「三かぁー」
ピエロの僅かに残念そうな、しかしそれでいてどこか楽しそうな声と同時に、ピエロの人形が動き始める。
機械的な動きで、三マス分だけ進むと、それはぴたりと動きを止める。
そして、同じく機械的な声で読み上げられる言葉。
「イシノアメ。ダメージ2」
小さな石が、まるでシャワーのようにピエロの人形に降り注ぐ。
しかしそれはかなり小粒の石であるため、人形が傷ついた様子はまるで窺えない。
先刻留美が味わったものとは、まさに雲泥の差。
だがしかし、その不公平さを嘆く暇などありはしない。
「さぁ、次はまたキミだよ」
睨みつけるような澪の視線を、まるで意にも介さずに、ピエロはサイコロを放って寄越した。
受け取ったサイコロを握り、澪は天に祈りながらそれを振った。
回転しながら地に落ちたそれは、コロコロと転がり、やがて止まる。
「あ、六だって。いいなぁー」
いちいち感情を過剰に表して、ピエロは常に澪に話しかけてくる。
言葉をかけられる彼女にとって、それは不愉快以外の何物でもないが、だからといってそこから意識を逸らすわけにもいかない。
ピエロに触れた留美が人形にされてしまったことを考えると、今、もし澪がピエロに触れれば、やはり人形にされてしまうかもしれないからだ。
それが杞憂に過ぎない可能性もあるが、いずれにしても、危ない橋は渡れない。
故に、いくら腹立たしくとも、いくら耳障りでも、いくら目障りでも。
それでも澪は、ピエロの姿から意識を外せない。
一瞬たりとも、その挙動から目を逸らせない。
その言葉に、耳を傾けざるを得ない。
「ほら、何してるのかな? 早く動いてくれないと、ゲームにならないよ」
パンと小さく手を叩きながら、ピエロが澪に笑いかけてくる。
もしこれがサーカスでの一幕であれば、彼女とて笑って返したかもしれない。
だが、目の前に立つこのピエロは、彼女にとって倒すべき敵。
鋭い視線をそのままに、澪はスケッチブックを強く握り締める。
そんな澪の様子を見ていた留美が、やがてゆっくりと歩き出す。
この双六に閉じ込められてしまった彼女にできるのは、そのルールに従うことのみ。
そしてそれは同時に、彼女がすべきことでもあるのだ。
今はまだ、この状況を脱出する術などないのだから。
だから彼女は歩く。
進むのは六マス分。
少しだけ、足を引きずるようにしているのは、先程のダメージのためだろう。
「イワノアラシ。ダメージ27」
「くっ!」
今度は、頭上から岩が幾つも幾つも落下してきた。
降り注ぐその岩の一つ一つは、今の留美の体の大きさとほぼ同じ。
それが、さながら暴風雨のごとく、容赦なく彼女の体に襲いかかる。
留美もただひたすら防御に徹したもの、荒れ狂う岩の嵐を防ぎきるには足りない。
砕いた破片を身に浴び、また砕ききれなかった塊に打ちつけられ。
しばらく続いたその攻撃が終わった瞬間、留美は堪らず膝をついた。
大きく上下する肩。
乱れた呼吸。
体中から血が出ているし、まともに岩の塊が当たったところなど、既に青痣となってしまっている。
「あははっ、不運だねー。それじゃ次は僕の番っと」
一頻り笑ってから、サイコロを振るピエロ。
くるくると回転して床に転がったそれが示した数字は四。
「あーあ、なかなか追いつけないね」
言葉とは裏腹に、やはり嬉しそうに喋るピエロ。
そして人形が四マス分進む。
「キョウフウ。イッカイヤスミ」
「あーあ、残念残念」
少し驚いたような表情で、ピエロが、パシンと手で額を叩く。
その表情も、動きも、言葉も、あまりに芝居がかっている。
それはおそらく……
「さ、キミの番だ。二回連続だよ。はりきっていってね」
僅かな躊躇を見せる澪。
その視線の先にいるのは、肩で息をしている留美。
現状でも、相当に傷つき、また消耗している。
この上ダメージを受ければ、果たしていつまで耐えられるかわかったものではない。
