――十五年前、ルセイム地方、翌日午前九時――



きぃっ……と音をたてて、ゆっくりと扉が開いてゆく。
自然に開いたのではない。
それは、その扉をゆっくりと押す手があることからも明らかだ。
静寂の中、慎重に部屋から顔を覗かせるのは、ミシル。

「……」

その間、無言。
明るく暖かい日の光が窓から射し込み、しかしその穏やかな天候とは裏腹に、ミシルの表情は暗い。
どこか虚ろにも思える表情のまま、彼女は静かに隠し部屋から体を出した。
約十二時間もの間、狭い部屋に閉じ篭っていたためか、体中が少し痛い。
関節が、ギシギシと鳴っている気がする。

けれど、それと体の動きの緩慢さは、あまり関係なかった。
もちろん、無関係ではない。
けれど、たとえ体がスムーズに動かせる状態であったとしても、結局ゆっくりとしか動いてはくれなかっただろう。
むしろ、ゆっくりでも動いてくれただけで、驚きに値する。

本音は一つ。
ただ彼女は、動きたくなかったのだ……





「……」

沈黙の時間。
やはり無言のまま、しばらくそこに佇むミシル。

彼女の周囲は、とても静かだった。
ついさっき聞こえていたはずの慟哭が、夢のものであった、と思えるくらいに。
昨夜のことが、嘘である、と思えるくらいに。



だが、昨夜のことが嘘でないからこそ、今、こんなにも静かなのだろう。



だって、本当なら、今日は結婚式なのだから。
姉の……彼女の大好きな姉の、結婚式なのだから。
この教会で、式を挙げるはずだったのだから。



こんなに静かなはずが、なかった……
こんなに……










「……」

無言のまま、けれどミシルは、意を決して歩き始める。
歩みこそ遅いものの、それでも彼女は、すぐ先の扉へと真っ直ぐ向かう。

できることならば、知りたくない。
知りたくないけれど、知らなければならない。

欲求ではなく、義務感が、ミシルを動かしていた。
だから、前へと歩く。





扉の傍まで歩み寄ると、ゆっくりとした動作でそれに手をかけた。
瞼を閉じ、一つ呼吸して、ノブを回し、扉を開ける。
やはりゆっくりと、そして静かに。

閉じていた目は、しかし扉の開放と共に開いてゆく。
そこにあったのは、廊下。
ただの、廊下。
見慣れた、廊下。

けれど。
廊下の窓から目に飛び込んでくる光景は、いつものものではなかった。
もう、いつもの光景では、なくなってしまっていた。



その先にあった家が……昨日まであったはずの家が、まるで見当たらない。
ただ、瓦礫の山があるだけ。
無残に破壊された、残骸が残るだけ。

よくよく見れば、教会も無事では済まなかったらしい。
窓ガラスに入ったひびが、それを……そして、それ以上の何かを物語る。



「……」

ゆっくりと歩き出すミシル。
無表情のまま、無言のまま。
きゅっきゅっ、という音が、辺りに広がり、そして消えてゆく。
自分の足がたてている音のはずなのに、それがどこか遠くから聞こえる音のように、ミシルには思えた。
そう、なぜか、遠い。

やがて辿り着いた聖堂への入り口。
その扉も、いつも通り。
けれど、いつも通りではない雰囲気が、そこに……いや、きっとその先にあった。

彼女の持つ能力者の資質が、教えてくれているのだろうか?
警告を、発しているのだろうか?
扉を開いたその先には、絶望しか待っていないだろうということを。





「……」

かたかた、と。
ドアノブを握る彼女の小さな手が、小刻みに震える。
震えはやがて全身に伝播し、それ以上の行動が取れなくなってしまう。

心を過ぎるのは、言いようのない恐怖。
胸が潰れそうなほどの不安。


この扉を開けたとき、姉が待っていてはくれないのだろうか?
笑顔で、朝の挨拶を交わすことは、できないのだろうか?


今日は、結婚式なのに。
人生で、最も光り輝くべき時なのに。
幸せな毎日を、永遠の愛を、ここで誓うはずなのに。


それがわかっていながら。
それを理解していながら。
それを期待していながら。


なぜ、こんなにも体が震えるのだろうか?
何を、こんなにも恐れているのだろうか?
どうして、こんなにも辛いのだろうか?


