「げほっ……」
ぽたぽたと滴り落ちる血。
真っ赤なそれが、茜の足元の絨毯に滲んでゆく。
赤い色合い故に目立ちはしないが、そこには既に幾つもの染みが出来上がってしまっている。
ほとんど一方的に傷つけられた、その証だ。
疲労と苦悶の色が濃いその表情からも、それは容易に窺い知れる。
「ふふふ……思ったよりも頑丈なのね。これだけやってもまだ生きてるだなんて」
そんな姿を見て、トゥーレが口元に指を当てながら、嬉しそうに笑う。
前髪から見え隠れするその瞳には、暗い輝きがあった。
彼女の望み通りに展開している現在の戦況を思えば、喜色に染まるのも当然だろう。
実際、茜のダメージはかなり深刻だ。
右腕の
何処までも深い蒼
による攻撃だけは辛うじて回避できていたものの、その隙に振るわれる左腕を防ぐことはできないのだから。
能力こそ、その自由を奪われていないものの、身体は既に自身の支配下にない。
故に、回避できるのは能力による攻撃のみ。
左手が腹部を抉ろうとも、顎を打ち抜こうとも、頬を殴りつけようとも、鳩尾に叩き込まれようとも、防御も回避も不可能。
微かに震えを見せる足を見るに、すぐにも倒れそうなのだが、それすらも今の彼女には叶わない。
ふらつきながらも、彼女の身体は倒れることを許されない。
腹部からの鈍痛のためか、顔には脂汗が浮き、呼吸も荒い。
のみならず、殴られたことによる痣や出血がひどい。
普段は清楚で美しいその相貌も、今や血に濡れて、あちこち腫らした状態。
彼女の常を知る者が目にすれば、間違いなくその顔を歪めてしまうことだろう。
そのくらい、今の彼女はひどい状態だった。
「……」
それでも、茜の目は輝きを失わない。
腫れたせいか、細められた眼差しは、なお真っ直ぐにトゥーレへと向けられている。
射抜くような視線。
彼女はまだ、勝利を諦めていない。
神へと至る道
第57話 手の上の操り人形 -U
輝きを失わない茜の目を、トゥーレが睨むように見据える。
傷つき倒れそうになりながらも、なお覇気を失っていない様子に、苛立ちを感じているのだろう。
それ故か、まだまだ攻撃の手を緩めるつもりはないらしい。
再び茜の両腕が動きを開始した。
右腕の
何処までも深い蒼
が、茜の足元を薙ぐように振るわれる。
瞬きする間すらない、峻烈なる速度。
それでも、その攻撃は茜の足元を流れるように駆け抜け、彼女にダメージを与えない。
そして、今度は左手が自身の左大腿部を殴りつける。
そこには、一片の容赦すらない。
「くぅっ……!」
漏れる呻き声。
衣服に隠されてはいるが、おそらく痣になっているだろう。
それこそ、骨にまでもダメージがあるかもしれない。
まずは右手の攻撃によって意識をそらし、その隙に左手が身体のどこかを狙う。
左手の攻撃に意識を集中できるならば、まだ防御やダメージの軽減も可能だが、そんな余裕などあるわけもない。
何処までも深い蒼
の変質による回避が、最大の優先事項なのだ。
だが、
何処までも深い蒼
をロープ状のままにしておくことは、絶対にできない。
それが首にかけられてしまえば終わりだからだ。
一度首にかけられれば、ロープ状のままならば首を絞められるし、刃状に変質すれば言わずもがな。
その危険は、完全に排除しなければならない。
故に、現状維持以上のことは期待できない。
その結果、茜はこうして自身による攻撃に、延々と身を晒され続けているのだ。
ただ一人で傷つけ、傷つき、それ以外には何もできず。
トゥーレは、安全のためか、茜からかなり距離をとっている。
傷ついた体に加えて、攻撃手段も持たない現状。
今の茜に、打つ手など存在しない。
「……鬱陶しいわね、本当に」
操られてなければ、倒れているかもしれないような、茜の状態。
足元も覚束ないし、目も虚ろになりつつあった。
それでも、茜は睨むようにしている視線を止めない。
