時間ですね」
そうして歓談を続けているうちに、大分時間が過ぎてしまったらしい。
思い出したような茜の言葉に、全員の視線が時計に集中する。
と。
「やっほー」
いきなり食堂の扉が開かれ、一人の女性が顔を出した。
玄関から入ってきたのだろうが、呼び鈴は一度も鳴ってはいない。
だが、それを咎める声はない。
入ってきた人物は、笑顔のまま、挨拶の言葉を発する。
ゆっくりと祐一達のところへ歩み寄ってくるその女性は、ここにいる少女達に負けず劣らず美しい容姿を持っていた。
腰まであるさらさらの黒髪が、ゆったりと背中を流れており、穏やかな微笑みを浮かべたその相貌は、街を歩けば誰もが振り向いてしまうほどの美しさを備えている。
すらりとした長身で、優雅という言葉を体現したかのようなその立ち居振る舞いは、思わず見惚れてしまうほどに洗練されている。
しかも、それは作られたものではなく、自然に染み付いているもの。
淑女という言葉は、この人のために用意されているのではないか、とさえ思えてしまう。
彼女こそが、件の沢渡真琴、その人だった。
「いらっしゃい、真琴姉さん」
「うん。皆、元気だった?」
祐一の挨拶に、真琴が笑顔で答える。
他の面々もまた、笑顔で挨拶を交わす。
そんな挨拶もそこそこに、真琴はリビングのイスに腰を下ろし、小さく息をつく。
「ところでさ、お腹空いちゃったのよね。何か食べさせてくれない?」
「わかってますよ。少し待ってて下さいね」
真琴の言葉を受けて、立ち上がったのは祐一。
カレーを用意するために、キッチンへとその足を向ける。
ほどなくして、大盛りのカレーを手にして戻ってくると、それを真琴の目の前に置く。
「では、召し上がれ」
「うん。頂きまーす」
容姿とは裏腹に、少し子供っぽい仕草でカレーに取り掛かる真琴。
だが、それが彼女を魅力的に見せることはあっても、印象を悪くすることはない。
「ごちそうさま、おいしかったわ」
ゆっくりと食事を終えた真琴が、満足そうな表情を見せた。
「お粗末さまで」
祐一も笑顔で返事をし、皿を流しに持っていく。
その間にも、話は続けられる。
「どうでした? 世界旅行は」
「なかなか楽しかったわよ。面白い能力者とかもいたしね。佐祐理ちゃんがいたら、多分手に入れてたんじゃないかしら?」
「あははー、そんなに簡単にはいかないですよ、手に入れるのは」
「ふふ、まぁいいけど。それで、学園に行ってたんでしょ? どうだった?」
真琴の問いかけに対し、ちょっと待ってくださいね、と言いながら、祐一がコーヒーを淹れて、買ってあったケーキと一緒に持ってくる。
それを見て、目を輝かせる若干名。
「……ケーキ」
「美味しそうだね」
「ちょうど甘いものが欲しかったところです」
「わかったって」
そんな声に苦笑しつつ、祐一は、テーブルの上に、ケーキとコーヒーを並べる。
祐一が席に着いたところで、舞とみさきが、目の前のケーキに勢いよく取り掛かり始めた。
なぜかこの二人の前に置かれているケーキは、一つではなかったりする。
二人より速度は劣るものの、茜もまた至福の表情でケーキを頬張る。
どうやら、夕食がカレーだったことも作用しているらしい。
「で、学園ですけど……神器は手に入りましたよ。ただ、能力者の方はさっぱりですね」
「そう。でも、それも仕方ないか。大分レベルも落ちてきてるしね」
真琴が、優雅な所作でコーヒーを口に含む。
程よい苦味が口に広がる。
インスタントでは出せない深い味わいだ。
苦味はあれど、後に残るものではなく、ある種の清涼感さえ感じる。
その味わいに満足げな真琴。
「真琴姉さんの時と比べるのはどうかと思うけど」
祐一が、苦笑しながら言う。
実質、現時点での日本最強の能力者とまで言われている真琴。
いや、世界でも十指に入ることは、まず間違いない。
そんな存在のいた時代と比べられるのは、それは酷というものだろう。
「うーん、それはともかくとしても、やっぱり平和ボケかしら。どうも緊張感が足りてないのよね」
「あぁ、それはありましたね、確かに」
真琴の指摘に対して、頷く祐一。
武闘会……あのお祭り騒ぎを見てしまっては、確かに緊張感の欠如を指摘せざるを得ない。