目が、熱い。
喉が、痛い。
心が、苦しい。


永遠にも思えた一瞬。


それでも、目を見開いて。
それでも、心を奮い立たせて。


ミシルは、扉を開けた。
開けて、しまった。










「クリス……さん」

扉を開き、まず彼女の目に飛び込んできたのは、床に膝をついている、姉の婚約者のクリス。
見慣れた背中だから、彼女がそれを見間違えるはずはない。
たとえ、俯いているため、顔が見えなくても。
そして、クリスが膝をついているその目の前に……クリスの目の前の床に、横たわっているのは……

「え……?」

白い脚。
白い脚が、見えた。

イスとクリスが壁になっているので、ミシルには脚しか見えない。
なぜか、素足……剥き出しの、真っ白な脚。

ガタガタ、と。
震えが強くなる。
無意識にだろう……ミシルは、自分の体を抱きしめるようにして、何とか震えを止めようとする。
けれど、彼女の脳は、正確に目の前の事態を把握しようと努める。
悲鳴を上げる心にも、頭は活動を止めない。

見知った人の前に横たわる誰か。
脚しか見えないけれど。
でも、それは……間違いなく……



「……来ちゃ、ダメだ、ミシル」

搾り出したかのような、掠れた声が、ミシルの耳に届いた。
それは、彼女にとって聞き慣れたはずの、けれど聞き覚えのない声。

「お……ねえ、ちゃん……?」

ふらふら、と。
足取りも覚束ないまま、それでも傍へ歩み寄ろうとするミシル。
決して静止するその声に逆らったわけではなく、これもまた、無意識の行動なのだろう。
目の焦点が、合っていない。
ふらつく足は、そのまま崩れ落ちそうなほどに頼りない。

「来ちゃダメだ、ミシル……お願いだから」

先程よりも強い声が、背中越しにミシルに向かってかけられる。
それが、彼女をかろうじて制止させる。
それでも心は、止まらない……止められない。

「でも……」

上ずったようなミシルの声。

「お願いだから……」

再び聞こえる掠れ声。

「おねえちゃんが……おねえちゃんが……」

震えるミシルの声。

「……見ないで、あげてくれ……せめて、君は……君だけは……見ないで……やって……」

それ以上に、震える声。
震える拳。
熱い、雫。

「ぅ……」

もう、だめだった。
そこが、彼女の限界だった。

進むこともできない。
戻ることも、もちろんできない。

彼女を支えるものは、もう何もない。
何も、ないのだ。

彼女にできることは、ただその場で崩れ落ちることだけ。
絶望に、打ちひしがれることだけ。
現実に……悪夢のような現実に、絶望することだけ。





「うわあああああああああああああああああああああああああ」















神へと至る道



第40話  絶望の果てに待つものは















風が吹いていた。
穏やかな風。
暖かな風。
気持ちのいい、風。
けれど。

「くくく……」
「いいザマだな」

そこに乗るのが、こんな笑い声では。
悪意と侮蔑に満ち溢れた、そんな笑い声では。

その風情も、失せるというものだ。
その優しさも、失せるというものだ。





「……すまない」

命令に従う……従いたくないけれど、従わなければならない者達の、苦渋に満ちた謝罪の声。
裏切ってしまうという罪悪感に、身を、心を震わせる者達の、悔恨に満ちた謝罪の声。

「……いいえ、私の方こそ、巻き込んで、ごめんなさい」

復讐のために、仲間を巻き込んでしまった彼女の、苦渋に満ちた謝罪の声。
その人達の家族をも巻き込んでしまった彼女の、悔恨に満ちた謝罪の声。



涙は流れない。
涙は、流さない。

彼女も。
仲間達も。

悔しさに身を震わせたくなるけれど。
怒りに叫びたくなるけれど。

それは、できない。
するわけには、いかない。





「ほら、何をのんびりしてるんだ? 家族が大事じゃないのか?」
「さっさとしろよ? あんまり遅いと、俺達が心変わりしちまうかもしれないぜ?」

そんな彼女達の様子を……苦渋と悔恨に満ちた、そんなやり取りを、さも楽しげに見ているシリックとミラン。
これ以上愉快なことはない、とばかりに笑い、そして、からかいと嘲笑を浴びせる。

気分がいいのだろう……彼女の企みを、叩き潰すことができて。
機嫌がいいのだろう……もがき苦しむ弱者を、見下すことができて。

生まれながらに、何不自由なく暮らしてきた彼ら。
望めば何でも与えられた彼ら。
十五年前までは、彼らの家もそこまで裕福ではなかったが、それでもなお、甘やかされて育った彼ら。

どのような人格形成がなされていったか、どのような生き方をしてきたか、が。
容易に知れる、そんな所作。





無表情に佇む彼女を、苦渋の表情で拘束にかかる仲間達。
掴んだ腕が微かに震えたのは、どちらの感情によるものなのか。
それが、あまりにも悲しい。
あまりにも、哀しい。