死すらも、もう遠い話ではない。
完全に相手の術中。
「ほらほらどうしたのー? どんどんいこうよ」
自身の顔を、動きを止めた澪の方へと突き出してくるピエロ。
そこに触れてしまうことを恐れ、一歩下がる澪。
あるいは、サイコロを振らなければ、どんな行動に出るかわからない。
もしここで、澪まで人形にされてしまえば、二人の敗北は、死は、その瞬間に確定する。
それをしないのは、彼が自分で言ったように、今のこの状況を楽しんでいるからに他ならない。
意を決したように、サイコロを振る澪。
完全に遊ばれているという事実に、憤りを覚えていないわけではない。
だが、二人が敗北を回避するには、この状況を続けて、その中から勝機を見出す他はない。
間違っても、澪まで人形にされてしまうわけにはいかないのだ。
だからこそ、澪はゲームを続ける。
留美を信じ、また彼女の信頼に応えるために。
神へと至る道
第59話 命懸けの遊戯 -U
「ぐっ……!」
もう何度目かもわからない、留美への攻撃。
今回は、闇から突然突き出された魔獣の襲撃。
鋭い二本の角が、留美の左腕を深く抉った。
すぐに拳で叩き折ったが、それは何の解決にもならない。
傷からは血が溢れ出し、激痛が彼女を苛む。
微かに震える腕。
もうまともに動かすことすら叶わないだろう。
「ホント、ついてないねぇ」
同情ではなく、ただ嘲笑するための言葉。
ピエロの声は、もはや澪を苛立たせる効果しかない。
今の留美の状況は、不運の一言で片付けられるものではなかった。
彼女が止まったマス……その全てが、悪質なトラップだったのだから。
あれから、電撃を浴びたり、今のように魔獣の攻撃を受けたり、炎に襲われたり。
一つとして平穏に終わったことなどない。
その結果、留美の今の状態はひどいものだった。
炎を浴びた部位は、焼け爛れているし、武器の類が突き刺さった部分からは、未だに血が流れ続けている。
切り傷や刺し傷、打撲傷に火傷と、正直無傷な部分を探す方が難しい。
それでも、彼女がまだ立っていられるのは、タイプP能力者であるからだろう。
エネルギーの質、量ともに優れるタイプだからこそ、またそれを高次元で展開できる彼女だからこそ、まだ生きていられる。
とは言え、もうかなりエネルギーの量は減ってきているし、何より生命自体が危険な状態なのだ。
もはや予断を許さない状況。
それに対し、ピエロの人形はまるで無傷。
立っている場所こそ留美よりもかなり後方だが、その姿はスタート時と変わらない。
一回休みや二回休みなどもあり、なかなか進めない……が、これでは、ゴールの前に留美が力尽きてしまう。
そう、ゴールすれば留美が元に戻れるとしても、ゴールすることができるかどうかすらわからない。
否、本当にゴールすることが可能なのかどうかが、もはや疑わしい。
あまりにも相手に都合が良すぎるのだ。
澪は、もう確信していた。
目の前の敵が、サイコロの目を操っていることを。
そう考えればこそ、今のこの状況を理解できるし、ピエロの余裕も理解できる。
留美が力尽きればそれでよし。
力尽きなかったとしても、問題はない。
これが双六である以上、『振り出しに戻る』のマスが存在していないはずがないのだ。
相手の狙いは、これ以外にないだろう。
しかし、問題はここからだ。
澪の目的は、相手の意図を暴くことではない。
大切なのは、生きて勝利をその手にすることだ。
しかし。
「また考え事? やだなぁ。早くしてくれないと……」
ピエロがかざしてきた手を避ける澪。
彼女がサイコロを調べようとしたり、思考に集中したりすると、必ず妨害してくるのだ。
下手にその体に触れてしまえば、人形にされかねない。
それが故に、彼女の行動は著しく制限されている。
