――十五年前、ルセイム地方、同日午後七時――
「たっ……大変だっ!」
既に日も暮れ、暗くなり始めていた時間。
未だに談笑を続けていたミシル達の家に、血相を変えて飛び込んでくる者がいた。
それは、ミシル達の右隣の家に住む人物。
この一家とは家族ぐるみの付き合いをしている、そんな親しい人だった。
そんな人が、息せき切って、驚愕を顔全体に広げた状態で駆け込んでくれば、まずは驚いてしまうだろう。
どう見ても尋常ならざる事態。
何か、よくない出来事を連想させる、そんな事態。
「……どうしたんですか?」
真っ先に平静を取り戻したのは、母。
真剣な眼差しで、駆け込んできた友人に問いかける。
「武装した連中が攻め込んできやがった! 狙いは多分“白銀”だ!」
「何だとっ?!」
その言葉に、父が立ち上がる。
ミシルは、未だ反応できない。
「だとすれば、この前の連中か……?」
「多分な。まさか力ずくでくるとは思ってなかったが……くそっ!」
言葉も荒く、強い語調で話し続ける二人。
穏やかな雰囲気は、完全に霧散してしまっていた。
話している内容は理解できなかったけれど、それでもミシルは恐怖した。
何かよくわからない、得体の知れない恐怖が、彼女の身を震わせる。
自分のよく知る二人の。
笑顔しか知らない二人の。
厳しい表情と厳しい言葉を見聞きして、青空を塗り潰す黒雲のように、不安が彼女の胸中に広がる。
それは恐怖。
それは予感。
「まずいな……今、誰が出られるんだ?」
「とりあえず、戦えるヤツらは、街の入り口付近に集合するように言ってる。だから……」
「もちろん、私達もいくさ。おい!」
「えぇ、わかったわ」
「お父さん! お母さん!」
堪らず声を……いや、悲鳴を上げるミシル。
なぜかはわからないけれど、ミシルは涙が零れそうだった。
気を抜けば、泣き出してしまいそうだった。
どうして?
どうして?
さっきまで、あんなに優しかったお母さんが。
さっきまで、あんなに温かかったお父さんが。
どうしてこんなに、怖いのだろう?
どうしてこんなに、不安なのだろう?
彼女の胸を、そんな不安と疑問が過ぎる。
おしてそれは、きっと表情にも。
「ミシル……」
ミシルの声を聞いた母が、彼女の肩に優しく手をやり、そっと微笑んだ。
目と目が合い、互いの意志を伝え合う。
「お母さん……」
「大丈夫、心配しないで……」
具体的なことは、何も言ってくれなかったけれど。
ただ、優しく、温かく紡がれた言葉で、ミシルの心は少し安定する。
何より、母と父の心を乱してはならない、と。
そう思ったから。
そう感じたから。
何とか、笑顔で。
どうにか、笑顔で。
「うん……」
それだけの返事。
これが、今の彼女の精一杯。
けれど、その想いは二人に通じた。
「ユー、ミシルとランドを頼んだぞ」
「お願いね、ユー」
「分かったわ。父さん、母さん、気をつけて……」
泣き出しそうな弟――ランドを慰めてやりながら、ユーが父と母の声に答える。
ユーの表情は、知る者のそれで。
ミシルの表情は、知らぬ者のそれで。
「さ、二人とも。教会に避難しましょう」
そして、父と母がいなくなってすぐに、ユーがミシルとランドの手を繋いで、家を出る。
既に日も落ち、辺りは暗闇に覆われていた。
静寂の中、ユーは、ただ前だけを見て、真っ直ぐに教会へと向かう。
迷いなく歩くユー。
そんな最中、ミシルは見た。
闇にあってなお、見えた。
姉の頬を流れる、一滴の涙を。
今はまだ、なぜ姉が泣いているのか。
何を、姉が悲しんでいるのか。
ミシルが知ることはない。
神へと至る道
第36話 罠にかかったのは誰なのか
祐一達が遺跡に姿を消してから、一時間も経たない頃。
遺跡の入り口で、レベラインは、不安と憎悪の間の葛藤に苦しんでいた。
――まさか、閉じ込められるなんて……――