その目が、トゥーレを苛立たせる。
一体、この上で何ができるというのか。
こんな状況で、勝つ可能性でも見出しているというのか。
忌々しげに舌打ちしてから、トゥーレがはたと動きを止める。
思案するような表情。
それを睨みつけたままの茜。
「いい加減飽きたわ」
そう吐き捨てると、トゥーレが指を鳴らした。
乾いた音が、広い部屋に小さく響く。
何をしたのか、それは茜にはわからない。
鈍ってしまった思考で、けれど必死に考える。
目の前の相手が何を考えているのか。
「説明してほしい? 私が何をしたか」
長い前髪の向こうから、まるで呪うかのように茜を見据えるトゥーレ。
その視線に一瞬気圧されるも、すぐに茜も厳しい目を向け返す。
無言で先を促している……あるいは、もう話す気力すら失っているのかもしれないが。
「操っていた死体、その操作を全て解除したのよ。今頃、糸の切れた人形みたいに、全員が廊下に倒れてるでしょうね」
その言葉を聞き、微かに眉を寄せる茜。
そのまま受け取れば、それは詩子の危険が回避されることと同義。
けれど、敵である彼女が、詩子の危機を排除するために行動するわけもない。
すなわち、新たな脅威の出現が、そこにあるはずなのだ。
「何を……」
「なんてことはないわ。彼女もここにご招待することにしただけよ」
茜の言葉を補うように、口の端を持ち上げながら語るトゥーレの表情には、やはり暗い喜びの色に満ちている。
だが、そんなことに思いを巡らせる余裕は、今の茜にはない。
それは、彼女が考えていた最悪の事態だからだ。
「ま……さか……」
「そうよ、あなたに殺してもらうの」
その瞬間、茜の表情が大きく歪んだ。
そう、トゥーレが操作できる人間は、ただ一人。
そして、現在操られているのは茜。
となれば、詩子がここに現れれば、彼女を襲うのは間違いなく茜だ。
「そ……」
「ここねっ!」
茜の言葉を遮るように、扉を蹴破らんばかりの勢いで、詩子が室内に飛び込んできた。
その体には、少なからぬ傷が見える。
敵の攻撃の全ては、さすがに捌ききれなかったということか。
だが、
春風の加護
は変わらず詩子の右手にあった。
まだ、彼女は戦える。
それが幸か不幸かはわからなくとも。
「あ、茜っ!」
飛び込んできて真っ先に詩子の目に映ったのは、ぼろぼろになっている茜の姿。
はっきりと傷が見えるのは顔だけだが、ふらついた足元を見る限り、大きなダメージを受けていることは明白。
さらにその視線の向こうに立っているのは、藁人形を手にした女が一人。
その女の愉悦と狂気を含んだ表情が、詩子に事態を理解させる。
「……あなたが、あの人達を操ってたんだね」
油断なく
春風の加護
を構えながら、詩子が問う。
茜の様子も気がかりだが、詩子が今なすべきことは、他にあるのだ。
「えぇ、そうよ」
「それじゃあ……」
「詩子っ! 避けてくださいっ!」
詩子の言葉を遮ったのは、茜の金切り声。
はっとして振り返った詩子の目に、蒼の輝きが認識される。
が、既にそれは眼前まで迫っており、能力による防御は間に合わない。
ほとんど反射的に、その場でしゃがみこむ詩子。
頭上を通り抜ける蒼い刀身。
空気を切り裂く乾いた音に、それが本気の一撃であることを悟る詩子。
しゃがみこんだ体勢から、横に飛びつつ距離をとる。
驚愕に満ちた詩子の目は、しかしすぐに理解の色に染まる。
今の茜の攻撃は、敵の操作によるものだ、と。
「茜を操ってるんだね」
「ご明察」
詩子の推察に、即座に肯定を返すトゥーレ。
その返答に、詩子は苦虫を噛み潰したような表情をする。
男達が操られていたのだから、茜を操ることだって不可能ではないだろう。
場合によっては、詩子も操られてしまうかもしれない。
思えば、襲ってきていた男達がいきなり崩れ落ちたのも、不審に思うべきだったのだ。