だが、それはつまり、ピエロが澪をここに縛りつけようとしているということに他ならない。
言い換えれば、サイコロを操っているのは、このピエロではないということだ。
そしてまた、澪が自由に動けるのならば、この能力を打ち破ることが可能だということでもある。
これまでの言動から、ここまではまず間違いないと考えられる。
けれど、現状、澪がこの場を離れられないこともまた間違いないのだ。
だから、澪には何もできない。
もちろん留美にも何もできない。
ただ、黙ってピエロのゲームに付き合うのみ。
怪しいサイコロの目に従うのみ。
目の前でどんどん傷ついてゆく留美。
愉快そうに笑い続けるピエロ。
打つ手もなくサイコロを振っている澪。
構図の上では、間違いなくこれは事実だったし、またそれ故に、ピエロも笑っていられたのだろう。
――……あなたの出番なの。何とか……――
澪の心の呟きは、けれど表情にも表れず、だからこそピエロも何も気付かない。
誰も何も気付かない。
悔しげにサイコロを振っている澪のエネルギーが、一瞬だけ揺れたことを。
ガチャン、と音を立てて、部屋の外の物陰で、何かが動き出した。
それは、一体の騎士。
すなわち澪の能力である。
立ち上がった騎士の足元には一枚の紙。
それは、澪のスケッチブックを破いたもの。
この騎士は、そのスケッチブックから現れたのだ。
基本的に彼女の能力は、自身の目が届く範囲内でしか発現できないが、彼女が使用しているスケッチブックの紙からならば、一体だけ発現することが可能なのだ。
騎士一体の力はそれほど強くないため、戦力としてはそれほど期待できないものの、相手の目に見えない所で出現させられるという点は大きい。
あるいは必要になるかもしれないと、澪が部屋に入る前に仕込んでいたのが、この紙だった。
動き出した騎士が、周囲を注意深く探る。
騎士は、澪が操っているわけではない。
騎士には騎士の意思があり、ただそれが澪の意思を尊重することを最優先にしているだけ。
それ故に、澪がいない場所でも、行動することが可能なのだ。
そして、もう一つ忘れてはいけないことは、制限時間の存在。
発現時間が三十分に達した時点で、澪は能力の行使が不可能になる。
それを理解しているからか、騎士はすぐに行動を開始した。
向かうのは、ここのさらに上階。
澪の意志が騎士を具現化したため、この騎士は、サイコロを操っている者を探し出すという一念で動いている。
だから、澪達がいる部屋の中が見える場所に、それが隠れていると考えたらしい。
慎重に、けれどできるかぎり急ぎながら、騎士が廊下を駆けていった。
「くくく……」
暗く狭い部屋の中で、男が一人忍び笑いを漏らしていた。
その眼下では、ピエロが何か喋りながらサイコロを振っている。
「次は……三がいいな」
双眼鏡を覗いて、安全なマスを調べ、そこにピエロの人形が止まるように操る。
もう何度も繰り返した作業。
男の呟きの一瞬後に、サイコロが示した目は、三だった。
ピエロが喜んでいるのが見えた。
澪が悔しがっている様子も見えた。
その状況に、男の笑みがさらに深くなる。
男にしてもピエロにしても、その戦闘能力は、他の武闘派構成員に比べれば、かなり劣っていると言わざるを得ない。
それでも彼らは、アルテマの中でもかなり高い地位にあった。
個々の力のためではない。
男の能力は、ただ手で触れずに物を動かすことができるということだけ。
あまり重い物は動かせないし、また対象が離れれば離れるほど、その重量制限は厳しくなる。
とてもじゃないが、戦闘で頼るには心許ない。
ピエロの能力にしても、敵をゲームに引きずり込むことはできても、それがすなわち必勝とはなり得ない。
しかし、両者の能力が合わされば、話は違ってくる。
罠としては、これ以上ないコンボだ。
ゲームの中へと誘い込んでしまえば、敵に打つ手はない。