そこでの経験が実戦に活かせないのでは、一体何のための大会なのか。
「で、ドミネーターもいなかったわけね」
「はい。あの地方にはいませんね、間違いなく」
「そうなの。それにしても、みさきちゃんの能力ってすごいわね、ホント」
「えへへ……そうですね、すごく便利ですよ。でも、私から見れば、真琴さんの能力の方が羨ましいなって思いますけど」
みさきが、ケーキを食べる手を一旦止めた。
照れくさそうにはにかみながらも、その表情には確かに、自身の能力に対する自負が見て取れる。
いつかは、恨みもした自身の力。
だが、今は仲間のために使える力があることに、彼女は感謝しているのだろう。
「まぁね。確かに色々と便利だけど」
真琴が微笑む。
それもやはり、自身の能力に対する絶対の自信の表れ。
「んぐんぐ……」
「舞、そんなに食べるとお腹こわすよー」
「もぐもぐ……大丈夫だから」
「舞ー……」
舞と佐祐理は、いつも通りだった。
話は完全に祐一任せ。
まぁ、現状それでも何も問題はないからこそなのだが。
と、そこで祐一が、思い出したように真琴の方を向き直る。
それに気付いた真琴が、自分の方を向くのを待ってから、祐一が口を開いた。
「で、真琴姉さんの方はどうだったんですか? ドミネーターはいませんでした?」
「ん? そうね……はっきりとわかるわけじゃないけど、多分いなかったわね」
みさきの能力ならまだしも、普通の能力者は、相手の能力や、そのタイプを簡単に知ることはできない。
巧妙に隠すから、というのは当然だが、本人でも気付いていない場合というのもあり得るし、完全に見抜くことは難しいのだ。
ましてや、相手の能力を見抜いたつもりでも、それを証明する術はない。
生死を分かつそんな情報を、相手が正直に白状するはずもないからだ。
結局、数少ない情報から、最も可能性の高いことを推察する以外に、できることはない。
「そうですか」
「えぇ。少なくとも、あなた達の求めてる、残りの二種類の能力の持ち主に関しては、両方とも間違いなくいなかったわね」
「はぁ……やっぱり簡単にはいかないですね」
ふぅ、と息をつきながら、天井を仰ぎ見る祐一。
目に飛び込んでくる明かりが眩しいはずだが、それを気にする様子も見せない。
しばらくその姿勢のままでいたが、やがて、その視線を真琴の方に戻す。
「とりあえず、もし見かけたら、連絡してくださいね」
「わかってるわよ、心配しなくても」
真琴は、軽く手を振りながら言う。
「美味しいです」
「そんな砂糖の塊付きのケーキって……」
「失礼ですよ、詩子。砂糖の塊ではないです。これにもパティシェの魂が……」
「甘過ぎない? ホントに」
「とんでもないです。もう少し甘い方がいいくらいですよ? やはり蜂蜜練乳ワッフルが……」
「茜ー、コーヒーにも砂糖入れすぎだよ」
この二人もまた、常と変わらず。
特に甘いケーキを選んで買ってきたはずなのに、茜にしてみれば、なお足りないらしい。
そんな様子を横目で見た祐一の表情が、若干引きつる。
甘いものが好きではない彼には、そんな茜の様子は、信じられないことなのだろう。
ごく普通の味覚の持ち主であるところの詩子も、少し引き気味だ。
いつ見ても、甘さ全開のデザートを普通に食べられる茜は凄い、と祐一は思う。
もっとも、そうなりたい、と思うわけではないが。
改めて真琴に向き直る祐一。
尋ねることは、まだあるのだ。
「それで、真琴姉さんはこれからどうするんですか?」
「え? あぁ、私? 一応これから秋子さんに呼ばれてるから、そっちに行くつもりだけど」
「秋子さん? 何でまた……」
「最初は、久々に顔見せに行くだけのつもりだったんだけど、さっき聞いたら、なんか、自分の子供達を鍛えて欲しいとか何とか言われてね」
「なるほど、そうくるか」
祐一が考え込む仕草を見せる。
予想以上に動きが早い。
状況から考えるに、おそらく自分達を追ってくるつもりだろう。
だが……
「でも、一体何年かかるかしらね」
そう言って、留美がコーヒーを口に含む。
どうやら、先程の真琴の真似事らしい。
乙女になるには、身近な手本を真似するのが近道とか何とか。
