「最上階……だね」
「はい……」
茜と詩子は、結局先の戦闘以来、誰とも遭遇することなく最上階まで到達していた。
下の階では多少なりとも察知できていた敵のエネルギーを、今はなぜか露ほども感知できない。
それは、二人が疲労していることや負傷していることとは無関係だろう。
理由はわからないが、二人の接近を知覚してから、相手はエネルギーを抑えてどこかに潜んでいるらしい。
「どうする?」
「そうですね……」
比較的見通しの良い階段付近で、それでも周囲を警戒しながら、二人が言葉を交わす。
右からも、左からも、もちろん階下からも、微かな気配すら感じられない。
相当に気配を絶つ術に優れていることは疑いようもない。
いくら探ってみても、どこに潜んでいるのかわからない現状。
詩子が厳しい眼差しで周囲を見やっている横で、思案に暮れる茜。
窓から射し込む光に照らされた両者の相貌は、微かに翳りを帯びている。
耳に痛いほどの静寂。
だが、二人にはそれが嵐の前の静けさに思えるのだ。
倒すべき相手は、おそらく彼女達の近くにいるはず。
ただ、身を潜めているため、二人には知覚できないだけ。
である以上、どうにかして見つけ出さなければならない。
しかし……
「あーあ、みさきさんがいたらなー」
「それを言っても仕方がありませんよ」
普段、隠れている何がしかの存在を見つけ出すのは、みさきの仕事。
如何に巧妙に隠されていようとも、彼女の目から逃れることのできるものなど存在し得ないのだから。
そうした能力の持ち主が身近にいるために、愚痴の一つも零れてしまうのだろう。
だが、茜の言うように、それはないものねだりというもの。
この棟は、茜と詩子の制圧すべき場所。
あくまでも、二人で何とかしなければならない。
「それじゃ、どうしよっか?」
「……しっ」
言葉を交わしていた二人が、唐突に動きを止める。
その表情に走るのは、はっきりとした緊張。
明確に察知できたわけではない。
だが。
「……何かいるね」
「はい」
相変わらず気配は一切感じられないのに、何かが起ころうとしている。
いや、何かが動こうとしている、と言うべきだろうか。
静寂の廊下。
窓から降り注ぐ陽光。
白い壁。
全てにおいて、何の変化もない。
だが、場に変化が訪れようとしている、そんな予感があるのだ。
高まる場の緊張感が、肌にぴりぴりと響く。
研ぎ澄まされてゆく感覚。
見えるわけでも聞こえるわけでもない。
ただ、感じるのだ。
茜も詩子も、手には既にそれぞれの得物を構えている。
たとえ疲労はしていても、両者とも十分に力を発揮できるコンディションだ。
ほどなくして始まるだろう激突の瞬間のために、集中力を高めてゆく。
長い長い一瞬。
始まりは唐突に。
静寂の廊下は、次の瞬間に戦場へと変わった。
神へと至る道
第56話 手の上の操り人形 -T
突然に、二人の真横の白い壁が破壊される。
何の前触れもなく、一瞬で。
あまりにも不自然な出来事。
普通、壁を破砕するほどに強烈な攻撃が放たれたとなれば、少なくともその直前にはエネルギーの高まりが感知できるはず。
だが、そんな気配は微塵も感じられなかった。
もちろん、幾多の死線を潜り抜けてきた二人が、それに気付かなかった可能性など、考慮するまでもない。
二人の心に、微かに狼狽が走る。
虚を突かれた二人は、破片を浴びながら階段を飛び降りて、追撃を避ける。
下の階との中間地点辺りで足を止め、階上に目を向けた。
そこに見えたのは、巨大なハンマーを構える男達が数人。
二人がまず気付いたのは、そんな武器や人数などではなく、彼らの目。
「……操られてる、のかな?」
「そのようですね」
死んだ目、と評するのが適切だろう男達の目を見て、二人は敵の能力を察した。