ピエロによる人形化を恐れて手出しはできないし、さりとて逃げることも楽ではない。
また、たとえ逃げられたとしても、確実に敵の戦力を削ぐことはできるのだ。
そして相手がゲームに乗ってくれれば、遠隔操作によるイカサマにより、ピエロの勝利を確かなものとする。
故に、今回も彼らは勝利を確信していた。
留美は囚われの身だし、何より既にボロボロの状態。
と言って澪にも打つ手はない。
「今度は……そうだな、骨の一本でも折っておこうか」
男が指定したのは、鉄棒による殴打。
サイコロを、そのマスに止まるように指定。
数瞬遅れて、澪の表情が歪むのが見えた。
楽しそうなピエロ。
男がまた笑った。
と。
「ん?」
カチャ、という音に男が振り返ると、そこには鈍色の甲冑を身に纏った騎士が一人。
表情が固まる男。
明らかに狼狽している。
彼とて、これが眼下の少女の能力であることは知っていたが、一体いつの間に発動し、いつの間に接近を許してしまったのか……それがわからない。
だが、男が考えている間にも、騎士は少しずつ歩み寄ってくる。
それを認識するや、男もまた思考を切り替える。
既に起こってしまったことを悩むのは後でいい。
接近してしまった以上、それはもうどうしようもないのだから。
問題は、ここでどうするか、だ。
選択肢は二つ。
一つ、逃げる。
二つ、戦う。
逃げる、というのが最も安全な作戦だ。
見るからに重苦しい鎧を身につけた騎士が相手ならば、男とて速さで負けるとは思えない。
だが、逃げていてはサイコロを操れない。
それでは、眼下で行われているゲームに支障をきたしかねない。
それ故に、男は戦うことに決める。
彼とて、戦闘手段がないわけではないのだ。
たった一体の敵……それも、そこまでの強さを感じられない相手。
勝つことが難しいとは思えない。
笑みを深くして、騎士を迎え撃つ男。
騎士は、剣を大上段に構え、今まさに飛びかかろうとしている体勢だ。
「来いよ、騎士さんよ」
からかうような言葉に対し、騎士が一気に飛びかかった。
振りかぶった剣を、男に向かって振り下ろそうとする。
だが、その動きよりもさらに早く。
「あばよ」
騎士の懐に飛び込んだ男が、その鎧の腹部に、掌を当てる。
集約されるエネルギー。
一瞬後、その腹部に亀裂が走る。
そして、パァンという軽い音と共に、騎士は砕け散ってしまった。
飛び散った破片は、静かに虚空に帰る。
再び、場は静寂に包まれた。
「他愛もない……」
あまりにも弱すぎる……男の脳裏に、階下でこの騎士に敗れた者のことが過ぎる。
情けない奴だ、と内心で呟く。
男の表情には、失望のようなものが浮かんでいた。
この程度の能力に敗れた者にも、そして、この使い手にも。
「まぁ、いくら同じS級といっても、俺達とは格が違うということだな」
そう呟くと、男は再び双眼鏡に目を戻し、眼下を眺める。
もしかしたら、さらに騎士が襲いかかってくるかもしれないが、もはや逃げる必要などない。
再度襲ってきたとて、返り討ちにすらばいいだけのこと。
男の目に映ったのは、丁度ピエロがサイコロを振るところだった。
すぐに出すべき目を決めて、サイコロを操作した。
丁度騎士が消滅した時、ビクッと澪の体が小さく震えた。
それを見て、不思議そうな表情になるピエロだったが、すぐに目をサイコロに戻す。
出ている目は、二。
それはまたしても安全地帯。
「いやー、どんどん離されてくねぇ。これは勝てないかもしれないなぁ」
開く一方の差を目の当たりにしての発言なのに、声の調子は楽しそうなまま。
自身の勝利を疑ってはいない。
澪が、キッとピエロを睨みつける。
それでも、ピエロは表情一つ変えないままだった。
「さ、キミの番だよ。どんどん行こう」
ピエロの言葉に返ってきたのは、スケッチブックに何かを書き込んでゆく微かな音。