自分にかかる危害については配慮していたが、祐一達のことは考慮に入れていなかった。
目の前で、再び結界が張られるのを見て、内心驚愕と悔恨を感じずにはいられなかった。
まず何より、敵の数が多い……いくら彼らがS級賞金首に指定されているといっても、その理由は、彼の能力の特異性に因るものが大きいと聞く。
となれば、五十人もの能力者が相手という状況には、不安を抱かずにはおれない。
加えて、遺跡は、A級ハンターをして、全滅寸前まで追い込まれたような場所。
あるいは、何かとんでもない化け物でも生息しているのかもしれない。
となれば、生きてこの遺跡を攻略できるかどうかさえ危ぶまれる。
そして、もう一つ。
いくら祐一達が強くとも、現在洞穴の入り口を覆っている結界は、力業で解除できるものではない。
外から、術者が直接解除するしか方法はないのだ。
だが、もし自分があの執事を捕らえ、解除を強制したとして、それに応じるかどうかもわからない。
つまり、彼らが永久にこの遺跡に閉じ込められる可能性もあることになる。
内部にいる祐一達には、この結界を解除することはできない。
外部の自分でさえ、解除できるかどうかわからない。
されば、彼らがここから脱出することができるかどうかも、わからない。
まさか、こんなことになるとは、彼女は思ってもいなかった。
――……いいえ、これも言い訳ね――
けれど。
彼女は、心の内で自嘲気味に笑う。
そう、まるで計算外と言う訳ではなかった。
十分、予想できていたはずの事態。
それでもなお、彼らにはそれを告げなかった。
――そう、私にはしなければならないことがある――
復讐を決めた彼女にとって。
何より優先すべきは、それを成就させること。
何を差し置いても。
何を犠牲にしても。
その復讐を成し遂げなければならない、と思っていた。
成し遂げる以外に自分にすべきことはない、と思っていた。
自分自身のために。
そして、自分の愛する者達のために。
それがたとえ、自分と無関係の人達を巻き込んだとしても。
無関係の祐一達を危険にさらしたとしても。
――そう、絶対に復讐を果たさなければならないのよ――
許せなかった。
絶対に、許せなかった。
たとえ幾度謝罪を受けようとも。
幾度相手の身を切り刻もうとも。
そう、連中の死でもってしても、なお許せない。
断じて、許せない。
――許されるとは思わない……だけど……ごめんなさい――
だから。
彼女は、祐一達を利用した。
神器を求める彼らを、利用した。
自分が財産を狙っているのだ、と。
自分の戦力が彼らだけだ、と。
連中に思わせるために。
連中を油断させるために。
その意味では、彼らはうってつけの存在だった。
金のない彼女でも雇える強者……そんな存在は、祐一達をおいて他にない。
申し訳ないと思う。
許されることではないとも思う。
それでもなお。
それがわかっていてもなお。
彼女は、祐一達を犠牲にすることを選んだ。
祐一達を、生贄に選んだ。
――復讐が終わったら……――
復讐さえ成し遂げたら、それ以上望むことはない。
愛する者達の無念を、少しでも晴らすことができれば。
それ以上、すべきこともないだろう。
だから、復讐が完了した時には、彼らを何とか結界から解放しよう。
そして、許されることはなくとも、彼らに謝りたい。
――……あと、少し……――
準備は万全。
覚悟も完全。
目の前には、憎い憎い……どれだけ憎んでも憎み切れない二人。
そして、その憎い連中の仲間。
この場にいる全員が、彼女の復讐の対象。
――あと少しで……――
ここまでは予定通り。
けれどまだ、状況は完全じゃない。
全ては手筈通りに。
そうすれば、きっと成功する。
絶対に、上手くいく……上手くやってみせる。
握り締めた両手が痛い。
からからの喉が痛い。
抑えている心が痛い。
涙を流せない目が痛い。
全てが終わる瞬間が。
