「リーダー、二つほど報告があります」
「何ですか?」

ここは、保護機関本部内にある、マリアの部屋。
今は、そこで彼女が部下からの報告を受けているところである。

「はい、まずは『九龍』から連絡がありまして、予定通りに到着するとのことです」
「そうですか、わかりました」

部下の報告に、微かに表情を緩めるマリア。
今回のアルテマ殲滅という任務において、彼らの存在は決して小さくない。
戦力という意味でも、また撹乱という意味でも。
そうでなくとも、決して失敗の許されない作戦故に、予定通りに事が運んでいることは、ありがたいことだろうが。

安堵したのも束の間。
再び表情を戻して、マリアが続きを促す。
最初の話では、報告内容は全部で二つ。
彼女とて、良い報告以外のことを想定に入れていなかったわけでもなかったが、次の言葉で、表情を僅かに曇らせる。

「……アルテマを監視していた者と、連絡が取れなくなりました。断言はできませんが、敵に捕らえられたのではないかと思われます」



微かに眉を寄せるマリア。
彼女の心に、してやられた、という思いが広がる。

だが同時に、相手に対する感嘆の思いもあった。
戦闘開始までに、アルテマ側でどんな動きがあるか分からないため、監視役を置いておいたのはマリアの指示だ。
相手側もこれを想像しているだろうから、十分な実力を備えている者を送った。
そして、自身の安全を最優先にしつつ、監視を行うように厳命してあったのだ。

それにも関わらず、監視役は捕まってしまったという。
もちろん、捕まったという証拠はない。
だが、行動開始を目前にしての、突然の音信不通……となれば、やはりその可能性は限りなく高い。

想定外の出来事。
だが、マリアはすぐに意識を切り替える。
悔やんだところで起きてしまった事は変えられない。
それよりも、この失態から何かを得ることこそが重要だ。
そして一つ、ここから導かれる情報がある。



「能力者、でしょうね」
「……あるいは」

『九龍』の川名みさき。
彼女と似たような能力の持ち主が、アルテマ側にいる可能性が高い。
気配を絶って監視を行っていた者を、逃げる暇さえ与えず捕らえることなど、そうした類の能力がなければまず不可能なのだから。

もし監視役が捕らえられたのならば、このことを考慮に入れなければならないだろう。
少なくとも、行動開始時において、密かに侵入することは極めて困難であることは、これで確定したと見なければならない。

また、監視役の口から情報が漏れることもまた、確定したと言わざるを得ないだろう。
自白させる、あるいは記憶や心を読む、もしくは嘘や隠し事を見破る。
そういったタイプの能力者がいれば、尋問や拷問の必要さえないのだから。





「……わかりました、仕事に戻ってください」
「はい」

一礼し、部屋を辞する部下を視界の端に入れながら、マリアは静かに考える。
既に作戦は動き始めているのだ。
故に、今になって変更することなどできない。

「……仕方ありませんね」

軽く首を振るマリア。
状況は、もう止められる時を過ぎてしまっているのだ。
ならば、このまま進むのみ。
警戒しなければならない要素は増えたが、作戦は実行する。
これが犠牲を増やす種となる可能性はあるが……



「さて……」

静かに立ち上がり、ゆっくりとドアへと向かう。
流れるような動きには、些細な動揺さえも見受けられない。
表情も、もう穏やかなものに戻っている。



「全ては、世界の安定のために……」



まるで自分に言い聞かせるように呟いた言葉。
彼女は、あくまでも保護機関の歯車の一つに過ぎない。
それ故に、彼女の行動理念は、ただ一つに集約される……すなわち、世界の安定のため。

能力者として、頂点にいるとも言われる彼女の力は、極めて強大だ。
だが、所詮は個人……できることなど限られている。
だからこそ、彼女はあくまでも保護機関の決定に従い、世界の安定を影から補助する。

その作戦遂行上で、例えば自身を含めた誰かが犠牲になったとしても、それは受け入れなければならないこと。
死ぬことさえも、任務の一つとなる時だってあるのだから。
故に、死を悼みはしようが、決してそれを恐れるようなことはない。

