ダダダッ、と階段を駆け上がる音だけが、場に響く。
それは決して大きな音ではないが、それでも他に雑音と呼べるようなものはないため、どうしても大きく聞こえてしまうのだろう。
今、この階段を駆け上がっているのは、茜と詩子の二人。
口を噤んだまま、辺りを警戒しつつ、それでも速度を落とすことなく、上階へと向かう。
一階での手荒い歓迎は、しかし二人の足止めにもならなかった。
あるいはこれを受けたのが、現在この棟の外で激しい戦闘を繰り広げている保護機関の人間達だったなら、犠牲も少なからず出ていただろう。
だが二人にとっては、通常兵器以外に選択肢を持たない者など、相手にもならない。
彼女達を傷つけられるとしたら、それはやはり強力な能力者しかいないだろう。
そして今、二人がいるこの棟には、間違いなくそんな存在がいる。
「茜」
「わかってます」
順調に駆け上がっていた二人だったが、とある階で急に足を止める。
階段は、建物のほぼ中央部にあるため、右を見ても左を見ても、広々とした廊下が目に飛び込んでくるのみ。
その廊下は一本道ではなく、また点在する部屋の数も多く、隠れて敵を迎え撃つのに好都合な造りをしていると言える。
立ち止まった二人は、それぞれ違う方向に視線を向けていた。
右に立つ茜は右側を、左に立つ詩子は左側を。
それぞれ、睨みつけるようにして、油断なく構えている。
「じゃ、別れよっか」
「そうですね。私はこっちに行きます。詩子はそっちをお願いしますね」
「りょーかい、気をつけてね」
「はい。詩子も」
一瞬だけ視線を交錯させると、二人はすぐにその場を飛び出す。
茜は廊下の右側へ、詩子は左側へ。
茜も詩子も、手には既にそれぞれの得物を発現させている。
普段の雰囲気は既になく、両者とも、その表情は戦場に赴く人間のそれだ。
完全に臨戦態勢。
それ以上言葉も視線も交わすことなく、二人はそれぞれ廊下の角へと姿を消した。
神へと至る道
第51話 口煩い防壁
ただひたすらに廊下を駆ける茜。
数ある扉には目もくれず、ただ奥へ奥へと走り続ける。
ただし、廊下が入り組んでいるため、その速度はそれほど速くはない。
道は右に左に折れ曲がっているので、どうしても死角が多くなり、それ故に速度を上げ難いのだ。
これも侵入者対策の一環だろうか。
それとも、単純に製作者の趣味なのだろうか。
そんなことを考えながら何度目かの角を曲がった瞬間に、突然茜は急ブレーキをかけて、体が進んでいた方向を、無理やり変化させる。
その直後、けたたましい破砕音と共に、彼女の目の前の壁が弾けた。
驚く暇もなく、突き破られた壁の向こう側から、瓦礫と共に、彼女に向かって何かが飛び出してきた。
思考より早く、反射的に腕を振るう茜。
その速度は、飛び出す相手よりなお速い。
捉えた、と彼女が思った次の瞬間。
「……くっ!」
キィン、という甲高い金属音と共に、その攻撃は止められた。
蒼の刃が何かにぶつかったその場所で、力の均衡が生まれる。
だが、そのまま押し合うことは危険。
そう判断した茜は、大きくバックステップすることで、相手との距離をとる。
そこでようやく、飛び出してきた相手の全貌を目に映すことができた。
「……なるほど、楯、ですか」
「ヒュゥ……大したもんだな、あんた。腕が痺れたのは久々だぜ」
およそ十メートルほどの距離を隔てて、茜と対峙する一人の男。
無表情に、相手の姿とその手に持つ楯に視線を注ぐ茜とは対照的に、男は、軽い調子で口笛を吹いている。
腕が痺れたと口にしたものの、特に動揺した様子もなく楯を構えている男。
年齢は三十前後だろうか……明らかに剃ってないとわかる無精髭と、手入れもしていないボサボサの少し赤みがかった髪を見る限り、かなり大雑把な男に見える。
服装もまた、その印象を裏切らず、かなりラフなスタイル。
それも所々破けていたり色落ちしているあたり、その服装は、動きやすさを追求したのではなく、単に手入れが面倒臭いのでそうしているのだろうと推察できる。
軽薄な様子を感じさせる口元とは裏腹に、細められた目には、油断が感じられない。
左手に楯を持ち、右手をそれに添えるようにして、茜の手にある得物に、その冷静な目を向けている。