そんな、長く渇望していた瞬間が。
もう、目前まで迫っていた。
「さて、と……」
「あぁ、そろそろ頃合だな」
と、それまで沈黙を守っていたシリックとミランが口を開いた。
その口の端に浮かんでいるのは、小さな笑い。
その声は、どこか不快なノイズに思えた。
言葉をそのまま受け取れば、何かを企んでいるのだろうが。
「……」
沈黙を守るレベライン。
この二人の意図が読めなかったからだ。
一体、何を考えているのか。
一体、何を狙っているのか。
「もう下手な芝居は止めるんだな」
「いい加減本性を見せたらどうだ?」
二人が、レベラインを見据え、そんな言葉を発する。
そこに見えるのは、やはり笑い。
自身の優位を信じて疑わぬ者の、笑い。
「……何のことでしょうか? お兄様方」
もう隠せない。
もうその必要もない。
奇しくもこの二人の言葉通り、確かに頃合だ。
周囲のエネルギーを見やり、そう確信し、だから敢えてそんな言葉を紡ぐレベライン。
敬意も何も見せず。
侮蔑の色を隠さず。
冷ややかな目と、冷ややかな声で。
「ふん、白々しい」
「女狐が……そういうところは、本物のレベラインと変わらんな」
吐き捨てるように言う二人。
もう、この二人にも隠す意図はない。
隠す意味もない。
見れば、レベライン以外の全員が、二人の方へと歩み寄り、レベラインを……いや、レベラインの偽者を睨んでいた。
いや、睨んでいたというよりも、蔑んでいた、と言うべきか。
明らかに見下している目。
敵意と言うにも生温い、そんな眼差し。
下手な舞台の幕は、どうやら下りてしまったようだ。
「……そうね、あんた達みたいな薄汚い連中の近くになんて、これ以上いたくないわ」
彼女が、我慢の限界とばかりに、本音をぶちまけた。
怒りと憎しみに満ちた視線を、目の前の二人にぶつける。
「ようやく本性を表したか」
「だが、一人で何ができるというんだ?」
余裕を崩さず。
高圧的な態度も変わらず。
見下した視線も変わらず。
二人がからかうように聞く。
彼女が何もできないことを確信しているらしい。
彼女が一人なのだ、という確信でも持っているらしい。
相手が予想通りの認識を持っていることに安堵する心を隠して、キッと二人を睨みつける。
「私達の痛み、苦しみ……あんた達に、思い知らせてやるわ!」
その言葉を合図に、奥の茂みから、洞穴の上にある山から、そして庭先から。
一斉に二十人もの人間が飛び出してきた。
それぞれにエネルギーを展開している者達……紛れもなく能力者。
そう、この場に突如として現れたのは、能力者……彼女の切り札。
彼女の仲間達。
同じ街の出身者。
痛みを同じくする者達。
彼らへの復讐という意思を共有する同士。
遺跡探索に大勢の戦力を割かれる状況故に、成立し得る切り札。
相手のボディガードもそれなりの強さを持っているだろうが、彼女達とて負けてはいない。
相手は十人。
彼女達は二十一人。
数の上では、間違いなく有利。
個々の戦力にしても、決して劣らぬはず。
故に、彼女は確信する。
自分達の勝ちだ、と。
あの二人を……憎き二人を、この手で殺せるのだ、と。
十五年間切望してきた、復讐の成就が成るのだ、と。
「覚悟しなさい……みんなが味わわされた苦しみを、今度はあんた達が味わう番よ!」
だが。
「ほぉ……」
「これはこれは……」
二人に、焦りの色はなかった。
いや、周りの人間も、同じ。
そこで彼女は、初めて疑問を感じる。
なぜ、こいつらは恐怖を感じないのか?
なぜ、こいつらはこの状況でも余裕でいられるのか?
能力者に囲まれた状況で、なお余裕を保っていられるとすれば、それよりも強い能力者がいるケースくらいしか考えられない。
だが、今この場所において、戦闘に耐え得る能力者は、自分の切り札の二十人と、『アルハース家』のボディガードくらいのもの。
それなのに、なぜ……?
