――十五年前、ルセイム地方、同日午後五時――
「あ、時間だ」
思い出話に花を咲かせていた二人だったが、ふと時計を見たミシルがそう呟いた。
少し疑問顔のユー。
「何なの?」
「やだなぁ、お姉ちゃん。今日はご馳走なんだよ」
満面の笑顔で言うミシル。
それを聞いて、少し目を大きく見開いたユー。
けれど、次の瞬間、優しそうな微笑みに変わる。
「そっか、そうだったわね」
彼女は、明日から家を出るわけだ。
されば、今日が家族と過ごす最後の夜、という言い方もできる。
もっとも、結婚後も家族としての意識がなくなるわけもないし、これからも一緒に食事をする機会など、それこそいくらでもあるはず。
とは言え、明日からは姓が変わるのだ。
だとすれば、やはり今日は特別な夜であり、特別な食事となるはず。
母親も、それ故に今日は思い切り腕を振るっていることだろう。
そんなことを思うと、やはり頬が緩むのを、ユーが抑えられるわけもなかった。
心を満たす感情に、微笑みを隠せるわけもなかった。
彼女は嬉しかった……家族のその想いが。
彼女は楽しかった……共に過ごした毎日が。
彼女は幸せだった……この家に生まれたことが。
どれだけ言葉にしても足りないくらい。
どれだけ笑顔を見せても足りないくらい。
神に感謝の祈りをいくら捧げても足りないくらい。
本当に、本当に幸せだった。
そして、今も幸せで。
明日からは、きっともっと幸せになれる。
予感ではなく、願いでもなく、それが当然のことと、彼女の心は認識していた。
だから、笑顔。
いつも、笑顔。
きっと、笑顔。
「そうだよっ! ほら、お姉ちゃん。行こっ」
そして、微笑む姉の腕を引っ張るようにして、食卓へ行こう、と促す。
少し苦笑交じりに、けれど優しげな微笑みを湛えたまま、ユーは立ち上がり、急かすミシルと共に歩き出す。
その手は繋がれたまま。
それは誰が見ても、幸せな姉妹の絵。
見ている方が微笑ましくなるくらい、平和な光景。
食卓に着くまでも、着いてからも。
二人の微笑みは絶えることはなく。
また、父母、弟も笑顔で。
母の作ってくれた料理は、確かにご馳走で。
普段は使わない食材と、普段は本棚に収まっているだけのレシピと。
けれど、そんなこととは無関係なくらいに、豪華で。
そう、深い深い愛情の込められた、手料理で。
父がかけてくれる祝福の言葉は、確かに優しくて。
溢れんばかりの祝福と、少しばかりの寂しさと。
けれど、そんなこととは無関係なくらいに、優しく。
そう、深い深い愛情の込められた、言葉で。
まだ小学生の弟も、よく分かってないだろうけれど、祝福の言葉をくれて。
たどたどしい言葉と、貧弱な語彙と。
けれど、そんなこととは無関係なくらいに、温かく。
そう、深い深い愛情の込められた、想いで。
食事の間中、会話が、談笑が絶えることはなく。
いつもは行儀がどうとか言う父母も笑って話に加わって。
みんな、楽しそうに。
食事の間中、笑顔が、笑い声が絶えることはなく。
父も、母も、弟も、妹も、そしてもちろん、姉も。
みんな、笑顔で。
楽しい晩餐だった。
そう、誰もがそう思える、最後の晩餐だった。
神へと至る道
第34話 自らの愚行に気付かぬ者
階段を下りた先の、少し広い部屋で。
そこにいたのは、二十人くらいの男達。
「おっと、お前ら。ここからは通行禁止だぜ」
明らかに余裕と見て取れる笑みを顔に浮かべて、男達の一人が祐一達の進路を阻む。
とりあえず、祐一達も動きを止める。
余裕の表情なのは、こちらも同じだった。