今の攻防から得た情報を、今まさに脳内で処理しているのだろう。
「……悪趣味ですね」
「言ってくれるねぇ」
冷ややかな目で茜が口にした忌憚のない意見にも、男は軽い笑みを浮かべるのみ。
茜の意識は、あくまでも彼の手にある楯に集中している。
先程の攻撃を完全に防いだもの……その楯に向けての茜の評価がつまり、先の言葉なわけだ。
悪趣味……なるほど、確かに初めてその楯を目にした者なら、そう言わずにはいられないだろう。
何しろその楯の表面に、人間の顔らしきものが張り付いているからだ。
ちなみに“らしき”というのは、それがとりあえず人間の顔だろうと辛うじて考えられる程度の造形しかしていないからだ。
あくまで楯についてのみ語るなら、それは鈍色をした直径五十センチメートルくらいの真円形の楯と言うだけでいいかもしれない。
だが、その表面にあるものは、とても趣味がいいとは言えない不恰好な顔。
人間の顔と判断できるのは、あくまでもパーツの一つ一つがそれらしく見えるからに過ぎない。
大きく見開かれた真ん丸い目。
不恰好に広げられている平べったい鼻。
大きなヘチマを横にしたように歪んだ開き方をしている口。
目と鼻と口というパーツが一応あるように見えるから、何とか人間の顔と表現できるだけ。
だが、出来損ないの抽象画でも、もう少しはそれらしく見えるだろう。
いや、これを抽象画と比較するのは、芸術に対する冒涜とさえ言えるかもしれない。
とにかく、そんな不気味な目鼻口が、楯の表面に張り付いているわけだ。
これは、茜が開口一番『悪趣味だ』と断ずるのも当然だろう。
それは本人も自覚しているのか、軽く笑っているその姿からは、茜の言葉に気分を害した様子は全く窺えない。
「……もう少し何とかならなかったものでしょうか?」
「俺はそれなりに気に入ってるがね」
正直見るに耐えない、と言わんばかりの茜の表情に対して、男は軽く肩を竦めてみせるのみ。
それだけの様子なら、まだ平和そうに見えたかもしれないが、双方の発する威圧感は、平和という言葉には程遠い。
交錯する互いの視線には、確かな殺意が宿っている。
不気味な表面に気を取られてしまいがちになるが、この楯は茜の一撃を受け止めたのだ。
咄嗟のことだったので完全な攻撃ではなかったものの、受けた楯の表面に傷一つないという時点で、その防御力の高さは容易に窺い知れる。
その不気味な様相から考えても、これが彼の能力により創り出されたものだということは明白。
間違いなくタイプM……そして、間違いなく強い。
茜の攻撃は、決して軽くなどない。
対峙した楯など、それごと切り裂いてしまえるほどに。
だが、目の前の男は、それを易々と成し遂げた。
その事実が、茜に最大限の警戒を促す。
茜がこの男を倒すためには、この楯をどうにかしなければならない。
加えて、相手の攻撃手段もわからない。
状況は、決して明るくない。
「……」
茜が、無表情のまま静かに蒼を構える。
男もまた、静かに楯を持ち上げる。
状況がどうであれ、茜には攻める以外の選択肢はない。
慎重にいきたくはあるが、じっと待っていたところで、状況は改善されないのだ。
たとえ相手との相性が悪かったとしても、飛び込んでいくしかない。
攻める中で勝機を見出す……これが、茜の戦い方なのだから。
静寂は一瞬。
瞬間的にトップスピードに入った茜が、腕を振りかざし、男の右サイドから斬りかかる。
それは、切っ先が目に映らないほどの速度。
だが、相手もそれをただでくらうほど鈍くはない。
驚いた様子も見せずに、体を捻るようにしながら防御の体勢に入る。
「ふんっ!」
気合のこもった声とともに、楯を振り回すようにして茜の攻撃を迎え撃つ男。
刹那後、衝撃。
両者の手に、痺れにも似た振動が広がる。
その後、茜は追撃に出ようとするが、男の右手が動く仕草を見せたことで、それを諦める。
剣が当たっている部分に力を込め、弾くように腕を振るうと、その勢いを利して再び男との距離をとった。
それを見て、上げかけていた右手を下げる男。
距離は再び十メートルほど。
「……」
茜は、心の中で一つ頷く。
今の攻防から考えても、相手の防御は極めて強固なものと判断せざるを得ない。
