――十五年前、ルセイム地方、同日午後九時――
ユーと神父が戻ってくるのに、それほどの時間がかかったわけではなかった。
だがミシルには、そんな短い間にも、もう数時間が経ったのではないか、とさえ思えた。
そう感じるほどの重さを、この空間は持っていた。
「お姉ちゃん……」
「……大丈夫よ」
不安げな声に、微かに表情を曇らせながらも、何とか微笑みを浮かべるユー。
言いようのない不安と戦っているのは、何も二人だけではない。
だからか、ミシルもユーも、それ以上喋ることはなかった。
「……クリスさんがいてくれたら」
「……」
クリス……ユーが、明日結婚することになっている人の名。
その名が、ミシルの口から無意識に紡がれた瞬間、はっきりとユーが表情を曇らせた。
それも無理はないところだ。
彼は今、この街にいないのだから。
そして、いない理由は、翌日の二人の結婚式のためだったのだから。
あるいは責任を感じているのかもしれないし、不安があったりもするのだろう。
彼がいてくれたら……そう思っているのは、二人だけではない。
なぜなら、彼は、能力者としても優秀な人間なのだから。
もし彼がいれば、間違いなく皆の先頭に立って戦っていたことだろうから。
「あ……ごめんなさい」
ユーの表情から、自分の失言に気付いたミシル。
「ううん、いいのよ。それに、きっとすぐに帰ってきてくれるわ」
俯くミシルの頭を優しく撫でながら、ユーがそんな言葉を口にする。
希望的観測。
楽観的思考。
けれど、そんなものにでも縋りたい気分なのだ。
ミシルと違い、ユーは、現状をしっかりと把握できてしまっているのだから。
絶望的状況に。
破滅的状況に。
今、自分達がいることを。
そんな知りたくもないことを、しっかりと、はっきりと。
だから、ユーは覚悟を決めていた。
悲壮な、覚悟を。
心の中だけで、そっと謝る……愛する人に。
何となく、予感があるから。
おそらくそれは実現してしまう……そう、思うから。
微かにしか聞こえていなかった、そんな遠かった戦いの声が、激しい音が、もう教会にまで届いていたから。
「……ミシル」
決意を秘めた目で、ミシルを見るユー。
周りでは、神父が、彼女と同じように、大勢の人間に何かを話している。
「なぁに? お姉ちゃん」
弱弱しい目で姉を見るミシル。
その小さな胸を不安で潰し。
その優しい心を恐怖で潰し。
そのことが、何よりユーには辛く苦しい。
「……今から、ここも危険になるわ。だから、あなたは隠し部屋に避難してなさい」
「お姉ちゃんは?」
「隠し部屋は、一人用のものしかないの。だから、みんなバラバラに避難することになるわ」
「……」
不安に揺れる瞳。
心を痛めていることが、容易に見てとれる。
「大丈夫、きっと皆助かるから……ね?」
せめて。
せめて、この心優しい、愛する妹と弟だけは助けたい。
その心を、安心させてあげたい。
だからこそ、時間がないけれど、ゆっくりと説得する。
少しでも、笑顔で。
何とか、笑顔で。
神様、どうか今、私の微笑みが引きつっていないことを……
心からの祈り。
彼女が願うのは、自分の幸せではなかった。
目の前まで来てくれていたのに。
あと少しで掴めていたのに。
それでもなお、ユーは自分の幸せを願わない。
祈らない。
「……うん。お姉ちゃん、絶対に、明日会えるよね。明日は……」
言葉にならない。
言葉にできない。
「……えぇ、きっと、ね」
それは、嘘。
優しい、嘘。
残酷な、嘘。
悲しいほどの笑顔で。
哀しいほどの声で。
切ないほどの想いで。
泣きそうな目を。
叫びそうな口を。
屈しそうな心を。
ユーは、何とか持ち堪えさせる。
気を抜けば、ダメになる。
決壊寸前の防波堤のように、ひびだらけ。
それでも……
「うん……」
ミシルは、それだけを言うと、静かに歩き出した。
神父に誘導される人達と並んで、ユーの手をしっかりと握って。
ともすれば泣き出しそうな心を、どうにか抑え込んで。
姉も泣きたいことが、ミシルにもわかったから、だから何とか抑え込んで。
「……さ、ユー、これを飲みなさい」
隠し部屋の前までくると、そう言ってユーが、透明な液体をミシルに渡す。