「……」

双方とも、無言。
もう、何も話せなかった。
何も、言えなかった。

ただ互いに、後悔の、悔恨の情に苦しめられるだけ。

何もできないことを、何もできなかったことを。
何も残らないことを、何も残せないことを。
全てを奪われたことを、全てを奪われることを。

ただ、受け入れるしかなかった。





せめて、彼らの家族だけでも。
何の関係もない、何の落ち度も罪もない、彼らの家族だけでも。

助けたかったから。
助けなければ、ならないから。

だから、何もできない。
するわけにはいかない。

如何な苦痛でも。
如何な屈辱でも。

ただ、受け入れねば、ならない。

如何に憎い相手でも。
如何に許しがたい相手でも。

逆らうことは、できない。





「よし、そのまま押さえてろよ?」
「さてと、できればさっさと殺してしまいたいところだが……」

シリックとミランが、そこでボディーガード達に問うような視線を向ける。
男達の表情には、若干の戸惑いが見え隠れしていた。
それはおそらく、彼女の外見が、自分達の仕えている人間であるレベラインのそれであるためだろう。

「あの顔では、殺しにくいか」
「まぁ、それも仕方ないが……どうするかな」

そんな反応も予想していたのだろう。
少し悩む仕草を見せる二人。
と、そこで傍にいた執事らしき男性が、二人に話しかける。

「旦那様、あれは能力による変身です。解除させれば、それで問題はなくなるかと」
「ほう、そういう能力者か。それは面白い」
「よし、じゃあさっさと解除しろ」

見下した視線そのままに、命令を下す二人。
余裕に満ち溢れた態度は、もう場の勝敗が完全に決していると確信すればこそ。



「……」

言われた方はというと、一瞬躊躇うような表情を見せる。
だが。

「おいおい、お前に否定する権利などないはずだが」
「大事な仲間の家族が、どうなってもいいのか?」

広がる薄笑いを隠そうともせず、むしろさらに深めながら、二人は声を発する。
楽しげなその様子は、不快感をもたらすには十分なほどで。

「っ……」

ギリ……と、奥歯を噛み締める音がした。
それを聞いて、顔を歪める彼女の仲間達。

自分の家族のためとはいえ、自分達の仲間を……同じ苦しみを味わった者を裏切る行為。
殺されゆく仲間を見捨てるだけでなく、その彼女を拘束しているという事実。

どうあれ、形の上では彼らに加担していることが……仲間を助けてやれないことが、彼らを苛み、苦しめる。

憎き相手の行動の片棒を担いでいるという事。
自分達のその行為の持つ罪深さが……そこから溢れる罪悪感が、耐え切れないほどに膨れ上がる。



「……っ……」

だが、言葉にできない。
することに意味はなく、そして、それさえも彼女を苦しめるだろうから。

自分達の無力さが、今、何よりも恨めしい。

彼女の苦しみを、知っているのに。
彼女の痛みを、知っているのに。
自分達も、それを味わったというのに。

その復讐の相手が……憎き相手が、目の前にいるのに。
その気になれば、今この手で簡単に殺せるというのに。
味わった無念を、苦しんだ者達の痛みを、僅かでも晴らせるというのに。

それでも、何もできない。
何も、するわけにはいかない。





「……」

無言、無表情のまま、解除される能力。
次の瞬間、レベラインだった者の顔が、別人のものに変わる。
現れた顔は、無表情で、無感動で、だがそれを差し引いても、美しいものだった。

思わず息を呑むシリックとミラン。
それが好色な顔に変わるのに、時間はかからなかった。





「ほう……これはこれは」
「面白いことになったものだ」

口の端を持ち上げながら、二人が動き出す。
ゆっくりと、ゆっくりと。
それに合わせて、またそれを守るように、ボディーガードの男達も動き始める。
そこに隙は見当たらない。

「っ……」

さすがに、怒りを隠し切れないのか、拘束された彼女の表情が、拘束する者達の表情が、微かに、だが確かに歪む。
だが、怒りを感じたところで、やはり彼女達にできることなど何もない。





五十メートル……

「この、悪魔……」

どうしようもなく、零れてしまった言葉。
零れてしまった、想い。
苦々しげに、恨めしげに。



四十メートル……

「ふん、悪魔ねぇ……」
「何とでも言えばいいさ」

けれどシリックもミランも、それを聞いても、愉悦を感じるのみのようだ。
軽く笑いながら、歩み寄るその速度を変えない二人。
自分達が勝者と確信しているのだろう……そこに見えるのは、絶対的な余裕。



三十メートル……

「っ……」

我慢できないのか、微かに腕が震える彼女の仲間達。
その様子を見るに、今にも飛び掛りそうだ……が。



二十メートル……

「……駄目よ」

ボディガードも見張っているし、何より、家族の安否が分からない。
故に、彼女は制止する……自分の状況よりも、仲間の心配をする。



十メートル……

「このヤロォォォッ!」

そこで、耐え切れなくなった彼女の仲間の一人が、制止する間もなくその場から飛び出し、二人に殴りかかった。
勢いそのままに、怒りの表情のままに、その拳を叩きつけようとする。
だが、それが届くことはなく、逆に、瞬間迎え撃ったボディガードに、思いっきり殴りつけられてしまう。