一心にペンを動かし続ける澪。
言いたいことがあるのだろう。
そう察したピエロは、動きを止めた。
そして、ほどなくして、澪がピエロにスケッチブックを示した。
少しだけ下向きにそれを傾けながら。
『私の能力は、意思を持った騎士を創り出すことなの』
突然出てきた脈絡のない言葉に、驚きと困惑の入り混じった表情を見せるピエロ。
それを確認した上で、澪がページをめくる。
『離れていても、騎士は私が何をしているのかわかってくれてるの。でも、騎士が何をしているか、私に知ることはできないの』
迂遠な言い回し。
ただ単純に自分の能力を教えているわけではないだろう。
だが、澪が伝えんとしていることは、ピエロには理解できない。
それ故に、彼は言葉を挟むことができない。
さらに続く言葉。
『私が騎士を操ってるわけじゃないから、これは当然なの』
澪によって創り出された存在故に、彼女の意識は騎士に伝わる。
けれど、意思をもって動いている騎士の行動は、彼女には感じ取ることができない。
つまりはそういうことだろう。
確かに、複数の騎士の行動を一々感じ取っていては、思考の混乱が起きてしまう。
澪自身が思考も行動も邪魔されないために、騎士は意思を持っている、と言うこともできる。
そこまではピエロにも理解できた。
だが、そこからがわからない。
『でも、一つだけ、例外はあるの』
そこで、澪が小さく笑った。
この部屋に入って、初めて見せる余裕の笑み。
ピエロは、その様子を訝しげに見る。
『騎士が
消滅させられた瞬間
と
その場所だけはわかるの。それがわからないのは不利だから、そういう風にしてるの』
その言葉を目にした瞬間、初めてピエロの表情に不安が走る。
なぜ、彼女は突然自分の能力の種明かしを始めたのか。
一体、何の意図をもって、こんなことを言っているのか。
突然与えられた情報。
思考の集中。
一瞬の停滞。
それこそが、澪の狙い。
『敵の場所さえわかれば、あなたに人形にされる前に、攻撃なんて一瞬で終われるの。だから、それが知りたかったの。それだけが知りたかったの』
その言葉で、ピエロはようやく気付いた。
澪の意図を。
澪の狙いを。
何より、そのスケッチブックが傾いていた理由。
サイコロの操者の場所がバレている
。
だが、危機に気付いたピエロが行動を開始する間もなく、澪が背中から鉄の棒を取り出し、そのままそれを、頭上のとある箇所に全力で投擲した。
妨害する暇もない、刹那の出来事。
鉄の棒は、澪の手を離れた瞬間に一本の槍となり、凄まじい速度である一点に襲いかかると、一瞬で壁を破壊した。
そして。
「がはっ……」
粉砕された部分から、勢いよく血が溢れたかと思うと、鉄棒を体に突き立てられた男が落下してきた。
澪を攻撃しようと動き始めていた体を止めて、それに目を奪われるピエロ。
そして、ドサッという音とともに、男の体が床に沈む。
男が落ちた場所を中心に、床が赤に染まってゆく。
驚愕に目を剥くピエロ。
ぐっと拳を握り締める澪。
血に塗れながら、二人の方へと濁った目を向ける男。
「な、ぜ……」
『攻撃するだけが能じゃないの。相手に攻撃させることに意味があることもあるの』
瀕死の男の口をついた疑問に、澪が即座に答える。
その言葉に、男はようやく先程の騎士の意味を悟った。
つまり、あの騎士は男を倒すためにやってきたのではなく、
男に倒されるために
やってきたということなのだろう。
澪の能力には、時間制限が存在する。
故に、男を倒そうとすれば、時間が足りなくなるかもしれない。
何より、下手に攻撃してしまえば、どこかに逃げられかねない。
そうなってしまっては、追撃は困難。
それならばいっそのこと、あっさりと倒されてしまった方がいい。
全ては、男の所在を明らかにするため。
全ては、一撃で男に致命傷を与えるため。