残念ながら、身に染み付いていないため、やはりどこか不自然に映ってしまう。
それでも、本人は満足そうにしているのだが。
いずれにせよ、彼女の乙女補完への道がかなり険しいことは、間違いないだろう。
『私達がどこにいるのかもわからないはずなの』
ケーキを食べる手を止めて、スケッチブックを掲げる澪。
口元についた生クリームのせいもあり、そんな姿もどこか微笑ましく映る。
ともあれ、その発言は真実。
祐一達の住む家を知る者は、ごく限られているのだから。
「確かに、“どこにいるか”は知らないでしょうけれど、“どこに行くか”は知っていてもおかしくないですよ」
そんな澪の言葉に返事をするのは美汐。
真琴に負けず劣らず、優雅な立ち居振る舞いを身につけている少女。
それ故、コーヒーを飲む仕草も堂に入っていた。
いや、風格すら漂っているように思える。
祐一は心の中だけでそっと呟く……年季が違うな、と。
「祐一さん、今何か失礼なことを考えていませんでしたか?」
「いんや、何も」
「……そうですか」
冷や汗が背中を一筋流れた感覚が、祐一を襲う。
美汐の勘が鋭いのか、祐一の思っていることが表情に出やすいのか。
『どういうこと?』
そんなやり取りを他所に、澪が美汐に尋ね返す。
首を傾げる仕草一つとっても、可愛らしく映る。
留美がそれを見て、何やら考え込んでいるようだが、それはまた別の話。
「……私達が神器を集めていることを知ったわけですから、“クレリック・ヒル”という答えに思い至る可能性は、かなり高いと考えておくべきでしょう」
美汐が、澪に優しげな表情を向ける。
その言葉に反応を示したのは留美。
「でも、“神書”はあたし達が持ってるのに……」
「秋子さんは知っててもおかしくないさ。あるいは、これから知ることができても」
「どうして?」
「あの人、世界的に有名な料理人なんだぞ? 国賓とかに出す料理も、全部秋子さんが作ってるらしいし」
「そっか、そういう意味でのコネがあるってわけね」
祐一の説明を聞いて、納得の表情を見せる留美。
大きく頷くその様は、どうひいき目に見ても、乙女のそれではなかったりする。
やはり、意識しなくては、そういう所作になってしまうのだろう。
幸か不幸か、それに気付いてはいないようだが。
「まぁ、ここの住所を教えたりはしないから、安心していいわよ」
「それについては心配なんてしてませんよ。真琴姉さんを信じてますから」
「そうね。で、あなた達の話になったらどうするの? どこまで話していいのかしら」
「それについては、真琴姉さんに任せます」
「わかったわ。ま、何にしても私は、秋子さんの料理をたっぷりと堪能させてもらうつもりだし」
「……もしかして、そのためだけに、秋子さんに連絡をとったんですか?」
「もちろんよ」
真琴が、流離いの錬金術師、と呼ばれていることには、当然のことながら理由がある。
後半は彼女の能力のためだが、前半は彼女の行動のためである。
彼女はとにかく、どこかに定住する、ということがない。
常にあちらこちらを旅し続けているのだ。
国を渡り世界を巡る放浪人……それが彼女。
故に、誰かが連絡を取ることからして難しいのだ。
何かに束縛されることを嫌う彼女は、携帯電話などの連絡手段も持とうとしない。
である以上、連絡の取りようもない。
たまに真琴の方から連絡してくるのを待つ以外には。
加えて言えば、真琴の存在は広く知られているが、真琴について詳しく知る者はほとんどいない。
早い話が、伝説のハンターとしてしか、その存在を知られていないのだ。
有名になるのが面倒だから、という理由だけで、真琴は、自分の正体を隠している。
存在するのは確かだが、顔も名前も、誰も知らない……世間では、そう認識されている。
普通なら、そんなことはできるはずもないが、彼女の能力がそれを可能にしていた。
流離いの錬金術師の異名は、名も知られていない彼女を呼ぶための記号。
いずれにせよ、真琴の正体を知る者は少ないのだ。
その結果、真琴についての情報が、どこかから流れてくることさえも期待できない。
ちなみに、真琴の方から連絡をとってくる可能性がある者も、かなり限られている。