「これ、なぁに?」
ミシルが聞く。
「睡眠薬よ。物音をたてるわけにもいかないからね」
そして、ミシルの手に持たせる。
ミシルは、少し躊躇ったが、姉への信頼もあり、それを静かに飲み干した。
味はない。
何も、ない。
「さ、ミシル……」
ユーが部屋にミシルを押し込む。
一人分の狭い部屋……不安げな眼差し。
「……」
ただ黙って、その額にキスをして、笑顔を見せるユー。
ミシルはもう、眠くなり始めているらしい……閉じられつつある瞳が、そこにあった。
「お……姉ちゃん……きっと……」
「えぇ、きっと……」
そして、扉が閉じられた。
静かに、静かに。
「……ミシル、ごめんなさい、せめて、あなただけでも、生きて……」
そう言い残し、一滴だけ零れた雫を廊下に残し、ユーは歩き去った。
あとは、眠る弟を避難させるだけだから。
ただ、それだけだったのだから。
しかし、それが叶うことはなかった。
弟を避難させることは、できなかった。
ユーの、最後の願いは、叶えられなかった……
神へと至る道
第38話 その眼差しに曇りはなく
祐一とみさきは、男を倒した後は、ただ走り続けていた。
あとは先行する佐祐理達に追いつくだけ。
さすがに、もう残ってる敵はいないのだろう。
少なくとも、祐一達の近くにはいない。
「さて、もうあいつら最下層に着いちゃったか?」
「ううん、まだだね、その少し手前で誰かと戦ってる」
「そっか。じゃあ追いつけそうだな」
「うん、すぐ追いつくよ」
話しながらも駆け続ける二人。
先程の戦闘のダメージはあるだろうが、それでも行動に支障をきたすほどではないらしい。
祐一も、普通に走っていた。
「……お!」
「あっ!」
それからしばらく走ると、ようやく二人は佐祐理達に追いついた。
どうやら、今ちょうど戦闘が終わったところらしい。
「あ、祐一さん、みさきさん」
「ちょうどいいところですね」
「お疲れー」
「お疲れさま、二人とも」
四人の少女達が、二人を静かに迎える。
祐一もみさきも、四人の側まで駆け寄って話しかける。
「おう、佐祐理も茜も詩子も留美もお疲れ」
「みんなのおかげで、一回だけしか戦闘はなかったよ」
みさきのその言葉に、少し驚く少女達。
彼女達は、敵を全て撃破してきたと思っていたのだ。
だが、もしかしたら、見逃していたのかもしれない。
何となく、責任を感じているような、そんな空気を見てとった祐一は、説明を始める。
「あぁ、俺を狙ってたヤツだった。ま、倒しといたけどな。で、悪いけどさ、佐祐理、これ治してくれるか?」
そう言って、両腕を見せる祐一。
そこにあったのは、そこまで重度ではないにしても、決して軽度ではない火傷。
何でもないような顔を見せてはいても、かなり痛むはずだ。
それを見て、佐祐理が急いでファイルを出現させ、一枚の紙を取り出す。
――
妖精の祝福
――
その紙が虚空に消えた瞬間、佐祐理の右手が淡く光を放ち始める。
白くて柔らかい、暖かな光。
その光は、佐祐理の右手を完全に包み込んでいる。
その手を、静かに祐一の腕に触れさせる。
と、祐一の腕が少しずつ癒されてゆく。
祐一の能力
のように即効性はないものの、それでもこれは、確かな癒しの力。
自分に対して能力を使えない祐一にとって、この佐祐理の能力の存在は、極めて重要である。
「……はい、これで大丈夫です」
しばらくして、にっこりと笑う佐祐理。
それから、静かに患部から手を離す。
「うん、完璧。ありがとな、佐祐理」
ぐるぐると腕を回しながら、笑顔で祐一。
火傷は、傷跡も残すことなく、完全に治っていた。
「それでは、最下層に行きましょう」
茜が、目の前の階段を見据えつつ言った。
他の五人も、無言で茜に倣う。
六人の全員が、これまでの道程で、地下に行くほど闇が増してくるような感覚を持っていた。
そして、目の前にあるこの階段の先は、完全な闇。
故に、警戒せざるを得ない。
この先に何が待ち構えているのか、全くわからないのだから。
「……気になってたんだよな、やっぱりさ」
突然、口を開く祐一。
それと同時に、ゆっくりと歩き始める。