例えば、これから何十回も何百回も攻撃を重ねれば、あるいはあの楯も砕けるかもしれないが、そんな余裕はない。
それより先に、彼女が殺されてしまうだろう。
となれば、あの楯の破壊は、諦めなければならない。
男も、楯での防御が自身の生命線であると自覚しているのだろう。
苛烈な速度を持った茜の攻撃に、しかししっかりと照準を合わせて防御してきた。
どんな攻撃も防ぐことのできる楯……そういう自負があるということか。
その自信を裏付けるのが、絶対の強度と積み重ねてきた経験。
これを真っ向から突き崩すのは至難の業だ。
どの角度から、またどれだけの速度でぶつけようとしても、まず防がれてしまうに違いない。
直線的な攻撃では、あの防壁を超えられない。
だが、茜の
何処までも深い蒼
は、何も直線的な攻撃しかできないわけではない。
それを剣と思われているのなら、彼女にとっては好都合。
茜は静かに、眼前へとそれを運ぶ。
目に映る蒼い刀身は、やはりいつものように曇り一つない……そう、今の茜の心境のように。
彼女に迷いがないからこそ刀身が澄んでいるのか、それとも刀身が澄んでいるからこそ彼女に迷いがないのか。
どうあれ、自身の能力、自身の得物に絶対の自信を持っているのは、彼女も同じ。
「やるねぇ、あんた」
感心したように呟く男……だがその言葉とは裏腹に、彼は余裕を持った態度を崩さない。
それもまた、絶対の自信の表れ。
幾度攻撃を仕掛けてこようとも、全て防ぎきることができる、という意思表示。
茜が、さらにエネルギーを刀身にこめてゆく。
それを受けて、彼女の手の中の蒼が、さらに輝きを深める。
波一つない湖面のような、不思議な静寂と重厚さを湛えた刀身……それは見る者を惹きつけて止まない。
例に漏れず、男の視線も、その刀身に注がれる。
その瞬間に合わせて、茜が再び床を蹴る。
一度楯で防がせて、そこを起点に攻撃する。
それが茜の判断。
普通の剣ではそんなことはできないが、茜の能力ならば、それは容易だ。
今度もまた、右から攻める。
男もまた、先程と同じくそれに反応し、楯を向けてきた。
――これで決まり……――
心の中でそっと呟く。
それは茜の狙いどおり。
わざと防がせて、けれどそこからが本当の攻撃の開始。
「なっ?!」
驚愕をそのまま形にしたような声が、茜の口から漏れる。
ガギッ……という、先程までとは明らかに異なる鈍い音が、二人の鼓膜を震わせた。
目を見開き、信じられないという表情の茜。
彼女が驚くのも無理はない。
衝突の瞬間に、楯の口の部分がいきなり大きく開き、迫ってくる剣先を咥えこんでしまったのだから。
先程までとは明らかに異なる防御法。
自ら動く楯……それは、茜の予想の範疇を超えていた。
今回の攻防で仕掛けていたのは、茜だけではなかったのだ。
予想外の出来事を目にして、茜に一瞬の隙が生じる。
当然、それを見過ごす相手ではない。
「あばよっ!」
「くっ……!」
男の右手が閃き、茜の腹部目掛けて振りぬかれる。
それは、彼女の防壁を容易に打ち破るだろう破壊力を秘めた一撃。
もし彼女の得物が普通の剣であったならば、それを固定された状態が災いして、硬直状態のまま、まともにくらうことになっていただろう。
だが、彼女の手で輝くのそれは、普通の剣などではない。
ギュン、という音が聞こえたかと思うほどに激しい勢いで、茜の
何処までも深い蒼
の刀身が伸びる。
その反動で、茜の体は、瞬時に後方へと移動する。
一端を楯に固定されていることを利用し、刀身を伸ばすことにより、距離をとることができたのだ。
「くっ……」
「ちっ、変な武器使ってやがるなぁ、あんた」
どうにか相手の攻撃を回避することには成功したものの、茜の表情は冴えない。
まだ落ち着きを取り戻せていないのだろう。
距離をとり、まずは呼吸を整えようとする……が。
「ふん……距離をとっただけでいいのかい?」
「……?」
十メートル以上距離をとった状態。
相手には飛び道具もないはず。
そんな状況でかけられた言葉の意味を茜が掴みかねている内に、男の笑みが深くなる。
変化は、突然だった。
「あぁ……っ!」
驚愕と苦悶を滲ませた茜の声が響く。
突如、
何処までも深い蒼