「通行禁止……ねぇ」
軽い調子の祐一の声が、広い部屋に満ちる。
どこかバカにしたような言葉だったが、男達はそれには反応しない。
「そのとおり。お前達に先に進んでもらっちゃ困るんでね」
男の声は、まだあくまでも冷静なまま。
少なくとも、自分達の優勢を疑っている様子はない。
祐一達の力を警戒している様子も、ない。
「あぁ、一つ言っといてやろう。お前らに逃げ道はないぞ。もう結界は張り直されてるからな」
「この遺跡内部を逃げ回るのなら話は別だが、追いかけっこなんて年でもないだろう?」
ふざけたような言葉に、男達の数人から笑い声が上がる。
自分達の勝利を疑わないが故の心の余裕。
追いかけっこも楽しいんじゃないか? などと揶揄するような言葉も飛び交う。
「そうか、やっぱり結界は張り直されてるんだな」
男達のからかいの言葉を無視するかのように、祐一が納得の表情で呟く。
それを聞きつけたのか、男の一人が、笑いながらさらに言葉を続ける。
「そういうことだ。だから、救いを求めても、悲鳴を上げても、誰にも届きはしないぜ?」
そこでまた笑い声が上がる。
祐一達の余裕の表情を、虚勢と見て取ったのか、それともよほど自分達の力に自信があるのか。
いずれにせよ、その言葉に含まれているのは、明らかなからかいの意思。
強者が弱者を嬲ろうとする際に、よく見られる類のもの。
祐一達からすれば、それは実に好都合だった。
ゆっくりと、祐一がその場にしゃがみ込む。
その右手は、地面にぴたりと触れさせている。
それに気を取られる男達。
と、その隙に、部屋の左側にあった通路に走りこむ少女四人。
「あ、逃げましたよ?」
「ほっとけ、後で追えばいい」
場に二人残り、他の四人が逃げ出している状況。
それを指摘されても、リーダー格の男は動じなかった。
出口は完全に塞がれているのだ。
どこに焦る必要があろうというのか?
まずは目の前の二人を殺し、後から四人を追えばいい。
彼はそう考え、視線を目の前から逸らさずにいた。
きっかり三秒後、地面から手を離し、立ち上がる祐一。
黙って立っているみさき。
男達は、祐一が立ち上がったのが合図になったかのように、各々行動を開始すべく、一歩前に踏み出す。
一触即発の空気。
「さて、と……」
とんとん、と爪先で床を叩きながら、祐一が目の前で殺気立つ男達に目を向ける。
一対多人数……数の上では圧倒的に男達の方が有利な状況。
けれど祐一の表情に焦りはない。
「じゃ、相手してやるから来いよ」
足を下ろした祐一は、そこから飛び掛るのかと思いきや、その場に止まったまま、くいくいと指を動かしながら男達を挑発する。
顔に浮かぶのは、勝利を確信しているかのごとき余裕の笑み。
単純な挑発だが、自分たちの優勢を疑っていない男達には効果覿面だったようだ。
「ガキが……」
一段低い声音が、男の口から漏れる。
完全に頭にきてしまったらしい。
先頭の男が、そんな怒りの表情のまま、懐から銃を取り出し、祐一に向けていきなり発砲してきた。
階段の最上部まで飛び上がって後退するみさき。
後方ではなく、向かって右側へと飛び出す祐一。
二人とも、この銃弾は難なく回避することができた。
だが、この発砲は威嚇にしか過ぎないもの。
銃弾を回避するほどの速度で動いている状況では、攻撃も防御も満足にできない。
そう考え、それぞれが手に持っている武器を振りかぶって、祐一に叩きつけるべく第一歩目を踏み出した。
飛び出した状態の祐一にできることなど何もない、と判断しての行動。