油断ない二人の視線は、しかし相手の誰とも合わされることはない。
彼らの目は、何も見てはいなかったからだ。
二人の仲間――美汐の能力……それを行使された人間が見せる目と同質のそれ。
どう見ても正気ではない。
おそらく意識から何から、全てを奪われているのだろう。
ほとんど操り人形と言ってもいい。
そして、それならばエネルギーを知覚できなかったのも無理はない。
正気を失っている人間では、そんなものを発現できるはずがないのだから。
そして。
「でも、ボロボロだよ」
「使い捨ての駒、ということなのでしょうね」
自分の意志などなく、ただ操られるままに武器を振り回す。
そんなことをして、体が無事で済むはずがない。
男達のハンマーを持つ手は、既に血が滲んでいる。
あるいは、筋肉や骨にさえダメージがあるかもしれない。
ムリヤリ使われる力に、加減は存在しない。
無意識に身を守ることすら叶わない。
体にかかる負担など、考慮されようはずもなかった。
文字通り、彼らは使い捨ての駒なのだろう。
「……厄介だね、これは」
「数がどれだけいるか、にもよりますが」
捨て身以外の何物でもない攻撃。
自分を顧みることのできない者達。
戦うには、非常に骨の折れる相手である。
何せ、痛覚も何もないのだから、たとえ如何なダメージを受けようとも、委細構わずに攻撃を続けられるのだ。
それこそ、完全に行動不能にしない限り、安心できない敵。
どれだけの数が用意されているのかはわからないが、一人ずつ倒していくのはあまりにも非効率的だし、何より危険だ。
茜の言葉に触発されたわけでもないだろうが、階下からも数人の男達が近づいてくるのが見えた。
どうやら、複数の人間を自由に操ることができる能力のようだ。
想像以上に優れた使い手らしい。
そんな思考を巡らせている間にも、敵は遠慮なく近づいてくる。
その数は、それこそ放っておいたらどれだけ増えるかわかったものではない。
長く戦うわけにはいかないだろう。
「仕方ないね。ここは詩子さんに任せて、茜は本体を倒してきてよ」
「……確かに、それしかないでしょうね。わかりました」
じりじりと迫る男達から視線を逸らすことなく、詩子が茜に提案した。
同じく男達を睨みつけるようにしながら、茜がそれに首肯する。
操られている敵をいくら倒しても、操っている能力者を倒さないことにはどうにもなるまい。
となれば、防御力に優れる詩子が、守りに徹して敵の注意を引き、攻撃力に優れる茜が、急いで操っている者を見つけ出して倒すのが最良。
一瞬の視線の交錯の後、二人は揃って階上へと駆け上がった。
それに合わせてハンマーを振りかぶる男達。
その動きは決して速くはないが、それでも数が多いこともあり、充分な脅威となる。
茜と詩子を叩き潰さんと迫る凶器。
十分な破壊力を持ったそれを、しかし詩子は
春風の加護
で静かに受け止める。
ぴたりと止められるハンマー。
生じる隙。
即座に男達の間を駆け抜ける茜。
それに続く詩子。
ぐるり、とどこか鈍重な動きで、男達が二人に振り返った。
追撃するつもりであることは明白。
そうはさせじと、詩子は男達を追い抜くとすぐに立ち止まり、バッと振り返る。
瞬間、顔を引きつらせる詩子。
何も映さない黒く濁った死者のごとき目が、何対も自分に向けられているのだ……それも当然だろう。
気分はさながらB級ホラー映画の出演者だ。
「うぅ……不気味すぎるよ、一人だって焦点合ってないし……」
苦々しい声。
その表情は、不快感を隠そうともしていない。
春風の加護
を握り締める立ち姿も、少なからず不安げに映る。
それでも。
「……やるしか、ないよね」
階下からも追いついてきて、総勢で十人近い数の男達が、詩子の方へとその顔を向けている。