を持つ右手から、エネルギーが吸い取られているかのような急激な脱力感を覚えたのだ。
何が起こったのか……それを知るために、ともすれば閉じられそうになる目を、右手の方へと向ける。
震える右手、蒼の刀身、と視線を動かしていき、それが剣先にまで到達した時、茜の表情に戦慄が走った。
「っ! そういう、ことですか……っ!」
震える声……それは、目の前の現象に対する恐怖と、エネルギーを失ってゆく現状によるものか。
茜の目に映ったのは、咥えこんだ剣先に、まるでストローでジュースでも飲んでいるかのように吸いついている楯。
口が不気味なほどに人間らしく動き、その微妙な動作から、
何処までも深い蒼
のエネルギーを吸収しているのだ、と推察できる。
エネルギーの吸収……それはもはや食事と判断すべきか。
これはもう、悪趣味を通り越して恐怖の対象だ。
楯が人間みたいに食事をするなんて。
「っ!」
呆けていたのは一瞬。
すぐに茜は気を取り直し、
何処までも深い蒼
の刀身を、半ばから切り捨てる。
切り離された部分までが手元に戻り、その先の部分は、楯の口の中へと吸い込まれていった。
肩で息をしながら、その楯を睨みつける茜。
だが、驚愕はこれで終わらない。
「ひゃっはーッ! 最高だな、オイ! 最高だな! こんな美味いエネルギーは初めてだぜェッ!」
いきなり楯の表面が歪み、不気味な笑い声を上げながら、その口の部分から人間の言葉を発したのだ。
聞くに堪えない野太い声……だが、その声質に言及する余裕など、今の茜にあるはずもない。
言葉も発せず、目の前の現象に圧倒されてしまう。
ギョロギョロと蠢く大きな両目。
ひくつく不恰好な鼻。
気味が悪いほどリアルに動きながら言葉を発する口。
さながら、出来の悪いホラー映画を見ている気分だった。
子供が見れば、泣き出すかもしれない。
そのくらいに薄気味悪い動き。
「……なんて、不気味な……」
「ひゃはッ! 不気味? 不気味? それは俺のことか? 俺のことか? ひゃははッ! 笑わせてくれる、笑わせてくれるゥッ!」
ようやく発せられた茜の言葉に、当の楯が反応し、ギョロリとねめつけるようにする。
返ってきた奇妙な返事と向けられた目に、茜の顔が引きつる。
人語を解し、人語を操る楯……そのあまりに現実離れした光景に、思考の停滞が起きてしまう。
それを尻目に、ケタケタと楯は笑い続けた。
「落ち着け! おい、
口煩い防壁
!」
「落ち着け? 落ち着け? ひゃははッ! 落ち着けるわけねーだろ?! あんな美味いもん食って黙ってられるか? なぁ、おい、黙ってられるか? なぁ、シャカールよォッ!」
諫めるような声がかけられるも、ケタケタと笑い続ける楯は、まるで態度を変えない。
相変わらず異常なテンションを保ったまま、ぐいぐいと楯の表面をひくつかせて、主張を続ける。
およそ現実のものとは思えない状況。
自分を創り出した者にさえも口答えをするような薄気味悪い楯……これが、男――シャカールの能力。
口汚くべちゃくちゃと喋り続ける楯と、それを抑えようとするシャカールを見て、ようやく落ち着きを取り戻した茜は、相手の能力について考察する。
ただの楯ではないかもしれない、とは思っていたが、まさか相手の武器を喰らうなど、彼女は思ってもいなかった。
未だに体は疲労を訴えている。
吸い取られたエネルギーは、決して少なくないのだろう。
とは言え、これだけのダメージで済んだのなら、むしろ幸運と言うべきか。
なるほど、完全な防御という判断は、然程に過大な評価でもなかったらしい。
さすがに、楯が自発的に剣先を咥えこむなど、誰が予想できるだろうか。
顔があったとしても、悪趣味だな、と考えるだけで終わるのが普通だ。
だが、その実態に気付いた時には手遅れ……相対したのが茜でなければ、混乱をきたしたまま、追撃をくらって死んでいた可能性は高い。
おまけに、べちゃくちゃと喋ること実に喧しい……正直、果てしなく不愉快だった。
ダミ声と評していいほどに野太い声で、聞くに堪えない悪辣な雑言を重ねる目の前の楯の姿には、怒り以外の感情を覚えることはない。
「ちっ……いいから黙れってんだよっ!」
「ひゃははッ! なら食わせろ! 食わせろ! さっきの剣だ! あの剣だ! あれは美味いんだ! 美味いんだよォッ!」