「くくく……まだ気付かないのか?」
「めでたいヤツだ」
と、そこでようやく彼女は気付いた。
自分の仲間たる能力者の様子に、気が付いてしまった。
彼らが、震えていることを。
彼らが、戦闘の意思を持っていないことを。
彼らが、敗者の表情をしていることを。
「っ! あんた達! 何を……何をしたのっ!」
彼女の叫びは、どこまでも憎悪に満ちていた。
彼らの、申し訳なさそうな、悔しそうな、そんな表情を見れば、一体何が起こったのかなど、想像に難くない。
それ故に。
二人への……そして、『アルハース家』への憎しみを。
既にこれ以上ないくらいに高まっていた憎しみを。
さらに高め、限界以上に高め。
尋常ならざる眼で、連中を睨みつける。
「ふん……浅い知恵だな。お前の動きは情報屋から筒抜けだったんだよ。所詮お前達では、金の力には勝てないということだ」
「そして、こいつらの存在も知ったんでな……ちょっと、言うことを聞いてもらっただけさ」
ニヤニヤと笑う二人。
薄笑いを顔中に広げ、これ以上愉快なことはない、と言わんばかりの表情で、静かにそんなことを言う。
勝者の勝ち誇ったような表情。
敗者への蔑みの視線。
どこまでも不快で、どこまでも憎憎しい。
けれどそれは確かに、覆せない事実に基づいた、結果を知る者の表情。
「何をしたと聞いているのよっ!」
もはやヒステリックな叫びとしか言えない言葉の羅列。
聞いている方が悲しくなる、そんな叫び。
彼女の仲間たる能力者達は、屈辱と敗北感と申し訳なさに打ちひしがれ。
彼女自身もまた、屈辱と敗北感と申し訳なさに打ちひしがれ。
シリックとミランは、愉悦と勝利の余韻に浸り。
他の『アルハース家』の人間もまた、愉悦と勝利の余韻に浸り。
もう、この場の勝敗は、完全に決していた。
絶対に覆らない結果が、既に見えていた。
「なーに、ちょっとこいつらの家族を、俺達のところに招待してやっているだけだ」
「そういうことだ。まぁ、お前らが俺達に逆らわなければ、無事に帰ることができるわけだが、な」
そう話しながら、さも可笑しそうに笑う二人。
おかしくて仕方がない。
愚かしくて仕方がない。
二人の眼には、ありありとそんな色が浮かんでいた。
彼女の策は、始まる前から既に破綻していたのだ。
ギリッ……と、唇を噛み締める。
口の中に広がる苦い味……鉄のようなそれは、まるで敗北の味。
根回しが完全だったのは、自分ではなかった。
準備が万端だったのは、自分ではなかった。
そんな思いが、彼女の心を蝕んでゆく。
取り得る手段など、もはや存在しない。
できることなんて、もう何もない。
「……この、悪魔め……」
だから。
「悪魔か……くっくっく、言うなぁ」
「ははは、笑わせてくれるじゃないか」
もう、自分に勝ち目がないことを……復讐を果たすことができないことを……
「さて、どうする?」
「ふむ……ただ殺すわけにもいかんしな」
知らされてしまったから。
「なら、オーソドックスに、侵入者を撃退した、という形にしておくか」
「それがいいな。危険能力者を撃退、か」
悟らされてしまったから。
「よし、お前ら。その女を押さえてろ」
「大事な家族のためだ。もちろん逆らえないよなぁ」
だから、何もできないまま、無念の死を、受け入れるしかなかった。
――みんな……ごめん……――
涙は流れず。
声も出せず。
けれど、泣いていた。
彼女は、泣いていた。
吹き抜ける風だけは、それをわかってくれていたのかもしれない。
ともあれ彼女は、涙も見せずに、声も出さずに、泣くことしかできなかった。
何もない彼女に残されたのは、そんな空虚なものだけだった。
続く
後書き
祐一達が未登場の話っていうのもちょっと問題な気がしないでもないですが、まぁ必要措置ということで。
ようやく話も終わりに近づいてきました。
それはつまり改訂作業自体も終わりに近づいてきているということでもあるわけで。
ちょっと前向きになれそうな気が(笑)
頑張ろう、うん。