それもこれも、詩子をここに誘い出すことが目的だったとするならば、全て辻褄が合う。
まずは茜を誘い出し、操ることが可能になれば、次は詩子を誘い出す。
そういう作戦だろうか。
と、思考を巡らせる詩子に向かって、茜が大きな声で叫ぶ。
「詩子! この人は、同時に一人しか操れません。髪の毛などを奪われたりしなければ」
「黙りなさい!」
茜の種明かしを遮るようにトゥーレが怒鳴ると、茜の右手が、自身の鳩尾に向けて振り下ろされた。
剣の柄にあたる部分が、容赦なく彼女の鳩尾を抉る。
顔を歪めながら、押しつぶされたような悲鳴を漏らす茜。
「茜っ!」
思わず叫ぶ詩子。
詩子の視線の先で、茜が一時的に呼吸困難に陥っている。
喋っている最中の一撃だったからか、そのダメージは大きかったようだ。
「お喋りはここまでよ。さぁ、二人して踊りなさい」
トゥーレのその言葉を引き金にしたかのように、茜が動き始めた。
右腕を振りかざし、詩子に正対する。
微かに狼狽する詩子。
先の茜が話した断片的な情報から、どうやら相手の能力は、これ以上その対象を増やす可能性はなさそうだ。
茜を操っていることから考えるに、彼女自身が攻撃してくるわけでもないらしい。
となれば、当面の問題は、如何にして茜の攻撃をかいくぐり敵に攻撃できるか、に絞られる。
しかし、これは容易ではない。
茜の強さは、誰より詩子自身がよく知っている。
その攻撃を全て回避して、さらに敵への攻撃を試みるなど、まずもって不可能なことだ。
そもそも、全神経を防御に回しても、果たして彼女の攻撃を回避しきれるかどうか。
ふらつきながらも、一歩ずつ確実に詩子へと歩み寄ってくる茜。
それは、間違いなく操作されているが故に。
実際には、立って歩くことさえままならない状態だろう。
まるで、茜の各部の筋肉の上げる悲鳴が聞こえてくるような、そんな気さえ詩子はしていた。
「詩子っ…………」
茜の搾り出したような声。
それはまるで血を吐くような叫び。
「…………」
茜の表情を見て、詩子の表情が厳しいものに変わった。
トゥーレからは、茜の表情は見えない。
表情も、目の動きも、口の動きも。
ただ、詩子が何かの覚悟を決めている様子だけは窺えた。
あまり長く戦い続けるのは得策ではないかもしれない。
そう判断したのか、トゥーレがエネルギーを高める。
戦法は先と同じ。
おそらく、
何処までも深い蒼
で攻撃したとしても、ロープ状にして回避されるだろう。
ならば、そのロープの性質をも利用やればいいだけのことなのだから。
「っ!」
大きく右腕を振りかぶる茜。
春風の加護
を眼前にかざす詩子。
それは、完全なる防御体勢
攻撃を考えているスタイルではない。
両者の距離が茜の間合いに入った瞬間、蒼の刀身がその牙を剥いた。
迫り来る刃を、しかし詩子は
春風の加護
で受け止めることはせず、素早く右に飛ぶことによって回避。
けれど、これで終わりではないこともまた、彼女は理解している。
ほとんど時間を置かずに、突如横薙ぎに振るわれる刃。
茜の意志か、それはまるでムチのようにしなやかに空間を踊る。
その攻撃を、詩子は今度はしゃがみこむようにして回避する。
一瞬後、詩子の頭上を凄まじい勢いで走り抜ける刀身。
勢いに乗ったそれは、遠くにある壁にまで到達し、それを抉るようにしてようやく静止する。
だが、それでもなお、攻撃は終わらない。
茜は、振りぬいたはずの右腕を強引に途中で静止させ、詩子の頭上を狙えるような状態にしていた。
急制動の結果、右腕から走り抜ける激痛に、茜はその顔を大きく歪める。
しゃがみこんでいた詩子は、自身の頭上に未だ脅威が残っていることを、敏感に察知した。
刹那の判断。
停滞は一瞬にも満たない。
瞬間振り下ろされる茜の右腕。
それは体にかかる負担を考えないからこそ可能な軌道。