未だ終わりを見せない次元の低い口ゲンカに辟易しつつも、茜は静かに呼吸を整える。
ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐き出す。
深呼吸と共に、静かにエネルギーを練り上げる。
大きく乱れた精神の振幅を、少しずつ小さくしてゆく。
彼女の場合、精神の乱れは、そのまま刀身の揺らぎに繋がる。
激情は胸に秘め、あくまでも冷静に。
そんな彼女が振るうからこそ、
何処までも深い蒼
は、輝きを放ち続けるのだろう。
蒼の刀身が、再び輝きを取り戻す。
それは誰にも侵されず、何にも揺らがず。
武器と呼ぶには躊躇われるほどの、美の体現。
冷徹に前方を見据える茜の顔前へと、蒼が移される。
淀みのない刀身の向こう側で、まだ口汚く喋り続けている楯がいた。
そこで、静かに練り上げられる茜のエネルギーに気付いたのか、ようやくシャカールも楯も、茜の方へと目を向けてくる。
ゆらりと刀身を傾ける茜。
その様は、限りなく美しい。
蒼が茜を高め、茜が蒼を高め。
まるで一枚の絵画のような、そんな不思議な魅力を伴った立ち姿。
「くそっ、ほら見ろ、回復されちまったじゃねぇか」
「ひゃははッ! 好都合じゃねーか、好都合じゃねーかよォ! またあれが食えるんだぜ?! あれが食えるんだよッ! シャカールゥッ! さっさと食わせろォッ!」
舌打ちするシャカール……しかしそれでも、彼は冷静だった。
けれど、楯の方のテンションは、むしろさらに上がってゆく。
シャカールは、まだ輝きを失っていない刀身と、射抜くような強さを秘めた茜の眼差しに警戒を強めるのだが、楯の方はもう、異常なほどに口汚く吼え続ける。
それでももう、茜は揺らがない。
「……うるさいです」
「それについては同感だ」
「では、黙らせてあげます」
「そうもいかねぇ」
まだべちゃくちゃと喋り続ける楯を完全に無視して、茜が刀身を水平にかざす。
両の足で床を踏みしめ、右手を柄に、左手を剣先に添え、刀身を突き出すように眼前へとかざしながら。
まるで、蒼の刀身を楯に見せつけるかのように。
それを目にして、鬱陶しそうにしながらも、手の楯をそれが見える位置まで持ち上げるシャカール。
「ひゃはッ! ひゃははッ! あれだ、オイ、あれだ。食わせろ、あれを食わせろォッ!」
変わらぬテンションのまま、気味の悪い目で、真正面から蒼を見据える楯。
不気味に蠢く口は、舌なめずりでもしているのだろうか。
だが、茜はもう、それに心を乱すこともない。
「食わせろォーッ!」
まるで楯に引っ張られたかのように、シャカールが飛び出してきた。
今度の先手はシャカール。
先のやり取りで、既に刀身が伸びることは、彼も把握していた。
ならば、後手に回るのは危険。
先手を取り、刀身を伸ばす暇を与えることなく、そのエネルギーを吸収する……これがシャカールの選んだ手。
至近距離では、剣が伸びたからとて何にもならない。
逆にシャカールにしてみれば、相手に近い方が、楯に剣を奪わせやすい。
自身の防御に絶対の自信を持っているのだから、接近戦を躊躇う理由などなかった。
「これで終いだっ!」
楯と刀身の距離がゼロに近づいてもなお、茜に動きはなかった。
仁王立ちのまま、刀身を両手でかざし、まるで喰らってくれと言わんばかりの体勢。
シャカールは内心ほくそ笑みながら、楯を前方へと突き出す。
ここまでくれば回避は不可能……どこへ逃げようとも、必ず追い詰めることができる。
そうである以上、茜にできるのは、剣で楯を受け止めることだけ。
そして、そうなれば自分の勝ちが決定する。
突き出すように左手を前へと押し出す。
その結果、楯の影に茜が消えた。
シュルッと。
静かな音と共に、左腕にひやりとした何かが巻きつけられる感触を、シャカールは覚えた。
驚愕するより早く、反射的に左腕に目を向けると、肘の近くに蒼いロープのようなものが巻きついているのが見える。
その先端にあるのは、交差されている茜の両手。
ヤバい、と彼が思った時には、もう手遅れだった。
「がああぁぁぁっ!」
文字通り身を切られる激痛に、絶叫を上げるシャカール。