無言で武器を構え、それぞれに歩みを開始した。
迎え撃たんとばかりに、男達を睨みつける詩子。
何も、倒そうとしなくてもいいのだ。
要は、茜が能力者を見つけ出して、それを倒すまでの時間を稼ぐことができればそれでいい。
彼らの攻撃は確かにかなり厄介だが、防御に徹していれば、それらを捌ききることは、決して不可能なことではない。
そして何より、詩子には防御に関する絶対の自信があるのだ。
「かかってきなさい!」
意気盛んに
春風の加護
を振りかざす詩子のその声を合図に、男達がその場を飛び出し、詩子に襲いかかった。
一心不乱に廊下を駆ける茜。
既に詩子からは遠く離れ、戦いの音も聞こえてこない。
静かな廊下。
だが、落ち着いている暇など存在しない。
扉を見つけては、警戒しながらその内部に侵入し、誰かいないかを調べる。
速やかに敵を発見し、これを駆逐する……これが茜の仕事。
だが、これは容易にはいかない。
敵がどこに隠れているかもわからないため、全ての部屋を探す必要があるからだ。
棟は非常に広く、この最上階だけでも相当数の部屋が存在する。
幸い散らかっている部屋などはないため、部屋ごとにかかる時間はそれほどではない。
だが、如何せん探す部屋の数が多すぎるので、結局捜索は難航することになる。
「どこにいるんですか……っ」
忌々しげに呟く茜。
今も、詩子はあの己を顧みない凶悪な猛攻にさらされているはずだ。
となれば、時間が過ぎれば過ぎるほど、詩子の危険度は上がってゆくことになる。
あらゆるエネルギーを吸収するとはいえ、
春風の加護
も万能ではない。
その許容量が限界に到達してしまえば、詩子には防御手段がなくなってしまう。
そんな制限の存在が、茜の心に波風を立てる。
逸る心が、思わず口をついてしまう。
何度目かの部屋。
過ぎた時間への不安。
広がってしまった焦り。
そこを狙っていたのだろうか。
「くっ!」
少し乱暴に開け放ったドアの向こうから、先と同じく操られているらしき男が三人、一斉に茜に向かって突進してきた。
不意を突かれた。
三人とも、右腕に持った剣を大きく振りかぶっている。
危険なタイミング。
「っ!」
茜は、
何処までも深い蒼
を握り締め、奥歯を噛み締めながら、その敵を迎え撃つべく、自身の右腕にエネルギーを込める。
衝突は一瞬だ。
相手が何人いようが関係はない。
振りかぶられた三人の右腕……これを一瞬で斬ってしまえば、何も問題はなくなる。
相手が痛みなどで止まるわけはないが、攻撃手段がなくなれば、恐れる必要もない。
男達の右腕が、今まさに振り下ろされるか、という瞬間に。
茜の右腕が、音もなく振るわれる。
その様は、まるで風のごとく。
一瞬後には、振り下ろされるはずだった右腕が三つ、剣が三本、それぞれ宙を舞っていた。
一瞬の硬直。
剣を振るったが故の硬直。
茜の動きが、その一瞬だけ止まる。
ただ、先の動きの余韻のように、亜麻色の髪が揺れるだけ。
動くものは、ただそれだけ。
それこそが、男達の……引いては、それを操る者の狙いだったことに、茜は気付けなかった。
「ぇ……?」
ふと走った小さな痛み。
小さな疑問の声が茜の口をつく。
頭部……いや、髪の毛を引っ張られたような、そんな感触が彼女にはあった。
反射的に茜が向けた視線の先で、男の一人が、左手で空気を掴んでいる。
空気……彼女がそう思ったのは、そこに何も見えなかったからだ。
だが、右腕を失ってまで、何もない空間を掴んだりする必要など、どこにあろうか。
それを意味のない行動と考えるほど、茜は愚かではない。
何より、タイムラグのないその一連の行動が、茜の心に警戒を促す。
もし右腕での攻撃が、茜の意識を集中させるためのフェイクで、本当の狙いはこの左手の動きにあるとしたら?