今は、アルテマの殲滅が全てに優先する。
たとえ何があろうとも、何を犠牲にしようとも、彼女は決して止まらない。















神へと至る道



第46話  水面下の戦い















荒野。
そう表するのが最も適切だろう地に、建物が一つ、ぽつんと存在していた。
現在の時刻は正午過ぎ。
強い日差しが容赦なく大地に降り注ぎ、不毛の地に熱を与え続けている。
そして、そんな眩い光のために、くすんだ白色をした建物が、ゆらゆらと揺れているように見えた。
その建物の周囲には、他の建物は一つとして存在せず、また動植物が生息している気配もなかった。
見渡す限り荒れ果てた黄色の大地が広がり、所々大地が隆起している以外は、何も特筆すべきものはない。

時折風が大地をさらい、黄色い砂を巻き上げる。
およそ人が生活するには、何ら強調要素を持たない土地。
いや、むしろ欠点しか考えられないだろう土地。
そんなところに、それなりの大きさの建物を構える者となると、可能性は限られてくる。
つまるところ、他者との関係を望まぬ者。
そして、何か後ろ暗いところを持っている者。

ここは、その両者を兼ね備える者達……アルテマの本拠地。
見渡す限り荒野が広がるこの地に、S級賞金首として名を馳せた彼らは、居を構えていた。



一台の車が、砂埃を巻き上げながら、敷地内へと入っていく。
建物の入り口前で車は制止し、後部座席から一人の男が降りる。
彼はそのまま真っ直ぐに扉へ向かい、中へと足を踏み入れた。
と、屋内に入ったところで、彼を待っていたと思しき男が、恭しく頭を下げて彼を出迎える。

「お帰りなさいませ、シャディード様」
「出迎えご苦労、ザール」

シャディードという男の言葉を聞いてから、ザールという男はゆっくりと頭を上げる。
彼の目は、ただひたすらに、目の前の男――シャディードへの強い忠誠心に満たされていた。
それこそ、もし今ここで彼に死ねと言われれば、何の迷いもなくそれを遂行するだろうと思われるほどに。

「いえ……それで、いかがでしたか?」
「問題ない。それよりも、捕らえたヤツはどうしている?」

シャディードは既に歩き始めており、ザールもまた、彼から少し遅れて歩いていた。
その歩調はかなり速い。
だが、落ち着いたその態度から、別に焦っているわけではなく、単にこれがいつものペースなのだということがわかる。
そのペースを保ったまま、ザールはシャディードの問いに答える。

「拘束してあります」
「よし。で、情報は得られたか?」
「全てではありませんが」
「……あぁ、アイツの能力は制限があるんだったな、そう言えば」

シャディードは、微かに笑みを浮かべる。
それは、愉快そうな笑いには到底見えず、むしろ見る者を恐怖させるような威圧感を伴った笑い。
だが、ザールは、そんなことを気にも留めずに、話を続ける。

「はい、それでもある程度は情報も得られました」
「ふむ……それで、直接聞かねば判別できないこととは何だ?」

シャディードの脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
相手に触れることによって、相手が隠している情報を、断片的に得ることができる能力者。
そこから類推できる情報ならば、それ以上の追及の必要はないが、類推できないことがあれば、直接聞くより仕方がない。

「十二使徒が何人、どちらを襲撃するか、についてです」
「なるほどな」

アルテマが拠点としている地は、ここ以外にもう一つあるのだ。
おそらく、相手は両方とも同時に急襲してくるだろう。
となると、問題になってくるのは、十二使徒の人間が、どのように振り分けられるのか、ということ。
シャディードが知りたいのはそれだった。

「ですので、よろしくお願いします」
「あぁ」

そこで会話は途切れ、二人は口を噤む。
必要なことは全て話した、ということだろう。
二人は黙ったまま、ただその部屋を目指して歩き続ける。










かなり広い建物をしばらく歩き続けて、二人はようやく足を止める。
その前にあったのは、極めて頑丈な造りをしていることが、一目見てわかる部屋。
それこそ、多少の銃撃や砲撃を受けた程度ならば、大してダメージを受けることもないだろう、と思わせる造り。
そんな部屋の前に立つ見張りの敬礼を手で制し、二人は重厚な扉に手をかけ、ゆっくりと力を加える。