「……そうですね、ここまでの道程は、楽に過ぎましたからね」
そう言いながら、祐一に続く佐祐理。
続く全員が、階段へと歩を進める。
「とてもじゃないけど、A級ハンターが数十人死ぬほどの迷宮とは思えないわね、確かに」
留美がそんなことを口にする。
厳しい目で階下を見据えながら、踏みしめるように階段を下りていく。
「でも、神器を隠す時には、死んじゃったんだよね」
詩子が発したその声には、いつもの軽い調子はなかった。
あるいは、緊張しているのかもしれない。
「内輪もめとか、そんな可能性も0じゃないけど、でもそれは考えにくいし」
みさきが、油断なく能力で、自分達の前方を探査する。
少しずつ最下段に近づくにつれて、何かの気配が強くなってくるのが、手にとるようにわかる。
「となれば、この最下層にその原因がある、と考えた方が自然でしょう」
茜が、そんな言葉で締める。
最下層で、何か強大な存在が待ち構えているのだ、という意味の言葉で。
「……みんな、気をつけて。何かいる。かなり危険だよ、これ」
最下層に到達する直前に、みさきが全員に注意を促す。
その表情には、警戒の色がありありと浮かんでいた。
「魔獣か?」
「うん、間違いないよ。これは……タイプPだね」
「……難儀だな」
祐一がぼやく。
魔獣がタイプP……これは単純に、そして純粋に強い、ということを意味している。
それでなくとも強固な鎧は、さらに高い防御力を実現し。
それでなくとも鋭い武器は、さらに高い攻撃力を実現し。
強力な魔獣……A級ハンターが数十人死んだことよりも、数人でも生きて帰れたことの方が不自然かもしれない。
この先に待つのは、おそらくそういう次元に位置する存在。
『神器を置いてくる』ことだけが目的であった以上、逃げの手を打つこともできたはずなのに、それでもなおその大半が死ぬほどの脅威。
逃げることさえ困難な、そんな存在。
そして祐一達は、『神器を回収する』ことが目的であるため、探すためにも、まずはそいつを倒さなくてはならない。
それでなくても当の魔獣のテリトリーに侵入するわけなのだから、見逃してもらえるはずもないのだ。
緊張と高揚が入り混じって心に沸き起こる。
故に、警戒しつつも、彼らの歩く速度が遅くなることはなかった。
「……地底湖、か」
階段を下りた先は、少しだけ明るさを取り戻していた。
だが、その空気の重さは、先程までとは比べ物にならない。
そんな中での祐一の呟きは、想像以上にフロアに大きく響いた。
目の前には、かなりの広さを持つだろう地底湖。
波紋さえもない深緑色の湖面が、静寂を彩っていた。
その深い色合いがまた、深さも相当あることを教えてくれる。
太古の昔から、ここは厳然とあり続けたのだろう。
一体どれだけの年月を、この静寂と停滞の中に存在し続けていたのだろうか……まるで見当がつかない。
完全なる静寂。
神聖にして荘厳な雰囲気。
ひんやりとした空気が肺に染み渡る。
無音が耳に痛い。
これは、確かに神器を安置するには最適。
神器があるにふさわしい空間。
何よりも、その湖の奥から感じる大きなエネルギーが。
その圧倒的な威圧感と存在感が。
神器を守るにふさわしい。
「……来るぞ」
祐一が目の前を睨みつける。
少しずつ、少しずつ。
自分達に近づいてくる気配。
強力な、強大な、そんな存在。
「……祐一さん、どうしますか?」
佐祐理の質問。
この場において、この言葉が意味するモノは一つ。
「あぁ、
博愛主義者か暴君か
は使わなくていい。危険だし、連れ帰ることもできそうにないしな」
「分かりました」
そう言うと、ファイルを出現させる佐祐理。
目は油断なく前を見据えている。
次いで詩子が、
春風の加護
を。
茜が、
何処までも深い蒼
を。
それぞれ出現させ、戦闘態勢を整える。
「手強そうだね」
「確かに」
詩子も茜も、ほどよい緊張状態にあった。
目の前のエネルギーの持ち主の強さは、おそらく伝説級の魔獣のもの。
されば、単純にエネルギーの量や質を比べれば、間違いなく自分達が劣るだろう。
けれど。
「やりがいがあるわよ、その方が」
静かにエネルギーを高めながら、留美が微かに笑う。
それは、強者の笑み。