そして何より、ピエロと男を油断させるため。
己の敗北を悟った男の目から、やがて光が失われる。
サイコロを操っていた者は、これでいなくなった。
それを理解したからか、ピエロの表情が歪んでいる。
そこで、澪はくるりとピエロの方に振り返った。
『さぁ、続きをやるの!』
澪の言葉に、ピエロが顔を引きつらせる。
安全な後ろ盾を失ってしまったせいか、ピエロに先程の余裕は全く見られない。
サイコロを操ることが当たり前になっていたピエロ。
操られて不利になることが当たり前になっていた澪。
サイコロが完全にランダムになったということで、両者に与える影響は、極めて対照的だ。
楽な環境に慣れた人間は、厳しい環境に耐えられなくなる。
サイコロを操ることが当然であったため、ランダムになってしまったそれに、必要以上に恐怖を感じることになってしまうのだ。
『次は私の番だったの。それじゃ振るの』
怯えの色を見せるピエロを無視して、澪がサイコロを振る。
出た目は、六。
「さすが、澪ね……」
先程までのダメージで、立っていることさえ辛いだろうけれど、それでも留美は歯を食いしばり動き出した。
ふらつきながらも、きちんと六マス分だけ足を進める。
見守るように、留美へと視線を向けている澪。
ただピエロだけは、微かに震えたままだったが。
「オイカゼ。3ツススム」
『ラッキーなの』
ほっとしたような表情を見せる澪。
留美がまた、三マス進む。
「ソヨカゼ。ダメージ0」
微風が頬を撫でる。
微かに目を細める留美。
そして。
『あなたの番なの』
キッとピエロを見据える澪。
視界の先で、ただ震えたままのピエロ。
『早くしてほしいの。ゲームを楽しむんじゃなかったの?』
挑発のような文句にも、ピエロは反応を示さない。
それはすなわち、サイコロを振ることを恐れているということ。
これが事実だとすれば、示す答えは一つだ。
『早くするの!』
澪が睨みつけるようにすると、ようやくピエロがサイコロを振った。
先程までの余裕は欠片もなく、ただ恐怖のみが、その目にある。
出た目は、五。
「あ、あ、あ……」
サイコロを振った以上、進まざるを得ないピエロの人形。
その動きは、先程までのそれとはあまりに異なり、実に不恰好だ。
体は震えているし、完全に腰が引けてしまっている。
それを見て、納得の表情を見せている澪。
そして。
「サンノアメ。ダメージ68」
「ぎゃあああああっ!」
瞬間降り注いだ酸の雨に打たれて、ピエロの人形が悲鳴を上げる。
肌を焼かれる痛みに悶えるそれは、人形の仕草とは思えない。
それに合わせて、澪の目の前に立っているピエロの姿が揺らぐ。
そして、しばらく続いた雨に耐えられなくなったのか、その瞬間が訪れた。
「ぁっ!」
ボン、という音に合わせて、双六盤が消滅する。
それに合わせて、澪の相手をしていたピエロの姿も消え去ってしまった。
と同時に、留美が元の大きさに戻る。
双六盤が消えた後、そこに残っているのは、驚愕を顔に貼り付けたまま膝をついている留美と、ちょっと驚いている様子の澪。
そして、蹲って悶えている小柄なピエロ。
身長は160cmくらいだろうか。
先程までいたピエロを、少しだけ小さくしたような姿だ。
これが、この能力を使っていた者の本当の姿ということか。
『やっぱり、
自分も人形に変えてたの
』
「……そういうこと」
傷ついた部位を抑えながら、納得したように一つ頷く留美。
このピエロは、最初から安全地帯に逃げ込んでいたということなのだろう。
部屋にいたピエロは、言ってみれば、能力発動のためのスイッチのような役割。
触れたものを人形化させ、無理やりゲームに参加させる。
ゲームの準備と、敵を逃がさないトラップを両立させたピエロ……それを実体化させるのが、この男の能力。