柄の部分と微かに残った刀身の部分で、詩子の頭部を抉らんとばかりに、その腕は勢いを増す。
ただ本能の告げるままに、横へと飛び出す詩子。
だが、完全には避けきれず、左の肩を蒼い刃が掠める。
「つっ!」
掠っただけとはいえ、その衝撃は強く、詩子も思わず苦悶の声を漏らす。
詩子の肩を抉るようにして、床に突き刺さる刀身。
宙を舞う血潮。
肩を押さえつつ、詩子は茜から距離をとろうとする。
壁を抉り、床を穿ち、なお蒼の衝撃は止まらない。
叩きつけた刀身をそのままに、すぐに再び横へと右手を走らせる茜。
例え刀身が床に刺さったままであろうと、伸縮自在であるそれが、封じられることなどないのだ。
今度は、強い衝撃のために宙を泳いでいた詩子の腕を、柄の部分で弾くようにして打ちつける。
バランスを崩していたせいか、詩子は弾き飛ばされ、床に転がった。
無理な体勢から攻撃を仕掛けたために、茜もまたバランスを崩し、その場に倒れる。
いくら操られていても、物理法則を無視できるわけではないのだ。
もちろんそれが二人にとって救いになることは、決してない。
「無様ね」
鈍重な動作で体を起こす茜と詩子を見て、笑みを深くするトゥーレ。
茜は言うに及ばずだが、詩子にしても、この部屋に来るまでに受けたダメージは小さくないのだ。
戦闘による疲労と、負傷による体力の低下。
まだ戦えるとは言え、状況は確実に悪化の一途を辿っている。
肩から流れる血が、詩子の服を赤く染めてゆく。
微かに震える手は、苦痛によるものか、あるいは怒りによるものか。
顔をしかめながら、それでも両の脚で立ち上がる。
対するは、強制的に立ち上がらされた茜。
全身の震えも、流れる血の量も、体に刻まれた傷も、詩子の比ではない。
最早、操作を解除されたとしても、まともに動くことさえできないだろう。
「まだまだいけそうね……」
そして、再び茜の右腕が振りかざされる。
まるでダメージを感じさせない鋭い動き。
それはしかし、彼女の意志によるものではなく、強制的に動かされているだけ。
動かぬ体を限界以上に動かすことは、彼女の体に更に深いダメージを刻むことになる。
筋肉のみならず、各部の骨も無事では済むまい。
それでも茜は止まれない。
今度は突きのように、一直線に詩子へと刀身を走らせた。
辛うじて回避した詩子だったが、体が言うことを聞かないのか、たたらを踏むような格好になっている。
詩子の横の空間を突き抜けた蒼の刀身は、またも壁を穿つ。
そこを基点にして、再び横薙ぎの攻撃へと転化する刀身。
絶え間なく押し寄せる波のように、詩子を襲う衝撃は止む気配を見せない。
自身を狙うその追撃を、詩子は跳躍することで回避する。
高く高く、天井近くまで飛び上がった詩子。
だが、それはまさに格好の的。
しゃがみこんだ先程の経験が、飛び上がる、という選択に導いたのだろうか。
どうあれ、これは間違いなく危険な行動。
詩子が飛び上がった空間を切り裂き、またしても遠くの壁に蒼の刀身が突き刺さった。
見れば見るほど不可思議な武器である。
まっすぐ伸びた際に突き刺さった箇所をそのままに、それ以外の部分が横に流れ、またその一部が横側の壁に突き刺さっている。
面白い武器だ、とトゥーレは笑う。
確かにこれは素晴らしい能力だと言えよう。
だが、一度操られてしまえばこの通り。
その脅威は、むしろ自身を傷つけるのみ。
いくら強くとも、自分の能力には勝てない……その思考が、トゥーレの顔に浮かぶ笑みを深いものにする。
宙を飛ぶ詩子を見上げる体勢の茜。
視線の交錯は一瞬。
追撃を加えるべく、茜の体が、詩子を追って宙へと向かう。
刹那後、重なる二人の影。
「ぅあっ……!」
「詩子っ!」
その瞬間、二人の悲痛な声が響く。
貫いたか、と一瞬トゥーレは色めき立ったが、すぐにそれは失望に変わる。
蒼い刃は、詩子の脇腹のすぐ横にあったからだ。