凄まじい速度で、茜の脳が目の前の事態に思考を巡らせる。
先の痛み。
目の前で空を掴む手。
そこから導かれる答えは……
だが、その思考さえも、相手の術中。
「させませんっ!」
おそらく相手の手の中には自分の髪が入っているだろう、と推察した茜は、刀身を構え、その左手を狙う。
何が狙いなのかは明確にはわからないが、決して看過して良いことではないだろう。
振り抜いた体勢から、返す形でその左腕に狙いを定め、自身の手にある蒼を叩き込む。
それは確かに、男の体ごと一瞬で切断することとなった。
一瞬宙に浮く左腕。
それを、横合いから掴む手があった。
時間差で茜に接近していた男の一人だ。
失った右腕から血を滴らせながら、けれどそれを気にする様子も見せずに、残った左手で、切り離されて宙に浮かぶその腕を掴む。
危険と直感した茜が、その左手を狙おうとすると、もう一人の男が左拳を振りかざして、茜へと攻撃を仕掛けてきた。
結果、そちらに意識が向いてしまう。
確かな攻撃力を秘めた一撃。
放置して切り離されている左腕をどうにかしようとすれば、その攻撃を無防備でくらうことになる。
それは非常に危険だ。
舌打ちしながらも、茜は襲い来る男に狙いを絞り、それを迎撃する。
迫り来る拳をバックステップしながら回避して、空気を揺らすその左手を、剣を振り上げるようにして瞬間的に切断する。
そのまま、通り過ぎていく相手の頭部に柄の部分を叩き込み、行動不能にしておくことを忘れない。
茜はすぐさま先程の左腕を目で追う。
だがそれは、なぜか持っていたはずの男の手の中に存在しなかった。
どこにいったというのか?
その一念で、目を部屋中に走らせる。
視界に飛び込んできたのは、宙を舞う左腕。
その軌跡の中に、部屋の照明を受けて、微かに煌く一筋の輝きがあった。
間違いなく、彼女の髪の毛を掴んだままの状態だ。
どうやら男は、掴んだ左腕を後方に投げたらしい。
それに驚愕する間も、投げた理由を考察する間もなく。
「くっ!」
最後に残っていたその男が、全身で茜の視界を隠すようにして飛び出してくる。
まさしく捨て身の一撃。
それは間違いなく時間稼ぎの選択。
何のために?
けれど、思考する暇などあるわけがない。
ほとんど反射的に、
何処までも深い蒼
を突き出して、男の首を斬り飛ばす。
確かな手応えとともに、男の首が胴から離れる。
溢れ出す鮮血。
鼻をつく血の匂い。
倒れてくる男と、降りかかってくる血を避けるために、茜は後方に飛び退かざるを得ない。
大きくステップして、男から距離をとった。
と、血で濡れる空間の向こうに、何かを見つけた。
飛んでいたはずの左腕。
それを掴んでいる、誰かの手。
そして、その腕の中から、一筋の煌きを取り出している誰か。
「ふふふ、ようやく手に入れた」
ゆっくりとした声音が、部屋の空気を震わせる。
低く重いその声には、隠し切れない喜びがあった。
茜の視界の向こうで小さく笑っているのは、長い黒髪の女性。
全体的に線が細く、どこか陰湿な印象を受ける。
それは、目元をほとんど覆い隠している長い前髪のせいもあるだろう。
前髪の向こうから覗く目は、濁った沼を思わせる。
彼女の周りの空気は、どこか暗く澱んでいるようにも思える。
身につけている白いワンピースが、どこか彼女自身への皮肉のように見えるのは、茜の心中が影響しているのか。
暗い笑い、暗い愉悦。
どこかぞっとしない立ち姿。
「……」
対して、茜の表情は、まるで苦虫を噛み潰したかのように歪められている。
相手の狙いにまんまと乗せられてしまった。
男達を操って二人を襲ってきたのは、全てこのためだったのだ。
まず集団で襲いかかることにより、茜と詩子の思考を、一人が時間稼ぎ、一人が本体撃破、という方向へ誘導する。
そして、当の本人は奥の方で息を潜めて、茜が部屋に侵入してくる時を待つ。
焦りが浮かび始めた状態なら、突然の襲撃を受ければ、ほとんど反射的にその攻撃に意識が集中してしまう。
その隙をついて、茜の髪の毛を奪取。
さらに波状攻撃を仕掛けることにより、その髪の毛を手に入れる時間も稼ぎ出す。
全てが計画的で、全てが計算ずく。