戦いに臨む者の、笑み。
そう、相手が強ければ強いほど、心は高ぶるというものだ。
決して彼らが戦闘狂というわけではない。
だがそれでも。
力がある者は、その力を存分に振るえる相手を見れば、高揚してしまうものなのだ。
力に溺れず、決して奢らず。
されど、戦いを望む……これは、真の強者の業と言えるかもしれない。
「遠慮はいらない。全力で潰すぞ」
祐一もまた、小さく笑っていた。
エネルギーを高め、いつでも行動に移れるように構えている。
「みんな、頑張ってね」
みさきが、大きく後退する。
彼女にも戦闘手段がないわけではなかったが、今この場においては、足手まといとなってしまう。
やはり攻撃力に関しては、他の面々に比べて、大きく劣るのだから。
それならば、せめて邪魔をしないように、そして足を引っ張らないように。
防御を優先して考えるべきだろう。
つまり、『自分の身を自分で守る』ことが、今のみさきの最も優先されるべきもの。
「あぁ。みさき、気をつけろよ」
「うん」
祐一の言葉に力強く頷き、みさきは、階段のところまで下がり、そこで陣取った。
五人が、湖の縁で、相手を迎え撃つ準備を完了させる。
祐一達が話している間にも、少しずつ気配は強く、そして濃くなっていく。
やがて、湖面が揺れ始める。
次第に湖面が動き、それが段々大きくなっていく。
威圧感を隠すことなく放出しながら、何かが近づいてくる。
そして、大きくなってゆく存在感が、最大となる瞬間が訪れた。
「シャアアアァァァッ」
空気を揺るがす叫びと共に現れたのは、魔竜。
薄闇の中でも分かる、艶やかな青色の鱗で全身を覆う、体高五メートルほどの巨体を持つ竜。
水陸両用といおうか、湖から現れたそれは、そのまま跳躍し、地に降り立つ。
揺れる地面。
震える空気。
こちらを睨みつけるその紅き瞳は、見るだけでも恐怖に心臓が潰されそうになる。
圧倒的な存在感。
絶対的な威圧感。
ジェネラスよりもなお、おそらくこれは強い。
間違いなく、世界でも有数のレベルの魔獣。
伝説級の魔竜。
その巨体を支える二本の足も。
それに負けず劣らず力強い両腕も。
体を覆う、極めて強固なその鱗も。
乗用車さえ丸呑みにできそうな口も。
そして、どんな硬度のものでも砕けるとさえ思わせる鋭い牙と強靭な顎も。
畏怖すべき次元のもの。
もはや、神聖ささえ感じる程のもの。
およそ、人に戦いの相手が務まるとは思えない。
それが今、目の前にいる。
祐一達を殺さんとばかりに、強く強く睨みつけている。
「やるぞっ!」
祐一の張り上げた声が合図となったかのように、両者が動きを開始した。
互いに、互いを屠るために。
目的を達するために。
祐一達は、神器を入手するために。
魔竜は、自分のテリトリーを侵害するものを消し去るために。
互いに譲れぬもののために、力を解放する。
それまでの能力者との戦いとは異なる、もっと純粋で根源的な戦い。
生物としての戦い。
退くことはできない。
逃げることもできない。
生きるために。
信念を守るために。
勝敗は、どちらかの死によってのみ決まる。
双方とも、自分が死ぬとは、微塵も考えてはいないだろうが。
続く
後書き
まぁあれですね、これが第一章のボス的存在なわけですし、それなりの登場シーンは用意したかったと言いますか。
そうそう上手くいくもんでもないですけど。
もっと長引かせても良かったっちゃ良かったんですが、タイトル前の話の整合も考えると、これ以上は無理でした。
ホントに、物語を創り出すのは大変ですね、うん。
それでは最後に佐祐理さんの能力を記しておいて、今回の後書きは終わりということで。
倉田佐祐理 能力ファイル No.4(タイプP)
能力名 :
妖精の祝福
効果 : 生命エネルギーを対象に与え、ケガや病気を治すことができる。
佐祐理が、対象に直接手を触れさせることによって発動する。
ただし祐一の能力と違い、その効果は万能ではない。
治療の効果が及ぶのは、佐祐理が直接触れている部位のみである。
そのため、骨折や内臓疾患などに使用することは難しい。
基本的には、祐一の負傷の治療以外に使用されることは稀である。