どうやら、衝突の瞬間に身をよじって、直撃だけは避けたらしい。
それでも、今度の傷は決して浅くなかった。
脇腹をかなり深く斬りつけたのだから。
噴き出した血に濡れた刀身が、天上に突き刺さり、その動きを静止させる。
バランスを崩しながら落ちる詩子。
それに巻き込まれて落下する茜。
両者とも、ろくに着地態勢も作り上げられないまま、ただ重力に引かれる。
数瞬後、床へと落ちる二人の体。
折り重なるようにして横たわる二人の口から、呻き声が漏れる。
致命的な傷でこそないものの、さすがにダメージが大きかったらしい。
停滞は、しかし長くは続かない。
止まっていては、嬲り殺されるのみだからだ。
ゆっくりと立ち上がる詩子。
その脇腹からは、止め処なく血が流れ続けている。
かなり深く斬れたようで、既に服は真っ赤に染まり、溢れた分は体を伝い床に達していた。
なお動けることから考えて、臓器が傷ついたわけではないかもしれないが、楽観できる状況ではない。
荒い息をつきながら茜から距離をとる詩子の視界の先では、やはりふらつきながら、茜がその身を起こしていた。
茜ももう、積み重なった疲労と押し寄せる激痛に、顔色が悪くなっている。
それでもなお、彼女は止まることを許されない。
再び、その右腕が振りかざされた。
「はぁっ、はぁっ」
「げほっ……」
もう数え切れないほどの攻防の果て。
詩子の全身は傷だらけだった。
何処までも深い蒼
による裂傷に打撲傷……まさしく満身創痍。
茜もまた、目は虚ろだし、右腕も小刻みに震えている。
操作が解けても、もはや右腕は使い物にならないだろう。
そしてそれは、右腕のみならず、他の部分も同様。
全身どこを見ても、無事なところを探す方が難しいくらいだ。
こちらもまた満身創痍。
そしてまた、さらに部屋中が傷だらけになっている。
それこそ、床といわず、壁といわず、天井といわず。
何処までも深い蒼
が抉ったため、傷だらけになってしまっているのだ。
それは、茜の攻撃力の高さの証。
そしてまた、詩子の防御力の高さの証。
それでも、傷を負っているのは二人だけなのだ。
「本当にしぶといわね……でも、もう限界でしょう?」
トゥーレの声がかかるも、二人ともそれに答える気力すら既にない。
肩で息をしながらどうにか立つ詩子も、無理やり立たされている茜も。
そう……もう、限界だった。
「これで、終わりかしらね」
笑うトゥーレ。
右腕を振りかざす茜。
それを黙って見ている詩子。
茜の目が、詩子に何かを訴えている。
言葉に出さずに、何かを訴えている。
それに対し、小さく頷く詩子。
一瞬のやり取りで、けれど意思を交し合う。
詩子は考える……否、ずっと考え続けていた。
倒すべき相手をその目に収めた瞬間から、今に至るまでずっと。
――チャンスは一度――
他者を操る能力……一度その魔手にかかってしまえば、覆すことは至難。
茜の操作をこの戦闘中に解除することは、まず不可能だということを、彼女は早くから結論付けていた。
そうである以上、考えなければならないのは、茜が操られたままでも敵を撃破する手段。
――決して不可能じゃないんだ――
現在の戦況、二人の状況、この場にいる者全員の能力の特性、その残存エネルギー、性格、行動傾向。
それらを統合し、詩子の――そして茜の頭脳が導き出したのは、細い綱を渡るが如く危険な策。
だがそれでも、勝機は生まれるのだ。
元より選択の余地などない。
詩子も茜も、心を決めた。
――能力は厄介だけど……弱点もあるんだから――
二人が相対している存在――トゥーレの能力は確かに凶悪だが、それで彼女が無敵なのかというと、そうではない。
彼女にも、弱点は存在する。
それを、詩子は見出していた。
彼女のその能力から。
――挑発が上手くいけば、きっと……――
能力というものは、多かれ少なかれ、その使い手の性格や思考形態を反映する。