鈍い音と共に、扉が少しずつ開いていく。
そこは、広さにして縦横それぞれ五メートル程度の部屋。
入り口から見て奥の壁には、大きな窓があるのがわかる。
それでもやや薄暗いのは、その窓に鉄格子が備え付けられているからだろうか。

そんな部屋の中央に、一人の男が拘束されていた。
椅子に座らされているその男は、猿轡をかまされ、後ろ手に縛られた状態で項垂れていた。
拷問を受けたわけではなさそうだが、それでも若干憔悴しているように見受けられる。

シャディードとザールは、静かに男に歩み寄ってゆく。
二人の気配を感じたのか、拘束された男の肩が、ピクリと動いた。



「さて、話す気になったかな?」

シャディードが男の正面に立つと、そう語りかける。
穏やかな調子、穏やかな言葉。
けれど、場の雰囲気と二人の状況を考えると、それをそのまま受け止めることなど、できようはずがない。

男は反応しなかった。
それは反応する気力もない、というわけではなく、下手なことは喋るまい、という意思表示に他ならない。
それを見て取ったシャディードは、一つ頷く。

「ふむ、自身の命よりも、秘密の死守を心掛けるか。なかなかのものだ」

それは単純な賞賛かもしれないが、同時に皮肉にも聞こえる。
そもそも捕まってしまった時点で、賞賛の要素など無いに等しいのだから。



「俺達が聞きたいことは二つだ」

男が答えるはずもないことを知りながら、シャディードが質問を開始する。
そのことに、男は不安と不審を感じ取った。
彼の目の前に立つ男は、S級賞金首のアルテマを束ねる者。

捕らえた人間に質問したところで、答えが返ってこようはずもないことを、そんな存在が理解していないはずがない。
男は、たとえ拷問を受けようが、口を割るつもりはなかった。
彼は保護機関に忠誠を誓った人間……常に覚悟はできているのだ。

「十二使徒は、どちらにそれぞれ何人来るのか、ということ。そしてもう一つ、『九龍』の連中はどうするのか、ということ」

どこか淡々とした調子で発せられた質問。
もちろん、男は答えない。
だが。



「……」

そこで、シャディードがザールに目配せをする。
ザールは、それに対して頷くことで答え、静かに部屋を出た。
再び静寂に包まれる部屋。

「……?」

男が、若干不安げな表情を見せる。
相手の出方が読めないからだ。
答えなかったことに激昂して、攻撃でもされた方のならば、むしろ安心できた。
表情一つ変えないシャディード……そこから考えるに、何か口を割らせる手段でもあるのかもしれない。





「連れてきました」
「ご苦労」

ザールは、ほんの数分で戻ってきた。
二人の冷静なやり取りが、男の心をさらに揺らす。

「さぁ、感動のご対面だ」

シャディードが男に向かって笑みを向けた後、扉の向こう側から、一人の女性が入ってくる。
それを目に捉えた瞬間、男の表情が一変した。

「ッ……!」

驚愕と怒りと恐怖が入り混じった表情。
そしてそれはまた、部屋に入ってきた女性の表情でもある。

「……あなた」

入ってきたのは、男の最愛の妻……そう、紛れもなく本物の。
そのことが信じられないのか、大きく目を見開き、呻き声を漏らす。

男がアルテマに捕まってから今まで、一度として自分の家族についてのことを話したことはない。
いや、そもそも言葉を発したことすらないのだ。
それなのに、今、彼女がここにいる。
拘束されているわけでもなく、五体無事であることから見て、おそらく、夫を捕らえているとでも言って連れ出したのだろう。
つまり、アルテマ側に、家族に関する情報は全て知られているということになる。