すべき警戒を完全に怠っての行動。
そして大きく前に踏み出したその足が大地についた瞬間に。
そう、まさにその瞬間に、勝負は決していた。
ズドドッという重く響く音とともに、男達の体を、何かが貫いていった。
浮き上がる体。
静止する時間。
「な……」
後方にいたために動き出さなかった数人が、驚愕の表情を見せる。
そして次の瞬間……目の前が血の赤に染められた瞬間、それは恐怖へと変わる。
前へと足を進めた男達は、何も理解できていなかった。
なぜ、自分の体が宙に浮いているのか。
なぜ、腹部に強烈な痛みを感じるのか。
なぜ、自分の腹部と大地が異物で繋がっているのか。
何のことはない。
大地から槍のように隆起した岩石が、一瞬のうちに男達の腹部を貫いていただけ。
そして、その突起物が消失した瞬間、大量の血が広間へと盛大に飛び散る。
ドサドサ、とまるで重い荷物が地に落ちたかのような音とともに、男達の体が場に転がる。
ピクリとも動かないその体からは、なお血が零れ続けていた。
床といわず壁といわず、真っ赤な血に塗られ、むせかえるような血の匂いが部屋に充満する。
それは、生き残った数人の男を恐怖させるに足るだけの、血の狂宴。
視覚を、嗅覚を、聴覚を。
鋭く刺激する、血の彩り、血の匂い、血の噴出音。
どうしてこんなことができるのか……それは男達にはわからない。
だが、大したことはないと高を括っていた相手がこれを成したことだけは、理解せざるを得ない。
凶悪なまでの攻撃手段を目の当たりにして、男達の心を、恐怖と絶望が侵食してゆく。
絶対的に有利であったはずなのに。
数でも、そして質でも、負けるはずがないと思っていたのに。
六人の人間を殺すだけの、楽な仕事のはずだったのに。
強者は、自分達ではなかった。
場を支配している者は、自分達ではなかった。
狩る者は、自分達ではなかった。
「存外楽にいったな」
飛び出してすぐに急制動をかけたのか、少し離れた位置で立っている祐一。
軽く肩をすくめながら、静かに呟く。
そんな声でも、静寂に包まれた部屋にはよく響いた。
だが、男達にはそれに反応できる余裕など、もはやなかった。
「にしても、結構残ってるな。あとは……七人か」
呆然とする男達を指折り数える祐一。
その変わらない調子に、ビクッと男達が身を振るわせる。
恐怖に身を固めていた男達だが、それを上回る恐怖が体を動かす。
死をもたらす者への恐怖から、自分が殺される恐怖へと。
恐怖の種類が、変わったのだ。
先程までとは何も変わらない様子の祐一。
だが、男達は先程とは違う。
恐怖を味わい、恐怖に負けた。
心の折れた、敗者。
津波のように押し寄せる恐怖と敗北感に心乱されながら、男達はようやく理解した。
「じゃあ、さっさと済ませるか」
自分達が、ジョーカーをひいてしまったのだ、ということを。
「うっ……うわあああぁぁぁーっ!」
祐一が足を進め始めた瞬間に。
祐一の目が、自分達に向けられている、と完全に知覚した瞬間に。
男達は、恐怖に圧されて、恐怖の叫びと共に、後ろへ向かって駆け出した……いや、逃げ出した。
殺される……死にたくない……そんな叫びを、延々と、延々と。
声の限りに、呼吸の限りに、続けながら。
足が動く限り、体力が許す限り、少しでも遠くへ、ただ遠くへ、駆け抜けながら。
どこかに逃げ道は? どこかに逃げ道は? どこかに逃げ道は?
「あぁ、一つ言っといてやろう。お前らに逃げ道はないぞ。もう結界は張り直されてるからな」
誰か助けてくれ! 誰か助けてくれ! 誰か助けてくれ!