他人を操作し、何もできないまま傷ついてゆく相手を見て暗い愉悦に浸る存在。
極めて攻撃的で残虐な嗜好の持ち主ではあるが、自分の手を汚さないその手法や陰湿な特性から見ても、彼女はむしろ臆病者と考えるのが妥当だろう。
弱い犬ほどよく吼えると言う。
臆病な人間ほど、物事に攻撃的な反応を見せるものだ。
激しやすく、また容易に心を乱すのは、つまり不安や恐怖の表れ。
つまり、彼女は根っこの所では、常に不安を感じているのだろう。
それこそが、二人の狙うべき点。
思い通りに事を運ばせなければ、おそらく彼女は容易に冷静さを失う。
想像もしなかった反撃を受ければ、彼女が激昂することは間違いない。
自身の能力に信を置いていれば、それでも最良の手段を取れるだろう。
だが……
――きっと、引っかかってくれる――
不測の事態に陥った時、彼女の取る最も可能性の高い行動。
能力の行使に不安を覚えさせた時、彼女が取る選択肢。
分の良い賭けではないかもしれない。
だが、茜にしても詩子にしても、最早そうなることを祈るしかないのだ。
――行くよ、茜――
見詰め合った瞬間に、詩子は、行動の時と理解した。
茜もまた、その意志を持って詩子へ視線を送ったのだろう。
失敗は許されない。
この策は一度きりのもの。
外せば、それはすなわち二人にとって死に等しい。
詩子は、強く強く
春風の加護
を握り締めた。
振り抜かれる蒼の刀身。
鋭い目でそれを睨みつける詩子。
重心を低くし、左手に携えた
春風の加護
は、自身に迫る刀身に狙いを定めている。
蒼の衝撃を迎え撃つ体勢は、今までの詩子の行動と明らかに異なっていた。
「っ!」
明らかにこれまでの攻防とは異なる詩子の行動を目にして、トゥーレの表情が一際険しくなる。
何かを狙っていることが容易に知れる状況。
回避ではなく防御の手立てを取ることによって、何が変わるのか……その答えをこの一瞬で見出すことは、しかし不可能だった。
迫る蒼い衝撃。
目を見開き、奥歯を噛み締め、根ざすように強く床を踏む詩子。
瞬きする間さえなく、衝突の瞬間は訪れる。
狙い過たず、
春風の加護
が
何処までも深い蒼
を受け止めた。
けれど、詩子の行動は、ここからが本番。
「これでも……っ!」
「なっ?!」
飛び出さんばかりに目を大きく見開くトゥーレ。
その視界に映るのは、無傷で防いだ刃を、けれど右手で力強く掴んだ詩子の姿。
遠目で見ても、その手からは激しく出血し、深く切れていることがわかる。
痛みも強いはずだが、詩子は決して止まらない。
叫びながら、彼女はその手を大きく振りかぶり、体を反転させながらトゥーレへと向き直る。
トゥーレの目に飛び込んでくる、まさに鬼気迫るといった詩子の表情。
一瞬走る怯えの色。
「くらえぇっ!」
振りかぶった詩子の手から、蒼の刃が投擲される。
その勢いは、まさに矢の如く。
一瞬後には、トゥーレの目が蒼一色に染まっていた。
「きゃぁっ!」
甲高い悲鳴を上げながら、トゥーレが床に転がる。
膝が砕けたかのように、尻から床に落ち、両手をつく。
驚愕を張り付かせたその顔には、一条のかすり傷。
つーっと流れ落ちる一滴の血。
詩子が投擲した刃は、トゥーレの頬を浅く斬ったのみ。
けれど、その衝撃は、彼女の心を大きく乱した。
「よくも……」
呆けたように座り込んでいたのも一瞬のこと。
手を頬に当て、そこに血の感触を確認すると、彼女の表情が見る見る怒りのそれに変わる。
かすり傷とは言え、彼女がこの戦いで始めて負った傷には違いないのだ。
思いも寄らない反撃を許容できるほど、今の彼女は寛容ではない。
「よくも私の顔に傷をつけてくれたわねぇっ!」
金切り声を上げながら、勢いよく立ち上がるトゥーレ。
顔を怒りで真っ赤に染め、憤怒の形相で、茜と詩子の方を睨みつける。