能力者……自分から情報を引き出した者がいる。
それを察知し、男は、怒りの目をシャディードに向けた。
それはまさに、相手を射殺さんばかりの目。

「くっくっく、怖い怖い」

小さく笑いながら、男の妻に、部屋に置いてある椅子に座るよう命令する。
自分の夫の命がかかっていることを知っているため、当然彼女がその命令に逆らえるわけもなく、少し青ざめた表情のまま、大人しく椅子に座る。
それを見て、男がさらに呻き声を上げた。
縛られ満足に動かせない体を、しかし懸命に、訴えるように揺らしながら。
ちらりとそちらに目を向けるシャディード。



「ザール、猿轡を外してやれ」
「は」

ザールは、ゆっくりと男の後ろに回り、猿轡を外す。
と、男が自由になった口を思いっきり開いた。

「貴様ッ! 何をするつもりだッ!」

場の空気を震わせるかのような声。
怒りをそのまま言葉にしたような叫びにも、しかしシャディードは余裕の表情を崩さない。

「なに、お前が喋りやすい環境を作り出してやるだけだ」

シャディードは、男に冷ややかな目を向けてから、彼の妻を椅子に拘束した。
腕と足を、それぞれ椅子に縛りつけ、身動きをとれなくする。
能力者でもない女性では、これだけで十分行動不能になってしまう。

「何をするつもりだと聞いてるんだ! 答えろッ!」

男の絶叫は続く。
彼の妻は、自身と夫が置かれた状況に、顔を青ざめさせていた。
そのことがまた、男の精神を昂らせる。



シャディードは、そんな絶叫にも一切反応しなかった。
悠々と拘束を済ませると、そのまま窓の方へと歩み寄る。
そして、鉄格子を取り外し、さらに窓そのものも取り外してしまった。
ドアも開けているため、窓から風が入り込んできて、シャディードの髪を揺らす。



「これが何だかわかるか?」

窓から離れ、窓ガラスをドアの外に出した後、シャディードは、ザールから受け取った金属製の小さな箱を、男に見せつけるかのように掲げる。
箱は、手の平に余る程度の、しかし片手で十分に持てる大きさだった。

「……」

男は、警戒しながらも、なお睨み続ける。
シャディードの行動に考えを巡らせているため、言葉を発することはなかったが。
窓を取り外し、そして取り出された小さな箱。
警戒と微かな恐怖が、男の表情を過ぎる。



「これは時限爆弾だよ。小型だからそれほど威力はないが、至近距離でくらえば、人間など軽く吹き飛ぶ」

さらりととんでもない言葉を口にするシャディード。
彼の表情には、微塵の変化もない。
だが、男と彼の妻の表情には、はっきりと恐怖が走り抜けた。

「これをこうする」

それを意に介さずに、シャディードが男の妻に近づく。
そして、彼女の右腕を左手で掴み、右手に持った爆弾を、その腕に押しつけるようにする。
その瞬間、彼女の体が小さく震えた。

「ッ!」

それを見て、男もまた震えを隠せない。
青ざめた表情で、目はそこに釘付けとなる。

「そして、スイッチを入れる」

一々説明をしながら、恐怖を煽りながら、ゆっくりと行動するシャディード。
その顔には、軽い笑みさえ浮かべていた。
そして、スイッチが入ったことを示すように、カウントダウンの数字が、箱の表面にデジタル表示される。
残っている時間は、たったの五分。



「さて、答える気になったんじゃないか? 大人しく話せば、お前の拘束は解いてやるぞ?」

あくまでも余裕を崩さずに、静かに問いかけるシャディード。
ザールもまた、静かに事の推移を見守っている。

「くっ……」

シャディードの言葉に、男が歯噛みする。
彼も、自分が死ぬだけなら、まだ構わなかった。
そういう仕事だということは承知していたし、こうなることも覚悟していたからだ。
だが、自身の最愛の妻まで巻き添えで死なせるのは、耐え難いこと。
彼女にまで、同じ覚悟を強いることは、彼にはできなかった。



「どうするんだ? 時間がないぞ?」

少しずつ、目の前で数字が減少してゆく。
刻一刻と近づく爆発の時。
もう、ほとんど猶予もない。
男の顔に、苦悶の表情が浮かぶ。

「……話せば、本当に俺の拘束を解くのか?」
「もちろんだ」

喘ぐような男の言葉に、シャディードは表情を変えることなく頷いた。
その言葉を嘘と断ずるのは容易いが、もしかしたら嘘でないかもしれない。
男の心が大きく揺れた。

拘束さえ解かれれば、爆弾を破棄できる。
解体、あるいは解除を行うことも不可能ではないし、もっと簡単に窓から放り投げてもいい。
少なくとも、当面の身の危険は回避できるのだ。