そして、その能力で自分自身も人形に変えておいて、絶対に攻撃されない安全地帯に逃げておく。
サイコロの操者がいる以上、人形になっていれば、危害を加えられることなどないのだから。
自分が勝つことがわかっていて、その上安全も保障されていては、それは笑いたくもなるかもしれない。
だが、そんな消極的な考え方が根底にあるために、サイコロの操者がやられたらどこまでも脆い。
保障されていた安全が、突然姿を消したわけなのだから。
そして、あの酸の雨。
そのダメージに耐えられず、能力が解除されてしまったということだろう。
「……よくも、好き放題やってくれたわね」
留美が、痛みを噛み殺して立ち上がる。
その動作は緩慢で、その立ち姿も、今にも倒れそうだ。
だが、それでも彼女は止まらない。
ボタボタと落ちる血も、使い物にならない左腕も、まるで意に介さずに。
その言葉が、そして感情が向いているのは、もちろんピエロ。
「ひっ!」
振り返ったピエロの目に、留美はまさに死神に見えていたことだろう。
その表情も、纏う空気も、漲る闘志も、そして展開されたエネルギーも、その全てが苛烈。
それは、引きつった澪の表情が何よりもはっきりと示している。
そして、握り締めた右拳を、彼女は全力で相手に叩きつけた。
「……ったぁ……」
ドサッと後ろに倒れる留美。
どうやら、先の一撃で全てのエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。
それでも、留美は晴れやかな表情をしていた。
溜まりに溜まった鬱憤を晴らした、というところか。
そこへ駆け寄ってくる澪。
心配そうな表情がそこにある。
そんな彼女に向けて、留美が安堵の表情で話す。
「……ありがと、澪。あなたのおかげで勝てたわね」
留美の言葉に、しかしふるふると首を横に振る澪。
そして、スケッチブックを掲げる。
『違うの。これは二人の勝利なの』
確かに澪がいなければ、この勝利はなかった。
だが同時に、澪一人でも勝てなかっただろうことは間違いない。
敵の能力を、身を持って明らかにさせ、さらにどれだけダメージを負っても、耐えて耐えて耐え抜いて、時間を稼ぎ出した留美。
そして、留美が示した情報から、敵の能力や特性を推察し、また敵の策を暴いた澪。
紛れもなく、これは二人の勝利。
二人がいたからこそ、この二人だったからこその、勝利。
「……そっか、そうよね」
『お疲れ様なの』
納得の表情で小さく息をつく留美と、労いの言葉をかける澪。
だが、気を抜けたのはここまでだった。
安堵したことによってぶり返してきた痛みと、エネルギーを使い切った疲労のせいで、留美はすぐに気を失った。
息はあるが、重傷であることは間違いない。
澪にしても、能力の連続使用のせいで、かなりの疲労がある。
それでも、留美に比べればかわいいものだ。
全身傷だらけの彼女を、このままにしていていいはずがない。
一刻も早く治療を施す必要がある。
小さな体で、けれどしっかりと留美の体を支えると、澪は部屋を出た。
留美の傷は、かなり深刻だ。
急いで治療しないと命に関わるほどに。
だからこそ、澪はまっすぐに一階へと向かう。
この棟には、もう誰の気配も感じられない。
全ての敵は片付けた。
二人の仕事は終わったのだ。
――みんな、無事だといいの――
澪は、しかし勝利を喜ぶのではなく、ただ仲間の無事を祈っていた。
とは言え、不安よりも信頼が勝っているのか、その表情は静かなもの。
ゆっくりと、しかし確実に。
澪は留美を支えながら、階下へと下りていった。
続く
後書き
大分時間が空いてしまいましたねー、とどこか他人事のように(オイ)
何はともあれ、これで残す棟はあと一つ。
だけど実はここからが長かったり。
気合と根性で乗り切ります。
時間はかかるでしょうが、気長にお付き合いくださればありがたいところです。