茜と詩子はと言うと、投擲した勢いを殺しきれなかったのか、二人でまたしても折り重なるように倒れていた。
もっとも、ただ倒れたにしてはトゥーレとの距離が大き過ぎるのだが、激昂してしまったトゥーレは、それに気付くこともない。
「さっさと死んでおしまいっ!」
倒れたまま動かない二人を睨みつけたまま、トゥーレは懐から短剣を取り出す。
鞘から抜き放ちつつ、顔を怒りに染めたまま、茜と詩子目掛けて突進してくる。
ただ一直線に、二人をその手で直接殺すために。
彼女の目には、もはや倒れ伏した二人の姿しか見えていない。
他の何物も、彼女の視界には入らない。
二人との距離は、あっと言う間に零へと近づいてゆく。
衝撃は、一瞬。
何かを切り裂くような鈍い音が響く。
少し遅れて、液体が激しく噴出するような音と、複数のものが落下して床にぶつかる音。
そこに混じる水音。
そして訪れる静寂。
「……げほ……っ」
と、か細く咳き込む声を発する茜。
倒れたままの彼女の体は、時折痙攣するかのように震えがきている。
もはや、指一本すら自分の意思では動かせまい。
「……はぁっ……」
次いで、詩子が深く息をつきながら、乗りかかるようにしていた茜の体の上から、床へとその身を転がらせる。
天井を見上げるような格好で、荒い呼吸を続ける詩子。
その体は小刻みに震えており、彼女の体がいかに疲労しているかを如実に物語る。
「げほっ……ぁっ……詩子……だい、じょう……」
「茜……無理して喋らなくていいよ」
聞こえてきた声に返事をしながら、詩子が茜の方へとその顔を向ける。
向けた目に映るのは、虚ろな表情の茜。
痛みと疲弊のために、おそらく意識も朦朧としていることだろう。
そんな状況でも詩子の心配をするのは、茜の優しさ故か。
「もう、能力も解除してもいいんじゃない?」
そう言いながら、詩子がゆっくり上半身を起こした。
震える両手で、しかしその身を支えながら、詩子はただ目を前方へと向ける。
すなわち、トゥーレがいた方向へと。
そこに展開されていたのは、信じられないような光景。
まるで網の目のように、空間に張り巡らされた蒼の刃が、そこにあった。
ムリヤリ不規則に作り上げた蜘蛛の巣のように、蒼い刃が縦横無尽に展開している。
複雑に入り組んだその刃の総数は、容易に数え切れるものではない。
その全ての線が、茜の攻撃で傷ついた壁や床や天井に繋がっていた。
さながら、無数の刃で構成された結界の如く。
血の紅と刃の蒼が織り成す光景は、どこか幻想的ですらあった。
けれど、その原色のみにより構成された景色は、むしろ恐怖をこそ喚起させる。
床に転がっているのは、もはや原型を想像できないほどにばらばらにされたトゥーレの体と床一面を真っ赤に染めるおびただしい量の血液。
首も、腕も、足も、体も。
全てが切り刻まれており、まともな形をしているものはない。
剣の結界に自分から凄まじい速度で突っ込んだのだ……無事で済むはずもない。
床に転がった頭部……その目は、驚愕に剥かれていた。
「……もう、だめかと思ったよ」
「はい……」
そう述懐する二人。
その声には、隠し切れない安堵の色があった。
勝てると確信して戦っていたわけではないのだ。
茜はその身を支配され、詩子はその茜の猛攻に身を晒され続けていたのだから。
勝つためには賭けに出るしかなく、そして辛うじてその賭けに勝った。
一歩間違えば、今床に死体として横たわっていたのは、二人の方だっただろう。
勝機は、ただ一瞬。
チャンスは、ただ一度。
ただ一瞬の、ただ一度の機会に、二人は全てを賭けていた。
この広間に張り巡らせた剣の結界……そこにトゥーレを自ら飛び込ませるために。
茜が詩子に対し示したこと……それは、唇の動き。
断片的な情報のやり取り。
けれど、茜の剣の特性と、相手に近づけない状況から、それだけで詩子は茜の作戦を理解した。
すなわち、同士討ちの中で