相手の手の中で踊らされていたことに、茜の内心は大きく揺らぐ。
だが、何よりも問題なのは、その手に入れた髪の毛で何をするのかということ。
わざわざ手の込んだ真似までして手に入れたそれに、意味がないはずがない。
そして、その意味を想像できないほど、茜は鈍くない。
「さぁ……踊って頂戴」
笑みを深くしながら、彼女は茜の髪の毛を右手に持ち、男の左腕を投げ捨てる。
次いで彼女の左手に、突然何かが出現する。
それは人形。
まるでどころか、藁人形そのものの風体。
虚空から出現したそれから、この目の前の女がタイプM能力者であることを察知するも、時既に遅し。
隠れていた彼女が、茜の目の前に姿を見せているのだ。
絶対的有利を確信していない限り、そんな真似はすまい。
「!」
せめて一太刀。
その思いで、前方に飛び出そうとした茜の動きが、しかしいきなり静止する。
誰かに抑えられたわけではない。
何かに攻撃されたわけでもない。
ただ、いきなり止まってしまったのだ。
驚愕に剥かれた茜の目に映るのは、人形に埋め込まれた女の右手の親指と人指し指。
すなわち、茜の髪の毛が、人形に埋め込まれていることになる。
「ふふ、まだ名乗ってなかったわね。私はトゥーレ。あぁ、あなたの名前は必要ないわ、知ってるから」
動きを止めた茜に対し、満足そうに笑む女――トゥーレ。
茜は、返事を返すでもなく、ただ目の前を凝視し続けるだけ。
「
会話は許可するわ
。言いたいことを言ってごらんなさい」
トゥーレの言葉と同時に、茜の表情が動いた。
まるで、表情の動きにさえも制限がかけられていたかのように。
「これが、あなたの能力ですか……」
思わず口をついた言葉。
自身の甘さを悔やんでいるかのような発言。
警戒が足らなかった……そう考えてしまうのも、仕方がないかもしれない。
「そうよ。効果は見ての通り。他人の体の一部をこの人形に入れることで、その人間の体の自由を完全に奪うことができるの」
そんな茜の様子に、楽しそうに説明を始めるトゥーレ。
長い前髪の向こうから覗く眼には、暗い喜びが浮かんでいる。
「欠点は、
生きてる人間
だと同時に一人しか操れないことかしら」
「……では、さっきの男達は……?」
「もちろん、あなたの考えてる通りよ」
薄い唇が、ゆっくりと持ち上げられる。
やはり、どこか暗い笑い。
しかし話している内容にはふさわしい笑み。
つまり、先程茜と詩子に襲いかかってきた男達も、茜の髪の毛を奪った男達も、既に死人であったということだろう。
茜と詩子を倒すために、トゥーレは構成員を捨て駒に使った。
非道であるが、同時に有効な手段でもある。
現に、こうして今、茜は囚われの身になっているのだから。
「さて、もう一人いることだし、まずは貴女から片付けることにしましょうか」
ゆっくりと場に響く言葉。
歪に持ち上げられた口の端。
茜に脅威と恐怖を与えるに足る、凄惨な表情。
「……くっ」
これから目の前の相手が何をするか……それを想像できないわけがない。
体の自由は完全に奪われた。
思考と会話は可能だが、それでこの状況を打破できるわけがない。
茜は今や、完全に相手に自由を奪われているのだ。
「さぁ、お人形さん。私を楽しませて……」
トゥーレが、人形を掴んだ手にエネルギーを集中させる。
そのエネルギーは、確かに強さを感じさせてはいるが、それ以上に不気味な圧迫感を茜に与えた。
まるで澱んだ川の水。
彼女のよく知る者達のそれとは、明らかに一線を画する異質なもの。
濁っているかのように暗く、吐き気を催すほどに重く。
「ぁっ!」
そんな思考を巡らせる暇もあらばこそ。
小さな悲鳴を上げる茜。
何処までも深い蒼
を持つ手が、ゆっくりと上げられてゆく。
まるで、刀身を振りかざすように。
その刀身を見せつけるように。
天に向けて掲げられた、透き通るような蒼い刀身。
どこまでも澄み、見る者を惹きつけて止まない輝き。
それに目をやるトゥーレ。
「本当に綺麗ね……本当に、壊したくなるくらい……」
徐々に低くなってゆく声音。
大きく歪められてゆく表情。
どこまでも深く暗い笑み。
それを目にして、茜の表情が引きつる。