祐一達や秋子は、その数少ない人の中に含まれている。
それを栄誉ととるかどうかは微妙なところだが。
「秋子さんの料理が目当てなんですね……?」
「もっちろんよ。世界の色々な料理を味わってきたけど、やっぱりあの人に勝てるような料理人はいなかったし」
若干呆れたような祐一の言葉にも、真琴はなんでもないことのように答えを返す。
げに恐ろしきは食への執念。
自身の身内に想いを馳せて、祐一はそんなことを考える。
「むむー……何か今悪口言われた気がするよー」
「……とりあえず、ケーキを食べる手を止めてから喋りなさい」
呆れ顔の雪見の声を聞き、みさきは釈然としないながらも、また眼前のケーキに取り掛かる。
追求よりデザート。
食への執念は、何よりも強かったりする。
「それじゃ、名雪ちゃん達のことは、後で知らせようか?」
「いや、別にいいですよ。たとえクレリック・ヒルについて知っていても、いつ俺達がそこに行くかまではわからないでしょうし」
「……それに、たとえ彼らが私達の前に現れたとしても、退けることは難しくありません。今より強くなっていたとしてもです」
祐一と茜は、淡々と告げた……名雪達では止められない、と。
そう……もう自分達と彼女達の道は交わらないということを、祐一達は、理解していたのだから。
いや、もう交わらせるわけにはいかない、と言うべきか。
「ふーん、ま、そうかもね」
「そんなことよりも、連絡手段を何とかしてくださいよ」
「嫌よ。何かに縛られたくないし。まぁ、これからはもう少し頻繁に連絡とってあげるから」
「……わかりました。お願いしますね」
そこで真琴が立ち上がる。
それに合わせて、全員が席を立つ。
向かう先は玄関だ。
「じゃあ、またね」
玄関先で、全員の顔を見渡しながら、真琴が別れの言葉を紡ぐ。
それに対し、反応はそれぞれ。
手を振って返す者、笑顔を返す者、一礼する者。
そんな中、祐一が代表するように言葉を発する。
「はい、また今度、ですね。あ、あと……」
別れの挨拶だけではなく、さらに何かを言おうとする祐一。
家を出ようとしていた真琴が、改めて祐一の方を見る。
「なぁに?」
「大丈夫とは思うんですけど……」
祐一の言葉は、なぜか歯切れが悪い。
それを見た真琴が、優しげに微笑む。
祐一が何を考えているか察したのだろう。
「秋子さん達のこと、心配なんでしょ?」
「俺達を住まわせてたわけですし、ね」
少し申し訳なさそうな表情。
それでも真琴は、微笑んだまま言葉を続ける。
「大丈夫よ。少なくとも、電話の感じでは、そういうのはなかったみたいだし。まぁ、もしもの時は、私が何とかするわ」
「……お願いします」
祐一の一礼に対し、任せて、と笑顔で言ってから、真琴が玄関から出る。
それを見送る祐一達。
真琴の姿が見えなくなるまで、祐一達はずっとその背を見送り続けていた。
それから、祐一達も家の中に入り、リビングへと戻る。
その道すがら、頭を切り替えたらしき祐一が、別の話を切り出す。
「さーて、と。じゃあ、これからのことを話し合うか」
「そうですね」
美汐が祐一の言葉に賛同した瞬間、祐一の携帯が着信を知らせる。
全員の意識が、そこに集中する。
「? 誰だ?」
祐一は、携帯をポケットから取り出し、画面に目をやった。
と、その瞬間に彼の表情に変化が訪れる。
「おやおや、これは予想外の展開だな」
不敵な笑みと不敵な言葉。
それを目にして、他の面々の表情に、興味の色が浮かぶ。
「誰からですか……なるほど、これは確かに意外ですね」
祐一の横から携帯の画面を覗き込んだ茜が、同じく薄っすらと笑みを浮かべた。
それはどこか楽しそうな表情。
「だろ?」
茜に対して笑ってみせると、祐一は携帯を耳にあて、その相手と会話を始めた。
続く
後書き
第一章の始まりですね。
長いんだよなぁ、ここから。
どれだけ修正していけるか……ある意味では自分との戦いです。
しかしまぁ、手探り状態から初めて色々と試しながら書き進めてる作品だけに、これもいい経験と言えるかもしれませんが。
とりあえず第三章まで完結させるのが目標です。
それではこれにて。