見開かれたその目に飛び込んでくるのは、宙を舞う楯と、それを掴んでいる自分の左手“だった”もの。
そして、透明の空間を赤く染める鮮血。
自身の横を過ぎ行く亜麻色の髪。
それらもまた、どこか現実さを欠いた光景。
楯が回転しながら落ちてゆくその様が、スローモーションのように感じられたのも一瞬のこと。
フッと。
地に落ちる直前で、楯が消失する。
遅れて、ボトッと血の海の中に落ちる左腕。
響く呻き声と、噴き出す鮮血の前では、それを気にする余裕など、どちらにもなかったが。
「ぐぁ……ぁ……っ!」
「これで、確かにお終いですね」
くるりと振り向いて、体を折り曲げてくぐもった呻き声を漏らし続けるシャカールに、そんな言葉をかける茜。
その両手には、蒼の輝きが小さく折りたたまれたような状態で収まっている。
しなやかに曲がったそれは、茜が軽く一振りすることで、再び真っ直ぐな剣の状態に戻った。
それに目をやってから、彼女はゆっくりとシャカールに歩み寄ってゆく。
「ぐっ……ま、まさか、そこまで、形状が、変化するとは、な……」
「ただ伸びるだけの剣だと思っていたのが、間違いだったんですよ」
楯と
何処までも深い蒼
が衝突する刹那前に。
大口を開けて喰らおうとする楯を回避できないはずだった状況で。
茜は、剣をロープ状に変質させることで、その危機を切り抜けた。
例えば、そこで後ろに退いても、追いかけてこられるためアウト。
横に避けても、男はすぐに楯をそちらへ向けるだけでいいのだから、これもアウト。
前に出るだけでは、これも楯に喰らいつかれるだけなので論外。
こうした普通の方法では、あの楯の脅威は回避できない。
しかし、茜にはもう一つの選択肢があったのだ。
そう、楯を飛び越えるという選択肢が。
両手で剣を持っていたのも、まさにそのため。
ロープ状に変質させることにより、伸ばしながら手首の回転を利用して、まるで縄跳びのようにして楯を飛び越えたわけだ。
いかに表面が絶対の防御力を持っていようとも、その裏に回ってしまえば、何もできなくなるのだから。
あとは、ロープを巻きつけるように
何処までも深い蒼
を腕に絡みつかせ、そこで刃へと変質させて切断するだけ。
相手は勢いのまま前方に倒れ伏し、茜はその身体を避けるだけで、全てが終わった。
「なるほど……なぁ、あんた……俺の敗因は、それか?」
息も絶え絶えに、歩み寄ってくる茜に問いかけるシャカール。
未だに血を噴き出し続ける左腕を押さえたまま、その目だけを茜に向ける。
楯を消失させられた以上、彼にはもはや勝機は存在しない。
止まらぬ血もまた、死を意識させて止まない。
それを理解すればこそ、彼は覚悟を決めているのだろう。
「……いいえ。それもありますが、最大の敗因は他にあります」
歩調を乱すことなく、ゆっくりと近づく茜。
冷静にシャカールを見るその目には、やはり何の感情も浮かんではいない。
「……何なんだ?」
ぜいぜいと息を荒げながら、シャカールが呻くように尋ねる。
完全に腰を床に下ろし、脂汗を浮かべている様子からは、放っておいても死ぬであろう事が窺い知れる。
それを理解してもなお、茜は歩みを止めない。
それから、静かに口を開く。
「……耳がなかったから、ですよ」
聞く耳を持たず、使い手たるシャカールと口論までしていた楯……それを言っているのだろう。
小さく微笑む茜。
そこには、蔑みやからかいの意思はない。
それはどこか、最後の手向けのように。
「……ははっ、そうか、そうだな……覚えて、おくことに、しようか」
シャカールは、一瞬の沈黙の後、苦痛に顔を歪めながらも、小さく笑う。
愉快そうに、納得したように。
両者の距離は、もうほとんどない。
「では、さようなら」
「あぁ、あばよ……」
振りかぶられた刀身が自分の体に吸い込まれるその瞬間までずっと。
シャカールは、全く目を逸らさず、また軽い笑みを浮かべたままでいた。
続く
後書き
能力者同士の、本当の意味での戦闘開始です。
いやもう物語的にも、ようやく純粋な戦闘が始まりました。
これまでの50話ではろくになかったのに、ここからは怒涛の如く押し寄せます(笑)
第二章の終了まで、戦闘が延々と続くことになりますので、よろしくお付き合いくださいませ。