加えて、アルテマ側が知りたがっている情報も、大した内容のことではない。
誰がどちらに行こうが、アルテマは殲滅される……これは必定。
たとえ知られたところで、決してマイナスにはなるまい。

そんな言い訳を心で繰り返し、男が呻くように白状する。
十二使徒六人がこの本拠地を叩き、『九龍』がもう一つの拠点を叩く、と。



「なるほど、そういうことか」

それを聞いたシャディードは、静かに頷くと、ザールに目配せした。
ザールは、一つ頷いてから、すぐに男の拘束の解除にかかる。
解除されるかどうか半信半疑だった男の目に、今度は時間に対する焦りが浮かぶ。

そして、シャディードが部屋を辞すると同時に、男の拘束も解かれる。
ずっと体が固定されていたせいで、少し動かしづらい体を懸命に動かし、彼は妻の下へ駆け寄る。
その間に、ザールも部屋を退出していた。
ゴォン……という重低音と共に、ドアが完全に封鎖される。










「大丈夫か?!」
「え、えぇ」

そんな二人の行動に気を払うこともなく、男は妻に声をかけた。
問われた彼女もまた、震える声で、それでもしっかりと返事をする。

「待ってろ、今、解除してやるから」

シャディードが部屋を出たため、この部屋には彼ら二人しかいない。
爆弾の解除を邪魔する者はいないのだ。
答えを聞くだけ聞いて何もしない、という手もあっただろうに、わざわざ約束通りに拘束を解いたことに、疑問を抱かなかったわけではないが、今はそんなことを考えている時間はなかった。



「これを……」

タイムリミットは、どんどん近づいてくる。
残された時間に、感情などあろうはずがない。
冷徹に、非情に、最後の時を手繰り寄せる。

「ッ!」

彼は、迷うことなく爆弾を両手で掴んで、持ち上げようと力を入れた。
解体や解除などという手段は、ある程度時間に余裕がある場合に取る選択肢だ。
時間が押し迫ってる現状を考えても、爆弾を窓から外へ放り投げてしまうことが最良だということは明白。
だからこそ、そう行動しようとしたのだが。



「そ、そんな、バカな……ッ!」
「痛……ッ!」

爆弾が持ち上がらない。
彼女の手から離れない。
どんなに力を入れても、僅かさえも動かない。
ただ、彼女の悲鳴が上がるばかり。

「何で……何でだッ!」

まるで接着剤で固定したかのように、爆弾は彼女の腕から離れない。
しかし、そんなはずはなかった。
シャディードは、爆弾の底面を、普通に手の平に乗せていたのだから。
そしてまた、接着剤を使う時間などなかったのだから。

けれど、押せど引っ張れど捻れど、爆弾は、吸いつくようにして、彼女の腕を離さない。
引っ張られることによる痛みに、彼女の顔が歪むのみだ。

「あなた……ッ!」

涙声で苦痛を訴える妻の声に、男が慌てて爆弾から手を離す。
そして、今度は解体しようと試みるが。

「くそっ!」

主要部分は、彼女の腕が接触している部分にあるらしく、それ以外の五面は、全て銀色の金属が見えるのみ。
この爆弾の爆破を阻止することは、まず不可能。
……打つ手が、ない。

「くぅっ……!」

再び力任せに引っ張ってみたが、やはり離れない。
確実に迫る爆発の時。
とうとう残り時間が一分を切った。
カチカチ、と時間を刻む音が、どんどん大きくなっているような、そんな錯覚に、男は襲われる。





「くそ! こういうことか!」

怒りと焦りに顔を歪めながら、男が吐き捨てるように言う。
シャディードが拘束を解除した理由……それは簡単なことだった。
どうやっても、爆弾を解除できないから。
拘束を解除したところで、二人に打つ手がないことをわかっていたから。
逃がすつもりも、救うつもりも、最初からなかったということだろう。