「ふふふふふ……」
さらにトゥーレが笑みを深くすると、それが合図であったかのように、茜の右腕がさらに天高く突き上げるように振りかぶられる。
狙いは、一つ。
茜の表情が、さらに歪む。
「それじゃあ、まずは左腕からいこうかしら?」
トゥーレの言葉に合わせて、茜の右腕が小さく震える。
そして、蒼い輝きが、自身の左腕に向けて振り下ろされた。
茜の左腕を叩き斬らんと迫る蒼の刀身。
見開かれる茜の目。
暗く笑うトゥーレ。
状況は限りなく茜に絶望的。
蒼の刃は、容易く茜の腕を切断できるのだから。
間違いなく左腕が斬り飛ばされる。
トゥーレはそう確信する。
だが。
「……?」
間違いなく振り下ろされた右腕。
紛れもなく左腕に襲いかかった刀身。
だが、蒼の刀身の先が地に突き刺さってもなお、茜の左腕には僅かの異常も窺えない。
いや、それどころか、そこには傷一つなかった。
これには、さすがにトゥーレも顔色を変える。
見開いた目を彩っている驚愕の色が、茜にもわかった。
「……何なの? それは」
微かに震える声。
その声音には、若干の苛立ちも窺える。
確かに茜の左手を奪えるはずだったのに、蒼の刀身は、それを実現しなかった。
「……そう、それがあなたの能力の特性というわけね」
茜の左腕……蒼の刀身が当たっている部分を憎憎しげに見つめながら、トゥーレが呟く。
大地に突き刺さっている部分から、茜の左手近傍までは、紛れもなく刃で。
けれど茜の左腕に触れている部分は、まるで柔らかいロープのようで。
そして、そこから右手の柄までが、また刃で。
疑いようもなく、能力による効果だ。
「……やはり、体は自由にできても、能力そのものには干渉できないようですね」
茜が、少しだけ笑みを浮かべながら、そう呟いた。
若干の安堵と、大きな不安。
表情には、それが確かに窺える。
この攻撃は退けられたが、状況が好転したわけではないのだ。
けれど、その茜の落ち着いた声音が、トゥーレの表情を一変させる。
それは、明らかな怒り。
茜の言葉に、挑発の意図でも見て取ったのかもしれない。
「……上等だわ。それならこうよ!」
怒りを滲ませた声とともに、茜の右腕が再度上がる。
茜もまた、意識をそちらに向ける。
刃を変質させなければ、自分の命がないのだから。
しかし。
「ぐっ……!」
漏れる苦痛の声。
歪む茜の表情。
武器を手にしている右腕ではなく、握り締められた左の拳が、彼女の脇腹を殴りつけていた。
右腕に意識を集中させた上での、左腕による攻撃。
殺傷力は格段に劣っていても、油断している状態でくらえば、それは楽観できない一撃。
骨の軋む音が聞こえたことから、ダメージは軽いものではなかったようだ。
そして、その衝撃が覚めやらぬうちに、茜の右腕が動きを開始する。
苦悶の表情のまま、それでも茜は意識を右腕に移す。
「くっ……」
自分の腹部を突き刺そうとする刃を、やはり変質させることによって回避。
だが、左手がさらにもう一度腹部を抉ったことにより、茜の表情がさらに歪められる。
それは、傍から見れば馬鹿げた一人遊びにしか見えないだろう。
自分の腕で自分の体を攻撃しているのだから。
右腕で自分の体を斬り裂こうと。
左腕で自分の体を痛めつけようと。
それこそ、限りなく不恰好で、限りなく危険な一人芝居。
だからこそ、脅威。
なればこそ、恐怖。
「さぁ、いつまで耐えられるかしらね?」
不気味に笑うトゥーレ。
茜の苦しむ姿を見て、明らかに喜んでいる。
またしても、歪んだ笑みが顔に広がっている。
茜は、憎憎しげに視線を向けることしかできない。
そして、一頻り笑うと、トゥーレは再び手に掴んでいる藁人形にエネルギーを注ぐ。
次いで、茜の右腕が振り上げられる。
暗い一人芝居は、未だ終わる気配も見せない。
続く
後書き
何ていうか、ようやく戦闘が始まったって気分です。
やっぱり苦戦があってこその戦闘シーンですしね。
しかしまぁ、こういうものを書くのって結構いい経験になるなぁ、と思ったり。
展開を考えるのも、それを文章にするのも、話として完成させるのも。
ここからラストまで、手に汗握る展開を提供できるように頑張りたいところです。