一瞬後、耳に届く骨が折れる音……そして、そのまま倒れる男が目に映り、ようやく彼女の表情に驚愕が走る。
だが、彼への攻撃は、当然それだけでは終わらない。

「ふん、身の程知らずが」
「そいつは先に殺してしまえ」

別のボディガードに、安全圏まで退避させられたシリックとミランの言葉。
その表情には、さすがに怒りの色が垣間見える。
下されたその命令に、ボディガードの一人が頷いた。
それを見て、その意味を察して、顔色が変わる仲間達。



「やめてぇッ!」

悲痛な叫び声。
ほとんど涙声。

それを聞いて、笑みを深くするシリックとミラン。
躊躇いを微塵も見せずに、倒れ伏す男に向けて、腕を振り上げるボディガードの一人。
それを同じく笑いながら見ている他のボディガード達。
倒れたまま動かない男。
そして、振り上げられた拳が、勢いをつけて振り下ろされた。















だが、その腕が振り下ろされ、男に命中するかと思われた瞬間に。
倒れた男の命を刈り取る炸裂音が聞こえるはずだったところで。

「かはっ……」

聞こえてきたのは、拳が出した音とは到底思えないような衝撃音と、ボディーガードの男の悲鳴。
振り下ろした拳は、倒れている男に届くことはなく、逆に、攻撃した男の方が、遥か後方に飛ばされている。
その場にいた全員を凍てつかせるに足る、一瞬の出来事。



「な……?!」
「っ……?!」

驚愕に目を見開くシリックとミラン。
何もないのに、殴りかかった男が、勝手に後方へ吹き飛ばされている。
あまりにも不自然な光景。
あまりにも不可解な光景。
思わず知らず、その思考が停止してしまう。



「ぇ……?」

同じく目を見開くのは、彼の仲間達。
もう終わりだと思ったのに、いきなり攻撃しようとしていた男が吹っ飛んでしまった。
おかげで助かったとはいえ、その不自然な光景に、一瞬言葉を失ってしまう。
と。










「こんにちは」

倒れていた男のすぐ側に風が集まったかと思うと、突然その場に、白いワンピースを身に着け、長い黒髪をストレートにして背中に流している、小さな女の子が現れた。
にっこりと微笑んで、軽くポーズをとりながら。
軽い挨拶の言葉を発しながら。

虚空から突如現れた、先程までいなかった少女。
その存在は、容易に場を混乱へと導いた。



「なっ、何だ?! 一体! あれは、何なんだっ?!」
「だ、誰の仕業だ?! 何のマネだっ!」

混乱の中、顔を怒りに染めながら叫んだのは、シリックとミラン。
状況が把握しきれない。
何が起こったのか理解できない。
だが、その少女が、何か異質な存在だということだけはわかったらしい。
それでも彼らにできるのは、ただ怒鳴り散らすことだけ。



「え? 何? 何の話?」

可愛らしく首を傾げる少女――まい。
その殺伐とした空気をまるで意に介さず、彼女はどこまでもマイペースを崩さない。



「お……女の子?」

かすれた声で呟いたのは、拘束されていた彼女。
誰もが混乱していることもあり、その拘束は解除されている。

だが、それよりも何よりも。
目の前に突然現れた少女に、目は、意識は釘付けだった。

「あなた……誰?」

コミュニケーションをとれそうだったので、話しかける。

「え? わたし? わたしの名前は、まいだよ。それでお姉さんは……」

その声に振り返ったまいは、にっこり笑いながら、自己紹介を始める。
もしこの場にいるのが、二人だけなら、このまま最後まで話を続けていられただろう。
だが、まいの言葉は、最後まで発せられることはなかった。





「っのガキがぁっ!」

吹っ飛ばされた男が、憤怒の表情で、拳銃を取り出し、まいを狙う。
怒りで我を忘れているのだろうか?
ともあれ、その引き金を引くことに、躊躇いなどあるとは思えない。

「ダメっ!」

それを見てとり、反射的に、まいを庇うようにしてその前に立つ彼女。
そして、男の指が、容赦なくその引き金を引いた。









 続く












後書き



うーむ、あとちょっとのはずなのに、エラく長く感じます。

一度書いて投稿したものだけに、やはり新鮮味が足りず、しんどさが増してるのか……

とは言え、改訂作業も残すところあと十二話分。

できれば一気に仕上げたいんだけど……まぁ無理でしょうね。