「そういうことだ。だから、救いを求めても、悲鳴を上げても、誰にも届きはしないぜ?」
恐怖に顔を歪めながら。
死神の笑い声に耳を塞ぎながら。
出口のない迷路を。
救いのない舞台を。
男達は迷走し続ける。
全ては男達自身が言ったとおり。
逃げ道はない。
救いもない。
ただ、強者に弱者は屠られるのみ。
もう、選択肢は何も残されていない。
殺すことしか考えていなかった者が。
死ぬ覚悟のできていなかった者が。
その現状を受け入れられるはずもなかった。
半ば狂ったように、ただただ走り続ける男達。
しかし不幸にも、完全に狂うことはできなかったらしい。
「追いかけっこ……あんまり楽しくないな。嘘はよくないぞ」
目の前に現れた死をもたらす者に、恐怖することができたのだから。
「ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!」
はっきりと聞こえる悲鳴……逃げ回る男は、再び身を震わせる。
それが遠くから聞こえるのか近くから聞こえるのか、それさえもわからない。
これでもう五度目。
すでに逃げた七人のうち、五人が殺された。
恐ろしい……怖ろしい……
一瞬で十人以上の人間を死に追いやり、今そして、一人ずつ一人ずつ、自分達を死へと誘っている。
まるで死神。
それは恐怖の体現。
自身に迫るものは、確実に約束された、死。
男は恐怖し、後悔し、ただ走り続けていた。
それにより回避できる存在なのか、ということは一切考えず。
目には涙さえ浮かべ。
驚愕を顔に貼り付けたまま。
まるで、走る自分をひたひたと追いすがるように、すぐ後ろで響く元仲間の絶叫。
恐怖と苦痛と絶望に彩られた、絶叫。
それにより、さらにかきたてられる恐怖。
刻一刻と迫る最期の時。
静かに、確実に、自分に迫る死神の足音。
まるでずっと死神に鎌を首に押し当てられているような。
まるでずっと死神に耳元で笑われているような。
そんな根源的な恐怖が。
狂いたくなるくらいに。
狂えないくらいに。
そんな絶対的な脅威が。
少しずつ、少しずつ、男の傍まで歩み寄ってきていた。
「ぎゃあっ……!」
先程よりもなお近く。
六人目の悲鳴。
もう、最後の男は、言葉を口にすることもできない。
何かを考えることさえできない。
ただ、走るだけ。
意味もなく、走るだけ。
だが、恐怖に歪んだ顔はそのままに。
なぜか、口元には薄笑いが浮かんでいた。
男の視界の端に、あるものが飛び込んでくる。
薄暗い壁の傍から、死神が顔を出していた。
笑いもしない、怒りもしない、無表情な死神が。
少なくとも、男の目にはそう映っていた。
もう、笑うこともできず。
恐怖を恐怖と感じることもできず。
「お前で最後か」
そんな最期の言葉さえも知覚できず。
牙を剥く狼のように、自分の顔面を喰らい尽くさんばかりに迫る死神の手を見つめながら。
「じゃあな」
頭部が胴体から離れた瞬間に、男はようやく解放された。
「ちょっと時間かかっちまったな。で、みさき。佐祐理達が今どこにいるかわかるか?」
祐一が、手の汚れを拭き取りながら、みさきに問いかける。
駆け寄ってきたみさきは、息を切らすこともなく、祐一の問いに答える。
「ばっちりだよ。早いね、もう地下三階。誰かと交戦中かも。割と近くに別の人間がいる」
「そっか。そっちは手強いかもしれないな……」
「そうだね、急いだ方がいいと思う」
奥へ進む連中とさっきまでの連中……任務を考えれば、どちらが強いかなど考えるまでもない。
となれば、ここからは楽にはいかないと思っていた方がいいだろう。
急ぐに越したことはない。
「じゃ、気を引き締めていくか」
「うんっ。こっちだよ」
祐一に進む方向を示しながら駆け出すみさき。
そしてそれに続く祐一。
その表情には、余裕の色は窺えない。
まだ、遺跡攻略は始まったばかりなのだ。
本当の勝負は。
本当の争奪戦は。
まだまだこれからが本番。
まずは先に行った四人に合流すべく、二人は駆け続けた。
続く
後書き
下手に手を加えられない……(汗)
早いところ完結まで持っていかないと、もうどうにもならないなぁ、と焦る気持ちがありますが、こればっかりはどうにもならなくて。
第三章の終わりまでなんて、いつまでかかることやら(涙)
他にも色々と書きたいSSなんかもあるし、なんとか早いこと形にしたいところですね。
ホント改訂作業って地味にしんどいなぁ。