「ッ……!」

もう、声も出せない。
目の前が霞むのがわかる。
時間も、あと僅か。



「……あなた」

妻の発する不安げな声にも、彼は何も返してやれない。
爆弾は容赦なく彼女の腕に喰らいついたまま、残りの時間をどんどん減らしてゆく。

「くぅっ……!」

男は、しっかりと爆弾を両手で掴むと、力任せに引っ張った。
痛みに妻が顔を歪めるが、それでも止まらず、力をさらに入れていく。
たとえ腕が傷つこうとも、命に比べればどうということはないのだ。
どんな手段で爆弾を固定しているのかはわからなくとも、力ずくでいけば……

「あぁぁっ!」
「ぐぅっ……!」

悲鳴が絶叫に変わるが、それでもなお、爆弾は離れない。
それはまるで、爆弾が彼女の腕の一部になってしまったかと思えるほどに。
どれだけ力を加えても、腕と接触している部分は、僅かさえも浮くことはなかった。

「くそォッ!」

彼女の絶叫と彼の悪態。
両者が不協和音を奏でていたのも束の間。
結局、状況は一切変わることなく、タイムリミットは訪れてしまった。















ズズ……ン、とまるで遠くで起こったことのように、爆発音が屋内に響いた。
微かに揺れる建物。
外にいた見張りの目に、ちょうど男を拘束していた部屋の窓の部分から、炎が噴き出しているところが見えた。
けれど、それも一瞬。
耐火耐熱の性能も優れているらしく、火の手が上がることもなく、建物はすぐに静寂を取り戻した。

「くっくっく……」

シャディードは、歩きながらその爆発音を耳にした。
微かに揺れる床が、体を小さく振動させている。
思わず漏れる笑い声。

それから、少しずつ笑みが顔に広がっていく。
それが、つい今し方のことへのものか、それともこれから始まる保護機関との抗争へのものか。
後ろを歩いているザールにも、それはわからない。

だが、その顔に浮かんでいるのは、間違いなく愉悦の色。
何かを楽しんでいることは間違いないのだ。
十二使徒の襲撃を間近に控えている現在の状況は、とても笑えるようなものではない。
アルテマのリーダーとして、憂慮すべき事態のはずだが、それでもなお、この男は高らかに笑う。

静かな廊下に、笑い声だけが響き渡る。
ザールはけれど、一切表情を変えることなく、ただ黙ってシャディードの後に続く。
彼は、疑問さえ抱かない。
シャディードの考えを、理解していたからだ。





「さて、これで必要な情報は収集できたな」
「はい」

ほどなくして到着したのは、シャディードの部屋。
殺風景な部屋の中、シャディードが椅子に座り、机を挟んで反対側にザールが立ち、二人は話を始める。

「そこでだ。少しやりたいことができた。で、お前にもやってもらいたいことがある。いいな?」
「何なりと」

シャディードが不敵な笑みを浮かべながら語った言葉は、何も具体的なことは示していない。
だが、詳しい内容を聞くまでもなく、ザールはそれを肯定する。
どんな命令であろうとも、ザールがそれを拒否することはない。
それこそが、彼の絶対的な忠誠心の証とも言えるだろう。

「くくく……これで面白くなってきた」

部屋に響く笑い声。
ザールは、目を伏せたまま、次の言葉を待つ。

「さて、やってもらいたいことだが……」

しばらく笑ってから、シャディードはゆっくりと口を開く。
彼の命じた内容にも、決してザールは驚かなかった。
ただ一言、了解しました、と返しただけ。





こうして、三者がそれぞれに策略を巡らせ、静かに時を待つ。
激突の瞬間は、もうすぐそこまで迫っている。









 続く












後書き



敵サイドのお話です。

ここからどうなるのか、については、まぁ気長にお待ちください、ということで。

しかしまぁ、本格的に話が動き始めました。

展開は相変わらず遅いですが。

でもまぁ、戦闘が始まれば、最後まで一気に突っ走ることになりますし、準備はしっかりしなければならないのですよ。

ということで。