何処までも深い蒼
を振り回しつつ、床や壁に突き刺してゆく。
その際、極細の糸状にした一部をそこに付着させて、その部分を切れないように引き伸ばし、次の攻撃へ繋げる。
そして、何度も何度も天井や床を抉るような攻撃でカモフラージュしながら、蒼の刃を一本ずつ場に刻んでゆき、結界を構成していく。
これが二人の選んだ策だった。
もちろん、その攻撃の最中に詩子が死ぬ可能性はあった……これが第一の賭け。
また、極細にしているとは言え、それでも糸状にした刀身に気付かれる可能性もあった……これが第二の賭け。
それでも何とかそれをクリアして、十分に刃が張り巡らされたと判断したら、今度は相手をその結界へと誘導しなければならない。
そのための挑発……これが第三の賭け。
もしトゥーレが挑発に乗らなければ、二人の行動の全てが無駄になっていた。
ただその場を動かず、茜の手で詩子を殺し、最後に茜の止めを刺せばいいだけなのだ……彼女が冷静であり続ければ、間違いなくそうしていただろう。
だが、二人は、彼女の激しやすい性格が、そうさせないことを期待していた。
突然攻撃に転じて、トゥーレを僅かでも傷つけることでその心を乱し、また結界を張り巡らせた場所を離れる。
その際、倒れた状態にあることが、またトゥーレの油断を招くことも期待して。
そして二人の願い通り、トゥーレは激昂し、愚直にも突進してきた。
それを確認し、茜が一気に糸状の刀身を刃に戻し、結界を完成させる。
勢いのある突進によりもたらされた速度は、そのまま鋭い刃が迫る速度に変わってしまう。
そして、狙い通り刃は彼女の命を刈り取った。
「っ!」
安堵したことにより痛みがぶり返したのか、あるいは気付いたのか、詩子がその表情を歪める。
幾度も
何処までも深い蒼
によって、その身を斬られたのだ。
走る激痛が、果たしてどこからのものなのかの判別もできない。
とはいえ、特に刃を直接掴んだ右手からの出血と、脇腹からの出血が目につく。
痛みに顔をしかめながら、詩子が茜の方に再度目をやると、どうやら彼女は気絶してしまったらしく、目を閉じて力なく横たわっていた。
彼女の意識が切れたからだろうか、蒼の結界も消失していた。
まず自身の治療が先決と判断し、止血を試みる詩子。
ここを脱出するためには、彼女が動けるようにならなければならないからだ。
彼女にしても、気を抜けば落ちそうな意識だったのだが、手当てもしないまま気を失ったりすれば、それこそ命はない。
茜ほどではないにしろ、詩子も決して軽傷ではないのだから。
「……他の皆は、丈夫かな?」
上腕部を縛ってから、強く強く包帯を巻きつけて、出血の勢いを止める。
そして、他の傷ついた部分にも同様の処置を施す。
それが終わると、茜の止血も忘れない。
意識を失った彼女を運ぶのは至難。
ここから脱出するまでの時間も短くないだろう。
応急処置だけでもしておかなければならない。
「……保護機関の人に頼もうかな」
茜を担ぐようにして、部屋をゆっくりと出て行く詩子。
下まで降りれば、保護機関の医療班に、当面の治療を頼むこともできるだろう。
それまでの辛抱だ。
「……はぁ、とりあえず勝てたから、これで良しとしますか」
ちらと部屋の方に一度だけ視線を向けてから、詩子は部屋を出た。
そして、茜を背負ったまま、階段の方向へと歩き始める。
ゆっくりと、しかし確実に。
二人の姿を、明るい陽射しが優しく照らし出していた。
続く
後書き
長っ。
や、正直ここまでの長さになるとは思いませんでした。
とにもかくにも、今回は茜さんの能力が中心。
物凄く汎用性が高いのです、彼女の能力は。
伸びるだけにあらず、曲がるだけにあらず。
まだまだその真価を書き切れた気がしませんし。
何にしても、辛勝という印象を描けたんじゃないかな、と自己満足。
まだ先は長いけど(笑)